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第2章 触れ書き

朝六つの鐘で、城門が開く。


鐘の六打目が消えるころ、階段の下の暗がりからザザが出てきた。組合の掃除番で、年寄りの蜥蜴人だ。乾いた鱗の手で箒を抱いて、寒い朝は動きが遅い。今朝は雪の朝で、いつもよりさらに遅かった。


ザザは箒を床に下ろしかけて、止まった。


カウンターの丸椅子で、毛布をかぶった娘が眠っていた。夜のうちに一度も起きなかった。泥の髪が乾いて、ところどころ白く粉を吹いていた。白い耳は二本とも、半分起きたまま、片方が暖炉のほう、片方が表の扉のほうを向いていた。


ザザは娘の顔を見なかった。足を見た。


布を巻いた足を、長いこと見ていた。ザザは人を顔ではなく、足で覚える。熱も見えるという。人の体の温かいところが、明るく見えるのだそうだ。俺には見えないから、本当かどうかは知らない。ただ、ザザの言うことが外れたのを、俺は見たことがない。


ザザは嘘をつけない。


亜人はみんなそうだ。月影の戒めというものに縛られていて、本当でないことを口にできない。


俺は娘の耳を見て、もう分かっていた。分かっていたが、訊いた。


「ザザ。人間か」


ザザは、下から上へ瞼を閉じて、開いた。


「違う。跳ねる足だ」


それで十分だった。


*


娘は、湯の沸く音で目を覚ました。


最初に動いたのは耳だった。白い耳が二本、湯の鍋のほうへそろって向いた。それから目が開いて、毛布がずり落ちて、娘は自分がどこにいるのかを、ゆっくり思い出す顔をした。


「おはようございます」と俺は言った。


「……おはよう」


「名前を訊いてもいいですか」


「ルル」と娘は言った。


ザザは床を掃いていた。娘の足もとを掃くとき、箒の先だけ少し遠回りした。


俺は茶を淹れて出した。ルルは両手で杯を包んで、湯気に鼻を突っこんだ。


「ゆうべのスープですが」と俺は言った。「いつもは賄いでも、もう少し肉っ気があるんです。ゆうべは野菜ばかりで、すみません」


ルルは杯から顔を上げた。


「あら、美味しかったわよ。お豆と野菜のスープ」


それから、鍋のほうへ耳を片方向けた。鍋は暖炉の脇で冷えていた。中にはまだ、四杯目の残りと、もう二杯分くらいが入っている。


「さて」と俺は言った。「このあと、行くところはあるんですか」


ルルは、また杯から顔を上げた。


首をかしげた。耳が片方、俺のほうへ傾いた。


「あら? マスターは、あたしに行くところがあってほしいの?」


俺は返事に困った。


困っているうちに、ルルはまた茶を飲んだ。マスター、と呼ばれた。どこで聞いたのか、と思ったが、訊かなかった。この娘の耳は、俺の知らないうちに、俺の知らない音まで拾っているらしかった。


俺は別の訊き方をした。


「あなたは、人間ですか」


「あら、人間に見える?」


「どこから来たんです」


「あら、どこから来たように見える?」


ルルはにこにこしていた。からかっているのではなかった。それしか言えないのだ、と俺には分かった。嘘をつけない者は、訊かれたくないことを訊かれたとき、黙るか、はぐらかすか、問いで返す。この娘は、問いで返すほうを選ぶ。黙るより、ずっと感じがいい。


「分かりました」と俺は言った。「訊くのはやめておきます」


「あら、もう?」


耳が、少し笑った。


*


昼前、裏口が叩かれた。


ルルはそのとき、二階の空き部屋で眠り直していた。廊下の奥の小部屋が二つあって、一つが俺の寝床、もう一つは物置代わりになっていた。毛布ごと娘を抱えて上げるのに、階段の途中で一度休んだ。豆のスープ三杯半分の重さだった。


裏口の外には、鶉の卵の籠を抱えた少年が立っていた。


トマスという。十五だ。頬にまだ産毛がある。母親が下町の外れで鶉小屋をやっていて、一日おきに二十四個、卵を届けてくれる。俺はそれを赤蕪の汁で漬けて、一個銅貨二枚で売る。カウンターの端の、赤い卵の瓶だ。


「マスター、今日も二十四っす」


「ありがとうございます」


籠を受け取って、卵を数えた。二十四あった。トマスはその場を動かなかった。届けた日には、俺から卵を一つもらうのが、この少年の楽しみなのだ。親父は治安維持隊の人だった、と前に一度だけ聞いた。それ以上は聞いていない。


