「裏で動く一つの影」
夕食を終えた大広間に、莉音のよく通る声が響いた。
「よーし、じゃあこの流れで皆で大浴場行こっか! ここの露天、海が見えるらしいよ!」
「「「さんせーい!」」」
(——来た。この旅行、最大の物理的危機が)
盛り上がる一同の中、綾芽だけが静かに青ざめていた。
大浴場。すなわち、女湯。すなわち、男の燈哉が世界で一番入ってはいけない場所である。
初日は「湯あたりしやすい体質で、部屋のお風呂派なんです」と言い訳して回避した。だが二日目も同じ手を使えば、さすがに不自然——付き合いの悪い子だと思われるのも、印象がよろしくない。
(言い訳、言い訳……何かないか……!)
「綾芽ちゃんも行くよね?」
美咲の無邪気な瞳が突き刺さる。その時だった。
「あ、あのっ!」
がたん、と音を立てて遥が立ち上がった。
「綾芽ちゃんは、その、ワ、ワタシと……部屋のお風呂に入る約束を、してるので!」
——静寂。
「「「二人でお風呂ぉ!?」」」
「昨日の『ワタシの』発言といい……」「みなみちゃん、もう隠す気ないじゃん」「てぇてぇが過ぎる」
「ち、ちがっ、順番に入るってだけで! い、一緒には入らな……そうじゃなくて!」
墓穴に墓穴を重ねる遥。だが結果として、綾芽の大浴場行きは有耶無耶のうちに回避された。
(遥さん……あんたは恩人だよ。墓穴の掘り方が天才的すぎるけど)
◇
大浴場・露天風呂。湯けむりの向こうに、夜の海が見える。
「ん〜〜、生き返る〜!」
「莉音は今日、卓球の実況で一番はしゃいでたもんね〜」
「僕は長湯派なんだ。先に上がりたい人は気にせずどうぞ」
莉音、朱里、柚木がのんびり湯に浸かり、少し離れて美咲と静が並んでいる。
「……ねぇ、静ちゃん。昨日の今日でこんなこと聞くのもあれだけど——綾芽ちゃんのこと、もう嫌いじゃない?」
美咲の率直な問いに、静は湯を見つめたまま、ぽつりと答えた。
「……嫌いじゃ、ないです。というか……多分、この会社で一番、すごい人だと思ってます。人気とか数字のことじゃなくて。……ちゃんと、逃げた私を追いかけて、本気で怒って、本気で話を聞いてくれたので」
「……そっか! うん、そうなんだよ。綾芽ちゃんはそういう子なんだよ!」
我がことのように胸を張る美咲に、静は小さく笑った。二日前には想像もできなかった、穏やかな湯けむりの夜である。
「そういえば、ソフィー先輩は?」
「智恵ちゃんなら『少し疲れたから部屋で休むわ』って。……あの人、昔から一人が好きなのよね」
朱里が何気なく答えた。誰も、それ以上は気に留めなかった。
◇
同じ頃。一人部屋の暗がりで、智恵はタブレットにペンを走らせていた。
イヤホンからは、昼間の録音が流れている。歓声、莉音の実況、球を打ち合う音、そして賞品席の来海の声——胸ポケットのスマホ一つで録った、会場の音だ。
映像は、使わない。中の人の姿が世に出ることの恐ろしさを、この業界に六年いる彼女は誰よりも知っている。破滅させたいわけでは、ないのだ。……ただ、少しだけ、躓けばいい。
だから彼女は、自らの手で「イメージ画像」を描く。賞品台に立たされた来海のアバターと、その横で泣き顔の志穂のアバター。デフォルメの効いた、しかし妙に扇情的な構図のイラスト。ソフィーの配信サムネを全て自作してきた、慣れた手つきだった。
音声にイラストを当て、字幕を載せ、動画として書き出す。
『新人を泣かせた翌日、その新人を賞品にして見世物卓球(音声あり)』
『カップリング"保留"——思わせぶり商法では?』
投稿先は、足のつかない匿名アカウント。指が、投稿ボタンの上で一度だけ止まった。
——その拍子に、画面が写真アルバムに切り替わる。一番古いフォルダの、一枚のサムネイルが目に入った。
『【初見さん歓迎】ソフィーが見つけた超期待の新人——明野来海ちゃんを紹介!』
一年前の、自分の配信のサムネイルだった。
「……………………」
智恵は無言でアルバムを閉じ、投稿ボタンを、押した。
◇
深夜。消灯前の301号室に、遥と美咲が乱入してお菓子会が開かれていた(なお部屋風呂は宣言通り交代制で消化された。廊下で湯上がりの遥と鉢合わせた時の「せ、先に入ったから!」という謎の報告は、燈哉の記憶に永く残ることになる)。
「明日で最終日かぁ。なんか、あっという間だったね」
「私、社員旅行ってもっと怖いものだと思ってました」
「怖かったのは初日のあんただよ!?」
笑い声の中——ふと、スマホを見ていた美咲の顔から、表情が消えた。
「……ねぇ、二人とも。これ……」
差し出された画面には、イラストに音声を乗せた動画。じわじわと伸びていく再生数。
そして美咲は、震える声で言った。
「この音……歓声も、球の音も、生々しすぎる。……これ、録った人——この中に、いるよね?」




