夢から覚めた朝
西暦二一九二年一月一五日
目が覚めた。遅くまで映像を観ていたはずなのに、頭は驚くほどすっきりしている。まるで、モノクロの冬景色が、春のパステルカラーに塗り替えられたみたいだ。
両親の死という、これ以上ない悲劇を、最後まで見届けたというのに——不思議と落ち込んでいない。
(何か、すごく大切な夢を見ていた気がする……思い出せないけど、いつもとは違う夢……)
両親と別れるいつもの夢じゃなくて、なんだか幸せな夢……でも、思い出せない。もちろん、悲しみが消えたわけじゃない。喪失が埋まったわけでもない。それでも、胸の奥に、ほんのりとした温もりが残っている。
天井を見つめたまま、小さく息を吐き、「んーー!」っと、大きく伸びをする。
『ようやく、お目覚めですね。おはようございます、晶様』
可愛らしく、どこか愛嬌のある声が部屋に響く。
ベッドの脇に立っているのは、もちろん声の持ち主、家事用ロボットのアルテアだ。目の形をしたセンサーが僕の方を向いて、キラキラと光っている。
「おはよう。いま、何時?」
『間もなく一〇時半です』
「うわっ、寝すぎた」
僕は少し照れ笑いしながらベッドから降りる。体が軽い。昨日までとは、ほんの少しだけ違う。簡単に着替えを済ませ、キッチンへ向かうと、テーブルの上には、きつね色に焼けたトースト、ホットミルク、色鮮やかなサラダ。完璧な配置で整えられている。
「ありがとう、アルテア」
アルテアの腕が、ぴたりと胸の前で止まる。
『どういたしまして』
椅子に腰を下ろし、トーストにバターを塗ってかじる。サクッという軽快な音。
(昨日まで、木星系で質量体の濁流と戦っていたのに……)
何のことはない、単に寝坊しただけの休日の朝だ。
「今日は予定無かったよね?」
『ありません。あれば起こしてます』
「それもそうか」
ミルクをひと口飲み込んで、ふと思い出す。
「あっ、そうだ。航おじさんに、“映像観終わった”って連絡しておいて」
『承知しました』
アルテアの腕が伸び、通信パネルに接続される。内部から小さな駆動音が響く。そして、くるりと僕の方へ向き直り——昔から変わらない、少しぎこちない敬礼姿が愛らしい。
「ふふっ」
少し笑いながら、朝食を続ける。窓の外は、なんだか見覚えのある暖かな冬の光が差し込んでいる。きっと、空は高く、澄んでいるに違いない。
***
アルテアの声が、キッチンの空気をやわらかく震わせた。
『晶様、朝比奈航様より私的回線にて着信です』
湯気の立つ湯呑みを、そっとテーブルに置く。緑茶の香りが、まだ新しい。
「ありがとう。つないで」
空間に淡い光が広がり、映像がゆっくりと浮かび上がる。そこに現れたのは、穏やかな目をした(映像の中よりは)少しだけ老けた航おじさんだった。
『おはよう。せっかくの日曜日にすまんな』
少し照れたような笑み。
「おはようございます。大丈夫です。何か、ありましたっけ?」
僕はいつもの口調で応える。けれど、胸の奥がわずかに緊張しているのを、自分でも感じていた。
『いやな、映像を見終わったと聞いて連絡したんだ』
航おじさんは、言葉を選ぶように間を置く。
『……もし昼から空いてるなら、うちで少し話せないか?聞きたいこともあるだろうと思ってな』
その声は押しつけがましくない。慰めるでもなく、説教するでもない。
「もちろん、いいですよ」
僕は少しだけ視線を落とし、それから顔を上げる。
「二時からでいいですか?」
『ああ、それでいい。すまんな』
「いえ、こちらこそ」
通信が切れると、ホログラムが静かに消えた。キッチンに、再び日曜の静けさが戻る。僕は湯呑みを手に取り、一口すする。
(航おじさんと、ちゃんと話すのは元旦以来になるのかな)
父のこと。母のこと。信濃のこと。そして——乗組員のこと。
アルテアが静かに問いかける。
『外出準備をなさいますか?』
「うん。近いからオカブは置いていくよ」
『分かりました。ただ、天気は良いですが気温は低めです。コートを推奨します』
「了解、アルテア副長」
そう言って敬礼すると、アルテアのセンサーがわずかに明るくなった。
『光栄です、晶艦長』
冬の光が窓から差し込む中、僕は思わず笑った。
