第4章 看板の人形
仕立て屋のグレタは、口に待ち針をくわえたまましゃべる。
師走の二十三日、昼。下町の染物屋の並びの、間口の狭い店だ。棚という棚に布の巻きが詰まっていて、奥の作業台の上で、女将が客の上着の裾を詰めていた。五十がらみの太った女で、針を持つ手だけが若い。
「錆び釘亭のマスターじゃないか。珍しいね。上着の肘でも抜けたかい」
「いえ。直してほしいものがありまして」
俺は風呂敷をほどいて、黒い胴着を作業台に置いた。グレタは針を口にくわえたまま、胴着をつまみ上げて、表と裏を一度ずつ見た。
「繻子だね。いい布だ。古いけど」待ち針が、しゃべるたびに上下した。「誰が着るんだい」
「店の看板に立てる、人形の服です」
嘘だ。
俺は組合の者ではないから、嘘をつける。仕立て屋もつける。この街で、誰にも縛られていない人間は、いくらでも嘘をつく。
「人形ねえ」とグレタは言った。
俺は寸法を書いた紙を渡した。ゆうべ、ルルに紐を当てて測ったものだ。胸回り、胴回り、肩の幅、背の丈。
グレタは紙を読んで、待ち針を一本、口から抜いた。
「人形にしちゃ、胴回りが細かいねえ。腕の付け根まで測ってあるよ」
「よく出来た人形です」
グレタは俺の顔を見た。それから紙を見た。もう一度、俺の顔を見た。
「看板の人形に、腕の付け根がいるのかい」
「動かすと、いい客寄せになります」
「動くのかい」
「出来がよければ」
グレタは待ち針を口に戻して、肩をすくめた。訊きたいことは山ほどある顔をしていたが、訊かなかった。この女は、訊かずに勝手に決める。決めたことを、勝手に誰かにしゃべる。それでいい。酒場番が看板に人形を立てる、という話が下町を回るなら、それは悪い噂ではない。
「四日おくれ。直し代は銀貨二枚」
「お願いします」
店を出るとき、グレタの声が追いかけてきた。
「髪の毛は付けるのかい、その人形」
「もう付いています」と俺は言った。
*
翌朝、俺は北門へ行った。
北門のすぐ内側に、街の氷室がある。土手に掘った石積みの穴で、冬のあいだに切り出した氷を、藁と大鋸屑に埋めて夏まで持たせる。錆び釘亭の地下の氷箱の氷も、ここから買う。
氷室の中は、青く暗い。
門の内側なのに、氷室の中だけは、外よりずっと寒い。番をしている爺さんの吐く息が、灯の前で白く固まって、ゆっくりほどけていった。爺さんは耳が遠い。何か言うと、三度に一度は違うことが返ってくる。
「網を、売っていただけませんか」と俺は言った。
「何だって」
「網です。鳥よけの」
氷室の口には、春から秋にかけて、鳥が入らないように細い網を張る。冬のあいだは使わない。爺さんの小屋の梁に、丸めて吊るしてあるのを、俺は前から知っていた。
爺さんは、ようやく分かった顔をした。
「網か。一張り、銅貨三十枚だ」爺さんは梁から網を下ろしながら、俺を見た。「酒場で鳥を飼うのかね」
「ええ」と俺は言った。「よく鳴く鳥を」
爺さんは、ふうん、と言って銅貨を数えた。三十枚を、二度数えた。
*
網は、グレタの店へ持っていった。
「靴下にしてほしいんです」と俺は言った。「この網で」
グレタは網を広げて、目を細めた。
「人形に靴下かい」
「人形にも足はあります」
グレタはもう何も言わなかった。網を作業台に広げて、紙の寸法と見比べて、鋏を入れ始めた。腿の丈、膝、ふくらはぎ、足首。紙には全部書いてあった。
網を縫いながら、グレタがふと手を止めた。
「後ろに、綿玉の飾りも要るかい。兎の格好なら、尻に丸い尾を付けるもんだろう」
「もう付いています」
「人形にかい」
「ええ、人形に」
グレタは待ち針をくわえ直して、何か言いかけて、やめた。網の目が、針の先で一つずつ拾われていった。
*
店では、ルルが付け襟とカフスを作っていた。
亜麻布の端切れを、銀貨一枚で買ってきた。白い布だ。ルルはそれをカウンターの上に広げて、俺の渡した鋏で、迷わずに裁った。
付け襟が一つ。手首に巻くカフスが二つ。
針目が細かかった。俺の上着のほつれを繕うときの、倍は細かい。どこで覚えたのかは訊かなかった。訊けば、ルルは問いで返す。
「上手ですね」
「あら、そう?」
ルルは糸を歯で切った。カフスを片方、自分の手首に巻いてみて、灯にかざした。白い布が、灯の色を吸って少し黄色く見えた。
「これ、なんのため?」
「あると、給仕らしく見えます」
「給仕らしく見えると、どうなるの?」
「誰も、ほかのところを見ません」
ルルは手首のカフスを見て、それから頭の上へ目を上げた。白い耳が、ルルの視線の届かないところで、俺のほうへ傾いていた。
*
二十七日の昼、仮縫いの胴着を受け取りに行った。
グレタは胴着と網の靴下を風呂敷に包みながら言った。
「人形を連れておいで。最後の合わせは、本物でやるもんだ」
「人形は、店を空けられないので」
「店番をするのかい、その人形」
「ええ。よく出来た人形ですから」
グレタは風呂敷の結び目をきつく締めて、俺に押しつけた。
「マスター。あんたの人形、正月が明けたら、あたしにも見せておくれよ」
「店に来ていただければ」
「行くとも」とグレタは言った。「麦酒の一杯くらい、おごっておくれ」
麦酒一杯、銅貨五枚。口の軽い仕立て屋の、口止め料としては安い。口止めはしていないから、口止め料ではないのだが。
*
夕方五つ、客の来る前の刻に、試着をした。
俺はカウンターの外に出て、表の扉のほうを向いて立っていた。背中の後ろで、布の擦れる音がした。網の靴下は、一度穿き損じたらしい。小さく、あら、という声がした。
「マスター、もういいわ」
振り返った。
黒い胴着に、網の靴下。白い付け襟。手首に白いカフスが二つ。胴着の脇は、ちょうど体に沿っていた。腰の後ろの切れ込みから、白い丸い尾がのぞいていた。
髪は、来た翌日の湯で洗って、それきり泥を寄せつけない亜麻色だった。泥が落ちると、髪は思っていたより淡い色をしていた。ルルはそれを、耳の横に長く垂らしていた。
人の耳があるはずのところに、髪が落ちている。その下に耳がないことは、髪をめくらなければ分からない。
そして頭の上には、白い長い耳が二本、まっすぐ立っていた。
俺は黒板の前で、一度だけうなずいた。
あとで誰かに訊かれたら、制服は俺が選んだ、と言うことにした。誰も、それ以上は訊かないだろう。
ちょうどそのとき、ザザが箒を持って階段の下から出てきた。夕方の掃き掃除の刻だ。ザザはルルの前で止まって、足を見た。網の靴下の足を、長いこと見ていた。
「ザザ」と俺は言った。「どう見えますか」
ザザは瞼を下から上へ閉じて、開いた。
「人間には、人間に見える」
訊かれたのは、それだけだった。ザザはそれ以上何も言わずに、床を掃き始めた。ルルの足もとを掃くとき、箒の先は、今度は遠回りしなかった。




