第6章 問いで返す
年が明けた。
灰壁暦三一〇年、睦月の三日。正月の二日間、錆び釘亭は戸を閉めていた。三日の夜八つの鐘で、俺は表の閂を外した。
その夜、ルルが初めて給仕に立った。
黒い胴着に網の靴下。白い付け襟と、手首の白いカフス。耳の横に垂らした亜麻色の髪。頭の上に、白い長い耳が二本。
最初に入ってきた客は荷運びの男たちで、男たちは戸口で足を止めた。一人が、隣の男の肘をつついた。つつかれた男は、カウンターの端を見て、口を開けた。
ルルは盆を持って、男たちのほうへ歩いていった。
「いらっしゃいませ。麦酒?」
男たちは、黙ってうなずいた。
*
その夜のうちに、店は半分ほど埋まった。
噂は、雪より速く広がる。酒場に兎の格好をした娘が立っている。最初の客が次の店へ飲みに行けば、次の店で話す。次の店の客が、こっちへ来る。正月明けの懐の軽い男たちが、麦酒一杯分の銅貨を握って、戸口から首を突っこんだ。
九つの鐘のころ、大男が一人、雪を肩に積もらせて入ってきた。
ダリオだ。組合の剣士で、三十くらい。戸口の荷運びの男たちが、ダリオ、帰ったのか、と声をかけた。年越しの隊商の護衛で南街道へ出ていて、今夜戻ったばかりらしかった。背中の荷を下ろしもせずに、カウンターまでまっすぐ来た。
「マスター、帰ったぜ。凍え死ぬかと思った。一杯――」
ダリオはそこで、カウンターの端を見た。
それから、黒板の横の柱を見た。色のあせた赤い字の紙が留めてある。
「南国渡りの、兎娘」ダリオは声に出して読んだ。「……バニー?」
ダリオは笑った。店の端まで聞こえる笑い方だった。
「おい、マスター。どうしたんだ、これは。俺が留守のあいだに、この店は見世物小屋になったのか」
「給仕です」と俺は言った。
ダリオはルルの頭の上を、しげしげと見た。
「よくできてるな、その耳」
「よくできているでしょう」と俺は言った。
嘘だ。よくできているのではない。本物だ。だが、本物だと言う必要はない。ダリオは組合の剣士で、この建物の中では仲間に嘘をつけない。俺は組合の者ではないから、つける。それだけのことだ。
ルルは盆を胸に抱いて、ダリオを見上げた。
「あら、あなたがダリオさん?」
「俺を知ってるのか」
「あら、知らないと思った?」
ダリオは目を丸くして、それから、また笑った。
「おい、バニー。麦酒だ。それと、何か腹に入るものを」
それで、この店の給仕の名は決まった。
客はみんな、バニーと呼んだ。
*
ルルは訊かれたら、問いで返した。
「バニー、どこの生まれだ」
「あら、どこに見える?」
「南だろう。その紙に書いてある」
「あら、紙に書いてあることは、みんな本当?」
客が笑った。
「その耳、どこで買った」
「あら、どこで買ったように見える?」
「ネーベルだな。俺は川港に行ったことがある」
「あら、ネーベルってどんなところ?」
それで客は、ネーベルの話を始める。訊かれたことに答えるより、訊き返されたことに答えるほうが、男は機嫌がいい。話しているうちに、自分が何を訊いたのかを忘れる。忘れて、麦酒をもう一杯頼む。
ルルが席を回るたびに、どこかで笑いが起きた。笑いが起きたあとの卓には、杯の横に銅貨が一枚、置いてあった。酒代とは別の銅貨だ。俺はそれを、帳場の端の別の小皿に数えて入れた。十の鐘までに、十一枚あった。
ルルは、麦酒の泡を三度こぼした。
