「その先輩は、仲良くなりたい」
とある県の中心地に、空へ真っ直ぐ伸びる八階建てのビルがある。VTuber界の覇者・Vmove’s本社——燈哉の職場だ。もっとも、本人がここを訪れるのは今日が初めてなのだが。
午前十一時過ぎ。本社前に一台のタクシーが滑り込み、後部座席から一人の女性が降り立った。
すらりと高い身長に、サラサラの黒いショートヘア。優しげな目元に、整いすぎた顔立ち。白のフード付きパーカーに青のジーンズというラフな装いなのに、道行く人が思わず二度見するほどの美少女である。
——その正体が女装した野治燈哉であると知る者は、この会社にまだ一人もいない。
(歩幅は小さく。声帯は常時スタンバイ。手はなるべく袖の中。……よし)
昨夜、鏡の前で何十回も繰り返した「佐藤綾芽」のチェックリストを頭の中でなぞりながら、燈哉は重い足取りでエントランスへ向かう。
「私は佐藤綾芽。私は、佐藤綾芽……」
我ながら怪しい呪文だと思う。だが、唱えずにはいられない。何せ今日は、社内の誰にもバレることなく二本の配信を乗り切らなければならないのだ。
「あ、あの! もしかして……来海ちゃんの中の人だったりしますか?」
「ひゃっ!?」
背後からの声に、燈哉は跳ねた。振り向きざま、反射的にバックステップで距離を取る。我ながら見事な体さばき——ではなく、完全に不審者の動きである。
「あ、あなたは……ここの、関係者ですか?」
配信で使い慣れた声で、警戒気味に問う。声をかけてきた少女は、申し訳なさそうに眉を下げて名乗った。
「ご、ごめんなさい、急に! 私、稲葉遥といいます。この会社所属のVTuber、早坂みなみの中の人を務めている者です!」
(——早坂みなみの、中の人)
言われて、燈哉はまじまじと相手を見た。そして心の中で叫んだ。
(アバターと瓜二つじゃないか!!)
真っ白でサラサラのロングヘア。薄らと赤みがかった、不思議な色の瞳。幼く見える可愛らしい顔立ちに、小柄な体躯。ラフな私服姿であることを除けば、そこに立っているのは「学校を導く我らの女神」こと早坂みなみ、その人だった。
早坂みなみ。VTuber三年目、Vmove’s三期生の人気者で、来海にとっては大先輩にあたる。設定は皆に慕われる生徒会長——だが人気の本当の理由は見た目ではなく、人を惹きつけてやまないその人柄だと言われている。
(相手が一般人じゃなくてよかった……。いや、待て。ここは本社。これから、こういう先輩が山ほどいる場所に乗り込むわけで……)
安堵と緊張を同時に味わいながら、燈哉は精一杯の丁寧さでお辞儀をした。
「本日は、私の配信にお越しいただけるとのことで、ありがとうございます。よろしくお願いします」
「「……」」
沈黙が、落ちた。
見つめ合ったまま固まる二人。
(俺、何か間違えたか? 敬語がおかしかったか? それとも、これが業界の普通なのか?)
初めての本社で緊張の限界にある燈哉の心臓は、すでに早鐘を打っている。一方その頃、遥はというと——
(すぐ返事しなきゃいけなかったのに! 第一印象が一番大事なのに! このままじゃ「話しにくい先輩」って思われちゃうよぉ!)
こちらも、心臓は限界だった。
稲葉遥、生粋の隠キャである。配信でも隠キャオーラは全開で、他のVTuberに支えられながら健気に頑張る姿こそが、リスナーの支持を集めている。キャリア三年目の今でこそ隠キャっぷりを自らネタにできるようになったが、想定外の事態が起きると、あっという間にデビュー当時の「隠キャモード」へ逆戻りしてしまうのだ。
ちなみに遥は、めったにコラボしない来海を「自分と同類(隠キャ)」と勝手に認定しており、前々から仲良くなりたいと思っていた。今日、重い足取りでビルへ向かう綾芽をたまたま見かけ、一世一代の勇気を振り絞って声をかけた——というのが、この邂逅の真相である。
(相手だって戸惑ってる。だったら……先輩の私から、変えないと!)
遥は意を決し、この気まずい沈黙に終止符を打った。
「わ、私はあなたの先輩! だけど多分、歳はあなたと変わらないから、気なんて使わないで! プライベートでは皆に遥ちゃんって呼ばれてるから、よかったら、あなたも!」
言い切ってから、遥は内心で頭を抱えた。(違う、そうじゃない。もっと自然に言うつもりだったのに!)
だが、恐れていた気まずさは訪れなかった。
「遥ちゃん、は少し照れくさいので……これからは親しみを込めて、遥先輩と呼ばせてください。私は佐藤綾芽といいます。遥先輩こそ、私のことは綾芽ちゃんって呼んでください」
にっこりと、綾芽は微笑んだ。
仲良くなりたい——その想いが伝わったからこその返事だった。聞いた瞬間、遥は感極まって綾芽に抱きついていた。
「よろしくね、綾芽ちゃん!」
「は、はい、遥先輩……」
(近い近い近い!)
脳がショートしかけた燈哉は、視線を遥から引き剥がし、ビルの上層階を見上げて心を無にする。
(見た目を偽って、偽名まで使って、仲良くなってしまった……。良心が、痛い)
そう思う一方で、仲の良い同僚がほとんどいなかった燈哉にとって、この温かさが嬉しくないはずもなく。気づけば、あれほど張り詰めていた緊張は、ずいぶんと薄らいでいた。
綾芽から離れた遥は、今度はその手を取って、エントランスへ歩き出す。
「ちなみに綾芽ちゃん、やっぱり来海ちゃんと同じで胸ぺったんこだね! 私も同じだから、すごく嬉しい!」
「あ、あはは……」
苦笑いで受け流す燈哉。——ここで一つ、補足をしておく。
アバターと中の人は、顔や髪型こそ自由に変えられるが、身長や胸まわりといった「体型」は、モーションを連動させる都合上ほとんど変えられない。ゆえに、男である燈哉のアバター・来海は高身長で胸がぺったんこ。
小柄で胸の控えめな遥のアバター・みなみもまた、小柄で控えめ。……そういうことである。
(この話題、俺には一生できないんだよなあ……)
新しい友達がひとり。そして、そのあいだに横たわる男女の壁がひとつ。
——だが本当の試練は、この先の撮影スタジオで待っていた。




