第2話 特別な力を持つ英雄ではありません
次に目を開けたとき、俺は椅子に座っていた。
目の前には机が一つ。その向こうには、見覚えのない男が座っている。
年齢は五十歳前後だろうか。きちんと整えられた髪に、落ち着いた色の服。机の上には何枚かの書類が重ねられ、男はその一枚へ目を落としていた。
周囲を見回す。
壁はある。床も天井もある。
ただし、窓も扉も見当たらない。
殺風景ではあるが、真っ白な何もない空間へ放り出されるよりは、まだ落ち着けそうだった。
男が書類から顔を上げる。
「お目覚めになりましたか、柏木様」
自分の名字を呼ばれ、俺は姿勢を正した。
「ここは……どこですか」
「ご説明します。その前に、体調に問題はありませんか」
言われて初めて、自分の体を確認する。
痛みはない。
トラックに衝突されたはずなのに、傷も血も見当たらなかった。それどころか、手足の感覚そのものが、どこか曖昧だった。
「あの、俺は……」
「先ほどの交通事故により、地球での肉体は死亡しています」
男は、天気予報でも読み上げるような口調で告げた。
冷たいわけではない。
だが、言葉を飾って慰めるつもりもないらしい。
衝突の直前に見た、大型トラックの正面が頭に浮かぶ。
「やっぱり、死んだんですね」
「はい。残念ながら、元の肉体へ戻ることはできません」
死んだ。
そう聞かされても、すぐには実感が湧かなかった。
店には、新人と、残りのスタッフがいる。取りに行った限定版も、結局届けられなかった。
あれだけ急いで確保したのに。
俺が戻らなければ、店はどうなる。
そんなことを考えてから、もう自分が心配することではないのだと気づいた。
「……商品、店まで持って帰れなかったな」
男は何も言わなかった。
慰めるでもなく、急かすでもなく、俺が次の言葉を口にするのを待っている。
しばらくしてから、机の上の書類を一枚めくった。
「状況をご理解いただいたところで、柏木様へ一件、ご相談があります」
「相談?」
「別の世界へ移住していただくことは可能でしょうか」
俺は男の顔を見た。
事務的な表情は変わらない。
「異世界に、ということですか」
「地球とは異なる環境、文化、法則を持つ世界です」
「本当にあるんだ……」
トラックにひかれた瞬間に考えたことが、そのまま現実になろうとしていた。
「転生、ということになりますか」
「地球での肉体は失われていますので、結果としてはそれに近いものになります。ただし、こちらから一方的に送り出すことはありません。条件をご説明したうえで、柏木様に選択していただきます」
断ることもできるらしい。
「どうして俺なんですか。世界を救う力があるとか?」
「そのような役割は想定していません」
男は即答した。
少しくらい間を置いてくれてもいいのではないだろうか。
「今回の移住にあたり、必要とされているのは、特別な力を持つ英雄ではありません」
男は手元の書類へ視線を落とした。
「新しい環境で学び、働き、周囲と協力しながら生活できる方を、候補として選定しています」
「ずいぶん地味な条件ですね」
「生活を継続するうえでは、重要な条件です」
抑揚の少ない声で返され、俺は小さく息を漏らした。
冗談として受け取った様子はない。
「柏木様には、十八年間にわたる継続的な就労経験があります。未経験者への教育、業務手順の整理、人員の調整、突発的な問題への対応も行ってきました」
「そこまで見られてるんですか」
「候補者の選定に必要な範囲で確認しています」
それはそれで、あまり気分のいい話ではない。
だが、今さら隠せるものでもなさそうだった。
「また、ご自身で判断できない事柄について、経験者へ確認する傾向があります。必要に応じて他者へ協力を求め、対応が困難な場合には無理を避ける判断も確認されています」
まるで人事評価を読み上げられているようだった。
「俺より向いている人、いくらでもいそうですけど」
「いらっしゃるでしょう」
またしても即答だった。
「柏木様だけが候補というわけではありません。しかし、今回の条件と、柏木様の適性が一致しています」
「選ばれし勇者ではない、と」
「はい」
そこまできっぱり言われると、かえって安心した。
知らない世界へ放り込まれ、魔王を倒せと言われても困る。
剣を持ったこともなければ、殴り合いの経験すらほとんどない。