一度目は、杯を置くときに傾けた。二度目は、盆の上の杯がぶつかった。三度目は、客の冗談に笑ったときだ。三度とも、すみません、とは言わなかった。「あら」と言って、布で拭いた。客は誰も怒らなかった。
その夜、ルルに、人間ですかと訊いた客はいなかった。
*
十一の鐘の少し前、客がまばらになったころ、ルルがカウンターの中に戻ってきた。
暖炉の鍋を見ていた。俺の賄いの、豆のスープだ。年明けに新しく煮た。まだ二日目だ。あの雪の夜から、賄いの鍋には脂身を入れていない。肉屋は、とっくに戸を開けている。
「マスター」とルルは言った。「裏口に、誰か来るでしょう?」
「来ます。雑役の者たちが、ときどき」
組合の雑役の亜人たちは、店の表からは入ってこない。入ってはいけない決まりがあるわけではない。灰色もトカゲも人間も、金さえ払えば同じ杯で飲める店だ。ただ、金のない夜は、裏口に来る。俺は気の向いた夜に、鍋の残りを分けてやっていた。気の向かない夜もあった。
「あたしが出してもいい?」
「あなたが?」
「あたしが三杯もらったんだから、あたしが配るの」
ルルは、四杯目の半分のことは数えに入れなかった。
俺は杓子を渡した。
*
裏口を開けると、雪の中に、灰色の影が二つ立っていた。
一人はヴェイだった。今夜は夜番で、このあと厩で寝る。椀を一つ、受け取りに来た。
もう一人は、ヴェイの家の子らに持ち帰る小さな鍋を下げた、左の耳の先の欠けた灰色だった。
ルルの耳が、そちらへ向いた。
灰色は何も言わずに鍋を差し出し、スープを受け取って、雪の中を帰っていった。
ヴェイは椀を受け取りながら、ルルの顔を見た。それから俺の顔を見た。何も言わなかった。訊かれていないからだ。
「寒いでしょう」と俺は言った。
「あら、寒いって言ったら、閉める?」
俺は裏口を閉めた。
それから毎晩、裏口のスープはルルの仕事になった。
*
次の夜、睦月四日の夜半すぎ。
客はみんな帰って、俺は一人、カウンターで翌日の豆を水に浸けていた。干した白豆は、一晩水を吸わせないと煮えない。水の中で、豆がときどき、小さく鳴る。
階段が鳴った。
ルルが下りてきた。廊下の奥の小部屋は、いまはルルの部屋になっている。寝間着の上に毛布を巻いて、裸足だった。
ルルはカウンターの端まで来て、頬杖をついた。耳が二本とも、裏口のほうを向いていた。
「マスター」とルルは小声で言った。
「眠れませんか」
「あら、組合長さんは、夜に藁の中で何を数えてるの?」
俺は豆を浸ける手を止めた。
「組合長が、どこにいるんです」
「厩よ。二階。さっき、上がって、いま下りてきたところ」
厩は、中庭の向こうにある。二階は、雑役の亜人たちの寝床だ。そこへ上がるのは狭い階段で、踏むと軋む。
「足音で分かるんですか」
「あの靴、一歩ごとに判を捺すみたいに鳴るでしょう」ルルは首をかしげた。「上がって、奥まで歩いて、しばらく止まって、また下りたわ」
俺の耳には、何も聞こえていなかった。
組合長は、今夜は上町の家へ帰ったはずだった。中庭には、表の通りから厩の脇へ荷車を入れる通用口がある。夜中に来たのなら、そこから入ったのだろう。
ルルは答えを待っていなかった。耳を裏口から戻して、あくびを一つした。
「おやすみなさい、マスター」
階段が、小さく鳴った。
俺は豆の鉢に布をかぶせた。それから、裏口の閂を確かめに行った。
閂は、下りていた。
俺はそれ以上、何もしなかった。厩へは行かなかった。組合長が夜中に何を数えていようと、雇われの酒場番の勘定には入らない。入らないことにした。




