第35話「帰る場所」
翌朝。
目を覚ましたとき、最初に聞こえたのは金槌の音だった。
一定の間隔で、乾いた音が響いている。
何の音だろうと思いながら身体を起こして、すぐに思い出した。
昨日壊れた柵だ。
窓の外を見る。
朝の光の中で、何人かの村人がもう作業を始めていた。
昨日は鐘が鳴るたびに慌ただしく人が動いていた道を、今日は村人たちが普通に行き来している。
もちろん、全部元通りになったわけじゃない。
森へ入るのはまだ止められている。
村の外には見張りも立っている。
ギルドから来た冒険者も残っていた。
それでも。
昨日までとは違った。
村が、昨日の続きではなく今日を始めている。
俺はしばらく窓の外を見ていた。
『体調に問題はありますか?』
ノアの声。
――たぶん。
『「たぶん」では記録できません』
――じゃあ、少し腕が痛い。手もまだ少しひりひりする。
『記録します』
相変わらずだ。
少し笑ってから、背負い袋を手に取った。
◇
外へ出ると、リディアが荷車の横にいた。
「おはようございます」
「おはようございます」
荷車を見る。
昨日、道を狭めるために動かしたものだ。
今は元の位置へ戻されている。
「買い付け、するんですか?」
「少しだけ」
「少し?」
「村長さんと話しました。今すぐ街へ持って帰れる物だけです」
「買い付けは全部やめるって言ってませんでした?」
「あのときはあのときです」
リディアが荷台を軽く叩く。
「今日は帰れそうですから」
そう言われて、少し安心した。
昨日諦めた商売を、今日また始める。
それが妙にリディアらしく見えた。
「全部元通り?」
「まさか」
即答だった。
「薬草は森へ入れないからありません。繊維もほとんど出せません。野菜はありますけど、村の分を減らしてまで買う気はありません」
「じゃあ、本当に少しだけですね」
「はい」
「損しますね」
「しますね」
そこへ、木箱を抱えたハンナがやってきた。
「おはよう、二人とも」
「おはよう、ハンナ」
「おはようございます」
ハンナが木箱を荷台へ置く。
「父さんとも話したけど、今日はこれだけ。村で出せる分だけね」
「ありがとう。無理してない?」
「してないって。昨日から何回聞くのよ」
「大事なことだから」
「リディアはそういうところ、ほんと変わらないね」
ハンナが笑う。
昨日までの張りつめた顔とは違っていた。
「ツカサさん、これお願いしていい?」
「はい」
木箱を荷台の奥へ移す。
「重くないですか?」
「それくらいなら大丈夫です」
「昨日の今日だからね。無理しないでよ」
「みんなに言われます」
「じゃあ、言われるようなことしてるんじゃない?」
「……そうかもしれません」
リディアが隣で笑った。
◇
荷物を積んでいると、カレンがやってきた。
「帰るんですね」
「はい」
「今日は街道も確認してあります。問題ありません」
「ありがとうございます」
「カレンさんは?」
「もう少し残ります」
「森の確認?」
「はい。交代が来るまで」
やっぱりそうか。
「気をつけてください」
「ツカサさんも」
「俺は帰るだけですよ」
「帰るまでが仕事です」
「それも聞いたことあるな」
「誰にですか?」
「いろんな人に」
カレンは少し考えた。
「大事なことなんでしょう」
「たぶん」
◇
ハンスは村の入口にいた。
俺たちを見ると、軽く顎を上げる。
「帰るのか」
「はい」
「街道は問題ない」
「カレンさんにも聞きました」
「ならいい」
短い。
こっちの方が、ハンスらしい。
「昨日はありがとうございました」
「何がだ」
「いろいろ」
「俺の仕事だ」
それで終わりだった。
でも、その方が妙に安心する。
「ツカサ」
「はい?」
「昨日みたいなのは、できれば二度とやるな」
俺は一瞬だけ考えた。
「俺もそうしたいです」
「ならいい」
ハンスはもうこちらを見ていなかった。
「リディア!」
後ろから声がする。
振り返ると、ハンナが走ってきた。
「もう出る?」
「うん」
「今度はもっと普通のときに来てよ」
「私だってそのつもりよ」
「ツカサさんも」
「はい。できれば鐘が鳴らない日に」
「それがいいね」
ハンナが笑った。
「気をつけて」
「ハンナもね」
リディアが答える。
俺も頭を下げた。
「また来ます」
「待ってる」
◇
ローデ村を出る。
行きと同じ道だ。
でも、景色が少し違って見えた。
来るときは、人が少ないことが気になった。
今日は、向こうから村人が一人歩いてくる。
まだ遠出する人は少ない。
それでも昨日までとは違う。
「ツカサさん」
「はい?」
「昨日、怖かったです?」
突然だった。
俺はリディアを見る。
「何ですか、急に」
「聞いてなかったなと思って」
少し考える。
怖かった。
たぶん。
いや。
「かなり」
「ですよね」
「リディアは?」
名前を呼ぶと、リディアがほんの一瞬だけこちらを見た。
けれど、何も言わずに答えた。
「怖かったですよ」
「そう見えませんでした」
「見せてないですから」
「強いですね」
「違います」
リディアは前を向いたまま言う。
「怖くても、やることがあっただけです」
その言葉が、妙に残った。
俺も同じだったのかもしれない。
怖くなかったから動けたわけじゃない。
ただ、そのときやることがあった。
「俺、昨日のこと」
口に出してから止まる。
「何です?」
「魔物を倒したこと、まだよく分からないです」
