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第8話 王国を出る日

 黒い馬車は、王都から北へ続く街道を進んでいた。


 王宮の白い塔は、もう遠く霞んでいる。

 朝の光を受けて輝いていたはずの城壁も、馬車の小窓から見れば、ただ小さく白い線のように見えた。


 リリアーナは窓辺に座り、遠ざかる王都を見つめていた。


 昨日の朝まで、あの場所に自分の未来があるのだと思っていた。

 王太子の婚約者として、未来の王妃として、王国のために尽くしていくのだと。


 けれど一夜明けた今、彼女は罪人として処刑台に立たされ、敵国皇帝の手によって王都を離れている。


 たった一日で、人生はここまで変わるものなのだろうか。


「お嬢様、お身体はつらくありませんか?」


 隣に座るクララが、まだ心配そうにリリアーナを見ていた。


 何度も泣いたせいで目元は赤い。

 それでもリリアーナの手首の痕に布を巻き、乱れた髪を整えようとする姿は、いつもの侍女そのものだった。


 そのことが、リリアーナには少しだけ救いだった。


「ええ。少し落ち着きました」


「本当ですか?」


「……本当です。ただ、疲れてはいるかもしれません」


 大丈夫です、と言いかけて、リリアーナは言葉を変えた。


 クララは一瞬驚いたように目を丸くし、それから泣き笑いのような顔になった。


「はい。疲れていて当然です。お嬢様は、一晩中ひどい目に遭われたのですから」


「そう、ですね」


 ひどい目に遭った。


 そんな当たり前のことを、リリアーナはまだうまく受け入れられずにいる。


 自分は無実だ。

 何もしていない。

 それなのに断罪され、処刑されかけた。


 その理不尽さを認めてしまえば、胸の奥に押し込めていたものが溢れてしまいそうだった。


 向かい側に座るカイゼルは、黙って二人のやり取りを見ていた。


 黒い軍装のまま、腕を組んで座っているだけで、馬車の中の空気が引き締まる。

 けれどリリアーナは、もう彼の沈黙を怖いとは思わなかった。


 彼は、待ってくれる人だ。


 リリアーナが話すまで。

 リリアーナが選ぶまで。

 リリアーナが自分の足で立てるまで。


 そのことが、少しずつ分かってきた。


「陛下」


 リリアーナが呼ぶと、カイゼルの金色の瞳がこちらへ向いた。


「何だ」


「私は、これから皇国へ向かうのでしょうか」


「ああ。まずは国境の砦へ向かう。そこから皇都へ入る」


「私は……どのような立場で皇国へ入ることになりますか」


 クララが不安そうにリリアーナを見た。


 それは、避けて通れない問いだった。


 処刑台から救われたとはいえ、リリアーナはグランベルク王国の公爵令嬢だ。

 しかも、王国側では今なお罪人として扱われている。


 皇国に入れば、敵国の令嬢として見られるだろう。

 カイゼルが守ると言ってくれたとしても、皇国の貴族や民がどう思うかは別の話だ。


 カイゼルは、リリアーナの問いにすぐ答えた。


「私の客人だ」


「客人……」


「同時に、皇帝の庇護下にある者として扱う。誰にも手出しはさせない」


「ですが、王国からは抗議が来るのではありませんか」


「来るだろうな」


 あまりにも淡々とした答えに、リリアーナは思わず彼を見る。


「よろしいのですか?」


「構わない」


「王国との関係が悪化します」


「すでに悪い」


 カイゼルは短く言った。


 その言い方があまりに率直で、クララが小さく目を丸くする。


 リリアーナも、ほんの少しだけ肩の力が抜けた。


「けれど、私のせいで戦になるようなことは」


「君のせいではない」


 カイゼルの声が低くなる。


「王国が、証拠もなく君を処刑しようとした。それを止めた。起点はそこだ」


「……ですが」


「君が責任を背負う必要はない」


 その言葉は、リリアーナの胸にまた静かに染み込んだ。


 責任を背負わなくていい。


 そんなことを、今まで誰かに言われたことがあっただろうか。


 王太子の失言も。

 王宮の空気も。

 公爵家の体面も。

 王国の政務も。

 いつも誰かが当然のようにリリアーナへ差し出し、リリアーナもまた当然のように受け取ってきた。


 それが役目だと思っていた。


 けれど、その役目は彼女を処刑台まで連れていった。


「私は、何もかも背負わなくてよいのでしょうか」


 小さく漏れた問いに、カイゼルははっきりと頷いた。


「背負いたいものだけを選べばいい」


 リリアーナは言葉を失う。


 背負いたいもの。


 その発想は、彼女の中にはなかった。


 背負うべきものは、いつも他人が決めていた。

 公爵家の娘として。

 王太子の婚約者として。

 未来の王妃候補として。


 けれど、これからは自分で選んでよいのだろうか。


 本当に。


 リリアーナは膝の上で手を握りしめた。


 その時、馬車の外がにわかに騒がしくなった。


 蹄の音が近づいてくる。

 皇国騎士のものではない。軽く、急いた音だった。


 馬車がゆっくりと速度を落とす。


