第3章 衣装箱
長持ちは、樟脳の匂いがした。
師走二十一日の夜、十の鐘が鳴ったあとだ。店じまいをした錆び釘亭のカウンターの前の床に、俺はその古い箱を据えた。蓋の上の埃を手で払うと、灯の下に、焼きごてで押した一座の印が出てきた。輪の中に、跳ねる魚が一匹。
二冬前の冬、南の川港ネーベルから、旅芸人の一座がこの街に来た。
綱渡りが一人、笛吹きが一人、口上を述べる太った座長が一人、それに若い女が二人。広場で芸を見せて、夜は錆び釘亭で飲んだ。十日いて、十日分のツケが銀貨十八枚になった。
出ていく朝、座長はこの長持ちを置いていった。
「春に払いに来る。それまで、こいつを預けておく。一座の宝だ」
春は二度来た。座長は一度も来なかった。
一座の宝は、階段の下の物置の、帳簿箱の奥で、二冬ずっと蜘蛛の巣をかぶっていた。銀貨十八枚の宝だ。
*
蓋を開けた。
いちばん上に、道化の帽子が入っていた。赤と黄色の布を縫い合わせた三角の帽子で、先に真鍮の鈴が三つ付いている。持ち上げて振ると、二つ鳴って、一つ鳴らなかった。鳴らない鈴は、中の玉がどこかへ行ってしまったらしい。俺はもう一度振った。やはり二つだった。
木の短剣が一本。刃のところに銀の色を塗ってあって、半分剥げている。
その下に、黒い布が畳んであった。
広げると、胴着だった。黒い繻子で、襟ぐりは浅く、胸もとに飾りの紐が通してある。袖はない。腰の後ろに、なぜか小さな切れ込みが一つ入っていた。
胴着の下から、灰色のものが二本、出てきた。
付け耳だった。兎の耳だ。針金を芯にして、灰色の毛皮を巻いてある。毛はところどころはげていて、虫に食われた穴が三つ四つあった。根もとに、頭に留めるための細い革紐が付いている。
最後に、紙が一枚。
色のあせた赤い字で、こう書いてあった。
『南国渡りの兎娘 バニー お酌いたします』
*
俺はしばらく、その紙を見ていた。
ネーベルの川岸に、板張りの小屋が並んでいる一角がある。見世物小屋だ。火を吹く男、首の長い女、言葉をしゃべる鴉。その中に一軒、酒を出す小屋があった。
若いころ、隊商の護衛でネーベルまで行ったことがある。初めての川港だった。荷を船に積み替えるまでの三日、俺たちは川岸で暇をつぶした。
その小屋では、兎の付け耳をつけた娘たちが、黒い胴着で酒を注いで回っていた。南の国から来た兎の娘たち、という触れ込みだった。もちろん、みんな人間の娘だ。付け耳は、娘が笑っても泣いても同じ角度で立っていた。
客は、耳を見ていなかった。
客が見ていたのは、耳ではないところだ。どこかは言わない。言わなくても分かるだろう。
一度目は、仕事だった。護衛の頭に連れていかれた。
二度目からは、仕事ではなかった。
それだけのことだ。三十年近く前の話で、娘たちの顔はもう一人も覚えていない。覚えているのは、耳が一度も動かなかったことと、小屋の床が川の水で湿っていたことくらいだ。
あの一座が、どうしてこの衣装を持っていたのかは知らない。ネーベルから来た一座だ。どこかで、あの小屋と縁があったのだろう。
*
十一の鐘の少し前に、階段の下からザザが出てきた。
暇な夜に、俺とザザは石取りを打つ。白と黒の石で、盤の上の陣地を囲む遊びだ。ザザは強い。俺は負け続けている。負け続けているのに打つのは、ほかにすることがないからだ。
ザザは盤を出しかけて、床の長持ちと、その前にしゃがんでいる娘を見た。
ルルは昼に寝すぎて、夜になって目が冴えたらしい。二階から下りてきて、俺が箱を開けるのを、さっきから横で見ていた。白い耳が二本、蓋が開くたびに、中のものが鳴るたびに、そちらへ動いていた。
