第8章 頭数改め
朝の豆は、いつもと同じに煮えた。
睦月の十日。ゆうべ浸けた白豆を、夜明け前から鍋にかけた。蕪と人参を刻んで入れ、玉葱を入れ、あとは火の番をするだけだ。豆は、人間が何を心配していても、同じ速さで煮える。それが豆のいいところだ。
ルルは、カウンターの端の、いつもの場所に立っていた。
耳の横の髪を、三度直した。一度目は朝の鐘のあと。二度目は鍋の湯気が立ったとき。三度目は、何もないときに。三度目のあとで、ルルは自分の手を見て、それからカウンターの上に両手を置いた。置いたまま、もう髪には触らなかった。
*
昼の鐘が鳴って、しばらくすると、表の通りが騒がしくなった。
窓から見ると、北の端のほうから、人の列が少しずつこちらへ来ていた。
先頭に、灰色の外套が三つ。治安維持隊だ。いちばん背の高いのが、隊長のマグダだった。四十を少し出たくらいの女だ。左の頬に、耳の下から口の端まで、古い刃物の傷がある。外套の喉元の鉄の留め金は、二つとも留まっていた。
その後ろに、厚い羊毛の外套の男が一人。指を立てて、何かを数えながら歩いていた。勘定方ブラントの番頭、カスパルだ。帳面は持っていない。帳面を持っているのは、その横を歩く若い書記のほうだった。二十代の終わりくらいで、袖口にインクの染みがある。参事会の書記局の者だろう。帳面を胸に抱いて、寒そうに首をすくめていた。
通りの戸口ごとに、人が並ばされていた。
人間は、名と生まれを訊かれて、答えて、それで済んだ。亜人は、名と生まれを訊かれて、名簿と照らされた。照らされたあとで、もう一つ訊かれていた。
何ができる。
荷運び。井戸掘り。皮なめし。答えを、若い書記が帳面の余白に書きつけていた。
触れには、そんな問いは書いていなかった。頭数を改めるのは、施し米の勘定のためだ。施し米を配るのに、皮なめしができるかどうかは要らない。
数えておけば、使いどころが分かる。
師走の夜に、ルルが奥の席から拾ってきた言葉を、俺は思い出した。
*
昼すぎ二つの鐘が鳴る少し前、改め役の一行が錆び釘亭の前に来た。
最初は、厩だった。
組合の雑役の亜人は、厩の二階で寝起きしている。バルタザールが登録簿を抱えて、中庭へ案内した。俺は裏口の戸口に立って、それを見ていた。
厩の前に、三人が並んだ。ザザ、ドゥン、それに今日は夜番明けのヴェイ。
カスパルが、指を折って数えた。
「トカゲ一。モグラ一。灰色一」
バルタザールが登録簿の後ろの頁を開いて、書記に見せた。書記は名を一つずつ照らして、うなずいた。
「何ができる」とカスパルが訊いた。
「掃除」とザザが言った。
「井戸」とドゥンが言った。
ヴェイは答える前に、井戸のほうを見た。厩の水桶が空になっていた。夜番明けの仕事が、一つ残っていたらしい。ヴェイは黙って桶を持ち上げて、井戸へ歩いていった。
誰も止めなかった。
カスパルは書記の帳面を覗きこんで、余白の書きつけを確かめていた。ヴェイが水を汲んで、桶を厩の前に置いて、また列に戻ってきた。
カスパルが顔を上げて、戻ってきた灰色を見た。指を一本、折り足した。
「灰色、もう一」
書記が帳面に書いた。
『灰狼 二』
カスパルはザザのほうを向いた。「おい、トカゲ。ここには何人いる」
ザザは瞼を下から上へ閉じて、開いた。
「今は三人だ」
「四人だろう」カスパルは指を四本立てた。「灰色が二つ」
ザザは黙った。訊かれていないからだ。
帳面は、書き直されなかった。
マグダは厩の改めのあいだ、中庭の端に立っていた。それが済むと、隊員の一人をそばに残して、裏口の脇の柱にもたれた。外套の腕を組んで、厩のほうを向いたまま、動かなかった。灰狼が一人か二人かは、隊長の仕事ではないらしかった。
*
店の中に入ってきたのは、カスパルと書記と、隊員が一人だった。