***
呼び鈴を押すと、ほとんど間を置かずにガチャリと音がした。玄関のロックが解錠される。
「ごめんください」
『お!上がってくれ。いつもの応接だ』
扉を開けると、ほのかにコーヒーと木の匂いが混じった空気が迎えてくれた。朝比奈家は、いつ来ても落ち着く。
コートを脱いで応接室へ向かうと、航おじさんがソファに腰掛けたまま手を挙げた。
「今日は、冬華、部活でしたよね?」
「ああ。弁当を持って行ったからな。夕方まで帰らんだろう」
そのとき、奥の扉が静かに開く。
「いらっしゃい、晶君」
春華おばさんが、いつもの穏やかな笑顔で部屋に入る。手にはトレイ。紅茶のポットと、小皿に並べられたチョコレートや焼き菓子。
「あっ、おかまいなく」
「気にしないで。今日は寒いもの、暖かい飲み物は必要でしょ?」
テーブルに湯気が立つ。航おじさんがちらりと春華おばさんを見る。
「ありがとう。今日の話、春華も一緒にいいか?」
「かまわないのかしら?」
僕は小さく笑って、「もちろんです」と応じる。
春華おばさんが航おじさんの右隣に腰を下ろすと、紅茶の香りが、部屋をやわらかく満たした。それからしばらくは、誰も何も言い出さない。ただ、時計の秒針と、カップがソーサーに触れる音だけが聞こえる。
航おじさんが、静かに言う。
「……全部、観たんだったな」
僕は頷いた。
「おじさんは……父より先に退去する時、何を思ってたんですか?」
純粋な疑問だった。
航おじさんは紅茶を一口飲み、しばらくカップを見つめたまま動かなかった。湯気がゆらゆらと立ち上り、その向こうで表情がわずかに揺れる。
「……命令を聞いた瞬間はな、死ぬほど悔しかったさ」
低い声。
「だが、誰かがやらなきゃいかん任務だということも、分かっていた。俺が退くことで、全体が回るならな」
間を置く。
「……ただ、な」
ゆっくりと顔を上げる。
「まさか、艦橋での握手が最後になるとは……夢にも思わなかった」
言葉は静かだったが、重かった。僕は思わず膝の上で拳を握る。
「それに、ローラまで……な」
航おじさんの視線が遠くへ向く。
「あいつには婚約者がいた。式の日取りまで決まってたらしい……俺が残っていれば、違う結果になったかもしれん——なんて思うのは、自惚れかも知れんがな」
そのとき、春華おばさんが静かに口を開いた。
「当たり前かもしれないけれど、私はあなたが帰ってきてくれて嬉しいと思っているわ」
穏やかな声。
「それに、あなたがずっと自分を責めていたら、最後まで一緒だった仲間の人たちが、きっと悲しむわ」
航おじさんは何も言わない。ただ、小さく頷いた。部屋の空気が、少しだけ柔らかくなる。僕は、ためらいながらも問いを重ねた。
「……ローラさんって、機関長代理の方ですよね?
機関技師三人の皆さんは助かったんですか?
行方不明になった人って、他にもいるんですか?」
航おじさんは両手をゆっくり下げるように動かし、僕を落ち着かせようとする。
「まあ、待て。一つずつだ」
深呼吸をひとつ入れ、ゆっくりと話し出す。
「最初の質問だが——そうだ。ローラは機関長代理だった。俺が首席機関士で、あいつが次席だった。退艦するとき、俺があの子を代理に指名した」
口元がわずかに緩む。
「化粧っ気はないが、タフでな。まだ若いのにガッツがあって、粘り強い。俺から見ても、とんでもなく優秀だった」
誇りと、悔しさが混じった口調だ。
「次だな。機関技師たちは全員助かった。あいつが……ローラが三人をシェルターに押し込んで、自分は最後まで残った……っと聞いている」
静かに言葉を続ける。
「信濃の心臓を守りながら、仲間の命も守った……俺でも、そこまでできたかどうか」
航おじさんは小さく笑った。
「とても、かなわんよ」
少し沈黙。
「で、最後の質問は——」
「行方不明の人の名前よ、あなた」
春華おばさんが優しく補う。
「ああ、そうだったな」
航おじさんは真っ直ぐ僕を見る。
「お前のお父さんとお母さん。ローラ。それから、船外作業員のライオネルとヤコブだ」
胸が少し締めつけられるのを感じる。
「ヤコブって……一班の班長さんですよね?一緒に飛ばされた三班の班長さんは助かったんですか?」
「ああ、助かった」
航おじさんは頷く。