ルルは灰色の付け耳を手に取った。
ひっくり返して、虫食いの穴に指を入れてみた。それから、俺の顔を見た。
「これ、なに?」
「付け耳です」
「付け耳」ルルは灰色の耳と、自分の頭の上を、交互に見た。「人間は、こういうのを付けるの?」
「付ける人間もいます」
ルルは面白がった。革紐を頭に回して、灰色の耳を、自分の白い耳の前に立てて留めた。
耳が四本になった。
白い耳が二本、灰色の耳が二本。白いほうは本物で、灰色のほうは針金だ。白い耳は、灯のはぜる音のほうへ動いた。灰色の耳は、まっすぐ天井を指したまま、ぴくりとも動かなかった。動かない二本の後ろで、動く二本がそれを不思議そうに避けていた。
ザザは石取りの盤を抱えたまま、四本の耳を見た。
「耳が四本ある」
ルルはザザのほうへ首をかしげた。四本の耳が、一緒に傾いた。
「あら、ザザさんは耳が四本の娘は嫌い?」
ザザは、下から上へ瞼を閉じて、開いた。
「嫌いではない。多い」
俺は笑わなかった。
*
ルルが灰色の耳を外すのを待って、俺は口上書きの紙を拾い上げた。
黒板の横の柱に、釘で一本、留めた。黒板には今日の酒と値段が書いてある。その横に、色のあせた赤い字が並んだ。南国渡りの兎娘、バニー、お酌いたします。
ルルがそれを見上げた。
「バニー?」
「南の国の言葉だそうです。兎のことでしょう」
「あたし、南から来たんじゃないわ」
「知っています」
「どこから来たか、知ってるの?」
「知りません。ただ、南ではないことは知っています」
ルルは少し考えて、耳を片方、俺のほうへ傾けた。
「あら、どうして?」
「南から来た人は、雪の夜道を、あんな足では歩きません」
ルルは自分の布の靴を見下ろした。何も言わなかった。
俺は床の長持ちと、黒い胴着と、灰色の付け耳を見た。それから、ルルの頭の上の、白い耳を見た。
灰色の付け耳は動かない。白い耳は動く。人間が見れば、どちらが付け耳に見えるか。
人間は、兎人が城壁の中にいるとは思っていない。いた話を、聞いたことがない。黒い胴着を着て、酒場で杯を運んでいる娘の頭の上に、兎の耳が立っていたら、人間はそれを何だと思うか。
見世物の、付け耳だと思う。
ネーベルの小屋の客たちと同じだ。誰も、耳を見ない。
「ルル」と俺は言った。「付け耳はやめましょう」
ルルは灰色の耳を、長持ちの中へそっと戻した。
「付けないの?」
「付けません。あなたの耳を、付け耳だということにします」
ルルは自分の頭の上へ、両手を伸ばした。白い耳に触った。それから俺を見た。
「あら。この耳、付け耳だったの?」
「明日からです」
ザザが、石取りの盤を卓に置いた。黒い石の入った壺を、俺のほうへ押してよこした。打つのか、と訊いているのではない。打つ、と言っているのだ。
その夜、俺は石取りで三度負けた。三度目は、盤の半分を取られた。考えごとをしながら打つと、ザザの石はいつもより遠慮がない。
*
胴着は、ルルには大きすぎた。
ネーベルの小屋の娘たちは、もっと肉づきがよかったのだろう。ルルが胴着を体に当ててみると、脇が手のひら一枚分余った。
直すには、仕立て屋が要る。
下町で、口の堅い仕立て屋は一軒しかない。口の軽い仕立て屋なら、いくらでもある。
口の堅いほうは、仕事を受ける前に、何に使うのかを訊く。訊いて、黙っていてくれる。黙っていてくれるが、訊く。
口の軽いほうは、何も訊かない。訊かずに、勝手に決めて、勝手にしゃべる。
俺は、口の軽いほうを選んだ。




