第14話 初めての魔物
朝の村は、昨日の夕方より静かだった。
山羊はもう柵の外へ出されていて、丘の斜面で草を食んでいる。石の台の上には、白い灰が薄く残っていた。焚いたものが、そこで終わったという跡だけがある。
ハンナは村の入口で待っていた。足元に、麻布をかけた籠が一つ置いてある。
「おはようございます。これ、空の容器です」
布をめくると、口の欠けていない容器が並んでいた。中はきれいに拭かれている。
「数、確認してもらえますか」
「お願いします」
俺は一つずつ数え、書類の欄と照らし合わせた。合っている。
「それと、こちらが報告書です」ハンナが折った紙を差し出した。「父から預かっています。昨夜のうちに書いていました」
「ありがとうございます」
受け取った紙は、封をされていた。中身は読まない。ギルドで開けてもらうものだ。
「本当は、父が直接お礼を言うはずだったんですけど。朝から出てしまって」
「大丈夫です。気にしないでください」
「よかった」ハンナは肩の力を抜いた。「そう言っていただけると助かります」
それから、思い出したように言った。
「昨日の話、あのあと聞いてみました。森の方で見たっていう人」
「どうでしたか」
「やっぱり、音でした。姿は見てないそうです」
「分かりました」
俺は籠を背負い枠へ固定しながら、頭の中で一つ、位置を動かした。自分で見た人が一人。音を聞いた人が一人。それが確かになった。
――ノア。昨日の記録のうち、森の方の分を、音を聞いたに移してくれ。
『変更しました』
柵の向こうで、かん、と木を打つ音がした。ヨナスが、昨日と同じ台のそばにいる。こちらに気づいて、槌を持った手を軽く上げた。俺も頭を下げた。
「では、失礼します」
「気をつけて。……また来てくださいね」
その言い方が、社交辞令ではないように聞こえた。
◇
村道へ入ると、荷の軽さがはっきり分かった。
行きは18キロ。帰りは書類と空容器だけだ。背中で揺れる感覚がまるで違う。足も前へ出しやすい。
「歩くの、速くなりましたね」
前を行くカレンが言った。
「荷が軽いので」
「それもありますけど、昨日より背筋が伸びています」
言われて気づいた。肩をすくめて歩く癖が、いつのまにか抜けている。
俺は歩幅を保ったまま、視線を動かした。
前。道の端。その向こう。
昨日は三度で首が疲れた。今日も疲れる。だが、疲れるのが分かっているぶん、途中で首の力を抜けるようになった。
畑がまばらになり、藪が背丈を増していく。行きに通った場所だ。あの草が倒れていたのは、この先の右側。
そこを通り過ぎるとき、俺は歩調を落とさずに横目で見た。
草は昨日と同じ向きに寝ていた。増えても減ってもいない。
「変わってないですね」
「はい」カレンも見ていたらしい。「新しく踏まれた様子はありません」
それだけで、通り過ぎた。
◇
森と接する区間へ入ってしばらく。
最初に気づいたのは、視界の端だった。
左の藪が、風とは違う速さで揺れた。上の方だけではなく、根元も動いている。風なら、揺れるのは葉の側からだ。
俺は足を止めた。
「カレンさん、あそこ」
声を落として、藪を指す。
「何かは分かりません。ただ、揺れ方が周りと違う気がします」
カレンが俺の指した先を見て、すぐに片手を上げた。止まれ、という合図だ。
そのまま、しばらく動かなかった。
藪が、もう一度揺れた。今度は、さっきより手前で。
そして、出てきた。
最初に見えたのは耳だった。長い。だが、真上へ立ってはいない。片方が横へ折れ、根元のあたりで妙な角度に曲がっている。
体は、膝より少し低いくらい。ウサギに似ていた。似ているが、ウサギではない。毛の色が地面と同じくらいくすんでいて、目が、こちらを見ているのに焦点が合っていないように見える。
俺は、思わず息を止めていた。
これが魔物か。
異世界へ来てから、話にはずっと出ていた。ギルドで聞き、門番から注意され、香を運び、痕跡だけは見た。だが、実物を目で見るのは初めてだった。
こんなに、静かなものなのか。
それは道の脇に出てきて、鼻先を動かし、こちらを見て、それから動かなくなった。
「ツカサさん」
カレンの声は普通だった。低くはあるが、緊張していない。
「はい」
「杖、握り直さなくていいです。そのままで」
言われて、自分が両手に力を入れていたことに気づいた。少し緩める。
「危なくないんですか」
「こちらから何もしなければ、大丈夫です。この辺りだと、たまに出ます」カレンは前を向いたまま答えた。「向こうも、近づいてきていません」
確かに、動いていなかった。
「このまま、道の右端を通ります。急がなくていいので、まっすぐ歩いてください。目を合わせ続けないように」