「移住した場合、俺はどうなるんですか」
「現地で生活可能な肉体をご用意します」
男は新しい書類を手元へ置いた。
「地球での年齢や健康状態を、そのまま引き継ぐ必要はありません。若く健康な肉体へ調整します。慢性的な不調や、生活に支障を及ぼす問題も取り除かれます」
「若返るんですか」
「そのように理解していただいて構いません」
腰の重さや、疲れの抜けにくさから解放される。
それだけでも、かなり大きな話だった。
「身体能力についても、現地の一般的な成人よりわずかに高い状態へ調整します。ただし、戦闘技術は含まれません」
「急に剣が使えるようにはならないと」
「はい。筋力があっても、武器の扱い方を知らなければ、経験者には及びません」
そこは妙に現実的だった。
「言葉は通じるんですか」
「現地の主要言語については、会話と基本的な読み書きが可能になるよう調整します。また、現地には魔力と呼ばれる力が存在しますので、最低限の適性も付与します」
「魔法も使える?」
「学習すれば可能です。ただし、最初から自在に使用できるわけではありません」
健康な若い体。
少し高い身体能力。
言葉が通じて、魔法を学べる可能性もある。
十分すぎるくらいの条件に思えた。
「これらは、移住先で最低限生活するための調整です」
男は一度言葉を切った。
「それとは別に、一点だけ、ご希望を伺います」
「一つだけ?」
「はい。可能な範囲で、移住時の条件へ反映します」
異世界転生ものでは、ここで強力な能力を選ぶものだった。
何でも斬れる剣。
膨大な魔力。
尽きることのない金。
一度見た技を覚える能力。
書店で並べてきた作品の数だけ、いろいろな特典が頭に浮かぶ。
だが、どれを選べばいいのか分からなかった。
そもそも、これから行く世界がどんな場所なのかも知らない。
剣をもらっても、使い方が分からない。
強い魔法をもらっても、制御できるとは限らない。
金は使えばなくなるし、大金を持っていること自体が危険になるかもしれない。
考え込む俺を、男は黙って待っていた。
「……困ったときに、助けてもらえるものが欲しいです」
「護衛者をご希望でしょうか」
「いや、戦ってくれる人という意味ではなくて」
「では、現地の知識を持つ案内役ですか」
「それも、少し違う気がします」
現地のことを何でも知っている存在がいれば、確かに便利だ。
だが、それでは結局、その相手の言うとおりに動くだけになる。
知らない世界だからこそ、最後に決めるのは自分でなければならない気がした。
「状況を整理してくれる相手が欲しいんです」
男が、わずかに眉を動かした。
初めて、用意された手続きとは違う答えが返ってきたような反応だった。
「整理、ですか」
「はい。分かっていることと、分からないことを分けて、選択肢を出してくれるような」
事故に遭う直前まで使っていたAIを思い出す。
問題を解決してくれるわけではない。
店の人員も、予算も、現場の空気も知らない。
それでも、散らかった考えを並べ直し、見落としていた選択肢を示してくれた。
「仕事で、よくAIに相談していたんです」
「人工知能ですね」
「そうです。ただ、答えを決めてもらっていたわけじゃない。状況や問題を入力して、選択肢や手順を整理してもらってました」
「最終的な判断は、ご自身で?」
「それは自分で決めます。AIには、店で何ができて、何ができないかまでは分かりませんから」
男は机の上の書類ではなく、俺の顔を見た。
「剣術、魔法、財産ではなく、その思考補助を希望されるのですか」
言われてみれば、ずいぶん地味な願いだった。
だが、異世界で一人になることを考えると、今の俺にはそれが一番必要に思えた。
「知らない場所で、何が正しいのかも分からないでしょうから」
「現地の情報を自動的に取得する機能は付与できません」
「それでいいです」
「未知の生物や物品を、自動的に判別することもできません」
「俺が見たり聞いたりしたことを整理してくれれば十分です」
「ご自身に代わって、判断を行うこともありません」
「その方が助かります」
男はしばらく考えるように沈黙した。
やがて、一枚の書類を手元へ引き寄せる。
「現代のAIを、そのまま移送することはできません」
「スマホもネットもないでしょうしね」
