第34話「倒すつもりじゃなかった」
逃げ道がないわけじゃない。
左へ曲がれば、俺一人なら逃げられる。
リディアも走れる。
でも。
その先に魔物を連れていくことになる。
診療所の入口では、怪我人を中へ戻そうとしている。
時間がいる。
ほんの少し。
「リディア」
「はい」
「診療所の人を中へ」
「ツカサさんは?」
「あとから行きます」
「それ、信用していいやつですか?」
「俺もそうしたいです」
声が少し上ずった。
格好をつけられるほど余裕はない。
リディアは一瞬だけ俺を見る。
「分かりました」
診療所へ走る。
俺は杖を両手で持つ。
魔物を見る。
勝つ必要はない。
前へ出る必要もない。
相手との間に杖を置く。
来る。
速い。
身体が逃げようとする。
足が勝手に後ろへ行きたがる。
それでいい。
一歩下がる。
杖へ衝撃。
腕が痺れる。
押さない。
横へずらす。
魔物の身体が少し流れた。
下がる。
「中へ!」
背後でリディアの声。
まだ。
あと少し。
魔物がもう一度来る。
今度は杖の横を抜けようとする。
「っ!」
慌てて戻しそうになる。
違う。
下がる。
魔物が勢いのまま前へ出る。
道の端。
荷車を寄せたことで、通路が少し狭くなっている。
魔物が身体をひねった。
柵へぶつかる。
鈍い音。
動きが止まった。
今だ。
逃げる。
そう思った。
「ツカサさん!」
リディアの声。
見る。
診療所の扉がまだ閉じていない。
怪我人の足が引っかかっている。
魔物が立つ。
また、そっちを見る。
胸の奥が縮む。
「……こっちだ」
声が震えた。
杖で地面を叩く。
魔物の顔がこちらへ向く。
成功した。
嬉しくない。
むしろ、こっちを見たことが怖い。
来る。
杖を前へ。
一度。
ぶつかる。
下がる。
また来る。
もう一度。
今度は杖の先が魔物の顔へ当たった。
鳴き声。
俺も驚く。
魔物がよろける。
逃げろ。
頭ではそう言っている。
でも、魔物はまた立つ。
診療所を見る。
まだ扉が閉じていない。
俺は杖を握る。
「来るな」
通じるはずがない。
魔物が走る。
横へずれる。
杖を出す。
勢いを変える。
魔物がまた柵へぶつかった。
今度は倒れる。
起き上がろうとする。
今なら逃げられる。
そう思ったのに。
魔物の足が動いた。
また立つ。
また診療所へ向かうかもしれない。
気づいたときには、杖を振り下ろしていた。
一度。
魔物が鳴く。
二度。
まだ動く。
三度。
止めたら、また立つ。
それが怖かった。
「ツカサさん!」
声が聞こえる。
それでも手を止められなかった。
「もう大丈夫です!」
リディアの声だった。
杖を上げたまま止まる。
魔物は動いていない。
息ができない。
いや。
している。
速すぎて、自分で分からないだけだ。
肩。
腕。
手。
全部震えていた。
魔物は動かない。
でも、それが何を意味するのか、俺には分からなかった。
「離れてください」
リディアが言う。
「でも」
「確認できる人を呼びます」
その言葉で、ようやく杖を下ろした。
◇
狩りに慣れているという村の男が、倒れた魔物を確認した。
「死んでる」
その一言を聞いても、達成感はなかった。
ただ、力が抜けた。
膝まで一緒に緩みそうになる。
「ツカサさん」
リディアが腕をつかむ。
思っていたより、ずっと強い力だった。
「怪我は?」
「ないと思います」
「思います?」
「今、よく分からないです」
「じゃあ診療所」
「怪我人じゃないですよ」
「確認してもらいます」
「はい」
反論する気力もなかった。
◇
診療所で腕や肩を見てもらった。
大きな怪我はない。
手の皮が少し擦れているだけだった。
それを聞いて、ようやく少し息が落ち着いた。
外ではまだ騒ぎが続いている。
だが、少しずつ静かになってきていた。
しばらくして。
「ツカサさん」
聞き慣れた声がした。
カレンが入口に立っている。
その後ろにハンスもいた。
「戻ったんですね」
「はい」
「森は?」
「今日、痕跡を追って確認した大型の魔物は、森の奥へ追い戻しました」
カレンが答えた。
「倒してはいない?」
「今回は追跡を止めました。村から十分離れたところまで移動したので、あとはギルドへ報告して対応を決めます」
「小さい魔物は?」
「動きは減ってる」
ハンスが答える。
「ただ、これで収まったと決めるには早い。しばらく警戒は必要だ」
「分かりました」
カレンが俺の手を見る。
「それで」
「はい?」
「一匹倒したと聞きました」
「……誰からですか?」
「村に入って最初に聞きました」
早い。
「倒すつもりはなかったんです」
「そうですか」
「時間を作ろうとして」
「はい」
「逃げようともしたんですけど」
「はい」
「診療所に人がいて」
「はい」
カレンが全部聞く。
最後まで。
「それで、倒しました」
「分かりました」
「もっと何かないんですか?」
「何を言えばいいですか?」
「いや……」
自分でも分からない。
すごい、と言われたいわけじゃない。
よくやった、と言われたいわけでもない。
でも何か。
何か言ってほしかったらしい。
ハンスが横から口を挟む。
「生きてるならいい」
「またそれですか」
「他に何がある」
「……そうですね」
俺は手を見る。
まだ少し震えている。
魔物を倒した。
初めて。
なのに、できることが増えたような気はしなかった。
むしろ、もう一度やれと言われても困る。
『ツカサ』
ノアが呼んだ。
――何?
『記録しますか?』
少し考える。
今日のこと。
魔物の動き。
村の対応。
荷車。
診療所。
カレンたちの調査。
記録することはいくらでもある。
――する。
『分類基準を指定してください』
俺は少しだけ笑った。
こんなときでも、ノアはノアだ。
――あとで決める。今は全部残して。
『承知しました』
診療所の外から、人の声が聞こえる。
誰かが荷車を戻せと言っている。
家畜の数を確認している声。
壊れた柵をどうするか相談する声。
俺は椅子から立ち上がった。
「どこへ行くんです?」
リディアが聞く。
「何か手伝えることがあるかと思って」
「診療所から出ていいって言われました?」
「まだです」
「座っててください」
その夜は、診療所の空いている寝台を借りて休むことになった。
「はい」
すぐ座った。
リディアが笑う。
その顔を見て、ようやく少しだけ気が抜けた。
カレンも口元を緩める。
ハンスは笑わなかった。
「それでいい」
そう言った。
今日はもう、それでいい気がした。
お読みいただき、ありがとうございます。
次回は、第35話「帰る場所」です。
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