「兄さん」
V-1グランプリの熱狂も落ち着いた、六月中旬のある夜。
燈哉はいつものように、深夜の部屋でサムネ作業に励んでいた。明日は本社で、志穂との初の正式二人コラボの打ち合わせがある。数日前には企画資料を送り合うために住所も交換した。準備は、万全のはずだった。
ピンポーン。
「お、来た来た」
インターホンの音に、燈哉は迷わず立ち上がった。注文していた配信機材が、今夜届く予定だったのだ。ウィッグも被らず、声も作らず、いつもの黒Tシャツのまま、彼は無造作に玄関の扉を開けた。
「どうもー……」
「こんばんは! 姐さん! 明日の企画ノート、待ちきれなくて届けに来ちゃいまし——」
扉の向こうにいたのは、宅配業者ではなかった。
金髪のツインテール。両手に企画ノートとコンビニ袋。夜道を歩いてきたらしい、上気した頬。
——社静が、そこに立っていた。
「「…………」」
時が、止まった。
静の視線が、ゆっくりと動く。見知らぬ男の顔。黒の短髪。喉仏。黒Tシャツ。その奥の部屋に見える、見覚えのある配信機材と——ウィッグスタンドに掛かった、サラサラの黒いショートボブ。
「……あの」
静の唇が、震えながら開いた。
「姐さんの、彼氏さん……ですか?」
「ちがっ——」
反射的に否定した、その声。地声のまま出てしまった、その声を聞いた瞬間——静の目が、限界まで見開かれた。
聞き覚えが、あったのだ。声そのものではない。発声の、癖。あの夜、旅館の部屋で自分を叱り飛ばした、あのヤンキー声と同じ喉から出る音の——"根っこ"の部分に。
「……は?」
企画ノートが、ぱさりと落ちた。
「…………姐さんが、**兄さん**?」
◇
五分後。燈哉の部屋の中央で、二人は正座で向かい合っていた。
「——というわけで、です。本名は野治燈哉。性別は、男。佐藤綾芽は偽名で、女装です。……騙していて、本当に申し訳ありませんでした」
燈哉は、遥の時と同じように、深く頭を下げた。畳に額がつく勢いだった。
静は、長いこと黙っていた。落としたはずの企画ノートを、いつの間にかぎゅっと抱えている。
「……一個ずつ、確認させてください」
「どうぞ」
「旅館で私に説教したのは」
「俺です」
「卓球の賞品にされてたのは」
「俺です」
「ホラゲーで絶叫を私に上書きさせたのは」
「……俺です」
「私が『カップルになって』って言った相手は」
「…………俺、です」
「〜〜〜〜っっ!!」
静は、抱えたノートに顔を埋めて、くぐもった悲鳴を上げた。
「私、男の人に……カップルとか、姐さんとか、添い寝しましょとか言ってたんですか!?」
「添い寝は言われてないが!?」
「言おうとしたことはあったんです!!」
「初耳の情報を増やすな!!」
ひとしきり悶えたあと、静はゆっくりと顔を上げた。目つきの鋭さが、すっと戻ってくる。——元ヤンの、筋を通す時の顔だった。
「……事情は。事情は、あるんですよね」
「ある。……この会社の所属は、全員女性だ。俺一人が男だとバレれば、俺だけじゃなく、会社も、みんなも燃える。だから絶対に隠し通せというのが、入社の条件だった。——社長の指示だ。……あの人は、俺の叔父なんだ」
「——社長の」
静の背筋が、ぴんと伸びた。彼女にとって社長は、二百人の中から自分を拾い上げてくれた恩人である。
「……わかりました」
静は、正座のまま、拳を畳について頭を下げた。仁義を切るような、綺麗な礼だった。
「この秘密、預かります。誰にも言いません。……恩ある社長と——尊敬する姐さん、いえ」
顔を上げた静は、少しだけ迷ってから、言い直した。
「——**兄さん**の秘密なら、命に代えても守ります」
「命は懸けなくていいけど……ありがとう、静ちゃん。ほんとに」
「ふん。……当然のことをするだけです」
◇
話がまとまった頃には、日付が変わっていた。
「じゃあ、企画ノート、確かに受け取ったから。夜道気をつけて」
「はい。……あの、兄さん」
玄関先で振り返った静は、何かを言いかけて——やめた。
「……いえ。おやすみなさい」
「おう。おやすみ」
扉が閉まる。
夜道を歩き出した静は、十歩ほど進んだところで、ぴたりと足を止めた。
(…………待って)
心臓が、うるさかった。
(姐さんが、兄さんだった。それは、いい。事情も、わかった。筋も、通ってる。秘密も、守る。……それは、いいんだけど)
思い返す。旅館の夜、真正面から自分を怒鳴ってくれた声。差し伸べられた手。「私も一緒に頑張るから」。カップルになってと迫った自分。姐さんと呼び続けた日々。——そのぜんぶの向こう側に、ずっと、あの人がいた。
同い年くらいの、男の人が。
(〜〜〜〜っっ、なにこれ!! なにこれ!!!)
静は、深夜の住宅街で頭を抱えてしゃがみ込んだ。
(顔が熱い!! 思い出すだけで熱い!! 私、あの人の部屋に、夜、一人で……って、そうじゃなくて!! 落ち着け私!! これはあれだ、驚きすぎて心臓がバグってるだけ——)
元ヤンの語彙は、この感情に名前をつけることを、全力で拒否していた。
——一方その頃、部屋に戻った燈哉は。
「……増えたなあ、秘密を知る人」
ウィッグスタンドを眺めながら、ぽつりと呟いた。恐怖より先に、少しだけ、肩が軽くなった気がした。それが何を意味するのか、深くは考えないことにした。
——この夜を境に、何かが変わり始める。まずは、一番近くにいた少女から。