 外から護衛騎士の声が響いた。


「陛下。後方より王国の使者が追ってきております」


 カイゼルの表情がわずかに冷える。


「数は」


「三騎。先頭は、エルフェルト公爵家の紋章を掲げています」


 リリアーナの心臓が小さく跳ねた。


 エルフェルト公爵家。


 父だろうか。

 それとも公爵家の使者か。


 カイゼルはリリアーナを見た。


「止める必要はない。追い払う」


「お待ちください」


 リリアーナは思わず声を上げた。


 カイゼルの瞳が、静かに彼女を映す。


「会うのか」


 問いだった。


 命令ではない。

 また、リリアーナに選ばせてくれている。


 彼女は少しだけ迷った。


 会いたくない。

 けれど、何も聞かずに去れば、胸の奥に小さな棘が残る気がした。


「……話だけ、聞きます」


「分かった」


 カイゼルはすぐに頷き、外へ命じた。


「馬車を止めろ。ただし、近づけすぎるな」


 馬車が街道の脇に止まった。


 扉が開く。

 先にカイゼルが降り、続いてリリアーナへ手を差し出す。


 リリアーナは黒いマントを肩にかけたまま、その手を取って地面へ降りた。


 春の終わりの風が、銀髪を揺らす。


 遠くには王都の城壁がまだ見えている。

 けれど、もうすぐ見えなくなる距離だった。


 後方から駆けてきた三騎のうち、先頭の馬が少し離れたところで止まる。


 馬上にいたのは、ギルベルト・エルフェルトだった。


 昨夜からほとんど眠っていないのだろう。

 いつも厳格に整えられていた銀灰色の髪はわずかに乱れ、顔色は悪い。


 彼は馬から降りると、リリアーナを見た。


「リリアーナ」


 その声は、昨夜よりも弱かった。


 リリアーナは黙って父を見つめた。


 幼い頃、あの声に呼ばれれば背筋を伸ばした。

 褒められたくて、認められたくて、何度も努力した。


 けれど今、胸に浮かんだのは喜びではなかった。


 痛みだった。


「父上。何の御用でしょうか」


 ギルベルトの顔が強張る。


 父上。


 呼び方は同じなのに、その間にある距離は昨日までとはまるで違っていた。


「戻りなさい」


 ギルベルトは言った。


 リリアーナは、静かに瞬きをする。


「それだけをお伝えに?」


「お前はエルフェルト家の娘だ。敵国皇帝についていくなど、許されることではない」


「私は、王国で処刑されかけました」


「それは……王太子殿下の裁定が性急であったことは、認める」


 性急。


 その言葉に、リリアーナの胸が冷える。


 証拠もなく罪人とされ、処刑台に立たされ、斧を振り下ろされる寸前だった。

 それを、性急という言葉で片づけるのか。


「父上は、まだそれを性急であったとおっしゃるのですね」


「リリアーナ」


「間違いだった、とはおっしゃらないのですか」


 ギルベルトの唇が動く。

 だが、言葉はすぐに出なかった。


 リリアーナは、それだけで十分だった。


「私は無実です」


「ああ」


 ギルベルトが頷く。


 その反応に、リリアーナの胸が小さく揺れた。


 けれど次の言葉が、残っていた期待を静かに消した。


「今となっては、調査の余地があると思っている」


 今となっては。


 リリアーナは、その言葉を心の中で繰り返した。


 昨夜ではなく。

 今朝でもなく。

 処刑台の前でもなく。


 敵国皇帝が現れ、リリアーナが王国を去ろうとしている今になって。


 ようやく、調査の余地がある。


「遅すぎます」


 リリアーナは言った。


 声は、自分でも驚くほど静かだった。


 ギルベルトの顔が歪む。


「リリアーナ、私は公爵家を守らなければならなかった」


「はい」


「王家に逆らえば、エルフェルト家は終わる」


「はい」


「お前にも、それは分かるはずだ」


「分かります」


 リリアーナは、頷いた。


 分かる。


 痛いほどに。


 だから彼女は、幼い頃から何度も自分を抑えてきた。

 公爵家のため。

 王家との関係のため。

 父の期待に応えるため。


 けれど。


「分かることと、許せることは違います」


 ギルベルトの瞳が揺れた。


「私は父上に、王家と戦ってほしかったわけではありません。すべてを捨てて私を庇ってほしかったわけでもありません」


「では、何を」


「一度だけでよかったのです」


 喉が少し震えた。


 それでも、リリアーナは言葉を止めなかった。


「一度だけ、私に尋ねてほしかった。『お前はやったのか』と。私が『やっていない』と答えたなら、せめて調べようとしてほしかった」


 ギルベルトの顔から、血の気が引いていく。


「私は、ただ信じてほしかったのです。父上に」


 風が吹いた。


 街道脇の草が揺れる。


 ギルベルトは何も言えなかった。


 彼は厳しい人だった。

 感情よりも家を優先し、娘にもそれを求めた。


 リリアーナは、そんな父をずっと誇ろうとしてきた。

 厳しさも愛なのだと、自分に言い聞かせてきた。


 けれど、処刑台の上で悟った。