バルタザールは、奥の席に戻って、腰を下ろした。きのう自分で言ったとおり、組合長は店にいた。腹の上で指を組んで、改め役を眺めていた。
俺は、カウンターの中で、杯を拭いていた。
ルルは、カウンターの端に立っていた。
カスパルが、ルルの前に来た。指を一本立てた。
「名は」
「ルル」
「生まれは」
ルルは首をかしげた。
「あら、どこに見える?」
奥の席で、バルタザールが鼻で笑った。
カスパルは笑わなかった。ルルの頭の上を見た。白い耳を見た。
「お前は人間か」
「あら? 人間じゃなかったら、何に見えるの?」
戸口の隊員が、吹き出した。若い書記も、口の端だけで笑った。
カスパルは笑わなかった。耳を見ていた。白い耳の根もとを、指の一本も動かさずに見ていた。
それから、一歩、前へ出た。
「人間なら、人間だと言え」
ルルの耳が、伏せかけた。
根もとが、わずかに後ろへ傾いた。腰の後ろで、白い丸い尾が、動きかけた。
俺は杯を拭いていた。手は止めなかった。
そのとき、奥の席で椅子が鳴った。
「うちの給仕に、くだらん芸をさせるな」
バルタザールだった。組合長は椅子から半分腰を浮かせて、太い指をカスパルに向けていた。
「私が雇った人間の娘だ。ブラントさんにも、そう言っておけ」
組合長は本気だった。俺には分かった。この男は、ルルの耳を安っぽい付け耳だと思っている。黒い胴着の、見世物の兎の娘だと思っている。銀貨六十枚を稼いだ娘を、番頭ふぜいに泣かされては困ると思っている。そして、この番頭の主人に、師走の夜、金貨の袋を渡している。
カスパルは、組合長を見た。それから、目がルルの耳から離れて、黒板の横の柱へ移った。色のあせた赤い字の口上書きの上で、目が止まった。南国渡りの兎娘。お酌いたします。
カスパルは、指を下ろした。
主人の盟友に逆らう番頭は、この街にはいない。
それでも、カスパルはまだ、ルルの前から動かなかった。何かを言いかけた。
そのとき、開いたままの裏口から、低い声が聞こえた。
「頭数改めは、数える仕事だ。問い詰める仕事じゃない。触れにそう書いてある。次へ行け、日が暮れる」
マグダの声だった。隊長は裏口の柱にもたれたまま、こちらを向いてさえいなかった。中庭の向こうの厩を見たまま、そう言っただけだった。
カスパルは、裏口のほうを見た。それから、組合長を見た。
それから、書記に向かって、顎をしゃくった。
若い書記が、帳面に書いた。
『錆び釘亭 給仕 一』
*
改め役の一行は、表の扉から出ていった。
隊長だけは、店の中を通らなかった。中庭から表の通りへ回る前に、裏口の戸口から一度だけ、カウンターの中の俺に言った。
「酒場番。麦酒は、勤務が明けてからだ」
俺は、はい、とも言わなかった。隊長は返事を待たなかった。鉄を打った靴の音が、中庭の石を鳴らして遠ざかった。
バルタザールは、奥の席で腹の上の指を組み直した。
「おい、バニー。仕事に戻れ」
それから、帳場の数字をもう一度見に来て、満足そうに帰っていった。銀貨六十枚の四割が、組合長の頭の中で、もう一度勘定されているのが見えるようだった。
俺は、改め役が来てから一言もしゃべらなかった。
しゃべることは、前の日に全部しゃべってあった。
*
カウンターの端で、ルルの耳がゆっくり立った。
伏せかけていた根もとが、少しずつ起き上がって、まっすぐになった。ルルは両手をカウンターに置いたまま、表の扉を見ていた。
扉の向こうの、通りの声を聞いていた。
俺も、窓の外を見た。
三軒先の染物屋の前に、人が並ばされていた。黒い羽根の、鴉人の一家だった。男と女と、女の外套にしがみついている小さな子が一人。秋に南から来た流れ者で、染物屋の屋根裏に住んでいた。
若い書記が、帳面をめくって、谷の名簿の写しと、いくつかの組合の登録簿の写しを、指でたどっていた。
たどり終えて、首を横に振った。
名簿に、名がなかった。




