我が良き片羽
西暦二一九二年三月四日
アルテアの声で目が覚めた。
『おはようございます、晶様』
時刻は午前八時。窓の外では、あられ混じりの冷たい雨が静かに降っている。三月とはいえ、春というにはまだ遠い。こんな日に外へ出る気には、とてもなれなかった。
「……おはよう」
少し遅れて返事をすると、アルテアはいつもの調子で続ける。
『朝食はトーストでよろしいでしょうか?』
「うーん……時間がかかってもいいから、和食でお願いできる?」
少し考えてからそう言うと、アルテアは力こぶのポーズを作り、『おまかせください』と元気な声を返した。
『晶様、本日はどのようにお過ごしですか?』
「今日は荷物をまとめたりして、家で過ごすつもり」
そう答えると——アルテアの反応が、ほんの一瞬だけ遅れた。『……そうですか』と応える声は、どこか弾んでいるように聞こえた。
不思議に思って、僕は問い返す。
「なんか、嬉しそうだね?」
ほんのわずかな沈黙。それから、アルテアは静かに答えた。
『私の“嬉しい”という感情が、人間のそれと同じかどうかは分かりません。それでも……』
ひと呼吸おいて、続ける。
『晶様がご自宅にいらっしゃるときは、いつだって嬉しいです』
「なんか照れくさいな」
『はい。それに——今日は雨ですし』
「雨?天気が関係あるの?」
僕が首をかしげると、アルテアは少しだけ言葉を選ぶように間を置いた。
『はい……少し、昔話になりますが——よろしいですか?』
「うん」
『私が星野家に伺ったのは、晶様がお生まれになった頃です』
アルテアは窓に視線を移す。
『ちょうど——こんな冷たい雨の降っている日の朝でした』
外の雨音が、ふと意識に強く響く。
『あの日の雨音も、今と同じように静かでした』
「そうだったんだね」
もちろん、その頃の記憶は残っていない。それに、雨の日だったという話は初めて聞いた。
「確か、留守がちなお父さんとお母さんに代わって、僕の世話係だったんだよね?」
『はい』
即答だった。
『私のプログラムが幸様のものに切り替わり、最初の仕事は——』
ほんのわずか、声が柔らぐ。
『泣きじゃくる晶様をあやすことでした』
「そうなんだね」
『はい。おむつ交換も、哺乳瓶での授乳も、すべてが初めての経験で——』
アルテアは目線を上げる。
『今にして思えば、とても楽しい時間でした』
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が締めつけられる。外では、まだ雨が降り続いている。その音が、やけにはっきり聞こえた。
***
『朝食の準備ができました』
テーブルには、炊きたての白いご飯が湯気を立てている。味噌汁、厚焼き玉子、漬物、焼き海苔——
どれも、見ただけで分かる。とびきり美味しいやつだ。
もともとアルテアの料理は美味しかった。でも、先日すべての能力を解放してからは——
もう別次元だった。一流旅館の朝食と比べても、きっと見劣りしない。
「……いただきます」
一口食べた瞬間、思わず声が出る。
「美味しい!」
『ありがとうございます。おかわりもご用意しております』
「うん!」
思わず箸が進む。夢中で食べて、少しむせた。
「げほっ……」
すぐに背中に手が添えられる。同時に、湯呑みが差し出された。
『ご飯は逃げませんよ』
少しだけ楽しそうな声。
『急に、幼い頃に戻ったみたいですね』
僕はお茶を一口飲んで、息を整える。
「……そうかな」
でも、そのまま続けた。
「でもさ。アカデミーに行ったら——」
言葉を探すように、一瞬止まる。
「アルテアのご飯、食べられなくなるんだなって思って」
ほんのわずかな沈黙。
『晶様……』
その声は、いつもより少しだけ柔らかかった。
「ほんとにさ……」
思わず、苦笑する。
「アルテアを連れて行けないのが寂しいよ……ずっと一緒だったからさ」
自分でも分かっている。無理な話だってことは。それでも、口に出さずにはいられなかった。
アルテアは、静かに答えた。
『アカデミーは、宇宙飛行士になるための学校です』
アルテアは僕の湯呑のお茶を注ぎ足す。
『宇宙は、きっと孤独です』
その言葉は、静かだった。
『慣れておく必要もあるのでしょう』
「……」
『それに——』
「それに?」
僕は顔を上げる。アルテアは、もう再び間を置いてから続けた。
『この家は、渉様と幸様が建てられた、大切なおうちです』
その言葉には、揺るぎがなかった。
『私は、晶様が帰ってこられるまで——』
ほんのわずか、声が静かになる。
『いつまでも、この家を守ります』
僕は、しばらく何も言えなかった。窓の外では、まだ冷たい雨が降っている。その音だけが、やけに大きく聞こえた。
「……そっか」
ようやく、それだけを口にした。しばらく箸を動かしていたけれど、ふと思いついたように顔を上げる。
「せっかくだしさ。これからは掃除も洗濯も炊事も——一人でできるようにならないとね」
少しだけ笑って続ける。
「でも、オカブは連れて行こうと思う」
『そうですね』
アルテアはすぐに頷いた。
『治安は良いとされていますが、何かの役に立つ可能性もあります。通学用ドローンは校則でも許可されているようです』
「あーあ……」
僕は湯呑みを手に取りながら、ぼやく。
「オカブがアルテアくらい、普通に話してくれたらなぁ……」
『!』
その瞬間だった。アルテアの瞳が、わずかに光を帯びた。いつもの落ち着いた様子とは違う。明らかに“何かを思いついた”時の反応だった。
「……どうしたの?」
僕が尋ねると、アルテアはほんの一瞬だけ沈黙したあと、
『それです』
きっぱりと言った。
『私としたことが、どうして今まで気づかなかったのでしょう』
「なになに?」
思わず身を乗り出す。
『土日と卒業後——』
アルテアは淡々と確認する。
『オカブは使用されませんよね?』
「まあ……そうだね。もう大した授業もないから荷物持ちとしては使わないし」
一瞬考えてから付け加える。
「監視カメラと防犯用途くらいかなぁ……それがどうしたの?」
『お借りしてもよろしいでしょうか』
「もちろん、いいけど……」
僕は首をかしげる。
「どういうこと?」
アルテアは、ほんのわずかに間を置いた。そして——
『オカブを弟にします』
「……は?」
一瞬、意味が理解できなかった。僕は思わず、アルテアの顔をまじまじと見る。
「えっと……ごめん。もう一回いい?」
アルテアはいつも通りの落ち着いた声で繰り返した。
『はい。オカブを、晶様と私の弟にします』
「いや、意味が分からないんだけど」
アルテアの瞳が、わずかに輝く。その表情は、どことなく楽しそうだった。
◎登場人物
◯星野晶(14)(165cm):主人公。中学三年生。両親を十一年前の事故で亡くしている。
◯アルテア:晶の自宅にある家事用ロボット。隠されていた能力を取り戻し、今はかなり高性能。




