第5章 組合長の勘定
組合長の足音は、扉が開く前から分かる。
師走の二十八日、昼すぎ。表の扉が開くより先に、石畳を踏む靴の音が聞こえた。底の厚い、鋲を打った靴だ。一歩ごとに、石を判で捺すように鳴らす。
グラウヴァル冒険者組合の組合長、バルタザール・グロック。
月に二度、帳場の勘定を見に来る。酒場の売り上げのうち、三割は組合に納める決まりだ。俺は雇われの酒場番だから、雇い主の勘定には逆らえない。逆らわないが、数字は一桁ずつ、自分でも確かめておく。
扉が開いた。腹の出た大柄な男が、雪を払いもせずに入ってきた。指に、大きな印章の指輪。その後ろに、帳面を胸に抱えた痩せた女がついてきた。姪のイゾルデだ。魔法使いだが、魔法を使うところを俺は見たことがない。叔父の帳面をつけるところなら、何度も見た。
バルタザールは帳場の前で立ち止まった。
カウンターの端に、ルルが立っていた。黒い胴着に網の靴下、白い付け襟とカフス。頭の上に白い耳が二本。
バルタザールは、ルルを頭から足まで眺めた。
「何だ、これは」
「給仕です」と俺は言った。「年明けから立たせようと思っています」
バルタザールはルルの頭の上を見た。鼻で笑った。
「安っぽい付け耳だな」
ルルは首をかしげた。白い耳が、片方、組合長のほうへ傾いた。
「あら、組合長さんは、高い付け耳がお好き?」
バルタザールは一瞬、真面目な顔になった。
「高いのは、銀貨で――」
言いかけて、自分が何を言いかけたのか気づいたらしい。咳払いをして、腹を揺すって笑った。
「生意気な娘だ。いい。客は、こういうのを喜ぶ」
組合長は、ルルを客寄せとして勘定した。目を見れば分かる。この男は、人を見るとき、まず値札を探す。値札が見つかると、安心する。
「雇うのは構わん」とバルタザールは言った。「その代わり、年明けから、店の売り上げの組合の取り分は四割だ。給仕が立てば、客が増える。客が増えれば、組合の取り分も増えて当然だろう」
増えた客の分を取るのではない。売り上げ全部の取り分を、三割から四割に上げると言っているのだ。
「分かりました」と俺は言った。
イゾルデが、黙って帳面に書いた。細い、几帳面な字だった。
バルタザールは帳場の数字を見て、二か所に指を置いて文句を言い、一か所は俺が正しかったので黙った。帰りぎわ、もう一度ルルを見た。
「おい、給仕。年明けに、しっかり稼げ」
口上書きの紙は、黒板の横の柱に留めてある。組合長は、それを読んだらしかった。
ルルはにっこり笑って、何も言わなかった。
*
年の瀬の下町は、樽を転がす音がする。
酒屋も油屋も、年が明ける前に樽を入れ替える。空の樽は石畳の上を転がして返し、満ちた樽は荷車で運んでくる。転がる樽は、空っぽなほど大きな音を立てる。満ちた樽は、黙って荷車に揺られている。
二十九日の夜は、そういう音が一日じゅう続いたあとの、少し疲れた夜だった。
客は七、八人。暖炉のそばに荷運びの男たち、窓際に若い剣士が二人。ルルは年明けまで給仕には立たない。今夜はカウンターの中で、杯を拭く手伝いをしていた。客から見れば、カウンターの奥の暗がりに、白い耳の先が二本見えるだけだ。
九つの鐘が鳴った。
表の扉が開いて、痩せた背の高い男が入ってきた。灰色の毛皮の襟の付いた外套。上町の仕立てだ。帽子を取ると、薄い髪を後ろへ撫でつけていた。
男は店の中を一度だけ見回して、奥の席へ行った。
その席には、さっきからバルタザールが座っていた。
男は外套を脱がずに腰を下ろした。俺のほうへ指を一本上げた。
「蒸留酒を一杯」
低い声だった。言葉を一つずつ置くように話した。
俺は杯を運んだ。男は杯を受け取って、卓に置いた。口はつけなかった。その夜、最後まで、一度も口をつけなかった。
バルタザールが小声で言った。「ブラントさん。わざわざ、こんなところまで」
それで分かった。参事会の勘定方、ゲルハルト・ブラント。広場の触れ書きの、最後に名のあった男だ。上町の穀物商だと聞いている。
