第13話 分からないところは、分からないまま
村長の娘が言い終えたあとも、俺はしばらく黙っていた。
道端の草。一方向へ倒れていた、あの幅。
それと、今聞いた話が、頭の中で近い場所に置かれてしまっている。だが、結びつけていいのかどうかは分からなかった。
「ハンナさん」
「はい」
「今の話、もう少し聞いてもいいですか」
ハンナは受領の紙を帳面のあいだに挟みながら、少し首を傾げた。
「構いませんけど……何か、心当たりでも?」
「いえ。ただ、今日ここへ来る途中で、草の倒れ方が気になった場所がありました」
言ってから、慌てて付け足す。
「何かの跡かどうかは分かりません。カレンさんにも、断定はできないと言われました」
「そう言ってもらえると、こちらも気が楽です」ハンナは笑った。「うちの村、そういうの、すぐ大きな話になるので」
「大きくなるんですか」
「なりますよ。最初に言い出したのは、北の斜面の下で草を刈ってた人で。夕方に、木の間で何か動いたって。それが次の日には、村の裏に何か出たって話になってました」
彼女は帳面を小脇に挟み直した。
「そのあと、森の方でも見たっていう人が出て。あ、でもあの人は……見たっていうか、音を聞いたのかな。がさがさって。うちの人にそう言ってた気もします」
言いながら、自分で少し眉を寄せている。
「あと、別の人も何か言ってましたけど、あれは隣の家から聞いた話でした」
俺は途中から、頭の中で並べ替え始めていた。
最初の人は、自分で見ている。二人目は、たぶん音だ。三人目は伝聞。それが全部「見た人が続いている」という一つの話になって、今こちらへ届いている。
書店にいたころ、客からの問い合わせが売場を三つ経由して届いたことがあった。最後にこちらへ来たときには、探している本の著者名が別人になっていた。誰も嘘はついていない。ただ、渡すたびに少しずつ形が変わる。
「ハンナさん。今の話、少し整理させてもらっていいですか」
「整理、ですか」
「見たという話と、聞いたという話が、混ざっている気がして」
ハンナが、口を半分開けたまま止まった。
「……あ」
「北の斜面の方は、その人が自分で見ていますよね」
「見てます。刈ってる途中だったので、間違いないと思います」
「森の方は」
「そこが分かりません」ハンナは正直に言った。「音だった気もするし、見たって言ってた気もします。もう一度聞かないと」
「それで十分です。分からないところは、分からないままの方がいいので」
「そういうものですか」
「はい。無理に埋めると、あとで困るので」
俺は指を折りながら、順に並べた。
「自分で見た人が一人。音を聞いたかもしれない人が一人。あとは、人から聞いた話。場所は北の斜面の下と、森の方。どちらも夕方」
「夕方は合ってます。みんな夕方って言うので」
「時期は、いつ頃からですか」
「そんなに前じゃないです。前に香を受け取ったあとなので……ひと月は経ってません」
もう一つ、聞いておくべきことがあった。
「山羊や柵の方は、何かありましたか」
「いえ、そっちは何も」ハンナははっきり答えた。「山羊は毎朝、柵から出す前に数えてます。今のところ一頭も減ってません。柵も、壊れてたらうちの人がすぐ気づきます」
そこだけ、迷いがなかった。毎日数えている人間の答えだった。
「ノア」
『はい』
――今聞いた話を、見た人、音を聞いた人、人から聞いた人で分けて記録してくれ。場所と時間帯も一緒に。
『記録しました。ツカサが分類した区分のまま保持します』
「ハンナさん。一度、言い直しますね。違ってたら止めてください」
もう一度、順に口に出す。ハンナは板を胸に抱えたまま、一つずつ聞いていた。
「……北の斜面は、そうです。森の方は、やっぱりもう一度聞きます」
「お願いします。ただ、確かなことは、そんなに多くありません」
「そうですか?」
「今のところ、間違いないと言えるのは、山羊と柵に何もないことだけです。あとは全部、たぶんが付きます」
ハンナが目を丸くした。
「そんなに減るんですね」
「減りますね」
むしろ、そのくらい残れば上出来だ。
「でも、減ったのが悪いわけじゃありません。見た話と聞いた話が混ざったままだと、判断できないので。分けておけば、必要になったときギルドへ伝えやすくなります」
「伝えるとき」ハンナが繰り返した。「……父が届けを出すときですね」
「はい。何人が実際に見たのか、いつ、どこで、被害はあったか。それが分かれば、ギルドの方も動きやすいと思います」
それ以上のことは言わなかった。何がいるのか、危険なのかどうか。俺には分からない。判断できる立場でもない。
黙って聞いていたカレンが、そこで口を開いた。
