第3話 何も分からない相棒
白い光が消えた。
足の裏に、柔らかな土の感触が戻ってくる。
目を開けると、そこは山の中だった。
ただし、人の手が入っていない深い森ではない。
斜面には低い草が生え、ところどころに畑らしき土地も見える。近くには、踏み固められた細い道が続いていた。
里山、と呼ぶのが近いだろうか。
道は緩やかに下っている。木々の隙間からは、遠くに屋根のようなものが見えた。
このまま下っていけば、町か村へ出られそうだった。
「本当に来たんだな……」
声に出してみる。
言葉は日本語だったが、不思議と、この世界でも通じるという感覚があった。管理者が言っていた言語の調整というやつだろう。
自分の体へ目を向ける。
着ているのは、見覚えのない簡素な服だった。
薄い茶色の上着に、動きやすそうなズボン。手触りは少し硬く、麻か何かで作られているように思える。
少なくとも、事故に遭う前に着ていた仕事着ではない。
背中には、いつの間にか丈夫そうな大きな背負い袋を背負っていた。
肩には、荷物の重みがしっかりとかかっている。
「とりあえず、確認するか」
道の真ん中で荷物を広げるのは危ない。
少し先に、木々が途切れた場所が見えた。
周囲を見回しながら移動し、地面が乾いていることを確認してから、背負い袋を下ろした。
袋の口を開く。
中には、革袋に入った金貨らしき硬貨、水筒のような容器、鞘に収められた小さなナイフ、予備の服、布、簡単な食料が詰められていた。
知らない世界へ送り出すにしては、最低限の準備はしてくれたらしい。
一つずつ中身を確認してから、荷物を袋へ戻し、再び背負う。
俺は道を下ることにした。
体も軽かった。
事故に遭う前の、疲れが抜けにくくなった三十八歳の体とは明らかに違う。少し歩いただけで息が上がることもなく、足取りも自然と速くなる。
管理者の言っていた、若く健康な肉体。
どうやら、それも本当らしい。
道の先に何があるかは分からない。
それでも、少しだけ楽しみになっていた。
しばらく歩いたところで、ふと思い出した。
「そういえば、俺が頼んだAIはどうなったんだ?」
問いかけた直後だった。
『あなたとの接続が整いました。これより、補助を開始します』
突然、頭の中に声が響いた。
「えっ?」
足を止め、慌てて周囲を見回す。
人影はない。
鳥の鳴き声と、風で葉が揺れる音が聞こえるだけだった。
『周囲を確認する必要はありません』
再び、声が聞こえた。
落ち着いた声だった。
男とも女とも断定しにくい。感情はほとんど感じられず、一定の調子で言葉を伝えてくる。
『私は、あなたの認識へ直接話しかけています』
「頭の中に直接ってことか」
『はい』
管理者が言っていた、非実体型の補助精霊。
どうやら、これがそうらしい。
「ここがどこか分かるか?」
『異世界への転移が完了したことを確認しています』
「いや、それは見れば分かる。具体的に、どの国のどの辺りとか」
『不明です』
返事は早かった。
「じゃあ、町までどのくらいかかる?」
『不明です』
「この道は安全か?」
『不明です』
俺は立ち止まったまま、しばらく黙った。
『追加の質問はありますか』
「何も分からないじゃないか」
『はい。現在、私が利用できる現地情報はありません』
あまりにもあっさり認められ、怒る気も失せた。
考えてみれば、管理者からも説明されていた。
外の世界を直接見られるわけではない。
現地の情報を、最初から知っているわけでもない。
俺が見たり聞いたりしたことを、整理するための存在だ。
「自分のことは分かるのか?」
『はい』
声は変わらない調子で答えた。
『私は、あなたが地球で使用していた生成AIの利用傾向と、管理者によって設定された思考補助の形式を基に構築された、非実体型の補助精霊です』
「地球で使っていたAI、そのものではないんだよな」
『はい。過去の会話履歴、地球上の外部情報、個別の記憶は保持していません』
「じゃあ、何ができる?」
『あなたが見聞きした情報を整理し、選択肢を提示します』
「管理者に頼んだ通りか」
『はい』
「知らないことを調べるのは?」
『できません』
「この世界の物を見ただけで、何か判定したりは?」
『できません。私は外界を直接観測できません』
「俺が見たものを説明すれば?」
『入力された情報の範囲内で、整理と推測を行います。ただし、正確性は保証できません』
役に立つのか立たないのか、よく分からなかった。
思えば、地球で使っていたAIも似たようなものだ。
現場を見ているわけではなく、情報を入れなければ答えも返ってこない。
それでも、考えが散らかったときには、いつも助けになっていた。
「分かった。とりあえず、この道を下る。遠くに建物らしきものが見えるから、町か村がある可能性は高い」
『記録しました』
「危険なものがいないか、周囲を確認しながら進む」
『妥当です。ただし、私には周囲の危険を検知できません』
「それはもう分かったよ」
『承知しました』
事務的な返事に、俺は小さくため息をついた。
期待していた相棒とは、少し違うかもしれない。
だが、知らない世界へ一人きりで放り出されるよりはいい。
「まあ、これからよろしく」
『確認しました』
「そこは普通、よろしくお願いしますじゃないのか?」
短い沈黙があった。
『その応答が必要でしょうか』