「広場に、触れが出てたっす」とトマスは言った。


「触れ」


「参事会の。でっかい紙っす」


それで終わった。トマスは裏口に立ったまま、俺を見ていた。


俺は瓶から漬けた卵を一つ出して、渡した。


トマスは卵を一口でかじって、続けた。「亜人の、頭数を改めるって」


それで終わった。卵の残り半分を、トマスは大事そうに噛んでいた。


俺はもう一つ出した。


「睦月の十日っす。赤いのが七つあったっす。封蝋が。参事さまの」


それで全部らしかった。トマスは二つ目の卵を食べ終わって、指を舐めて、空の籠を受け取って帰っていった。


卵二つで、触れ書き一枚。安いのか高いのか、よく分からない。


*


中央広場まで、早足で四半刻もかからない。


広場の掲示板の前には、人だかりができていた。雪かきをした石畳の端に、焼き栗の屋台が出ていて、甘い煙が人だかりの上を流れていた。栗売りの婆さんは触れには目もくれず、炭を団扇であおいでいた。


触れは、厚い紙に、参事会の書記局のきちんとした字で書いてあった。


『市参事会より触れる。

 一、睦月十日、城内に住まう亜人の頭数を改める。冬の施し米の勘定のためである。

 一、改め役は戸口ごとに人を並べ、名と生まれを訊く。

 一、下の谷の名簿にも、いずれの組合の登録簿にも名のない亜人は、翌朝六つ、北門より城外へ出すこと。

 一、亜人を匿う者は、施し米の割り当てを解く。

  灰壁暦三〇九年 師走二十日 参事会勘定方 ゲルハルト・ブラント』


下に、赤い封蝋が七つ並んでいた。参事会の参事は十二人だと聞いている。七つということは、五人は判を捺さなかったのだろう。


人だかりの声が、勝手に耳に入ってきた。


「やっと掃除か」


「谷は疫病の巣だって、衛生方が触れ回ってるからな」


「上町の旧家が、谷の土地を欲しがってるって話だぜ」


「隊の偉いさんは、人手が足りねえのは灰色のせいだとさ」


「施し米が減らなきゃいいがな。うちは子が四人だ」


誰も、亜人のために何かを言ってはいなかった。言っていたのは、それぞれの財布の話だった。


俺はもう一度、三つ目の条を読んだ。


下の谷の名簿にも、いずれの組合の登録簿にも名のない亜人。


翌朝六つ、北門。


北門は、追放の門だ。出ていった亜人が戻ってきた話を、俺は聞いたことがない。


*


店に戻って、俺は帳場で勘定をした。


道は三つあった。


一つ目は、下の谷へ連れていくことだ。谷は城壁の内側の窪地で、亜人たちが住んでいる。長老会というものがあって、谷の者の名簿を持っている。そこに名を入れてもらえば、北門へは行かずに済む。


午後、起きてきたルルにそれを話すと、ルルは椀の豆を匙で数えながら言った。


「谷のひとたちは、訊くでしょう? どこから来たのって」


それだけだった。訊かれたら、この娘は答えるか、黙るかしかない。問いで返して笑ってくれるのは、人間の酒場番くらいのものだろう。長老たちは、たぶん笑わない。


二つ目は、組合の雑役として登録することだ。亜人の荷運びや掃除番は、組合の登録簿の後ろのほうに名を書かれている。ザザもそうだ。登録簿に名があれば、改めは通る。


ただし、組合長のバルタザールが首を縦に振らない。雑役は足りとる、と言うに決まっている。言わなくても分かる。兎に払う金はない、とも言うだろう。それに、兎人の雑役の手間賃は、荷運びの半分だ。厩の二階の藁で寝て、半分の手間賃で働く。


三つ目は――。


俺は帳場の数字を見た。この冬の酒場の売り上げは、去年より少し悪い。給仕がいない店は、客の杯が空いても気づくのが遅い。


ルルは、カウンターの端で、表の通りの足音に耳を向けていた。扉はまだ開いていない。開く前に、もう誰が来るか分かっているような向け方だった。


三つ目の勘定は、そのときはまだ、紙に書かなかった。


*


夜、ヴェイが夜番に来た。


灰狼族の若い男で、首の下に白い毛の房がある。下の谷に女房と小さな子が二人いて、夜番の夜だけ、厩の二階で寝る。


ヴェイは店に入るなり、鼻を少し上げた。二階のほうを見た。何も言わなかった。訊かれていないからだ。


「ヴェイ」と俺は言った。「二階に客がいます。どう思いますか」


「服の上から、兎の匂いがする」とヴェイは言った。「僕は、それしか分からない」


井戸の手入れを終えて上がってきたドゥンにも、同じことを訊いた。土竜人で、目が弱い。床の震えで人を知る。


ドゥンは床に掌を当てて、しばらく黙っていた。二階でルルが寝返りを打ったらしかった。


「軽い。跳ぶ」


谷の者には、隠しようがないということだ。


閉店後、俺は階段の下の物置に入った。ザザの箒と古い帳簿箱の奥、蜘蛛の巣の向こうに、埃をかぶった長持ちが一つある。二冬、誰も開けていない。


俺はそれを、暗がりから引きずり出した。


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