最後まで、仕事だった。
「ここを通すと、フィルムが熱で縮むから」
俺はコミックを透明な袋へ入れ、機械の奥へゆっくり通した。
短い駆動音のあと、袋が本の形に沿ってぴたりと縮む。
「最後に、角が破れてないか確認して完成」
「おお……」
隣で見ていた新人が、感心したような声を上げた。
「やってみる?」
「はい」
場所を譲ると、新人は少し緊張した手つきでコミックを袋へ入れた。
向きが反対だったので、機械へ入れる前に止める。
「そっちじゃなくて、閉じてる方から。開いてる方を先に入れると、空気が抜けにくいから」
「あ、なるほど」
新人が袋を持ち直す。
二度目は問題なく通った。
「うまい、うまい。あとは数をこなせば慣れるよ」
「でも、コミックのことも詳しいんですね」
「一応、本屋で十八年働いてるからね」
「でも、普段は文芸とか文庫の担当ですよね。異世界ものも読むんですか?」
「詳しいってほどじゃないけど。面白そうなのは読むよ」
定期的に注文を入れる常連客がいる。
有名作品というより、まだ広く知られていない作品を見つけてくるのがうまい人だった。
注文を受けるたびにあらすじを確認し、気になったものは自分でも読んでいた。
「異世界ものまで詳しいの、意外です」
近くで作業していたスタッフが会話に入ってくる。
「でも、この人、アイドルは全然知らないよ」
「そうなんですか?」
「女性誌の表紙を見て、『この人たち誰?』って何回も聞いてくる。韓国のグループか日本のグループかも分かってないから」
「いや、最近は人数が多すぎるんだよ」
「それ、毎回言ってる」
笑い声が上がったところで、胸ポケットのスマートフォンが震えた。
画面には、午後から出勤予定のスタッフの名前が表示されている。
嫌な予感がした。
「はい、お疲れさま」
『すみません。保育園から連絡があって、子どもが熱を出したみたいで……』
声が震えていた。
急な欠勤を申し出る申し訳なさと、子どもへの心配が混ざっているのだろう。
「子どもについててあげて」
『でも、今日、人が少ないですよね』
「こっちは何とかするから。今日やらないといけない仕事は?」
『お客様注文の確認が残ってます。入荷した商品との照合が、まだ全部終わってなくて』
「分かった。こっちでやるよ」
『本当にすみません』
「謝らなくていいから。落ち着いたら、また連絡して」
電話を切る。
人員が一人減った。
それだけなら、何とかなる。
ただし今日は、朝から細かい作業がいくつも重なっていた。
新刊の品出し。
売場変更。
返品商品の整理。
問い合わせへの対応。
そして、まだ仕事に慣れていない新人の教育。
どれか一つなら大したことはない。
だが、同時に起きると、少しずつ予定が遅れていく。
「ごめん。今日はこのまま、シュリンクを続けてもらっていい?」
新人へ声をかける。
「はい」
「全部終わらせなくていいから。分からなかったら止めて呼んで」
「分かりました」
次に、さっきまで話していたスタッフを見る。
「午後の人、保育園から呼び出し。悪いけど、しばらくレジをお願いできる?」
「了解です」
頭の中で、今日の人員と作業を組み直す。
優先順位を変えれば、どうにか回せる。
自分が予定していた仕事を後ろへずらし、空いた部分へ欠勤者の業務を入れる。
いつものことだった。
◇
昼前。
店内が少し落ち着いたところで、俺はカウンター奥のお客様注文品を確認していた。
入荷した商品と注文台帳を照合する。
アナログな管理方法だった。
注文品には客の名前を書いた紙を付け、専用の棚へ保管する。
長く働いているスタッフなら問題なく扱えるが、慣れていない人には分かりにくい。
特に限定版と通常版が同時に入荷したときは、間違いが起きやすかった。
台帳をめくる手が止まる。
予約されていたコミックの限定版が見当たらない。
通常版はある。
だが、取り置きするはずの限定版だけがない。
「限定版、もう一冊あったよな……」
入荷数を確認する。
二冊。
一冊は通常販売分。
もう一冊は予約分。
販売履歴を調べると、限定版は二冊ともすでに売上登録されていた。
嫌な予感が確信に変わる。
近くにいたレジ担当のスタッフへ声をかけた。
「昨日、この限定版を売ったの覚えてる?」
画面を見せると、スタッフの顔色が変わった。
「あ……」
「予約じゃないお客さんに、二冊とも売った?」
「たぶん……。お客さんが通常版を持ってきたので、限定版もありますよって案内して……」
声が小さくなっていく。
限定版と通常版が、同じ場所に保管されていた。
そこから通常販売分だけを出したつもりで、予約分まで販売してしまったらしい。
スタッフの目に涙が浮かぶ。
「すみません。私、確認しなくて……」
「だから、この管理方法が古いんだよ」
スタッフが肩を震わせた。
しまった。
言い方が悪かった。
「今のはあなたに言ったんじゃない」
俺は少し声を落とした。
「限定版と通常版を一緒に置いて、紙だけで見分ける仕組みが分かりにくいんだ。慣れてる人なら間違えない、で済ませてるからこうなる」
