二つの祝福
西暦二一九二年二月四日
合格発表の日、午後六時。少しだけフォーマルな私服に着替え、春華おばさんの好物である羊羹を片手に、近所の朝比奈家へ向かった。
二月に入って日は長くなったとはいえ、外はすでに夜の色だ。一歩外へ出ると、頬に触れる空気がひやりと冷たく、吐く息もうっすらと白い。
玄関に着くと、呼び鈴を押すより先に扉が開いた。
「晶君、いらっしゃい。入って!」
いつも通り、冬華だ。
「こんにちは。これ、皆さんで」
差し出した箱を受け取ると、冬華は嬉しそうに目を細める。
「お母さんの大好きなやつだね。ありがとう」
その後ろから、少し遅れて弟の翔が顔を出した。
「晶兄ぃ、いらっしゃい!入って入って!」
「お邪魔します」
靴を脱いで一歩踏み込んだ瞬間——ぱっ、と室内の照明が灯る。
『晶君、合格おめでとう!』
声が重なり、クラッカーが一斉に弾けた。今度は音だけではない。色とりどりのテープが宙を舞い、僕の肩にひらりと落ちる。
「うわっ……!」
思わず足を止める僕をよそに、航おじさんは春華おばさんから受け取ったシャンパンの栓を抜いた。
——ポンッ。
軽やかな音が、祝福の合図のように弾む。リビングの中央には大きなテーブル。長辺には四脚ずつ椅子が並び、短辺には一脚だけ。
「こっち、こっち」
冬華に手を引かれ、僕はその“お誕生日席”へ案内された。
テーブルの上には、これでもかというほどの料理が並んでいる。ローストビーフ、魚のカルパッチョ、グラタン、彩り鮮やかなサラダ。どれも湯気を立て、香ばしい匂いを漂わせていた。まるで、本当に誰かの誕生日みたいだ。
「あ、ありがとうございます」
「これ、みんなから。学校で使う靴と鞄だよ。あとで開けてね」
冬華が代表して、両手で差し出す。
「え、プレゼントまで……ありがとう」
箱を受け取った瞬間、拍手が起こった。
僕の左隣には冬華、その隣に翔、そして早苗ばあちゃん。右には航おじさん、春華おばさん、哲平じいちゃん。向かい側の席は、左右に一つずつ空いている。
なんだか、本当に“家族の真ん中”に座らされているみたいだ。
最初に口を開いたのは、ばあちゃんだった。
「晶も、初詣以来かねぇ。最近ぜんぜん遊びに来てくれないから、寂しかったわ」
それを受けて、じいちゃんも大げさに頷く。
「そうだとも。お茶飲みにくらい来なさい。わしとじゃ、話は面白くないかもしれんがな」
「そんなことないよ!おじいちゃんち、縁側あるじゃん。晴れた日にのんびりするの、僕あれ好きなんだ」
「そうか……」
じいちゃんは少しだけ照れくさそうに目を細める。
「いつでも来なさい。航や春華には話しにくいことでも、わしらになら逆に話せることもあるだろう」
そのやり取りを、菩薩のような穏やかな笑みで見守っていた早苗ばあちゃんが、やわらかく口を開いた。
「冬華も、今日はやけに嬉しそうだこと」
「えっ?」
不意打ちを食らったみたいに、冬華が目を瞬かせる。
「べ、別に普通だけど?」
「そうかねぇ」
ばあちゃんは含みのある笑みを浮かべたまま、湯呑みに手を伸ばす。
「まあ、若い子が元気なのは良いことだよ。ねえ、哲平さん」
「うむ。家が明るいのは、ありがたいことだ」
じいちゃんが大きく頷く。
僕はというと、なんとなく視線の置き場に困って、グラスの水面を見つめた。
(……なんだろう?)
そっと横を見ると、冬華がわずかにこちらへ身を寄せ、小声で囁く。
「気にしなくていいから」
「いや、気にするよ」
「しなくていいの!」
ぷいっと前を向くけれど、耳の先まで赤い。その様子を、航おじさんが静かに見ていた。けれど何も言わない。ただ、ほんの少しだけ目を細める。冬華がこんなに分かりやすく照れるのを、僕は初めて見たかもしれない。それにつられて、自分の心拍数が少しだけ速くなったのを感じた。
祝宴はその後も賑やかに続き、笑い声は夜遅くまで途切れることがなかった。
***
夜風に当たりながら帰り道を歩く。胸の奥に、まだ温かい余韻が残っている。玄関の扉を開けた瞬間、ふわりと甘い香りが鼻先をくすぐった。
(……?)