「分からない?」
「嬉しいわけじゃないし。自信がついた感じもしない」
むしろ逆だ。
あんなものと、できればもう二度と近くで向き合いたくない。
「それでいいんじゃないですか?」
リディアが言った。
「いいんですか?」
「分かりません」
「そこは分からないんですね」
「私、冒険者じゃないですから」
少し笑う。
「でも」
リディアが続ける。
「ツカサさんが昨日いなかったら、困ってた人はいたと思います」
足が少し止まりそうになる。
「俺じゃなくても」
「そうかもしれません」
否定しなかった。
「でも、昨日そこにいたのはツカサさんでしょう?」
何も言えなかった。
特別だったわけじゃない。
俺にしかできないことでもない。
ただ、そこにいて。
できることをやった。
それで誰かが少し助かった。
それくらいでいいのかもしれない。
◇
アルネスへ着いたのは、午後だった。
街の門が見えたとき。
思っていたより、ほっとした。
帰ってきた。
そんな言葉が自然に浮かんだ。
異世界へ来たばかりの頃。
この街は、知らない場所だった。
宿を探して。
食事の値段を聞いて。
仕事のやり方を覚えて。
人の名前を少しずつ覚えた。
まだ分からないことばかりだ。
魔物の種類も。
この国のことも。
魔法のことも。
俺自身、この先どうするのかも。
でも。
門をくぐった瞬間。
知らない街へ来た感じはしなかった。
「ツカサさん?」
リディアが振り返る。
「どうしました?」
「いや」
俺は街を見る。
人の声。
店の呼び込み。
荷車の音。
前なら全部、異世界の音だった。
今は。
「帰ってきたなと思って」
「アルネスに?」
「はい」
リディアが少し笑った。
「おかえりなさい」
一瞬。
以前にも聞いた言葉を思い出した。
今度は、前より自然に受け取れた。
「ただいま」
口に出してから、少し照れくさくなる。
でも。
言い直すほどでもなかった。
◇
ギルドへ行くと、エルナがすぐにこちらへ気づいた。
「ツカサさん! リディアさん!」
「戻りました」
「お疲れさまでした。ローデ村は?」
リディアが答える。
「今のところ落ち着いています。ただ、森の警戒はまだ続けています。カレンさんたちも残っています」
「分かりました」
エルナの表情が少し緩む。
「怪我は?」
「ほとんどないです」
「ほとんど?」
「手が少し」
見せる。
「村の診療所では問題ないって言われました」
「ならいいですけど」
エルナは俺の手を見てから、リディアを見る。
「では、今回の依頼について報告をお願いします」
「はい」
リディアが話し始める。
運んだ物資。
森へ入れなくなったこと。
買い付けを大幅に減らしたこと。
魔物が村へ入ったこと。
その途中で。
「……ツカサさんが魔物を一体倒して」
「ちょっと待ってください」
エルナがこちらを見る。
「ツカサさんが?」
「倒すつもりはなかったんです」
「そうなんですか?」
「いろいろ重なっただけで」
「その辺も含めて、あとで詳しく聞きます」
「はい」
やっぱり報告するらしい。
「リディアさんから依頼全体を。そのあと、ツカサさんが見たことをお願いします」
「分かりました」
少し前なら、何から話せばいいか悩んだと思う。
今も、少し悩む。
――ノア。
『はい』
――記録、使える?
『使用可能です』
――じゃあ、俺が見たことと、人から聞いたことを分けて。
『承知しました』
それなら話せそうだ。
◇
報告が一段落したところで、エルナが帳簿を閉じた。
「それと、今回は通常の報酬とは別に、ギルドから危険手当が出ます」
「危険手当?」
「当初の依頼内容を超える危険に巻き込まれていますから。銀貨三枚です」
通常の報酬と合わせて受け取り、革袋へしまった。
報告を終え、ギルドを出た。
外はまだ明るい。
今日はもう仕事をする気にはならない。
宿へ帰って、風呂に入って、寝たい。
それでいい。
歩きながら、自分の手を見る。
まだ少し傷が残っている。
この世界に来たとき。
俺が欲しいと言ったのは、剣でも魔法でもなかった。
状況を整理してくれる相棒だった。
『ツカサ』
ノアが呼ぶ。
――何?
『本日の予定は終了ですか?』
少し考える。
仕事は終わった。
報告もした。
あとは宿へ帰るだけだ。
――うん。今日は終わり。
『了解しました』
少し歩く。
それだけだった。
でも。
不思議と、もう一言くらい返ってくる気がして。
少しだけ待ってしまった。
何も来ない。
「……まあ、そうだよな」
小さく笑って、また歩き出す。
そして俺も。
英雄でもない。
強い冒険者でもない。
ただ。
この街で仕事をして。
知っている人が増えて。
帰ってきたと思えるようになった。
それで今は十分だった。
俺は宿へ続く道を歩く。
明日になれば、また何か仕事がある。
分からないことも、きっと増える。
そのときは。
また一つずつ聞けばいい。
整理すればいい。
できることからやればいい。
この世界で生きていく。
その言葉はまだ少し大げさに感じる。
だから今は。
明日もここで暮らす。
それくらいから始めようと思った。
――第一巻 完――
お読みいただき、ありがとうございます。
これにて第一巻完結です。最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。
本作はカクヨムにも掲載しています。




