第15話 おかえりの多い日
馬の看板は、二日前と同じ場所に掛かっていた。
当たり前だ。二日しか経っていない。
それでも、扉を押す手は、出ていくときより軽かった。
「――おや」
声は、扉が開き切る前に飛んできた。
「おかえり!」
マルタだった。カウンターの奥から出てきて、俺の前で腰に手を当てる。
「ただいま戻りました」
言ってから、気づいた。
ただいま、と口にしたのは、この世界へ来て初めてだった。言われる方は門で済ませてきたが、言う方は初めてだ。
「顔は無事だね」マルタは俺を上から下まで眺めた。「歩き方は無事じゃないけど」
「分かりますか」
「宿屋を何年やってると思ってるんだい。肩かい」
「肩です」
「荷運びは最初がいちばん応えるんだよ。……ま、詳しい話は夕飯のときだね。部屋はそのままにしてあるから、先に体を拭いてきな。厨房で湯をもらうといい」
ありがたい話だった。二日分の埃と汗は、自分でも分かるくらい服に染みついている。
◇
部屋は、出ていったときのままだった。
背負い枠を壁際へ降ろす。中身は書類の控えと自分の荷物だけ。行きの18キロと比べれば空も同然のはずなのに、枠を降ろした瞬間、肩が別の生き物みたいに脈を打った。
荷の重さというのは、降ろしたあとに請求が来るらしい。
書店にいたころを思い出す。本の入った箱は、見た目のわりに重い。同じ大きさでも、服の箱と本の箱では別物だ。だから新人はまず、新刊の箱は腰で持つな、膝を曲げて脚で持て、と教わる。俺も教わったし、あとから何人にも教えた。
その知識は、この世界でも役に立った。役には立ったが、肩は痛い。知識と筋肉は、別の口座らしい。
――ノア。記録の整理だが、夜でいいか。
『構いません。整理の順番に希望はありますか』
――時系列で頼む。分類は、あとで俺が見ながらやる。
『承知しました』
相変わらず、返事は平坦だ。
靴紐を緩め、二日ぶりに靴から足を抜く。
声が出そうになった。出さなかったのは、隣の部屋に聞こえたら恥ずかしいという、38年分の分別のおかげだった。
◇
夕方の食堂は、ほどよく騒がしかった。
テーブルの半分ほどが埋まり、湯気と、煮込みの匂いと、誰かの笑い声が混ざっている。二日前と同じ光景だ。同じ光景の中に自分の席があるというだけで、ずいぶん印象が違う。
運ばれてきた煮込みには、肉が入っていた。
ローデ村の食事は豆と根菜の煮込みが中心で、肉は少なかった。それが不満だったわけじゃない。ないと分かっていれば、人間はそういうものとして食べる。
ただ、あると分かった瞬間の景色は、別だった。
一口食べて、息が抜けた。厨房の奥で、ベルクがこちらを見もせずに鍋をかき回している。あの背中に礼を言いたい気分だったが、たぶん振り向かないので、心の中だけにしておいた。
俺の皿は、心なしか肉が多い気がした。気のせいかもしれない。
「ツカサさん! 帰ってたんですね」
声は入口からだった。
振り向くと、リディアが立っていた。仕事帰りなのか、肩に布の鞄を掛けたまま、こちらへまっすぐ歩いてくる。
「さっき戻りました」
「おかえりなさい」
「ただいま……です」
今日はよく言われる日だ。門で、宿で、そして今。
「じゃあ」リディアは向かいの席へ、当たり前のように座った。鞄を膝に載せ、身を乗り出す。「約束の話、聞かせてもらえますね」
「ローデ村の話ですね」
「よかった。ちゃんと覚えてたんですね」
どこから話すべきか、一瞬考えた。仕事の報告なら、時系列に沿って要点を並べる。だが、これは報告ではない。
なので、最初に口から出たのは、こうなった。
「荷物が、重かったです」
「ふふ」
リディアは吹き出した。笑われた、と思ったが、続いた言葉は予想と違った。
「18キロくらいですか」
「……なんで分かるんですか」
「香の完成品と、道具と、材料。あの村への届け物なら、だいたいそのくらいです」リディアは指を折りながら言った。「私も仕入れで通る道ですから。荷の重さは、商人の挨拶みたいなものです」
そうだった。この人は、ローデ村へ買い付けに行く商人なのだ。
道のりの説明は、ほとんど要らなかった。石柱の分かれ道も、藪の増える村道も、リディアは俺より正確に知っていた。話が早い。話が早すぎて、俺が話を聞かせる約束のはずが、途中から答え合わせになっている。
「あ、ごめんなさい」リディアも気づいたらしく、口を押さえた。「聞く側でした」
「いえ。知ってる人に話す方が、楽です」
「じゃあ、遠慮なく」彼女は続けた。「魔物、出ませんでしたか」
「出ました」
リディアの目が丸くなる。身を乗り出した分、テーブルの皿が少し危ない。
「帰り道に一体。ウサギに似た、小さいのが」
「戦ったんですか」
「避けました。カレンさん――護衛の方が、こちらから何もしなければ大丈夫だと」
「よかった」リディアは息を吐いて、それから真顔で聞いた。「怖かったですか」
