90. アルマ宮編(35) 泉
※主な登場人物は、作品あらすじ欄にまとめています。
「ああ、これだよ。ペルラに見せたかった絵」
ジュニパーが足を止めた。
そこには、天井近くからほぼ床まで達する、一際大きな絵が掛けられていた。
「わあ、大きい絵! 泉ですね。お花もいっぱい……きれい……」
ペルラは絵を見上げた。
「そうだね」
ジュニパーは嬉しそうに笑った。
「さあ、真ん中に立って見てみて」
ジュニパーがペルラの手を取り、絵の正面へ連れていく。
「ここが一番よく見えるよ」
ジュニパーは後ろに立つと、ペルラの両肩に手を置いた。
「本当ですね、よく見えます」
そのときだった。
「危ない!」
突然、声が響き、一人の男がこちらへ駆け寄ってきた。
ジュニパーの笑みが一瞬で消えた。
すぐにペルラを自分の背後へ隠す。
同時に、柱の陰や扉のそばから護衛たちが姿を現した。
数人が二人を守るように動き、男を取り囲む。
その手は剣の柄にかかっていた。
「名を名乗れ! ここで何をしていた?」
ジュニパーの声が廊下に響いた。
男は答えなかった。
ペルラは男に見覚えがあった。
「カシュー様、ですよね?」
ペルラがジュニパーの背後から言った。
「……東部統監兼、東部方面司令官ソルト伯爵の長男、カシューと申します。ご挨拶が遅れまして、申し訳ございません」
護衛の一人が促し、カシューはその場に跪いた。
「ああ、ソルト伯爵の……」
ジュニパーはペルラに視線を移して、微笑んだ。
「カシューと知り合いなの?」
「あの……兄の友人です」
「ああ、ベルデのね」
ジュニパーは納得したように頷いた。
「ペルラ、おいで」
ペルラの手を取ると、自分のそばへ引き寄せ、そのまま壁際へ移動する。
それから、跪いたままのカシューを見た。
「カシュー、お前ここで何してた?」
「父と祝賀会へ参りました。アルマ宮は広く……道に迷いました」
「ふうん? 大広間からだいぶ遠いよ?」
「申し訳ございません」
「それにペルラのことを突き飛ばそうとしたよね?」
「……申し訳ございません……」
気になったペルラは、ジュニパーにそっと声をかけた。
「あの……ジュニパー様……」
「何? ペルラ」
ジュニパーはすぐににこやかに応えた。
「あの……先ほどカシュー様が『危ない』と……何が危なかったのでしょう?」
「ペルラ、知りたいよねえ?」
「はい……」
「僕も知りたい。
カシュー、何がどう危ないの?」
カシューは答えなかった。
「……言えない?」
ジュニパーの表情がスッと変わった。
「言えないよな?
ここに何があるのか知っているのは、護衛の一部か……旧アルマンディンの人間だ!」
よく通る声が響いた。
カシューは青白い顔で、唇を固く結んだままだった。
ジュニパーは、ふとペルラへ顔を向け、楽しそうに言った。
「ペルラ。あいつのこと、助けたい?」
「助ける……?」
ペルラはジュニパーを見上げた後、目を伏せた。
――どうしよう。
ジュニパー様の言っている意味が、さっきから全然わからない。
ジュニパー様は、カシュー様にだいぶ怒っているように見えた。
罰を与えるつもりなのかもしれない。
「あいつはベルデの友達なんでしょう? 友達――」
そのとき、カシューが初めて強く声を上げた。
「ベルデ様は私とは関係ありません!」
ジュニパーがそちらを見る。
「うるさいなあ。黙って? お前に聞いてないよ」
ペルラは思わず体を強張らせた。
怖い声だった。
――こんなジュニパー様、見たことない。
今、隣にいるのはアルマンディン駐留軍の総司令官でもある王子だ。
ジュニパーの礼装を飾る勲章がいくつも服越しに当たり、硬い縁と冷たい金属の感触が伝わってきた。
ジュニパーはペルラを抱いたまま、微笑んで、もう一度尋ねた。
「あいつの命を助けたい?」
「命??」
ペルラは目を見開いた。
――カシュー様は、殺されてしまうの?
「ペルラが望むなら、あいつの命を助けよう」
「私が……?」
自分が答えなければいけない。
そう思った途端、息がうまく吸えなくなった。
何をどう考えればいいの?
わからない、苦しい。
――でも、きちんとお返事しないと……。
「ペルラ、かわいいね」
ジュニパーは笑うと少し屈み、ペルラの胸に顔をうずめた。
そして、耳元でささやいた。
「助けてほしかったら、『助けてください』って言って?」
「助けてください……」
ペルラは微かに震える声で言った。
「なんか足りないよ?」
ジュニパーは顔を離すと、ペルラの顔をイタズラっぽく覗き込んだ。
ペルラは掠れる声で、言葉を絞り出した。
「助けてください、ジュニパー様……」
涙が流れた。
「よく言えました。ペルラの望む通りにしようね」
ジュニパーはいつものように優しく微笑んだ。
そしてハンカチを取り出し、ペルラの頬を伝った涙をそっと拭った。
「あんな奴のために泣くなんて、ペルラは本当に優し過ぎるね」
それから、ペルラを抱くと、カシューへ向き直った。
鋭い声が響いた。
「立て! お前の番だぞ!」
カシューが力なく立ち上がった。
「お前の命を助けてやる! 二度とプリズマから這い出てくるな!」
ジュニパーは床の一点を指さした。
「お前が本当にカシュー・ソルトなら、あそこに立て!」
少し前にジュニパーに手を引かれて、ペルラが立っていた場所だった。
カシューは大きな泉の絵の正面へ歩いていった。
そして立ち止まり、静かに目を閉じた。
突然、ジュニパーが床の模様のタイルを、いくつか素早く強く踏んだ。
次の瞬間。
石の擦れる低い音とともに、床が大きく開いた。
カシューの姿が消えた。
直後に、床は軋みながら元へ戻った。
「あ……」
ペルラはジュニパーの腕の中で意識を失った。




