第30話「帰らないという選択」
診療所から出るころには、日がかなり傾いていた。
戻ってきた男は、しばらく安静にしていれば大丈夫らしい。
それを聞いて、ようやく村の空気も少しだけ落ち着いた。
俺たちは荷車のところへ戻った。
行きに積んできた荷物は、ほとんど村へ渡している。
本来なら、明日はリディアが買い付けた品物をここへ積み、アルネスへ戻る予定だった。
リディアが空いた荷台を見ながら言った。
「明日の買い付け、やめようと思います」
「そうしますか」
帰りに積む予定だったのは、薬草や繊維、それに野菜。
「森に入れないなら、採れてないものもあるでしょうし」
「はい。それに、村で必要になるものまで、いつもの予定だからって持って帰るのは違うかなって」
「確かに」
今までどおりの取引ができる状況ではない。
「待ってる人には申し訳ないですけど、事情を説明します」
「結構、痛いんじゃないですか。今回の仕入れ」
「まあ、少しは。でも仕方ないです」
「そうですか」
リディアが俺の顔を見る。
「そんな顔しなくても大丈夫ですよ」
「顔に出てました?」
「ちょっとだけ」
笑われた。
「こういうときに無理して、もっと大きく損する方が困りますから」
「なら、商売のことは任せます」
「はい。任せてください」
そこは素直に任せる。
リディアは俺よりずっと長く、商人として仕事をしている。
「それに」
彼女が荷台を軽く叩いた。
「今は空いてた方が使えます」
「怪我人を運ぶとか?」
「そういうことです。人でも荷物でも、必要なものを動かせますから」
荷車を空けておく。
今の状況なら、その方が使い道は多い。
「明日の朝は、どうします?」
リディアは少し考えてから、離れたところにいるハンスを見る。
「ハンスさん。明日の街道、どう思います?」
「今の時点じゃ何とも言えん」
ハンスが答える。
「今日、牧草地まで魔物が出た。街道で目撃されたわけじゃないが、朝になって確認は必要だ」
「ギルドから人が来るのは?」
「早ければ明日だ」
リディアが頷く。
「じゃあ私、明日の朝は帰らないことにします」
「増援が来るまで?」
「はい。その方がいいかなって」
「俺もそう思います」
「ツカサさんは大丈夫ですか?」
「俺は……まあ、リディアさんが残るなら残りますよ」
「まあ、って何ですか」
「いや、特に意味はないです」
「怪しいですね」
「怪しくないですって」
リディアが少し笑う。
俺もつられて笑った。
もちろん、実際に帰れるかどうかは護衛であるハンスの判断もある。
それでも、明日の朝に急いで街へ戻る理由はもうなかった。
「アルネスの予定は?」
「多少ずれます。でも、残るって決めた方が今夜やることも決めやすいので」
「今夜?」
「明日の朝すぐ出るなら、帰る準備もしないといけないでしょう?」
「ああ」
「でも残るなら、この荷車も使えます。私も村のことを手伝えるし、街から来た人に普段のローデ村のことも話せます」
何度もここへ来ているリディアだから分かることがある。
それは、この村へ着いてから何度も助けになっていた。
「じゃあ、それでいきましょう」
「はい」
ハンスもこちらを見る。
「俺も朝の状況を見てから帰るつもりだった。増援を待つなら、それでいい」
これで決まった。
本来なら明日帰る。
その予定が、一つ消えた。
◇
日が落ちる前に、村長から村人へ改めて話が回った。
今夜は森へ入らない。
牧草地にも近づかない。
家畜はできるだけ村に近い場所へ集める。
村の外れへ一人で出ない。
魔物避けの香も、普段使っている場所で焚くことになった。
煙が上がり始める。
少し癖のある匂いだった。
以前、この村へカレンと来たとき。
俺が運んだ荷物の中にも、香を作るための材料や道具があった。
あのときは、届けて終わりだった。
今日は、その香が村のあちこちで使われている。
「ツカサさん」
リディアに呼ばれた。
「はい」
「共同倉庫、もう一度見に行きませんか?」
「何か足りませんでした?」
「そうじゃなくて、今夜使いそうなものを近くへ移しておこうと思って」
「村長には?」
「聞きました。必要なものは向こうで教えてもらいます」
「じゃあ行きましょう」
◇
倉庫では、すでに数人の村人が動いていた。
「水はこっち」
「油は全部出すな。今夜使う分だけでいい」
「布は診療所にも少し持っていくぞ」
誰かが指示を出し、別の誰かが運ぶ。
俺たちが一から考える必要はなかった。
「どれを運べばいいですか?」
聞くと、すぐに箱を指された。
「それを村長の家へ。二つ」
「分かりました」
持ち上げる。
重い。
でも運べないほどじゃない。
「もう一つ、上に載せます?」
俺が聞くと、村人が首を振った。
「いや。それでいい。転んだら面倒だ」
「了解です」
一つずつ運ぶ。
戻れば、次を聞く。
リディアは帳面を見ながら、倉庫に残すものと出すものを村人と確認していた。
ここでも、決めるのは村の人たちだ。
俺たちは、その手を増やしているだけだった。
◇
暗くなるころには、外を歩く人もほとんどいなくなった。
村のあちこちから、魔物避けの香の煙が細く上がっている。
家畜の声。
戸を閉める音。
遠くで誰かが話している声。
普段なら気にも留めない音が、一つ鳴るたびに耳へ入ってくる。
村長の家へ戻ると、昼に使った地図がまだ机の上にあった。
西。
東。
南。
北。
散らばった印。
そのどこかに答えがあるのかもしれない。
でも、それは今夜見つけるものではない。
俺は地図から目を離した。
「眠れそうです?」
向かいに座ったリディアが聞く。
「たぶん無理ですね」
「ですよね」
「リディアさんは?」
「私も無理そうです」
「じゃあ二人とも寝不足ですね」
「明日、使い物にならなかったら困りますね」
「それは困ります」
「寝られるなら寝ましょう」
「それができれば苦労しないんですけどね」
「ほんとに」
リディアが小さく笑った。
俺も笑う。
ほんの少しだけ、肩の力が抜けた。
そのとき。
外で家畜が鳴いた。
一度。
二度。
身体が反射的に強張る。
リディアも入口を見る。
遠くで声が上がった。
立ち上がりかけたところで、すぐに別の声が返った。
「大丈夫だ! 何もいない!」
そのまましばらく待つ。
続く騒ぎはなかった。
俺はゆっくり椅子へ座り直した。
「……やっぱり寝られそうにないですね」
「ですね」
明日の朝。
街から誰かが来るかもしれない。
来ないかもしれない。
魔物について、新しく分かることがあるかもしれない。
何も分からないままかもしれない。
ただ。
俺たちは明日の朝、予定どおりアルネスへ向かうことはしない。
空の荷車は、村に置いたままだ。
帰る予定だった道を、今日はまだ選ばない。
長い夜が始まった。
お読みいただき、ありがとうございます。
次回は、第31話「もう一度、ローデ村へ」です。
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