「でも、私が売ってしまったので……」
「次から、分からないときは止めて確認して。頼っていいよ」
問題は、誰が間違えたかではない。
予約した客へ、商品をどう用意するかだ。
まず、系列店の在庫を確認する。
近隣店へ順番に電話をかけた。
しかし、限定版はどこも売り切れていた。
発売日から数日が経っている。
残っている可能性は低い。
最後に、普段から商品の融通をし合っている系列店へ電話をかけた。
『はい、お疲れさまです』
「お疲れさま。ちょっと在庫を見てほしいんだけど」
商品名とISBNを伝える。
保留音を聞きながら、売場の時計を見た。
午後の人員が一人足りない。
このあとの休憩も組み直さなければならない。
だが今は、商品を確保する方が先だ。
『あったよ。一冊だけ』
思わず息を吐いた。
「本当? 取り置きお願いできる?」
『いいけど』
「今回は借りだな」
『いつも探してくれるから、いいけど』
「助かる。すぐ取りに行く」
電話を切り、予約客へ連絡する。
呼び出し音のあと、落ち着いた声が応答した。
「ご予約いただいている商品について、ご連絡しました」
まず、店側の管理ミスで予約品を販売してしまったことを正直に伝える。
言い訳はしない。
ただし、同じ商品を系列店で確保できたことも続けて説明した。
「こちらの不手際で、ご迷惑をおかけして申し訳ありません。系列店から同じ限定版を取り寄せますので、当初の予定どおりお渡しできます」
客は少し驚いた様子だったが、商品が用意できるなら問題ないと言ってくれた。
受け取り可能な時間を伝え、通話を終える。
大きな苦情にはならなかった。
しかし、同じ管理方法を続ければ、また同じことが起きる。
俺は休憩室へ入り、スマートフォンを取り出した。
生成AIの画面を開く。
仕事で悩んだとき、考えを整理するために何年も使ってきた。
答えを決めてもらうためではなく、頭の中にある問題を言葉へ変え、選択肢を並べるために使っている。
状況を簡単に入力する。
限定版と通常版を同じ場所で保管していたため、予約商品を誤って販売した。
人員を増やさず、同じミスを減らす方法。
しばらくして、画面に回答が表示された。
一、予約商品と通常販売商品を、物理的に別の場所へ保管する。
二、離れた場所からでも判別できる色付きの札やカバーを使用する。
三、限定版・特装版について、予約分と通常販売分の数量を明確に分けて表示する。
四、販売前に確認する簡単なチェック表を、レジ付近へ設置する。
五、商品を渡す際に、客の名前、商品名、版の種類を照合する。
六、入荷時と閉店時に、台帳上の数量と実物の数量を確認する。
七、新人や不慣れなスタッフ向けに、写真付きの簡単な手順書を作成する。
八、限定版を通常の売場へ出す場合は、予約分が確保されていることを複数人で確認する。
九、ミスが起きたときは個人を責めるだけで終わらせず、原因と再発防止策を共有する。
画面を見ながら、俺は小さく息を吐いた。
「それが全部できれば、苦労しないんだけどな」
保管場所を増やす余裕はない。毎日すべてを確認する時間もない。
それでも、色付きの札くらいならすぐに用意できるし、限定版だけでも表示を分けておけば、今日みたいな間違いは減らせるはずだ。手順書は、新人教育のついでに作ればいい。
全部をやる必要はない。今の店で無理なくできるものから、少しずつ変えていけばいい。
スマートフォンをしまい、売場へ戻る。
「ちょっと系列店まで商品を取りに行ってくる」
スタッフへ声をかける。
「戻るまで、レジお願い。混んだら応援を呼んで」
「分かりました」
新人にも声をかけた。
「シュリンク、全部終わらせなくていいからね。分からなかったら、必ず誰かに聞いて」
「はい」
上着と車の鍵を手に取る。
「じゃ、あとは頼んだ」
◇
系列店へ着くと、電話に出たスタッフがカウンターの奥から商品を持ってきた。
「すまん。頼んでたもの、ある?」
「ああ、来た来た。ほら、これ。用意しておいたよ」
差し出された商品を受け取る。
探していた限定版で間違いない。
「ありがとう。恩に着る」
「今度、こっちが困ったときはよろしくね」
「分かってる。そのときは言って」
商品を袋へ入れ、すぐに店を出た。
自分の店へ戻る道を急ぐ。
午後の人員は一人少ない。
休憩もまだ回し終えていない。
予約客が来るまでに、商品を店へ届ける必要もある。
忙しい日には、どうしてこうも細かい問題が続くのだろう。
それでも、商品は確保できた。
客へも説明した。
店へ戻れば、今日も何とか乗り切れるはずだった。
信号が青に変わる。
車を発進させ、交差点へ入った。
その瞬間、横から長いクラクションの音が響いた。
顔を向ける。
大型トラックが、速度を落とさないまま交差点へ突っ込んできていた。
避ける時間はなかった。
「そんなベタなこと、あるかよ……」
俺も異世界に行けるのかな。
そんな場違いな考えを最後に、意識が途絶えた。




