天才数学者の配慮
西暦二一九二年一月二一日
国際宇宙学院の合格発表まで、あと一週間に迫っている。合格後の期待に胸を膨らませていればいいはずなのに、なぜか僕は、机に向かっていた。
しかも、国語だ。
机の上には分厚い問題集。ページの端には、さっきまで必死に書き殴っていた赤ペンの跡。窓の外では、冬の光が淡く差し込み、静かな土曜の午後を演出しているというのに、部屋の中だけが妙に熱を帯びている。
——その原因は、僕の眼の前にいた。
いつも通りの四角いボディに簡素な二本脚……しかし、今日は少しだけ違う。その頭部に、白いハチマキがキリリと巻かれていた。
アルテア曰く“家庭教師モード”らしい。
『晶様、そこの長文。“配りょ”の“りょ”は漢字を使用すべきです。“配慮”です。減点対象となります』
「いやいや、手書きで“慮”は難しいよ。覚えるには画数多過ぎだと思わない?」
『試験に“画数が多いので平仮名にしました”という言い訳は通用しません』
実に容赦がない。僕は椅子に背を預け、大きく息を吐いた。
「……っていうかさ、なんで今さら国語と社会なの?学院の受験科目じゃなかったのに……」
『だからです』
アルテアの蛇腹の腕が、問題集の別ページをぱらりとめくる。
『晶様は、学院の受験科目以外については……』
ここで、アルテアは計算資源を“言葉の選別”に割いた後、『——率直に申し上げて、普通の中学生レベルです』と無慈悲に断言した。
「いや、“普通”ならいいでしょ」
『そこで、胸を張らないでください』
ここも即答だった。
『万が一、学院に合格できなかった場合、来る十八日の高校受験では国語も社会も必須科目です。現在の学習量では、やや不安があります』
「“やや”なら、もうちょっと軽めに……」
『ダメです』
「……」
僕は別の問題用紙に視線を移すと、歴史の記述問題が視界に入る。人物名は覚えているのに、説明になると途端に語彙が足りない。我ながら『理系脳、ここに極まれり』だ。運動方程式は計算できても、江戸幕府の功績を六〇文字以内でまとめる術を知らない。
「やれやれ……」
ぼやきながら、もう一度“配慮”と丁寧に書き直す。普段、手書きする機会の少ない“慮”の筆跡が、どうにもぎこちない。
机の向こうにいるハチマキ姿のロボットは、なぜか少し楽しそうに見えた。
学院の合格発表まで、あと七日。
落ちるかもしれない不安と、受かっているかもしれない期待。そのどちらにも振り切れず、僕はこうして漢字と向き合っている。
宇宙船がどうとか、三大発明がどうとか、電脳自我がどうとか、そんな大きな話の前に、今は——
「……配慮、ね」
『綺麗に書けています』
「そこは褒めるんだ」
『私の教育方針は”褒めて伸ばす”です』
思わず吹き出す。
「まあ、いっか」
学院の合否がどうであれ、一人の中学生として学んでおくべきなのは間違いない。そう思いながら、僕は次の設問へとペンを走らせた。
***
勉強の区切りを見計らったかのように、アルテアは静かに部屋を出て、トレイを運んできた。ふわりと、華やかな茶葉の香りと、瑞々しい果物の匂いが部屋を満たす。並んでいるのは、まるで宝石箱のように美しい断面のフルーツサンドだ。
「いただきます」
一切れ手に取ると、吸い付くようなパンの感触。口に入れれば、果汁の甘酸っぱさと上品なクリームが溶け合い、勉強で熱を持っていた脳がすうっと解き放たれていく。
「おいしい!」
『ありがとうございます』
紅茶の湯気が、ゆるやかに空気へ溶けていく。甘い余韻を残したまま、僕はカップをソーサーに戻した。
「ところでさ」
アルテアの丸い頭部が、わずかにこちらへ向いた。
「先週、航おじさんち行ったじゃない?その時に聞いたんだけど……」
『はい』
「スターリング教授に会ったって本当?」
一瞬だけ、部屋の中の静けさが濃くなった気がしたが、それをかき消すように、アルテアは答えた。
『はい、晶様のお母様——幸様との約束を果たすため、と伺いました』
「……約束」
(なんだろう?)