「見た瞬間は。ただ、正直に言うと、一番きつかったのは魔物じゃなくて荷物です」
「ふふっ」
また笑われた。
カレンにも、エルナにも、だいたい同じ顔をされた。俺の感想は、そんなにおかしいだろうか。荷物は半日で、魔物は数十秒だ。労働時間で考えれば、当然の順位だと思う。
「でも、分かる気がします」リディアは笑いながら言った。「私も初めての買い付けのとき、魔物より荷崩れの方が怖かったので」
「荷崩れ、ですか」
「買い付けのときは、行きより帰りの方が重いことが多いんです。行きは銀貨で、帰りは品物ですから」
言われて、なるほど、と思った。俺の配達は行きが重くて、帰りが軽い。同じ道でも、仕事が違えば、重さの向きが逆になる。
「冒険者と逆ですね」
「そうなんです。だから、行きのうちに道を覚えておくんです。帰りは荷物で頭がいっぱいなので」
へえ、と素直に思った。こういう話は、ギルドでは聞けない。
それから、話は村のことへ移った。
夕方、柵沿いの石台に香が焚かれること。白い煙は細くて、風が吹けばすぐ見えなくなること。効き目は派手じゃなく、朝、山羊の数が合う、という形でしか分からないこと。
リディアは、その話を一番熱心に聞いた。
「私、あの香が焚かれてるところ、見たことないんです。いつも昼に着いて、昼に出るので」
「地味でしたよ。煙が上がって、それだけです」
「それだけ、が大事なんじゃないですか」
リディアはあっさり言った。
「朝に数が合うって、すごいことですよ。帳簿だって、何も問題がなくて、最後にちゃんと合う日が一番ですから」
書店の閉店作業を思い出した。レジの金が合わない日と、ぴったり合う日。合う日は誰にも褒められない。だが、その日を積み重ねることが、店を回すということだった。
世界が変わっても、そこは変わらないらしい。
「それで」リディアは頬杖をついた。「護衛のカレンさんとは、うまくいきましたか」
「……歩き方と、荷物の背負い方と、道の見方を教わりました」
「それ、仕事の話です」
「仕事で行ったので」
リディアは、じっと俺を見た。それから、小さく笑った。
「……やっぱり、仕事の話になるんですね」
何がおかしいのかは分からなかったが、聞き返すと長くなりそうなので、煮込みの残りで口を塞いだ。
「でも、いい方と組めたんですね」
「はい。助かりました。次も機会があれば、と言ってもらえました」
「それは」リディアは少し目を細めた。「ちゃんと仕事をした人への言葉ですね」
商人の言い方だ、と思った。世辞と評価を、区別する言い方だった。
食堂の喧騒が、少しずつ落ち着いていく。
リディアの前にもいつの間にか皿が置かれていて、二人分の匙の音が、時々重なった。
「ありがとうございました、ツカサさん」
食べ終わるころ、リディアは改めて言った。
「約束、果たしてもらいました」
「話しただけですけど」
「その話が聞きたかったんです」彼女は鞄を抱え直した。「私の知ってる道と村を、初めて歩いた人がどう見たのか。……面白かったです。道の話で笑える人、なかなかいないので」
「褒められてる気がしません」
「褒めてます」
リディアは笑って、立ち上がった。
「次は、私の番ですね」
「番、というと」
「仕入れの話です。失敗談の方が多いですけど。約束の貸し借りは、早めに返すのが商人なので」
じゃあ、また。
そう言って、リディアは食堂を出ていった。扉のところで一度振り返り、小さく手を振った。
俺は匙を置いて、少しの間、そのままでいた。
貸し借り、という言い方をするなら――今のは、借りたのか、返されたのか、どっちなのだろう。
◇
部屋へ戻ると、窓の外はもう暗かった。
階下の物音と、遠くの笑い声が、床越しにかすかに届く。うるさくはない。人の気配というのは、量さえ間違わなければ、静けさの一種なのかもしれない。
――ノア。記録の整理を頼む。
『開始します。二日分の記録を時系列で読み上げますか』
――いや、項目だけでいい。
『移動、配達、宿泊、聞き取り、痕跡、魔物、精算。以上の七項目です』
――十分だ。分類は明日やる。あと、帰ってからの分はいい。
『記録しませんか』
――ああ。そこは覚えていられる。
『承知しました』
ベッドへ腰を下ろすと、肩がまた鈍く痛んだ。
報酬の袋は、机の上にある。明日は体を休めて、それから掲示板でも見に行こう。金はまだあるし、仕事はまた探せばいい。
急ぐ理由が、今夜はどこにもなかった。
ただいま、と言える場所が一つある。
話を聞きたがる人が、この街にいる。
今日のところは、それで十分だった。
お読みいただき、ありがとうございます。
初めての街の外での仕事を終え、アルネスへ戻ってきたツカサ。
少しずつ、「ただいま」と言える場所や人が増えてきました。
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