「走らない方がいいですか」
「走ると、こちらが変な動きをしたことになります」
俺たちは、そのまま歩いた。
横を通り過ぎるとき、視界の隅でそれが少し体の向きを変えるのが分かった。だが、それだけだった。二十歩ほど進んで振り返ると、もう藪の中に入ったのか、姿は見えなかった。
息を吐く。止めていたつもりはなかったのに、肺が急に楽になった。
「初めてでしたか」
「はい。姿を見たのは」
「そうですよね」カレンは少しだけ歩調を緩めた。「最初は、たいてい固まります」
「固まってました」
「動かなかったのは正解です」
しばらく歩いてから、一つ聞いてみた。
「昨日のも、あれだったんでしょうか」
「昨日の、というのは」
「鳥と虫が止まったところと、あの跡です」
カレンは少し考えてから、はっきり答えた。
「分かりません」
「同じものだった可能性は」
「あるとは思います。でも、同じだと判断できる材料がありません」カレンは首を横に振った。「昨日は姿を見ていませんし、音の重さも、今のものとは違った気がします。気がする、というだけです」
「じゃあ、別のものかもしれない」
「それも分かりません」
そう言われて、俺は少し変な安心の仕方をした。
分からないものが、分からないままそこにある。昨日ハンナに言ったことを、今度は自分が言われている。無理に埋めると、あとで困る。
――ノア。今見たものを記録してくれ。ウサギに似た小型の魔物。村道の、森と接した区間。こちらから何もしなければ危険はない、とカレンさんが判断した。昨日の痕跡と同じものかどうかは不明。
『記録しました。昨日の記録との関連は、不明のまま保持します』
それでいい。
◇
村道を抜け、二又の石柱が見えたとき、少し肩の力が抜けた。
右から左へ折れると、道幅が戻る。すれ違う人が現れる。荷馬車が、端へ寄って通り過ぎていく。
同じ景色のはずなのに、行きよりも広く見えた。
「主要街道に出ると、安心しますか」
「します」
「私もします」カレンはあっさり言った。「でも、帰り道の方が事故は多いですよ」
「そうなんですか」
「はい。行きは、みんな気を張っているので。帰りは荷が軽くて、道も分かっていて、早く戻りたくなる」彼女は前を向いたまま続けた。「それで足元を見なくなって、転びます。私も一度やりました」
「怪我を?」
「膝を打っただけです。でも、あのとき荷物を持っていたら、たぶん落としてました」
なるほど、と思った。
仕事の失敗は、忙しいときより、終わりが見えたときに出る。棚卸しの日、最後の一列で数を間違えるのは、たいてい終わりかけの時間帯だった。
「じゃあ、まだ気を抜かない方がいいですね」
「はい。でも、少しは抜いてください。ずっと張っていると、本当に必要なときに保ちません」
どっちなんだ、と思ったが、言いたいことは分かった。
しばらく、二人とも黙って歩いた。畑の中に人影が増え、遠くで犬が吠えている。
「ツカサさん」
「はい」
「初めて街の外へ出た仕事、どうでした?」
俺は少し考えた。
いろいろあった。だが、最初に口から出たのは、そういう話ではなかった。
「荷物が一番きつかったです」
カレンが振り向いた。
「魔物じゃなくて?」
「魔物は、正直、見た瞬間しか怖くなかったので」正直に言った。「荷物は半日ずっとです。肩が痛いのを、ずっと我慢してました」
「……ああ、それは分かります」
彼女は少し笑ったようだった。
「森は、思ったより緊張しました。あそこだけ、急に音が減るので」
「私も、あの区間は好きじゃないです」
「あと」俺は言葉を選んだ。「昨日教わっていなかったら、今日の藪には気づいてなかったと思います」
「そうですか?」
「はい。行きは、道しか見てませんでした」
カレンはしばらく黙ってから、言った。
「最初より、周りを見るようになりましたね」
「見ているだけで、分かってはいませんけど」
「それでいいです。全部見ようとしなくていいので」彼女は歩きながら続けた。「今日は、私が気づく前にツカサさんが止まりました。それは、覚えたということだと思います」
褒められ慣れていないので、返事に困った。
「……カレンさんが一緒で、助かりました」
「私も、一人より楽でした」
あっさりしていた。照れも、謙遜もない。
「荷物を持たなくてよかったので」
「そこですか」
「そこもです」
少しだけ、間があった。
それから、彼女は前を向き直った。
「あと、報告してくれる人と組むのは楽です。一人だと、全部自分で見ないといけないので」
その言い方の方が、さっきの言葉よりよほど嬉しかった。
◇
昼を少し過ぎたころ、門の前の列に並んだ。
