第9話 皇国への馬車の中で
リリアーナが目を覚ました時、馬車の窓の外には夕暮れの光が差していた。
いつの間に眠っていたのだろう。
ぼんやりと瞬きをすると、柔らかな膝掛けが肩までかけられていることに気づく。手首の赤い痕には、クララが巻いてくれた白い布。隣には、そのクララがリリアーナの手を握ったまま、こくりこくりと船を漕いでいた。
眠る前のことを、少しずつ思い出す。
処刑台。
黒狼の旗。
カイゼルの手。
王都の外門。
父との別れ。
そして、自分はもうグランベルク王国を離れたのだという事実。
胸の奥が、きゅっと痛んだ。
悲しいのか。
寂しいのか。
悔しいのか。
ほっとしているのか。
自分でも分からなかった。
王国へ戻りたいとは思わない。
けれど、生まれ育った場所を捨てることが、何も感じずに済むほど簡単なはずもなかった。
リリアーナは、窓の外へ目を向ける。
街道の両側には、なだらかな丘陵と森が続いていた。王都周辺の整えられた道とは違い、北へ向かう道は少しずつ荒々しさを増している。遠くの山並みは、夕陽を受けて薄紫に染まっていた。
グランベルク王国の北端を越えれば、ヴァレンティス皇国の領域に入る。
そこはリリアーナにとって、未知の国だった。
敵国。
幼い頃から、そう教えられてきた。
厳しい寒さと魔物の森に囲まれた、軍事国家。
黒狼を旗印に掲げる、恐ろしい皇国。
その頂点に立つ皇帝は、冷酷で、容赦がなく、血も涙もない男だと。
リリアーナは向かいの席を見る。
カイゼル・ヴァレンティスは、窓際に座り、静かに外を見ていた。
黒い軍装。
金の瞳。
整った横顔。
長い指は組まれ、表情はほとんど動かない。
確かに、噂だけを聞けば恐ろしく見えるかもしれない。
けれど彼は、処刑台にいたリリアーナへ手を差し伸べた。
リリアーナを信じると言った。
泣くことを責めず、休むことを許し、クララまで守ると言ってくれた。
噂とは、こんなにも当てにならないものなのだろうか。
そう思ってから、リリアーナは自分のことを思い出した。
悪役令嬢。
冷たい女。
聖女候補を虐げた罪人。
王国で囁かれていたリリアーナの噂もまた、真実ではなかった。
ならば人は、誰かを正しく見るより先に、自分に都合の良い物語を信じてしまうものなのかもしれない。
「目が覚めたか」
カイゼルの声がした。
リリアーナは、はっとして姿勢を正そうとする。
しかし、身体に力を入れた途端、全身の奥に重い疲労が戻ってきた。
「そのままでいい」
カイゼルは短く言った。
「ですが」
「まだ顔色が悪い」
そう言われ、リリアーナは思わず頬に手を添えた。
「申し訳ございません」
「謝るな」
また言われた。
リリアーナは小さく目を伏せる。
「……癖のようです」
「ああ」
カイゼルは否定しなかった。
「少しずつ直せばいい」
「直す、ものなのでしょうか」
「君が苦しいならな」
その言葉に、リリアーナは胸を突かれたような気がした。
謝ることは礼儀だと思っていた。
自分が先に頭を下げれば、場が荒れずに済むと思っていた。
そうしていれば、責められることも少なくなると。
けれど、それを苦しいものだと考えたことはなかった。
苦しくても、当然だと思っていたのだ。
クララが小さく身じろぎした。
「ん……お嬢様……」
リリアーナは慌てて、握られていた手をそっと動かす。
クララは目を覚まし、はっとして身を起こした。
「お嬢様! お目覚めになったのですね。お身体は? お水は召し上がりますか? お腹は空いていませんか? あ、手首は痛みますか?」
一息に尋ねられ、リリアーナは少しだけ目を丸くする。
その様子を見たクララは、自分で自分の慌てぶりに気づいたらしく、真っ赤になった。
「す、すみません。私ったら」
「いいえ。ありがとう、クララ」
リリアーナが微笑むと、クララはほっとしたように息を吐いた。
それからすぐに、座席の脇に置かれていた水差しを手に取る。
「まず、お水をどうぞ。陛下が、目を覚ましたらすぐ飲ませるようにと」
「陛下が?」
リリアーナがカイゼルを見る。
彼は平然としていた。
「眠る前から唇の色が悪かった。水分を取っていないだろう」
