第7章 稽古
頭数改めの前の日は、晴れていた。
睦月の九日。昼の鐘が鳴って、客のいない刻だった。ダリオはきのうの朝、また南街道の護衛に出ていった。半月は戻らない。店にいたのは、俺とルルと、ザザだけだった。
稽古をすることにした。
改め役は、明日、戸口ごとに人を並べて、名と生まれを訊く。触れにそう書いてある。訊かれるのが分かっているなら、訊かれる前に一度、答えておいたほうがいい。
問題は、誰が改め役をやるかだった。ダリオがいなくて、よかった。あの男なら、偉そうな顔で偉そうなことを訊くのが上手い。だが、あの男は組合の剣士で、この建物の中では仲間に嘘をつけない。稽古を見せれば、いつか誰かに訊かれて、見たとおりに答えてしまう。
「ザザ」と俺は言った。「改め役をやってもらえますか」
ザザは箒を壁に立てかけた。
「やる」
「では、これを」
帳面の代わりに、黒板を渡した。ザザは字を書かない。だから黒板を抱えているだけだ。改め役らしく見えればいい。
ザザは黒板を胸に抱いて、カウンターの前に立った。ルルが、その前に立った。黒い胴着に網の靴下、白い耳。
「始めてください」と俺は言った。
ザザは、黒板を抱えたまま、ルルの足を見た。
「名は」
「ルル」
「生まれは」
ルルは首をかしげた。白い耳が片方、ザザのほうへ傾いた。
「あら、どこに見える?」
ザザは、瞼を下から上へ閉じて、開いた。
「森に見える」
ルルの耳が、二本とも、ぺたりと後ろへ寝た。
俺はカウンターの中で、杯を拭く手を止めた。
ザザは嘘をつけない。訊かれたことには、本当のことを答える。どこに見える、と訊かれたから、見えたとおりに答えた。ザザの目に何が見えているのか、俺は知らない。足か、熱か、それとも別の何かか。ただ、ザザは森と言った。
ルルは耳を寝かせたまま、ザザを見ていた。何も言わなかった。
「ルル」と俺は言った。「人間の改め役は、そうは答えません」
ルルが、こちらを見た。
「人間は、見たいものを答えます。あら、どこに見える、と訊かれたら、人間は、自分が見たいものを言います。南、と言う人もいるでしょう。下町の娘だろう、と言う人もいるでしょう。森とは、言いません」
「どうして?」
「森から来た娘が、酒場で麦酒を運んでいるところを、見たいと思う人間はいないからです」
ルルの耳が、ゆっくり起き上がった。
ザザは黒板を抱えたまま、立っていた。
「続けますか」とザザが言った。
「いえ」と俺は言った。「改め役は、ほかの者にやってもらいます」
ザザは黒板を俺に返して、箒を取り上げた。少し残念そうに見えたが、ザザの顔から何かを読み取れたためしはない。
*
改め役は、結局、俺がやった。
カウンターの外に出て、腕を組んで、ルルの前に立った。偉そうな顔をしようとしたが、上手くいかなかったらしい。ルルが二度、笑いをこらえた。
「名は」
「ルル」
「生まれは」
「あら、どこに見える?」
「南だろう」
「あら、南ってどんなところ?」
「お前は人間か」
「あら? 人間じゃなかったら、何に見えるの?」
俺は腕を組んだまま、ルルの頭の上を見た。白い耳は、まっすぐ立っていた。
「決まりごとを、二つ」と俺は言った。
ルルが耳を傾けた。
「一つ。訊かれたら、問いで返す」
「それは、いつもしてるわ」
「明日も、いつもと同じにしてください。それから、もう一つ」
俺はルルの頭の上を指さした。
「付け耳は、伏せない」
ルルは自分の頭の上へ、目だけを上げた。
「布と綿でできた耳は、持ち主が泣いても笑っても、同じ角度で立っています。だから、明日は伏せないでください。怖くても、腹が立っても」
ルルの耳が、言われたそばから、少しだけ後ろへ傾きかけた。それから、自分で気づいたように、まっすぐ立ち直った。
「尾は動かさない」と俺は言った。
「あら、尾は付け尾じゃないの?」
「付け尾は、動きません」
ルルは、腰の後ろに手をやった。白い丸い尾が、手の下で、ぴくりと動いた。ルルはそれを手で押さえて、俺を見た。
「……難しいわ」
「一日だけです」
それから夕方まで、俺は何度も同じことを訊いた。名は。生まれは。人間か。訊くたびに、ルルの耳は伏せかけて、立ち直った。三度目からは、伏せかけるのも遅くなった。十度目には、伏せかけなかった。
*
夕方五つ、バルタザールが帳場に来た。
明日のことを、組合長も知っていた。組合の雑役の亜人たちも、改めを受ける。登録簿は組合長のものだから、改め役に見せるのは組合長の仕事だ。
「改めとは、面倒なことだ」バルタザールは帳場の数字を指でたどりながら言った。
俺は、帳場の脇へ寄って、組合長の耳もとで言った。
「組合長。給仕を立ててから、この店の上がりが増えました」
「ほう」
「この二十日で、銀貨六十枚は上がりました」
バルタザールの指が、帳面の上で止まった。
本当は、四十二枚だった。給仕を立ててからの七晩の上がりを、去年の同じ七晩と比べた差だ。二十日も、六十枚も、俺が言った数字だ。組合長が、帳面の数字より、俺の口から出た数字を覚えて帰ることを、俺は知っていた。
「四割で、銀貨二十四枚か」バルタザールは呟いた。口の中で、もう一度数え直した。唇が、二十四、と二度動いた。それから顔を上げた。「改め役は、誰が来る」
「勘定方の番頭が、問う役だそうです」
「ブラントさんのところのか」バルタザールは少し考えて、言った。「明日、改めが来るのか。……私もいてやる」
組合長が自分から店にいると言ったのは、俺がこの店に来てから、たぶん初めてだった。
*
夜、閉店後。
ルルがカウンターで、豆を水に浸けていた。俺がいつもやる仕事を、いつのまにか覚えていた。干した白豆を鉢に入れて、井戸の水を注ぐ。冷たい水だ。ルルの指先が、水に入るたびに赤くなった。
「マスター」とルルは言った。
「はい」
「マスターは、どうしてあたしを人間にするの?」
鉢の中で、豆が一粒、浮いた。ルルはそれを指で沈めた。
俺は、帳場の小皿の銅貨を数えていた。客の置いていった銅貨だ。今夜は十四枚あった。
「耳のいい給仕は、高く売れますから」と俺は言った。
ルルは豆の鉢から顔を上げた。白い耳が、二本とも、俺のほうを向いた。
「あら、それだけ?」
俺は答えなかった。
銅貨を数え終えて、小皿を帳場の引き出しにしまった。ルルは答えを待たなかった。待たずに、また豆の鉢に目を戻した。
水の中で、豆が小さく鳴った。
明日、改め役は一軒ずつ戸を叩く。下町の通りを、北の端から順に回ってくる。錆び釘亭は、昼すぎ二つの鐘のころになるだろう。