靴を脱ぐのもそこそこに、少し早足でキッチンへ向かう。部屋の照明を灯した瞬間、目の前に広がった光景に、思わず足を止めた。
色とりどりのレイ。壁には『晶様、おめでとうございます』の文字。そして、テーブルの中央に、丁寧にデコレーションされた手作りのチョコレートケーキ。
(夕食は食べてくるって言ったのに……)
胸の奥が、じわりと熱を帯びる。
「アルテア……」
キッチンの奥から、少し控えめな声が返ってきた。
『晶様、申し訳ありません。朝比奈家の皆さんとお祝いをされることは分かっておりました。それでも、私の中のお祝いの手順を、どうしても破棄することができなかったのです』
どこか自信なさげな声音だった。
「なんで謝るの?」
一歩近づく。
「すごく嬉しいよ!」
そう言って、僕はアルテアの小さな身体を抱きしめた。金属のフレーム越しに伝わる、微かな振動音。それでも、確かに温もりがある気がした。幼い頃の僕をあやしてくれた時のままの、無機質で、けれど世界で一番安心する金属の匂いがした。
やがて腕をほどくと、アルテアはカフェインを抜いた紅茶を淹れてくれた。切り分けられたチョコレートケーキは、僕の好みに合わせてカカオ多めの、少しだけビターな仕上がりだ。
フォークを入れると、ほろりと崩れる。
僕は、さっきまでの朝比奈家での出来事を一つずつ話して聞かせた。
航おじさんに進路の相談をしたこと。
今度じいちゃんの家に遊びに行く約束をしたこと。
翔が宇宙飛行士になりたいと言っていたこと。
そして——冬華が、少しだけ浮かれていたこと。
アルテアは、相槌を打ちながら、静かに聞いてくれる。今日のアルテアは、なぜかいつもより人間らしく感じた。
「こうやって話しているとさ、アルテアって、本当に心があるみたいだね」
『そうでしょうか。私に心はありません。正確には、“心”が何かを知りません』
数秒の沈黙。
『ただ……』
「ただ?」
『もし、心を得ることで、今よりももっと晶様のお役に立てるのであれば、私はそれを欲しいと思います』
紅茶の湯気が、ゆっくりと揺れる。
「心が欲しいと思うこと自体が、もう心みたいな気もするけど……難しいな。哲学の問題みたいだ」
『私にも正確な答えは分かりません。ただ、晶様に寄り添えるのであれば、それが最適解だと考えます』
「ありがとう。なんか照れるな。それ、ちょっと愛の告白みたいだよ?」
『私は愛も理解できません。しかし、もしそれが“愛”と呼ばれるものであれば、光栄です』
思わず吹き出す。
窓の外では、冬の夜が静かに深まっていた。祝福の声に包まれた一日。けれど、最後に残ったのは、甘くて少しだけビターなケーキの味と、隣にいる一台のロボットの存在だった。
深夜、日付が変わるころ、ようやく僕はベッドに潜り込む。
今日は、たくさんの人に祝ってもらった。
朝比奈家の賑やかな声も、この家で待っていてくれた静かな祝意も、どちらもちゃんと僕の心の奥底に届いていた。その温もりを胸に抱いたまま、僕はゆっくりと目を閉じた。
◎登場人物
◯星野晶(14)(165cm):主人公。中学三年生。
◯朝比奈冬華(13)(155cm):中学一年生、晶とは幼馴染兼彼女。
◯朝比奈航(51)(181cm):冬華の父。晶の父とは親友。
◯朝比奈春華(46)(155cm):冬華の母。
◯朝比奈翔(10)(145cm):小学校四年生。冬華の弟。
◯朝比奈哲平(79):冬華の祖父、春華の父。近所に住んでいる。
◯朝比奈早苗(73):冬華の祖母、春華の母。近所に住んでいる。
◯アルテア:晶の自宅にある家事用ロボット。晶の母、幸と数学者スターリング教授が制御プログラムを実装している。