「……お気づきでしたのね」
「気づく」
短い返答。
けれどリリアーナには、それが少し不思議だった。
王国では、リリアーナがどれだけ疲れていても、顔色が悪くても、気づかれないことが多かった。いや、気づいていた者もいたのかもしれない。ただ、それは彼女自身がどうにかすべきものと扱われていた。
未来の王妃なのだから。
公爵令嬢なのだから。
できて当然なのだから。
カイゼルは違う。
彼は、リリアーナが無理をしていることを当然としない。
差し出された水を受け取り、リリアーナは少しずつ飲んだ。冷たすぎない水が、乾いていた喉を通っていく。
それだけで、身体の強張りがわずかにほどけた。
「ありがとうございます」
「食べられるか」
カイゼルが尋ねる。
クララはすでに小さな包みを広げていた。中には焼き菓子と、薄く切ったパン、乾燥果実が入っている。
「砦に着けば温かいものを用意できる。それまでの繋ぎだ」
カイゼルの言葉に、リリアーナは手元の包みを見つめる。
空腹かどうか、よく分からなかった。
胃の辺りは重い。
けれど、昨日の朝からほとんど何も食べていないことは確かだった。
クララが心配そうに言う。
「少しだけでも召し上がってください。お嬢様」
「そうね」
リリアーナは小さな焼き菓子を一つ手に取った。
口に運ぶ。
甘さが、舌の上でほろりとほどける。
その瞬間、妙なほど胸が詰まった。
生きている。
食べ物を口にして、甘いと感じている。
こんな当たり前のことが、今は信じられないほど遠いところから戻ってきたように感じた。
「おいしくありませんか?」
クララが不安そうに尋ねる。
リリアーナは首を振った。
「いいえ。おいしいです」
そう答えた途端、目の奥が熱くなる。
クララが慌ててハンカチを取り出した。
「お嬢様」
「ごめんなさい。変ですね。お菓子を食べただけなのに」
「変じゃありません」
クララは涙声で言った。
「生きているから、食べられるんですもの」
その言葉に、リリアーナはもう何も言えなくなった。
カイゼルも黙っていた。
その沈黙は重くなかった。
泣くことも、食べることも、息をすることも、すべて許されているような沈黙だった。
しばらくして、馬車の外から騎士の声が届いた。
「陛下。前方に野営地を確認しました。予定通り、国境砦までは日没後の到着となります」
「分かった。速度を落とせ。馬も休ませる」
「はっ」
外の気配が少し変わる。
馬車の速度がゆるやかになり、揺れも穏やかになった。
リリアーナは窓の外を眺める。
王国の土地はまだ続いているはずなのに、景色は少しずつ変わっていた。
王都周辺の華やかな屋敷や整備された畑はなく、代わりに広い草原と深い森が増えている。
国境が近い。
そう思うと、胸の奥にまた不安が広がる。
皇国へ入れば、自分はどうなるのだろう。
カイゼルは守ると言ってくれた。
妻として迎えたいとも。
その言葉を思い出した途端、リリアーナの頬に熱が差した。
妻。
あまりにも大きな言葉だった。
アルヴィスの婚約者だった時でさえ、リリアーナはどこか役目としてその立場を受け入れていた。愛されている実感など、ほとんどなかった。
それなのに、カイゼルはリリアーナ自身を望むと言った。
信じたい。
けれど、怖い。
望まれることが怖い。
必要とされることが怖い。
また失望される日が来るのではないかと、どうしても考えてしまう。
「不安か」
カイゼルが言った。
リリアーナは驚いて彼を見る。
「顔に出ていましたか」
「少し」
そう言われ、リリアーナは思わず頬に手を当てる。
今まで、表情を読まれることはあまりなかった。
冷たい、何を考えているか分からない、そう言われることの方が多かった。
カイゼルは、なぜか彼女の小さな揺れに気づく。
「皇国へ行くことが怖いのは当然だ」
「……はい」
リリアーナは、今度は否定しなかった。
「怖いです。陛下を疑っているわけではありません。けれど、私は皇国のことをほとんど知りません。王国では敵国だと教えられてきました」
「事実、敵対していた時期はある」
カイゼルはあっさり認めた。