二人が交わした約束。踏み込んでもいい領域なのか迷いながら、僕は慎重に言葉を選んだ。
「それってさ……僕が聞いちゃっても良い内容なのかな?」
アルテアは再び沈黙したが、それでも反応は速い。
『はい。簡潔に申し上げますと、私の制御プログラムをヘレナ様がアップグレードされました』
「アップグレード……」
なるほど、本来なら絶対に侵入できないはずの公共システムに、アルテアが当然のようにアクセスできてしまう理由……それなら納得がいく。だが……
「あれ?」
ふと、別の疑問が頭に浮かぶ。
「もしかしてさ。アルテアって……母さんが作ったの?」
『“作った”の定義によります。身体は市販モデルです。ハードウェア全体もCPUを除けば量産型家庭支援ロボットの改修品と言って良いでしょう』
そして、続ける。
『ただし、ソフトウェアは全て幸様が設計・実装されました』
静かな断言だった。僕の鼓動が、ほんの少しだけ速くなる。それって、つまり——
(基本的な物量は違うけど……)
「アルテアの中にも、“信濃”のAIと同じものが実装されてるってことになるのかな?」
アルテアは、ほんのわずかに首を傾げる。それは、まるで人間が言葉を選んで仕草のようだった。
『はい。おそらく基本構造は同一です。加えて——』
『幸様とヘレナ様が共に設計に携わった、二つ目のプログラムと言えるのかもしれません』
二つ目——そして、おそらく最後であるという重みが、胸の奥にゆっくりと沈んでいく。母がいない以上、この系譜のプログラムが新しく生まれることはもうない。母とヘレナ様が同じ未来を見据えて書き残した最新コード。それが今、僕の目の前でハチマキを巻いて立っている。
「……アルテアはさぁ、信濃に会いたかった?」
今までより、ほんの少しだけ長い沈黙。
『……もちろんです』
その答えからは、とても合成音声とは思えない、優しい響きを感じた。
『人間で言えば、私の“姉”という存在になるのでしょうか。宇宙で見た景色の記録、航海中の判断、晶様のご両親との会話——聞かせて欲しかったです』
その声音には、遠い場所への憧れや、形のない羨望が滲んでいるようだった。けれど、感傷に浸る時間は短かった。
『ですが』
急に不機嫌そうなトーンになったので、僕は思わず身構える。
『姉とはいえ、晶様のお世話だけは譲れません』
「なんだそれ」
僕は肩の力が抜け、声を上げて笑った。
***
「他には?何か、教授との思い出とかある?」
僕はペンを置き、背もたれに身体を預けた。アルテアはトレイを片付け、いつも通り几帳面にカップの位置まで揃えてから、こちらへ向き直った。
『そうですね。晶様にヘレナ様のことを尋ねられた際、お渡しするように承っている伝言がございます』
「伝言……?」
逆に言えば、アルテアがそのことを今まで黙っていたのは、『僕が自分から尋ねるまでは言わない』という条件が付いていたのかも知れない。単なる想像に過ぎないが——
(なんだろう。ヘレナ教授が僕に……?)
僕の知らないピースがまだあるらしい。胸の鼓動が少しだけ速くなるのを感じながら頷いた。
「分かった。……翻訳再生して」
僕が許可を出すと、いつもの愛嬌のある声が消え、代わりに流れ出したのは、部屋の空気を一瞬で塗り替えるような、知的で、けれどどこか震える女性の声だった。
『晶くん、はじめまして……じゃないわね。覚えているかしら?』
スピーカーから響く声は、先週まで映像で観ていた僕を十一年前へ連れ去った。
『最初に会ったとき、あなたは幸——あなたのお母さんの後ろに隠れて、本当に恥ずかしそうにしていたわね』
優しい語り口だ。ヘレナ教授の声は、続く。
『私は、あなたに謝らなくちゃいけないの。……“信濃”の生みの親である幸と私。本当は、私の方が艦に残るべきだった。あなたという幼い子供がいる幸ではなく、私が。……でも、艦長だったあなたのお父さんは、妊娠中だった私を優先してくれた。しかも、幸が持ち込んだ、最新の医療用ポッドまで使って私を退艦させてくれたわ』
映像で観ていた通りの内容だ。確かに、ヘレナ教授は医務室で『自分が残る』と進言していた。
『しかも、私は艦を降りる間際に、彼女に……幸に言ってしまったの。「信濃を、一人ぼっちにしないであげてね」って』
ヘレナ教授の声が、一際小さく震える。
『幸は、最後までその約束を守ってくれた。“信濃”の母親として……。もし私が一緒に残っていれば、あるいはあんな身勝手なことを言わなければ……今でも、そう思わずにはいられないの』
スピーカーの向こうで、教授が涙を堪える気配が伝わってきた。
『結果、ステーションは救われ、あなたのご両親は亡くなった。だから、あなたのご両親は私と、夫であるエイドリアンの恩人なの。晶君、私たちにできることがあったら、何でも言って。遠慮はいらないわ』
少しの間をおいて、その声はどこか慈しむようなトーンに変わった。
『ただ、将来、あなたを助けるのは私や夫ではなく、娘たちかもしれないわね……照れ屋で理論派のニア。感情的で直感派のエヴァ。きっと二人とも、あなたのことを好きになるわ』
一度話しただけの双子の少女。二人の名前が一筋の光のように差し込む。
『今日は会わずに帰ります。でも、いつか必ず会いに行くわ。その時は、あなたのお母さんの話をたくさんさせてね。……さようなら、晶君』
音声が切れ、部屋に静けさが戻る。窓の外の冬の光は、さらに傾き、部屋の端を照らしている。アルテアは、まっすぐ僕を見ていた。
『晶様』
いつもの声だ。でも、少しだけ柔らかく感じる。
『お手拭きをお持ちしますか』
「……うん」
僕は短く答えて、視線を落とした。
机の上には、問題集が開いたままになっている。さっきまで書いていた“配慮”の文字が、そこにある。ぎこちないけれど、確かに僕の字。
この文字を見て思った。きっと、映像だけでは分からなかった、大人たちの様々な“配慮”が、いくつも重なっていたのだろう。
「前より少しだけ分かった気がする。“配慮”の意味」
『……そうですか』
アルテアは優しく応えた。
◎登場人物
◯星野晶(14)(165cm):主人公。中学3年生。
◯アルテア:晶の自宅にある家事用ロボット。




