第32話「逃げるために使う」
俺は反射的に後を追いかけそうになって――止まった。
行ってどうする。
戦える人たちはもう向かっている。
足が前へ出そうになるのを、無理やり止める。
「ツカサさん!」
リディアの声。
「診療所!」
「はい!」
俺たちは逆方向へ走った。
◇
診療所では、昨日の怪我人がまだ休んでいる。
年配の女性が入口に出てきた。
「何だい?」
「東側に魔物です」
リディアが答える。
「ここへ来るかは分かりません。念のため、中にいてください」
「分かった」
短い。
こういうとき、説明を長くしても仕方がない。
俺とリディアは、水と布を入口近くへ移した。
「荷車は?」
「共同倉庫の前です」
「空のまま?」
「はい」
「よし」
口に出してから、自分が確認していることに気づく。
リディアはもう次を見ていた。
◇
遠くで叫び声がした。
剣が何かに当たる音。
家畜の鳴き声。
腹の奥が冷える。
音だけなのに、何が起きているのか勝手に想像してしまう。
「来た!」
誰かが叫んだ。
道の向こうから、一匹の魔物が走ってくる。
犬より少し小さい。
灰色の毛。
四つ足。
こっちを狙っているのか、それとも逃げているだけなのか分からない。
分からないまま、距離だけが縮まる。
「中へ!」
俺はリディアへ言った。
「ツカサさんも!」
「もちろん!」
逃げる。
そのつもりだった。
背負い袋が肩にある。
邪魔だ。
手が勝手に動いた。
紐を外す。
落とす。
どさり。
中身を確認しようともしなかった。
ヴァルターに何度もやらされた動き。
杖を前へ出す。
魔物が近づく。
止めようとしない。
杖の先を間へ入れる。
ぶつかった。
「っ!」
腕に衝撃。
押し返さない。
一歩下がる。
もう一歩。
魔物が杖へ噛みつく。
引っ張らない。
さらに下がる。
逃げ道を見る。
診療所の入口。
リディアが扉を開けている。
「ツカサさん!」
「行きます!」
杖を引く。
走る。
魔物が追ってくる。
あと少し。
その横から影が入った。
金属音。
魔物の身体が横へ飛ぶ。
カレンだった。
一度。
二度。
剣が動く。
魔物が動かなくなる。
三秒か、四秒。
俺がやっていたのは、それだけの時間稼ぎだった。
それでも、その数秒がなかったらどうなっていたかは分からない。
「一匹、抜けたので追ってきました」
カレンが短く言う。
「中へ!」
「はい!」
言われる前に走った。
扉が閉まる。
そこで初めて、肩が妙に軽いことに気づいた。
袋。
外に置きっぱなしだ。
戻ろうとして――やめる。
今取りに行くものじゃない。
◇
しばらくして、東側の騒ぎは収まった。
村へ入った魔物は数匹。
全部が同じ種類ではなかったらしい。
どうして村へ入ったのかまでは、まだ分からない。
森から外へ向かう途中だった可能性もある。
そんな話だった。
「ツカサさん」
カレンが俺の背負い袋を持ってきた。
肩から力が抜ける。
「ありがとうございます」
「落ちていたので」
「すぐ落としました」
「いい判断だと思います」
「中身、大丈夫ですかね」
受け取って確認する。
水筒。
布。
食料。
特に壊れていない。
「大丈夫そうです」
「よかったですね」
「依頼品だったら、今ごろもっと怖かったです」
「命よりですか?」
「それも同じこと言われました」
「誰に?」
「ヴァルターさんです」
「……ああ。言いそうですね」
「ですよね」
カレンが少しだけ笑った。
「前より逃げるの、上手くなりました」
褒め言葉としてどうなのか。
でも。
「ありがとうございます」
今は素直に受け取った。
◇
夕方。
リディアが空の荷車を村の中央へ移していた。
「そこに置くんですか?」
「はい」
「どうして?」
「東から魔物が入ったでしょう?」
「はい」
「この道を通ると、診療所と共同倉庫の間まで真っすぐ来られます」
言われて見る。
確かに。
「道を塞ぐ?」
「全部じゃないです。人が通れる幅は残します」
「荷車を傷めません?」
「傷んだら直します」
「商売道具ですよね」
「人が怪我するより安いです」
まただ。
リディアは迷わなかった。
村の男たちと相談しながら、荷車の位置を変える。
完全な壁ではない。
ただ、真っすぐ走り込めないようにするだけ。
俺はそれを手伝う。
「ツカサさん」
「はい」
「明日も買い付けは無理そうですね」
「残念です?」
「もちろん」
荷車を押しながらリディアが答える。
「でも、今はこっちです」
その横顔を見て、少し思う。
リディアは、商人だから損を嫌う。
だからこそ。
損を承知で選んだとき、その判断は軽くない。
お読みいただき、ありがとうございます。
次回は、第33話「空けておいたもの」です。
本作はカクヨムにも掲載しています。