俺はカウンターの中に戻って、杯を拭いた。
奥の席の声は、俺の耳には届かない。俺の耳は人並みだ。届くのは、バルタザールが笑うときの大きな声と、椅子の脚が床をこする音だけだ。
隣で、ルルが杯を拭いていた。
白い耳が、二本とも、奥の席のほうを向いていた。
*
バルタザールが、懐から革の袋を出した。
封をしてある袋だ。出したまま、すぐには渡さなかった。袋の口を少し開けて、中を覗いた。覗いたまま、指で何かを動かしていた。
ルルが、杯を拭きながら小声で言った。
「金貨が八枚」
俺は手を止めなかった。
「あの組合長さん、数えるとき、ため息をつくのね」
バルタザールは袋の口を閉じて、卓の上をすべらせた。ブラントは袋を見もせずに、外套の内側へしまった。
それから、ブラントが話し始めた。俺には声の低い響きしか聞こえない。ルルが、ときどき杯を置いて、小声で拾った。全部は拾わなかった。拾ったのは、ルルが面白いと思ったところだけらしかった。
「頭数改めの話よ」とルルは言った。「施し米の勘定だ、ですって。数えておけば、使いどころが分かる、って」
「使いどころ」
「声の大きい連中は減らせと言うがな、って」
ブラントは、追い出したいわけではないらしい。数えたいのだ。数えて、どこに何があるかを知りたいのだ。穀物商が、倉の中身を数えるように。
そのとき、バルタザールの声が大きくなった。店じゅうに聞こえる声だった。
「灰色は灰色だ。一匹いなくなっても誰も数えん」
暖炉のそばの荷運びの男たちが、少しのあいだ黙った。それから、また自分たちの話に戻った。荷運びの中には、下の谷の灰狼と並んで荷を担ぐ者もいる。並んで担いで、並んで飲みには来ない。
ルルの白い耳が、二本とも、少しだけ後ろへ寝た。
俺はルルの前に、拭き終わった杯を一つ置いた。ルルはそれを手に取って、もう一度拭いた。拭いているうちに、耳は元の角度に戻った。
*
ブラントが立ち上がった。
外套の襟を直しながら、バルタザールに言った。今度は、俺にも聞こえる声だった。
「春の議では、黙っていてもらう」
「心得ておりますとも」とバルタザールは言った。
バルタザールも立ち上がって、ブラントを戸口まで送った。送りながら、何か話を探すように、冬至の祈りの話を始めた。
「先週の大聖堂の祈りで、上町の奥方が胸につけておられた石をご覧になりましたか。温かいという噂の、紅い石を」
ブラントは答えなかった。
「あれ一つで、参事会の席がいくつ買えるか」とバルタザールは言って、自分で笑った。
ブラントは何も言わずに、帽子をかぶって出ていった。雪の上に、細い靴の跡が残った。蒸留酒の杯は、卓の上で満ちたままだった。
バルタザールは戸口でしばらく立っていた。それから振り返って、俺に向かって顎をしゃくった。
「あの杯は、下げておけ。代金は、組合の帳面につけておけ」
一杯、銅貨十二枚。付けは組合の帳面に、払いは結局、俺の売り上げから出る。
「分かりました」と俺は言った。
*
閉店後、ザザが石取りの盤を出した。
俺は黒い石の壺を引き寄せて、一手目を打つ前に訊いた。
「ザザ。今夜、奥の席にいた細い客を知っていますか」
ザザは白い石を一つつまんで、盤の上で止めた。
「知っている。倉の靴だ」
「倉の靴」
「麦の粉がついている。鼠の糞もついている。谷の者を、夜に安く使う」
ザザはそれ以上言わなかった。訊かれていないからだ。白い石が、盤の隅に置かれた。
谷の者を、夜に安く使う男が、谷の者を数える触れを出した。数えておけば、使いどころが分かる。
俺はその夜、石取りで二度負けた。
ザザが寝床へ帰ったあと、帳場の勘定を一度やり直した。
年明けから組合の取り分は四割になる。給仕が一人立てば、客はどれくらい増えるか。耳のいい給仕なら、客の杯が空く前に気づく。客が何を話しているかにも気づく。どこで誰が、いくら払ったかにも。
給仕一人の値打ちと、組合長の欲の値打ち。
二つを並べて、俺は帳面を閉じた。どちらも、思っていたより高かった。




