第9章 冬の終わり
朝六つの鐘で、北門が開く。
睦月の十一日。俺は氷を買いに、北門へ行った。北門のすぐ内側に、街の氷室がある。錆び釘亭の地下の氷箱は、三日に一度、ここの氷で満たす。いつもと同じ朝の、いつもと同じ用事だ。
門の内側の石畳に、黒い羽根の一家が立っていた。男と女と、小さな子が一人。子どもは父親の外套の中に入れられていて、外套の合わせ目から、黒い頭のてっぺんだけがのぞいていた。
両脇に、治安維持隊の隊員が二人。灰色の外套の肩に、夜のあいだに降った雪が薄く積もっていた。
白い手袋の修道女が一人、一家の前に立っていた。灯火教会の者だ。追放の朝には、教会の誰かが門に来る。修道女は女の手に、黒パンの包みを二つ渡した。女は包みを受け取って、頭を下げた。修道女は何も言わなかった。何も訊かなかった。
門番が、閂を外して、門を押し開けた。
一家は、門の外の街道の雪の上へ歩いていった。父親の外套の合わせ目から、子どもの頭が一度だけ振り向いた。それから、また外套の中に引っこんだ。
門番が、門を閉めた。閂を戻した。
氷室の爺さんが、俺の籠に氷を積みながら言った。
「何だって」
俺は何も言っていなかった。
氷を背負って、店に帰った。背中が冷たかった。
*
それから、ひと月と少しがたった。
如月の末。雪はまだ残っていたが、昼のあいだは軒から水が落ちるようになった。樋が鳴る。朝のうちは凍って黙っていて、昼の鐘が鳴るころに、思い出したように鳴り始める。夜になると、また凍って黙る。
ルルは、錆び釘亭の給仕になっていた。
客はみんな、バニーと呼んだ。訊かれると問いで返して、客が笑って、杯の横に銅貨が一枚置かれた。帳場の端の小皿の銅貨は、夜ごとに増えた。組合の取り分の四割は、組合長の帳面の上で、思っていたより早く積み上がっていった。
ルルは、常連の注文を覚えた。
覚え方が、俺とは違った。俺は顔と席と、いつもの酒を覚える。ルルは、足音を覚えた。
「マスター、荷運びのおじさん。蒸留酒」
ルルがそう言って杯を用意する。俺が戸口を見る。誰もいない。少しして、扉が開いて、荷運びの男が入ってくる。
「よう、バニー。いつものを――」
ルルはもう、杯を男の前に置いている。
男は杯を見て、ルルを見て、首をかしげた。
「おい、どうして分かった」
「あら、分からないと思った?」
男は笑って、銅貨を一枚置いた。それから毎晩、男は戸口で一度立ち止まって、ルルが杯を出すのを待ってから入ってくるようになった。出ていなければ、わざと足音を大きくした。
帳場の小皿の銅貨も、ルルは音で数えた。閉店後、俺が小皿を傾けて引き出しへ移すと、カウンターの端から、十三、と言う。数えると、十三枚ある。
一度だけ、十四、と言われた。数えたら、十三枚だった。俺はルルを見た。ルルは耳を片方、床のほうへ傾けていた。カウンターの下を探すと、銅貨が一枚、樽の脚の陰に落ちていた。
「あら、十四でしょう?」とルルは言った。
グレタも一度、店に来た。
戸口で、カウンターの端の娘を見て、口をあけた。待ち針はくわえていなかった。しばらく娘を見て、それから俺を見た。
「看板の人形かい」
「ええ」
「動くじゃないか」
「出来がいいので」
グレタは麦酒を一杯飲んで、帰っていった。代金は払わなかった。俺も、請求しなかった。
*
ある夜半すぎ。
客がみんな帰って、俺は帳場で銅貨を数えていた。階段が鳴った。
ルルが下りてきた。寝間着の上に毛布を巻いて、裸足だった。カウンターの端へは来なかった。窓辺へ行った。北の通りに面した窓だ。
ルルは窓の前に立って、外を見ていた。
耳が、二本とも伏せていた。
根もとから、頭の後ろへぺたりと寝ていた。ひと月半前に、改め役の前で伏せかけて、伏せなかった耳だ。いまは、誰も見ていない。伏せたまま、震えていた。
俺は銅貨を数える手を止めて、耳を澄ました。
何も聞こえなかった。樋は凍って黙っていた。通りに足音はなかった。風もなかった。
「何か、聞こえますか」と俺は言った。
ルルは窓の外を見たまま、しばらく答えなかった。
「あたしの耳、森ではお役目だったの」
それだけ言った。
それ以上は言わなかった。俺も、訊かなかった。訊けば、この娘は問いで返す。問いで返すことさえ、今夜はさせたくなかった。
ルルは、夜明け前まで窓辺にいた。俺も、帳場にいた。銅貨は、とっくに数え終わっていた。
*
翌朝六つ、俺は氷を買いに北門へ行った。
門が開いた。
開いた門の向こうに、街道が見えた。雪の残った荒れ野を、街道が一本、北へ延びている。門を出てすぐのところの、街道脇の雪の土手の上に、人が一人、立っていた。
旅人だった。
灰色の旅装束で、荷は小さい。頭巾は下ろしていた。頭の上に、長い耳が二本、立っていた。
兎の耳だった。
耳は二本とも、街のほうへ向いていた。門の中の、そのずっと奥の音を聞こうとしているように、じっと動かなかった。
俺は氷室の戸口から、それを見ていた。
数を数えた。一人。連れはいない。荷は背中に一つ。杖はない。立ち方は、右の足に重みをかけている。いつでも走り出せる立ち方だ。顔は、遠くてよく分からなかった。
門番は、旅人を見ていなかった。人間の門番には、耳の付いた旅人は、ただの旅人に見えたのかもしれない。それとも、見えていなかったのかもしれない。
旅人は、門をくぐらなかった。
しばらくそうして立っていて、それから、街道を戻っていった。
俺は氷を背負って、店に帰った。
翌朝も、俺は北門へ行った。氷は、まだ足りていた。
土手の上には、誰もいなかった。
*
旅人を見た日の夜、閉店後。
ルルが、暖炉の鍋の蓋を取った。豆のスープだ。煮て二日目の豆が、まだ機嫌よく湯気を立てていた。
ルルは木の椀を出して、杓子で底からかき回して、よそった。
カウンターの、俺の前に置いた。
「マスター、まだ食べてないでしょう」
「食べていません」
ルルは椀の横に、匙を一本添えた。それから自分の分もよそって、カウンターの端の、いつもの場所に座った。頬杖をついた。耳は二本とも立っていて、片方が暖炉のほう、片方が俺のほうを向いていた。
「マスターは、何杯?」
「さて」と俺は言った。「三杯と、半分くらいでしょうか」
ルルが笑った。
俺はスープを飲んだ。熱かった。二日目の豆は、悪くなかった。
窓の外で、凍りかけた樋が、一度だけ鳴った。湯気が、灯の前でまっすぐ立って、ほどけていった。