「国境では小競り合いもあった。互いに損害を出している。王国が皇国を恐ろしく語るのも、分からないではない」
「では、皇国の方々も王国を憎んでいるのでは」
「憎む者もいる」
リリアーナの指先が少し強張る。
カイゼルはそれを見て、続けた。
「だから、すべてが穏やかに進むとは言わない。皇国にも、君を歓迎しない者はいるだろう」
正直な言葉だった。
優しい嘘で安心させるのではなく、現実を隠さず伝える声。
リリアーナは、その誠実さに少しだけ救われる。
「ですが、それならなおさら、私を皇国へ迎えることは陛下のご負担になります」
「負担かどうかは私が決める」
「……陛下は、あまりにも簡単におっしゃいます」
「簡単ではない」
カイゼルは静かに言った。
「だが、決めた」
その言葉には、皇帝としての重みがあった。
リリアーナは俯く。
「私は、陛下に何をお返しできるのでしょう」
「返す必要はない」
「そういうわけには」
「なる」
カイゼルは少しだけ強い声で遮った。
リリアーナが顔を上げると、彼は真っ直ぐにこちらを見ていた。
「君は助けられたからといって、代価を差し出す必要はない」
「けれど」
「君が七年前、私に代価を求めたか」
リリアーナは息を止めた。
七年前。
森で傷ついていた少年を助けた時、リリアーナは見返りなど考えなかった。
当然のことをしただけだった。
カイゼルは続ける。
「あの時、君は私に何も求めなかった。名誉も、金も、礼も、王国への利益も」
「それは……」
「私は今、同じことをしている」
リリアーナは言葉を失う。
同じこと。
あの時、自分は傷ついた少年を助けた。
今、彼は傷ついたリリアーナを助けている。
そこに代価はいらないのだと、彼は言う。
「君は今、生きることだけ考えればいい」
カイゼルの声は低く、揺るがない。
「役に立つことではなく。返すことでもなく。生きることを」
リリアーナの胸が熱くなる。
生きること。
あまりにも単純で、けれど今のリリアーナにはとても難しいことだった。
処刑台に立った時、自分は確かに死を覚悟した。
死にたくないと、初めて本音をこぼした。
そして今、生きろと言われている。
「……努力します」
リリアーナは小さく答えた。
カイゼルは眉をひそめる。
「努力ではなく」
「え?」
「いや」
カイゼルは少しだけ言葉に迷ったようだった。
そして、不器用に言い直す。
「……ゆっくりでいい」
その言い方が、なぜかリリアーナの胸に柔らかく触れた。
皇帝らしい命令ではない。
けれど、優しさを伝えようとしてくれているのは分かる。
クララが隣で、こっそり目元を拭っていた。
「クララ、また泣いているの?」
「泣いていません」
「でも」
「これは、安心の涙です」
クララは胸を張るように言った。
その様子に、リリアーナは小さく笑った。
笑えた。
自分が笑ったことに、リリアーナ自身が少し驚いた。
カイゼルも、ほんの一瞬だけ目元を和らげたように見えた。
その表情はすぐに消えてしまったが、リリアーナは確かに見た。
冷酷皇帝と呼ばれる人の、わずかに柔らかな顔を。
馬車はやがて、夕暮れの森沿いへ入った。
木々の影が長く伸び、窓の外をゆっくりと流れていく。
王都から遠ざかるにつれ、空気は冷たさを帯びてきた。
クララがリリアーナの膝掛けを整える。
「寒くありませんか?」
「少しだけ」
「では、こちらも」
クララがもう一枚薄い布をかけようとした時、カイゼルが先に自分の外套を差し出した。
クララが固まる。
リリアーナも固まった。
「陛下、それは」
「寒いのだろう」
「ですが、陛下の外套です」
「私には不要だ」
どう見ても必要そうな夕風の冷たさだったが、カイゼルは平然としている。
クララが小声でリリアーナへ囁いた。
「お嬢様、ここは受け取った方がよろしいかと」
「でも」
「たぶん、陛下は引きません」
その言葉に、リリアーナはそっとカイゼルを見る。
カイゼルは外套を差し出したまま、無言で待っている。
確かに、引く様子はない。
リリアーナは戸惑いながらも受け取った。
「ありがとうございます」
「ああ」
短い返事。
けれど外套は温かかった。
処刑台でかけられた黒いマントとは別の、少し厚手のもの。