「二人が飛ばされたとき、ヤコブが陳を突き飛ばして軌道を変えたと聞いている。救助は全てが終わった後だったがな」
言葉は淡々としていたが、その奥にある重さは隠せなかった。
窓の外では、冬の光がゆっくりと傾きはじめている。白く柔らかな日差しがカーテン越しに差し込み、テーブルの上のティーカップを照らしていた。
「……答えにくいことも、答えてくださってありがとうございました」
深く頭を下げる。
「かまわんさ」
航おじさんはいつもの気さくな笑みを浮かべた。
「また気になったことがあったら、何でも聞いてくれ」
その言葉は、慰めというより、約束のように聞こえた。
「今、皆さん……どうしてらっしゃるんでしょうね」
僕が遠くを見つめながら紅茶に口をつけると、ほのかに甘い香りが鼻腔を満たす。その温もりが、胸の奥に溜まっていた何かを、少しだけ溶かした。
「あれから十年以上か」
航おじさんも少し遠くへ思いを馳せる。
「全員について知ってるわけじゃないが……聞くところによると、今も船に乗ってる奴、会社を立ち上げた奴、教鞭をとってる奴……いろいろらしいな」
“いろいろ”という言葉の中に、生き残った者たちの人生が詰まっている気がした。しばらくして、航おじさんがふと表情を変える。
「俺からも一つ、いいか?」
「はい」
「映像で、気になるところはなかったか?つまり……改竄の可能性だ」
少し考える。
「すごく長いトラックでしたけど……気づきませんでした」
「そうか」
航おじさんは静かに頷いた。それが安心なのか、それとも別の思いなのか、分からない。そのとき、春華おばさんが柔らかく口を開く。
「私からも一つ、いいかしら?」
「もちろんです」
「ヘレナさん……スターリング教授とは今も親しくしているの。実はね、一度だけお会いしたことがあるのよ」
「あっ……それで双子の娘さんのことをご存知だったんですね」
春華おばさんはこくりと頷く。
「晶君が小学校六年生のときだったかしら。お墓参りにいらしてね。あなたは学校だったし、お二人も学会の途中だったから、会わせてあげられなかったんだけど」
「……お墓参り、来てくださったんですね」
遺骨があるわけではない。それでも、祈る場所は必要だ。
「ええ。それでね、アルテアについて幸っちゃんと何か約束があったらしいの。詳しくは聞いていないけれど……アルテアに聞いてみるといいわ」
「……なんだろう」
胸の奥に、小さな灯がともる。
「分かりました」
それからは、重い話題は自然とほどけていった。
父の意外な癖、母を含む医務室メンバーの仲の良さ、博士と技師たちの尽きることのない研究発表、そして機関室から響く絶えることのない笑い声……
いつの間にか、三人とも笑っていた。やがて夕方の気配が濃くなり、立ち上がる。
「今日は、ありがとうございました」
「気をつけて帰れよ」
玄関を出ると、空気は冷えていた。けれど、不思議と寒くない。振り返ると、朝比奈家の窓から柔らかな灯りがこぼれている。
あの家もまた、信濃の“家族”の一つなのかも知れない。
冬の夜空はどこまでも澄み渡り、南の空には一番星が輝く。あの星は木星だろうか?あの光の向こうに、今も彼らはいるのだろうか?
「……ただいま、みんな」
一番星へ、小さく呟く。
トラック四は終わった。でも、何も終わっていない。いや、始まってすらない。ここから始まるのだ。
◎登場人物
◯星野晶(15)(166cm):主人公。国際宇宙学院の新入生
◯望月凛(20)(165cm):国際宇宙学院の新入生。主人公とはアカデミー入試の下見で出会った。語学堪能な健啖家。
◯マイク・ニコルソン(男性)(25)(ニュージーランド)(183cm):国際宇宙学院の中等生
◯カタリーナ・パーシング(女性)(34)(オーストリア)(164cm):第五軌道エレベータ静止軌道駅の管理官。十一年前は信濃の機関技師だった(旧名:カタリーナ・アドルフ)。
◎用語
◯国際宇宙学院:宇宙船の乗組員を養成するための専門機関
◯静止軌道駅:軌道エレベータの静止軌道(高度約三万六千㎞)に浮かぶ施設。全長=約一六〇m、最大幅=約一一〇 m。総床面積=約一万八千㎡。常駐人員=五百人、最大滞在人員=千五百人。