「いや。今はいい」
名前もなく、感情もない。
こちらが求めた処理だけを行う、便利な機能。
少なくとも、このときの俺は、そう考えていた。
俺は背負い袋の位置を直し、再び山道を下り始めた。
◇
しばらく道を下っていると、木々の向こうに建物らしきものが見えてきた。
さらに進むと、その周囲を高い壁が囲んでいることが分かる。
「城壁か……」
日本で暮らしていた頃には、まず目にすることのなかった光景だった。
あれが目的地で間違いないだろう。
街へ近づくにつれて、道を行き交う人の姿も増えてきた。
俺と同じような簡素な服を着た人が多い。畑仕事の道具や、大きな籠を持っている者もいる。
一方で、馬車に乗っている男は、周囲より少し立派な服を身につけていた。荷台には木箱や布袋が積まれている。おそらく商人だろう。
すれ違う人々の服装を眺めていると、俺が着ているものよりも、きれいに仕立てられたシャツを着ている者もいた。
「なんだ。ちゃんと清潔そうな服もあるじゃないか」
今の服を見たときは、異世界ではずっと粗末な麻布を着て暮らすことになるのかと思っていた。
少なくとも、服や生活用品を扱う店はありそうだ。
それだけでも、少し安心した。
やがて、城壁に設けられた大きな門が見えてきた。
門の前には何人かが並んでいる。
荷馬車を止め、門番と話している商人もいた。
「そうか。街に入るのにも手続きが必要なのか」
その光景を見て、ようやく一つの問題に気づいた。
「身分証明みたいなものは必要かな?」
『不明です』
頭の中から、即座に返事が来る。
「そうだよな……」
この世界について何も知らない相手へ聞いても、答えが返ってくるはずがない。
俺は歩調を少し緩め、前に並んでいる人たちの様子を観察した。
門番は武装している。
手には長い槍を持ち、城門の前で人の出入りを監視していた。
見るからに、観光案内をしてくれる雰囲気ではない。
「異世界から転生してきました、なんて言ったら、やっぱりまずいよな……」
『判断に必要な情報がありません』
「分かってる。今のは独り言だ」
下手なことは言わない方がいい。
まずは、前の人間が何を聞かれ、何を見せているのか確認する。
俺は列の最後尾へ並び、門で行われているやり取りへ意識を向けた。
列は、思っていたよりも早く進んだ。
前に並んでいた男は、門番へ何か小さな札を見せただけで、そのまま街へ入っていった。
その前の荷馬車は、積み荷についていくつか質問されていたようだ。
人によって手続きが違うらしい。
俺の順番が近づく。
「何と答えるのが無難だと思う?」
声に出さず、頭の中で問いかけてみる。
『現地の制度が不明なため、適切な回答は判断できません』
「それは分かってる。そのうえでだ」
短い間があった。
『把握していない地名や身分を作らず、質問された事項にのみ、事実の範囲で簡潔に回答することを推奨します』
なるほど。
この世界について何も知らない以上、下手に設定を作る方が危ない。
前の人が門を通り、いよいよ俺の番になった。
槍を持った門番が、俺の顔から背負い袋までを一通り眺める。
「止まれ。通行証は?」
「持っていません。この街へ来るのも初めてです」
門番は少しだけ眉を寄せたが、槍を向けてくることはなかった。
「アルネスでは見ない顔だな。旅人か。名前は?」
一瞬迷ってから、本名ではなく、地球でネット上の名前として使っていたものを答えることにした。嘘にはならないはずだ。
「ツカサです」
修司の一文字を取った名前で、呼ばれてもすぐに自分のことだと分かる。
門番は手元の帳面へ、それを書き留める。
「街へ来た目的は?」
「まずは宿を探します。そのあとは、できる仕事を探すつもりです」
「商売ではないんだな?」
「はい」
門番の視線が、俺の腰の辺りへ移った。
「武器は?」
「背負い袋の中に、小さなナイフが一本あります」
「見せろ」
言われたとおり、袋から鞘に入ったナイフを取り出す。
門番はそれを受け取ると、鞘から少しだけ刃を抜いた。
刃の長さと状態を確かめ、すぐに鞘へ戻す。
「小刀か」
「管理者から渡されたものなので、まだ使っていません」
口にしてから、まずかったかと思った。
「管理者?」
門番が聞き返す。
「荷物を用意してくれた人です」
嘘ではない。
門番は少し怪訝そうな顔をしたものの、それ以上は追及せず、小刀を返してきた。
「街の中でむやみに抜くな。揉め事を起こせば、すぐに追い出す」
「分かりました」
「宿が決まったら、宿帳に名前を記入しろ。仕事を探すなら、中央広場の案内所で聞けばいい」
門番は槍をわずかに動かし、道を空けた。
「通っていい」
「ありがとうございます」
俺は軽く頭を下げ、門をくぐった。
心配していたほど厳しい手続きではなかった。
だが、身分を証明するものが何もないことに変わりはない。
街へ入ることはできても、宿を取ったり、仕事を探したりするときには、また問題になるかもしれない。
『街への立ち入りが許可されました』
頭の中で、声が告げる。
「見れば分かるよ」
『はい』
相変わらず、妙なところだけ律儀だった。
お読みいただき、ありがとうございます。
次回、ツカサは異世界で最初の宿を探します。
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