肩にかけると、カイゼルの体温と、かすかな革と冬の森のような匂いがした。
リリアーナは、なぜか落ち着かなくなって目を伏せる。
クララが微妙ににこにこしているのが気になった。
「クララ」
「はい、何でしょう」
「その顔は何ですか」
「いえ、何でもありません」
明らかに何かある顔だった。
カイゼルは二人のやり取りの意味が分かっていないのか、無表情のまま窓の外を見ている。
その不器用さが、少しだけおかしかった。
リリアーナは外套の端を握り、静かに息を吐いた。
こんな時間が、まだ自分に残されていた。
恐怖や絶望だけではなく、誰かの気遣いに戸惑い、小さく笑う時間が。
それが、信じられないほど不思議だった。
日が沈みかけた頃、馬車は小さな野営地に入った。
皇国騎士たちが手際よく馬を休ませ、周囲を警戒する。焚き火の準備が始まり、簡易の天幕も立てられていく。
リリアーナが馬車から降りようとすると、カイゼルが当然のように手を差し出した。
彼の手を借りることに、まだ慣れない。
それでも今回は、リリアーナは素直にその手を取った。
地面に降り立つと、足元が少しふらついた。
すぐにカイゼルの手が支える。
「やはり、まだ休むべきだ」
「少し足元が揺れただけです」
「それを、休むべきと言う」
断定された。
クララが横で何度も頷いている。
「お嬢様、陛下のおっしゃる通りです」
「クララまで」
「今日は陛下側につきます」
裏切られた気分だったが、言い返すほどの力はなかった。
カイゼルに案内され、リリアーナは小さな天幕の中へ入った。
中には簡易の椅子と寝台があり、思っていたよりも暖かい。
すぐに温かいスープと柔らかなパンが運ばれてきた。
「食べられるだけでいい」
カイゼルが言う。
リリアーナは椀を受け取った。
湯気の立つスープは、香草と野菜の匂いがした。
一口飲むと、温かさが身体の奥に広がる。
思わず目を閉じた。
「おいしい」
小さく呟いた言葉に、クララが嬉しそうに笑う。
カイゼルも、ほんのわずかに表情を和らげた。
それに気づいたリリアーナは、少しだけ視線を落とす。
誰かが自分の食事を喜んでくれる。
それもまた、慣れない感覚だった。
王国では、食事は社交の一部だった。
どの皿をどの順で口に運ぶか。誰にどの話題を振るか。どの程度食べれば見苦しくなく、どの程度残せば失礼でないか。
常に正しい振る舞いを考えていた。
今はただ、温かいスープが喉を通る。
それだけで、少し生き返る気がした。
食事の後、クララがリリアーナの髪を軽く整え、天幕の外へ下がった。湯をもらって布を温め、手首の痕を冷やす準備をするらしい。
天幕の中には、カイゼルとリリアーナだけが残った。
途端に、リリアーナは少し緊張する。
カイゼルは椅子に座るよう促した。
「休め」
「陛下は?」
「外で見張りを確認する」
「皇帝陛下が、ご自身で?」
「私の部下は優秀だ。だが、確認はする」
皇帝というより、戦場の指揮官の顔だった。
リリアーナは、その姿を見てふと思う。
この人は、きっとずっと戦ってきたのだ。
王国の貴族たちが舞踏会や茶会で噂を交わしている間も、皇国の北で、魔物や敵対勢力と向き合ってきたのだろう。
「陛下」
呼び止めると、カイゼルが足を止めた。
「何だ」
「七年前のことを、私は詳しく覚えていませんでした」
カイゼルは黙っている。
「助けた少年が、陛下だったことも。命の恩人と言っていただけるほどのことをしたという意識もありませんでした」
リリアーナは膝の上で手を重ねる。
「それなのに、陛下は私を信じてくださいました」
「ああ」
「なぜ、そこまで」
ずっと聞きたかった問いだった。
カイゼルはしばらく黙っていた。
焚き火の音が、天幕の外から微かに届く。
「七年前の私は、誰も信じていなかった」
やがて、カイゼルは静かに言った。
「皇位継承争いの最中だった。身内も、臣下も、笑顔で近づく者ほど信用できなかった。王国へ来たのも、和平交渉という名目だったが、実際は互いに探り合いだった」
リリアーナは静かに聞いていた。