順番が来ると、槍を持った男がこちらを見た。
「お、無事に戻ったな」
「なんとか」
「それならよし。おかえり」
それだけで、ロイドは道を空けた。
門をくぐりながら、俺は少し妙な気分になっていた。
二日前、この門を出るとき、俺は「行ってきます」とは言わなかった。言う相手がいなかったからだ。
それが今、おかえり、と言われている。
大した意味はない。門番が誰にでも言っていることかもしれない。
それでも、少し悪くなかった。
◇
冒険者ギルドへ着くと、エルナはいつもの窓口にいた。
「おかえりなさい。ローデ村からですね」
「はい。荷物は引き渡しました」
俺は受領書、報告書、それに空容器の入った籠を順にカウンターへ置いた。
エルナは受領書を開き、署名を確認する。
「村長さんご本人ではありませんね」
「不在でした。ご息女のハンナさんが代理です。村の共同物資と帳簿を管理していて、村長さんから任されていると確認しました」
「では、代理受領で処理します」
それから、彼女は帳簿を開いた。
「道中はいかがでしたか」
「行きで、少し気になる場所がありました。村道の森と接した区間で、鳥と虫の声が途切れたところがあって。同じあたりに、丸い跡と、一方向に倒れた草が。原因は分かりません」
「帰りは」
「帰りに確認した範囲では、新しい痕跡は見当たりませんでした」
エルナが書き込むのを待って、続ける。
「それとは別に、帰りに小型の魔物を一体見ています。ウサギに似たものです。戦っていません。避けて通りました」
「同じものですか」
「分かりません。それは、カレンさんも同じです」
「はい」カレンが横から答えた。「判断できる材料がありません」
エルナは頷いて、書き込んだ。
「それと、村の中で最近、森の近くで何か見たという話が出ています。ただ、自分で見た人と、音を聞いた人と、人から聞いた人が混ざっていました。家畜と柵に被害はありません。村長さんは、はっきりしたら届けを出すと」
「では、正式な報告ではありませんね」
「はい。村へ行った冒険者が聞いた話、として残していただければ」
エルナは、その分を別の欄へ書いた。
それで、書類の処理は終わった。
「依頼、完了です。お疲れさまでした」
差し出されたのは、銀貨六枚と銅貨三枚。銀貨七枚から、一割が引かれている。
「カレンさんも、お疲れさまでした」
「ありがとうございます」
カレンの分の硬貨も、隣へ置かれる。
エルナは帳簿を閉じてから、少しだけ身体の力を抜いた。
「それで、どうでした? 初めての、街の外の依頼」
「思っていたより、普通の仕事でした」
「普通、ですか」
「荷物を運んで、渡して、書類をもらう。だいたい、そこまでです」俺は正直に答えた。「あと、荷物が一番大変でした」
「それ、みなさん言います」エルナが笑った。「戦った話より、荷物の話をされる方が多いんですよ」
「魔物は、避けましたし」
「避けたんですか」
「はい」
「それが一番です」
言い方が、受付の口調ではなかった。
「うちの兄も冒険者なんですけど、初めての外の依頼から帰ってきたとき、三日くらい足を引きずってました」
「何があったんですか」
「新品の靴で行ったそうです」
カレンが横で、小さく息を漏らした。笑ったらしい。
「私も、それをやりました」
「みんなやります」エルナはそう言って、籠を引き寄せた。「容器、お預かりしますね」
◇
硬貨を袋へ入れる。
金額としては、驚くほどのものではない。街の中の依頼を二日受けても、同じくらいにはなる。
だが、これは違った。
街の外へ出て、半日歩いて、荷を届けて、受け取った相手を確認して、書類を持ち帰った。途中で魔物を見て、倒さずに戻ってきた。教わったことを一つずつやって、全部、終わらせた。
最初の仕事だ。
隣で、カレンも報酬をしまい終えていた。
「では、私はここで」
「はい。二日間、ありがとうございました」
彼女は頭を下げてから、少し考えるように口を開いた。
「ツカサさん」
「はい」
「また機会があれば、一緒に行きましょう」
「こちらこそ、お願いします」
「たぶん、次は荷物の背負い方から教えなくて済むので」
真顔でそう言って、彼女は扉の方へ歩いていった。
冗談だったのかどうか、最後まで分からなかった。
◇
ギルドを出ると、午後の光が眩しかった。
二日ぶりのアルネスは、出ていったときと何も変わっていない。露店の声がして、荷車が通る。
変わったのは、こっちだけだ。
『本日の記録を整理しますか』
――頼む。あとで宿でな。
『承知しました』
俺は袋の口を確かめてから、馬の看板のある方へ歩き出した。
肩がまだ痛い。
だが、悪くない痛みだった。