「一つだけ、いいですか」
「はい」
「見たという方にもう一度聞くとき、こちらから『こういうものでしたか』と例を出さない方がいいです」
「例を出すと、どうなるんですか」
「そう見えたことになります」カレンは言った。「私も一度やって、狩人に注意されました」
なるほど、と思った。こちらが用意した形に、相手の記憶が寄っていく。
「聞くなら、何をしていたときに、どちらを向いていたか、くらいがいいと思います」
「覚えておきます」
ハンナが感心したように頷いた。
「詳しいんですね」
「詳しくありません」カレンは首を横に振った。「教わっただけです」
そこで、日が丘の向こうへ落ちかけているのに気づいた。
「そろそろ、支度をしないと」
ハンナが帳面を抱え直した。
◇
夕方の村は、思っていたより忙しかった。
山羊を柵の内側へ入れる者。桶を運ぶ者。畑から戻ってくる者。誰もが手を動かしていて、俺たちのことを気にする余裕もなさそうだった。
その中で、ハンナが柵沿いの石の台のところへ行くのが見えた。
台の上に何かを置き、火を入れている。少し離れたところにいたヨナスが、槌を置いて立ち上がり、隣の台へ移った。
「見に行っても構いませんか」
「どうぞ。危なくないところで見ていてください」
近づくと、白っぽい煙が細く上がっていた。
思っていたのとは違った。もっと分かりやすいものを想像していた。煙は細く、風が吹くたびに形を崩して、すぐ見えなくなる。
「これだけですか」
「これだけです」ハンナは手についた煤を払った。「派手なものだと思っていました?」
「正直に言うと、少し」
「みんなそう言います」
彼女は柵の中を指した。山羊が数頭、こちらを見ている。何頭かはもう座っていた。
「これを焚いておくと、朝、数が合うんです。それだけですけど、それが全部なので」
俺は、自分が半日かけて背負ってきた箱を思い出した。
角が肩に当たって、何度も背負い直した。重かった。中身が何なのかは書類で知っていたし、封を開けることもなかったから、最後まで「箱」でしかなかった。
それが今、白い煙になって、風に流れている。
朝、数が合う。
俺が運んだのは、そのための箱だった。
「明日、空の容器を渡しますね」ハンナが言った。「朝までにまとめておきます」
「お願いします」
『記録しますか』
ノアの声がした。
――いや。いい。
『承知しました』
◇
その夜は、村の集会に使うという建物の一室を借りた。
板張りの床に、藁を詰めた寝床が二つ。壁際に水の入った甕。それだけの部屋だった。食事は、ハンナが煮込みとパンを運んできてくれた。豆と根菜が多く、肉は少ない。だが、歩いたあとの身体には十分だった。
カレンは食べ終わると、剣と防具を膝の上に並べて手入れを始めた。
「毎日やるんですか」
「使わなかった日もやります」布で刃を拭きながら答える。「使った日だけやると、忘れるので」
それは分かる気がした。
「ツカサさんは、寝る前に何かしますか」
「今日あったことを、ノアに整理してもらいます」
「補助精霊、でしたね」
「はい。ただ、便利な道具ではありません。俺が知らないことは、あいつも知りませんから」
「それでも、覚えていてくれるのは楽だと思います」
カレンは手元から目を上げずに言った。それきり、しばらく布の音だけが続いた。
◇
寝床に横になってから、ノアへ声をかけた。
――今日の分を整理してくれ。
『本日の記録を提示します。依頼の引き渡し完了。受領者は村長代理。村周辺の目撃情報について、ツカサの分類に基づき保持。復路で持ち帰るものは、受領書、報告書、空容器』
――道中のことも。
『村道の後半、森と接する区間の手前で、鳥と虫の音が途切れた地点が一箇所。道端に、丸いくぼみ状の跡が一箇所。一方向へ倒れた草が一箇所。いずれも、原因は特定されていません』
特定されていない。そのとおりだ。
俺が知っているのは、そこに何かがあったかもしれない、ということだけで、それ以上は何も足せない。ノアも足さない。ここに来て、それはありがたいことのように思えた。
『整理を継続しますか』
――いや、もういい。
明日は同じ道を戻る。荷は軽くなる。書類と、空の容器だけだ。歩く距離も、かかる時間も、今日と変わらない。
ただ、今日と同じ道ではない。
あの草がどこにあったか、俺はもう知っている。北の斜面の下という言葉も、夕方という言葉も、頭の中に入ってしまった。何も起こらなければ、それは単なる知識で終わる。たぶん、そうなる。
それでも、行きよりは前を見て歩くことになるだろう。
前と、道の端と、その向こう。
外で、風が藁の屋根を鳴らしている。
その音を聞きながら、俺は目を閉じた。