「襲撃された時、私は自分の死を覚悟した。敵国の森で、護衛ともはぐれ、血を流していた。見つかれば殺される。助けなど来ないと思っていた」
金色の瞳が、わずかに遠くを見る。
「そこへ、君が来た」
リリアーナは息を呑む。
「君は私を疑った。警戒もした。だが、傷を見た瞬間に手を伸ばした」
「それは」
「君にとっては、当然のことだったのだろう」
カイゼルは、少しだけ目を伏せた。
「だが私にとっては、当然ではなかった」
その言葉が、リリアーナの胸に残った。
「君は、敵か味方かで私を見なかった。利用価値があるかどうかでも、身分でも、国でも見なかった。ただ、傷ついた人として見た」
カイゼルはリリアーナへ視線を戻す。
「だから、覚えていた」
「陛下……」
「私にとって君は、死の淵で初めて差し伸べられた、打算のない手だった」
リリアーナは、何も言えなかった。
七年前の自分は、そんな大きな意味を持つことをしたつもりなどなかった。
ただ、目の前の少年を助けたかっただけだ。
けれど、その行動がカイゼルの中で生き続けていた。
「だから私は、今度は私が君に手を伸ばすと決めていた」
カイゼルの声は静かだった。
「間に合わないところだったが」
その最後の言葉だけ、わずかに低くなる。
リリアーナは、処刑台で振り上げられた斧を思い出した。
あの瞬間、カイゼルが現れなければ、自分はもうここにはいなかった。
「間に合ってくださいました」
リリアーナは言った。
「私は、今ここにいます」
カイゼルの瞳が揺れた。
ほんの一瞬だけ。
彼は何かを言いかけたが、結局、短く頷いた。
「そうだな」
その時、天幕の外からクララの声がした。
「お嬢様、温めた布をお持ちしました」
リリアーナは少しだけほっとする。
「ありがとう、クララ」
クララが天幕へ入ってきて、カイゼルに礼をする。
「陛下、失礼いたします。お嬢様の手当てを」
「ああ。頼む」
カイゼルは一歩下がる。
そして、天幕を出る直前に振り返った。
「リリアーナ」
「はい」
「今夜は眠れ。悪夢を見たら、クララを起こせ」
クララが力強く頷く。
「もちろんです」
リリアーナは、少し迷ってから尋ねた。
「陛下を、ではなく?」
カイゼルは表情を変えなかった。
「私を呼んでもいい」
クララの手が止まった。
リリアーナも、何も言えなくなる。
カイゼルは当然のように続けた。
「すぐ近くにいる」
そう言って、彼は天幕を出ていった。
残されたリリアーナは、しばらく入口の布を見つめていた。
クララがそっと囁く。
「お嬢様」
「何?」
「陛下は、かなり本気でいらっしゃいますね」
「……何が?」
「いえ、何でもございません」
クララはにこにこしながら、温めた布をリリアーナの手首に当てた。
じんわりとした温かさが、赤くなった肌に染み込んでいく。
リリアーナは小さく息を吐いた。
「温かい」
「痛みますか?」
「少し。でも、先ほどより楽です」
「よかった」
クララは丁寧に手当てを続ける。
その顔には、まだ不安と疲れがあった。
けれど王宮にいた時よりも、どこか表情が柔らかい。
「クララも疲れたでしょう」
「私は平気です」
リリアーナは静かに彼女を見た。
「クララ」
「……はい。疲れました」
素直に言い直すクララに、リリアーナは少しだけ笑った。
「私たち、二人とも休まなければいけませんね」
「はい」
クララは、今度こそ穏やかに頷いた。
その夜、リリアーナは簡易の寝台に横になった。
天幕の外では、皇国騎士たちの足音と、焚き火の爆ぜる音が聞こえる。
王宮の豪奢な寝室とは比べものにならない簡素な場所だった。
けれど、不思議と地下牢よりも、王宮の客室よりも、心は落ち着いていた。
クララはすぐそばに座っている。
天幕の外には、カイゼルがいる。
敵国へ向かう野営地。
本来なら、不安で眠れないはずの場所。
それなのにリリアーナは、ゆっくりと目を閉じることができた。
眠りに落ちる直前、遠くで狼の遠吠えのような音が聞こえた気がした。
怖くはなかった。
その声は、どこか守りの合図のように聞こえた。
リリアーナは、黒い外套をそっと握りしめる。
そして久しぶりに、誰かのためではなく、自分の身体を休めるために眠った。




