第1章 豆のスープ
本作はシリーズものです。第一作「夜啼きの涙」からお読みいただけますとよりいっそうお楽しみいただけます。
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雪の夜は、店じまいが早い。
灰壁暦三〇九年、師走の二十日。十の鐘が鳴って半刻ほどたったころには、錆び釘亭の客はみんな帰っていた。最後の一人は荷運びの男で、ツケを銅貨三枚分だけ減らして、残りは春に払うと言って出ていった。春というのは、便利な季節だ。
俺は一人で、椅子を卓の上に上げていった。
この建物は、グラウヴァルの冒険者組合だ。一階が酒場の錆び釘亭で、俺はそこで酒を注いでいる。組合の者ではない。組合に雇われた酒場番だ。名前はあるが、誰も呼ばない。みんな「マスター」と呼ぶ。
給仕はいない。注ぐのも、運ぶのも、拭くのも、帳場をつけるのも、俺一人だ。手が二本あれば、店は回る。回らない夜は、客のほうが勝手に手を出す。
灯を一つずつ落としていく。暖炉に近いものから遠いものへ。最後の一つは、カウンターの上に残す。樽の栓を一つずつ指で確かめる。緩んでいる栓は、夜のうちに酒を逃がす。酒が逃げると、帳場の数字も逃げる。
暖炉の鍋には、豆のスープが残っていた。
干した白豆を一晩水に浸けて、朝から塩漬けの豚の脂身と玉葱で煮る。客に出すものではない。俺の賄いだ。冬はこれを三日食べる。四日目には、豆が鍋の底で何かを諦めた味になる。
今日の鍋には、脂身が入っていなかった。
朝から雪で、広場の肉屋が戸を閉めていた。食料庫の塩漬けの肉は、残りが少ない。少ないものは、客の煮込みに回す。客は銅貨を払う。賄いは払わない。だから今朝の豆は、食料庫の奥に転がっていた芋と蕪と人参を刻んで、一緒に煮た。肉っ気のない豆は、どこか遠慮がちな味がする。それでも、腹はふくれる。
*
雪は、表の通りの音を消す。
昼間なら荷車の轍の音や、向かいのパン屋が戸を叩く音が聞こえる。雪の夜は、それが全部、綿にくるまれたように遠くなる。パン屋の煙突から上がる煙だけが、窓の向こうでまっすぐ立っていた。風もない。積もる夜だ。
最後の椅子を上げようとしたとき、表の扉が細く開いた。
閂は、まだ下ろしていなかった。
開いた隙間から雪が一筋入ってきて、そのあとに、人が入ってきた。
娘だった。
一人。手に何も持っていない。荷もない。灰色の古い肩掛けを体に巻いていて、裾が濡れて重そうだった。足には布の靴を履いていた。靴というより、布を足に巻いて紐で縛ったものだ。爪先が擦り切れて、指が二本のぞいていた。
髪が、泥で固まっていた。
もとの色は分からない。雪の夜道を、泥の撥ねる道を、どれだけ歩いたらああなるのか。固まった髪の上に、白くて長いものが二本、後ろへ寝ていた。
耳だった。
兎の耳だ。根もとから頭の後ろへぺたりと倒れて、泥をかぶった髪にほとんど埋もれている。白い毛が、灯の届くところだけ、うっすら光っていた。
部屋に入ると、人数と出口を数える。昔の仕事の癖だ。
客はいない。俺が一人。出口は表の扉と、裏口と、二階への階段。娘の後ろに誰もついてきていないことを、扉の隙間で確かめた。足跡は一筋だけだった。
娘のほうは、何も数えなかった。
暖炉だけを見ていた。扉を閉めることも忘れて、火のほうへ三歩歩いて、止まった。
そのとき、腹の虫が鳴いた。
静かな酒場に、それはよく響いた。俺は椅子を上げる手を止めた。娘は腹を押さえもしなかった。押さえる元気が、もうないようだった。
俺は扉を閉めて、閂を下ろした。
「閉店です」と俺は言った。
娘はこちらを見た。目が、ほとんど開いていなかった。
「……何か、食べるものを」
声は細かった。かすれていた。
「お代は」
娘は肩掛けの中を探るような動きをしかけて、やめた。探しても何もないことを、本人がいちばんよく知っているらしかった。
俺はカウンターの中へ回った。
*
鍋を火の上に戻して、杓子で底からかき回した。朝に煮た豆は、夜に温め直すと少しだけ機嫌を直す。
娘はカウンターの前に立っていた。座れと言ったが、座らなかった。座ったら立てなくなると思っているのかもしれない。両手をカウンターに置くこともしなかった。肩掛けの端を握って、ただ立っていた。
木の椀によそって、匙を添えて出した。
一杯目、娘は何も言わなかった。
匙を持つ手が震えていた。豆をすくって、口に運んで、飲み込む。それを、ほとんど息もつかずに繰り返した。熱いはずだが、熱がる様子もなかった。椀の底が見えるまで、俺は一度も娘の顔を見なかった。見ていたのは、耳だった。
頭の後ろへ寝ていた白い耳が、少しだけ、浮いた。
根もとが、指一本分くらい。
空の椀を、娘は黙ってカウンターに置いた。俺は黙って二杯目をよそった。
二杯目の半分で、娘は小さく言った。
「あら、おいしい」
耳が、もう少し起きた。泥の髪の中から、白い毛が離れた。
二杯目と三杯目のあいだに、娘は鍋を見た。鍋の中の残りを、目で数えているのが分かった。あと何杯あるのか。自分が何杯までもらってよいのか。
俺は鍋を少し傾けて、中を見せてやった。
娘の目が、少しだけ開いた。
三杯目は、ゆっくり飲んだ。一杯目と二杯目は腹のために飲んで、三杯目でようやく、口のために飲んでいる顔になった。泥で汚れた頬に、少し色が戻った。耳は、もう半分以上起きていた。左の一本が、暖炉で薪がはぜるたびに、ぴくりとそちらへ動いた。
四杯目をよそった。
娘はそこでようやく、カウンターの前の丸椅子に腰を下ろした。椀を受け取って、匙を入れて、一口飲んだ。二口目を飲んだ。三口目のために匙を持ち上げて、そこで止まった。
匙を持ったまま、カウンターに突っ伏して眠った。
椀は倒れなかった。匙だけが、指から外れて、椀の縁でかちりと鳴った。
*
俺は少しのあいだ、眠っている娘を見ていた。
肩掛けの下で、背中がゆっくり上下していた。泥の髪から、溶けた雪の水が一滴、カウンターに落ちた。
店の奥の棚から毛布を一枚出してきて、肩に掛けた。娘は動かなかった。四杯目の椀を、手の届かないところへずらした。残りは明日の朝、温め直せばいい。二日目の豆は、それほど悪くない。
暖炉に薪を二本足した。
外では、雪がまだ降っていた。パン屋の煙はいつのまにか止んでいた。通りには、さっきの足跡がもう半分ほど埋まっているだろう。朝には、この娘がどこから来たのか、雪の上には何も残っていない。
俺は最後の椅子を上げた。カウンターの上の灯は、消さずにおいた。
新しい薪が、ぱちんとはぜた。
眠っている娘の耳が、その音のほうを向いた。
右の一本だけが、ゆっくりと立ち上がって、暖炉のほうへ傾いた。持ち主は眠ったままだった。耳だけが起きていて、火の音を聞いていた。
この街の城壁の中で、兎人を見たのは初めてだった。