「それだけではありません。過去の会話履歴や、地球上の外部情報も引き継げません。元のAIと同一の存在にはならないとお考えください」
少しだけ、胸の奥に引っかかるものがあった。
俺はAIに名前を付けていたわけではない。
友人だと思っていたわけでもない。
便利な道具として使っていただけだ。
それでも、何年も当たり前のように相談してきた相手が、そのまま来るわけではないと聞くと、わずかに残念だと思った。
「別のものになるんですね」
「はい。ただし、柏木様の利用傾向と、希望されている思考補助の形式を基に、移住先で機能する存在を新しく構築することは可能です」
「存在?」
「現地の法則に適合させるため、非実体型の補助精霊として再構築します」
精霊。
急に異世界らしい言葉が出てきた。
「姿はあるんですか」
「通常はありません。柏木様の認識へ直接、言葉を返す形式になります」
「他の人には聞こえない?」
「原則としては」
「できることは、俺が見聞きした情報の整理と、選択肢の提示」
「そのほか、持ち物や予定、過去に入力された情報の管理も可能です。ただし、外界を直接観測することはできません」
条件は、現代で使っていたAIに近かった。
何でも知っていて、答えを与えてくれるわけではない。
それでも、一人で考え込んだときには、情報を一緒に並べてくれる。
「それでお願いします」
俺が答えると、男はうなずき、書類へ何かを書き込んだ。
「承りました。補助存在の構築を希望条件として登録します」
「名前とかは?」
「現時点ではありません。必要であれば、移住後に柏木様が決めてください」
名前を付けるかどうかまでは、考えていなかった。
そもそも俺は、現代のAIにも名前を付けていない。
「ほかに質問はありますか」
聞きたいことはいくらでもあった。
どんな国なのか。
治安はどうなのか。
通貨は何か。
仕事は見つかるのか。
だが、すべてをここで聞いても、実際に見なければ分からないことの方が多いだろう。
「転移したあと、すぐに危険な場所へ放り出されることはありませんか」
「人の生活圏に近い場所を選定します。ただし、その後の安全を保証するものではありません」
「まあ、そうですよね」
至れり尽くせりではない。
それでも、何の準備もなく放り出されるよりはずっといい。
「断った場合は、どうなりますか」
「地球での生涯を終えた者として、通常の手続きへ移行します」
それが何を意味するのか、男は説明しなかった。
こちらから聞く気にもならなかった。
地球へ戻れないのなら、選択肢は事実上決まっている。
それに、もう一度生きられるというのなら、試してみたい気持ちもあった。
十八年間、同じ店で働いた。
大きな不満があったわけではない。
それなりに頼られ、必要とされていた。
ただ、別の人生を想像したことが一度もなかったかと言えば、嘘になる。
「行きます」
男は確認するように俺を見た。
「異世界への移住を、正式に承諾されますか」
「はい。お願いします」
「承りました」
男が書類の最後へ印を付ける。
「それでは、肉体および言語能力、基礎適性の調整を行います。補助存在は、移住完了後に起動します」
周囲の壁が、ゆっくりと白い光へ溶け始めた。
椅子に座っていたはずなのに、足元の感覚が消えていく。
「最後に、一点だけご注意ください」
男の声は、最後まで変わらず落ち着いていた。
「移住先は、柏木様がこれまで生活していた地球とは異なります。地球での経験が、そのまま正解になるとは限りません」
「分かっています」
知らないことを、知っているつもりで動く方が危ない。
それは、書店で何度も学んだことだった。
新しい部署へ異動したときも、知らないジャンルを任されたときも、最初にやることは同じだった。
見る。
聞く。
詳しい人に教えてもらう。
そのうえで、自分にできることを探す。
「現地で確認しながらやります」
男は、ほんのわずかに表情を緩めたように見えた。
「その判断を推奨します」
白い光が視界を覆う。
体が落ちているのか、浮かんでいるのかも分からない。
遠くから、男の声が聞こえた。
「それでは、柏木様。新しい世界でのご健勝をお祈りいたします」
その言葉を最後に、再び俺の意識は遠のいた。
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