遺言2【母】
暗転した視界に、わずかな光がにじむ。やがて、ゆっくりと映像が立ち上がった。
そこにいたのは、白衣でもスーツでもない——見慣れた、家での母の姿だった。
柔らかな生成り色のニットに、薄い青のロングスカート。髪は後ろでひとつに束ねられている。研究室で見せるきりっとした表情ではなく、夕食前のキッチンに立つときの、あの優しい顔。
少しだけカメラの位置を直す仕草が映る。
『ちゃんと映ってるかしら……?』
小さくつぶやいて、ふっと笑う。その笑い方が、あまりにも“いつもの母”で、胸の奥がきゅっと締めつけられた。
母は、レンズの向こうをまっすぐ見つめる。
『もう、十五歳になるのね』
やわらかい声だった。
『私が知っている晶は、まだ三歳なのに。不思議ね……時間って』
少し照れたように笑う。
『私の大切な……晶』
母は、少し照れたように笑った。
『この映像をあなたが観ているということは、私はもうこの世にいないのね。今こうして撮影している私は、とても元気なのに……本当に、不思議な気持ちだわ』
軽く肩をすくめる。
『あなたが生まれてから、私は一度も宇宙へは行っていなかった。でもね、長く研究していた成果が医療用として実用化されて……どうしても、どうしても、自分の目で確かめたくなったの』
母はそこで一度言葉を切り、組んでいた両手をぎゅっと握りしめた。
『本当は、あなたを春華さんに預けて行くことも考えた。でも、渉さんの艦に乗せてあげることにしたの……彼が見ている景色を、あなたにも見せてあげたくて』
少しだけ視線を伏せる。
『これはね、あなたの結婚式で言おうと思っていたんだけど……』
小さく息を吸う。
『研究漬けだった私が、母親になるなんて想像もしていなかった。でもね、たった四年弱だったけど、星野晶の母親でいられたこと、心から幸せだった』
声が、ほんの少し揺れる。母は一度瞬きをして、レンズの向こうにいる“今の僕”を探すように、じっとこちらを見つめた。
『それでもね、寂しい夜はあったでしょう?私に隣にいてほしいと思った日も、きっとあったわよね。晶は聞き分けがいいから、何も言わないだろうけど』
柔らかく微笑み、画面越しに手を伸ばすような仕草を見せた。
『料理は最後まで上手にならなかったけれど……オムライスだけは、あなた喜んでくれたわよね。レシピはアルテアに残してあるわ。きっと、ちゃんと作ってくれているんでしょうね』
ふっと笑い、それから、祈るように両手を組んだ。
『泣き虫だった晶。十五歳のあなたは、泣きたくても泣けない日々を過ごしていたのかもしれない』
母の瞳が、潤みを帯びて光った。
『でもね、男の子でも、たまには泣いたっていいと思う。我慢せず、声を上げて泣きじゃくってもいい。それが恥ずかしいなんて思わない』
母の表情が鮮明に浮かび上がる。
『何にも負けないくらいの強さなんていらない。立派じゃなくたって、全然いい。あなたが笑顔でいること、ただそれだけで私は満足』
母は慈しむように目を細める。
『心残りが全くないと言ったら、嘘になるわね。もっとあなたの成長を見たかったし、もっと一緒にいたかった……。
でもね、晶。私はあなたの幸せを、ただそれだけを祈っているわ』
小さく息を吸う。
『さようなら、私の大好きな晶』
映像が、ゆっくりと暗転した。何も見えないし、何も聞こえない。
けれど——視界が滲む。頬を伝う感触が、ひどく温かい。拭おうとしても、止まらない。
“泣いていい”
その言葉が、胸の奥でほどけた。声を押し殺すことも、もうできなかった。ヘッドセットの中で、僕は、子どものように泣いた。




