遺言1【父】
翔のはしゃぐ声も、冬華の笑顔もすっかり遠ざかった夕刻、窓の外では、雪が静かに降り続いている。首元に巻いたままだったマフラーに、そっと触れる。昼間、冬華が照れながら差し出してくれた、あの温もり。
しばらく迷ったあと、僕はそれを丁寧に外し、両手で形を整えた。タンスの引き出しを開け、そっとしまう。
本当は、このまま今日の余韻に浸っていたい。
けれど——この温もりがある今だからこそ、僕は「過去」を開けることができる気もした。
軽くシャワーを浴びる。お風呂の中で思い出すのは、父のたくましい手、母のやさしい声……。胸の奥に、小さな緊張が芽生える。
部屋に戻り、ベッドに横たわる。これから観る“遺言”も、外せない“約束”だ。十五歳の誕生日に、両親の残した言葉をきちんと受け取る。
辛いかもしれない。
悲しくなるかもしれない。
もしかしたら、泣いてしまうかもしれない。
それでも——
これは僕の権利であると同時に“責任”だ。息子である以上、いつか向き合わなければならない。
(ならば——今日だ)
ヘッドセットを装着する。
「アルテア、遺言を再生して」
『かしこまりました』
***
視界が暗転し、ゆっくりと映像が立ち上がる。そこに映し出されたのは、父だった。先週、長時間にわたって観た遺族向けの映像とは違う。
今日の父は、まっすぐこちらを見つめている。
制服でも宇宙服でもない。濃紺のスーツ姿。どこか、地上の父だった。
やがて、口を開く。
『晶。この映像を見ているということは……私は宇宙で命を落としたのだろう』
声は、落ち着いている。
『この仕事を選んだときから覚悟はしていた。宇宙へ向かうたび、遺言は残してきた』
そこで、わずかに間を置く。
『だが、この遺言はこれまでとは違う。今回の旅には、晶と幸が同行しているからな』
胸が、かすかに軋む。
『なあ、晶。私自身、宇宙で死ぬことに悔いはないんだ。録画している今は、どんな最期を迎えるのか知る由もないが……畳の上で死ぬよりは、私らしいと思っているのも本当だ……不謹慎かもしれないがな。幸に言うと、いつも怒られたもんだ』
少しだけ、困ったように眉を下げて笑った。けれど、すぐにその表情が引き締まる。
『だが、心残りがないかと問われれば——ある』
父の視線が、ほんの少しだけ揺れた。
『十五歳になったお前に、何ひとつしてやれないことだ』
息を吸い込む音が、わずかに聞こえる。
『宇宙は、今も好きか?』
問いかけるように、やさしく言う。
『夏休み、もう一度一緒に望遠鏡をのぞきたかった』
父は目線を少し遠くへ移す。
『進学先は決めたのか?どんなことでも相談に乗りたかった』
父は、かすかに笑う。
『本当に……何ひとつしてやれないな。それだけが、本当に残念だ』
父は、少し下を向き、間を置いた。
『晶、将来、やりたいことはあるのか?もしまだ迷っているなら——』
父の目が、まっすぐこちらを見つめる。
『宇宙という道も、悪くない』
静かな声だった。
『私が命を落としたことで、宇宙を憎んでいるのなら、それでもいい。無理にとは言わない』
小さく首を振る。
『だがな、晶。宇宙は恐ろしい場所だが、それ以上に……なんと言うか……美しい』
『そして、やりがいのある仕事だ』
最後の一言だけ、少しだけ力がこもった。
『ただ、お前の人生はお前のものだ。晶が選ぶなら、私はどんな道でも誇りに思う』
その言葉を最後に、父は小さくうなずいた。
『お前なら、大丈夫だ』
父がそう断言すると、映像は、ゆっくりと暗転した。ヘッドセット越しの静寂がやけに重く感じる。
『宇宙は恐ろしい場所だが、美しい』
『やりがいのある仕事だ』
父の声が、何度も胸の中で反響する。
——宇宙という道も、悪くない。
お父さんの言葉を聞く前に、僕はすでに自分の意志で、国際宇宙学院への切符を掴んでいた。
父の期待に応えるためではない。ただ、自分の“好き”を信じた、その結果だ。けれど気づけば、その未来は、父の歩んだ道と重なっていた。
暗転したヘッドセットの中で、溢れそうになる涙をこらえる。そして、静かに、心の中で呟いた。
(大丈夫)
そう、僕は、この道を行く。