 愛であったとしても、守ってくれない愛なら、今のリリアーナにはもう縋れない。


「戻りません」


 リリアーナは言った。


「私は、もう王国には戻りません」


「リリアーナ!」


 ギルベルトが一歩踏み出しかける。


 その瞬間、カイゼルがわずかに前へ出た。


 ただそれだけで、ギルベルトの足が止まる。


 カイゼルは冷たい声で言った。


「彼女は戻らないと言った」


「これは我が家の問題です」


「貴公は、家の問題として彼女を守らなかった」


 ギルベルトが息を呑む。


「今さら父親の顔をするな」


 その言葉は、あまりにも鋭かった。


 リリアーナは思わずカイゼルを見る。


 カイゼルの横顔に、怒りがあった。

 ただし、それは激しく燃える怒りではなく、深く凍った怒りだった。


 ギルベルトは拳を握る。


「陛下には分からぬ。公爵家当主として背負うものが」


「分からないな」


 カイゼルは即答した。


「命を奪われかけた娘に戻れと言う父親の心は、私には分からない」


 ギルベルトは言葉を失った。


 リリアーナは、小さく息を吸う。


「父上」


 呼ぶと、ギルベルトの視線が戻ってきた。


「お元気で」


 たったそれだけ。


 リリアーナは深く礼をした。


 公爵令嬢として。

 娘として。

 最後の別れとして。


 ギルベルトが愕然とする。


「リリアーナ、待ちなさい。私はまだ」


「私はもう、十分待ちました」


 リリアーナは顔を上げた。


「幼い頃から、ずっと」


 その言葉を最後に、彼女は背を向けた。


 カイゼルが何も言わずに隣を歩く。

 クララが馬車の扉のそばで涙をこらえている。


 リリアーナは振り返らなかった。


 父の声は聞こえなかった。


 あるいは、呼ぼうとして呼べなかったのかもしれない。


 馬車へ戻ると、クララがリリアーナの手を取った。


「お嬢様……」


「大丈夫、ではありません」


 リリアーナは先に言って、少しだけ笑った。


「でも、言えてよかったです」


 クララはまた泣きそうな顔になった。


「はい」


 馬車の扉が閉められる。


 再び車輪が動き出した。


 今度こそ、王都は遠ざかっていく。


 しばらく馬車の中には、誰の声もなかった。


 リリアーナは窓の外を見つめていた。

 街道沿いには若草が揺れ、遠くには北へ続く森が見える。


 王国の景色。


 生まれてからずっと見てきたもの。

 けれど今は、どこか知らない場所のように思えた。


「陛下」


 リリアーナは静かに口を開いた。


「何だ」


「私は、親不孝な娘でしょうか」


 クララが息を呑む。


 カイゼルはしばらく黙っていた。


 そして、短く答える。


「違う」


「ですが、父を置いていきました」


「貴公の父は、先に君を置いた」


 リリアーナの胸が痛む。


 けれど、その痛みから目を逸らしてはいけない気がした。


「君が今選んだのは、父を捨てることではない」


 カイゼルは続けた。


「自分を殺そうとした場所へ戻らないことだ」


 リリアーナは目を伏せる。


 その言葉は冷静で、残酷なほど正しかった。


 自分は王国を捨てたのではない。

 捨てられた場所へ戻らないと決めただけ。


 そう考えても、胸の痛みは消えない。


 けれど、少しだけ呼吸がしやすくなった。


「ありがとうございます」


「礼を言う必要はない」


「それでも、言わせてください」


 リリアーナは小さく微笑んだ。


「今の私には、礼を言うことくらいしかできませんから」


 カイゼルは、少しだけ眉をひそめた。


「できることを探さなくていい」


「え?」


「今は休め」


 短い言葉。


 だが、そこには確かな気遣いがあった。


 クララも大きく頷く。


「そうです、お嬢様。まずは休んでください。昨夜から一睡もされていないのですから」


「けれど、皇国へ向かう以上、私は」


「リリアーナ」


 カイゼルが名を呼んだ。


 その声に、リリアーナは口を閉じる。


「君は今、保護される立場だ。働く必要はない。役に立つ必要もない。誰かに認められようとしなくていい」


 リリアーナは、また言葉を失った。


 役に立つ必要がない。


 それは、彼女にとってあまりに慣れない言葉だった。


 役に立たなければ、居場所はないと思っていた。

 認められなければ、愛されることはないと思っていた。

 努力し続けなければ、捨てられると思っていた。


 けれどカイゼルは、それを否定する。


 何度も。


 まるで、壊れたものを少しずつ直そうとするように。


「……休んでも、よいのですか」


「ああ」


「何もしなくても?」


「何もしなくていい」


 リリアーナは、しばらくカイゼルを見つめていた。


 そして、ようやく小さく頷いた。


「では、少しだけ」


 クララが慌てて馬車の座席にクッションを整える。

 カイゼルは自分のマントとは別に、馬車内に備えられていた厚手の膝掛けをリリアーナへかけた。


 至れり尽くせりの扱いに、リリアーナは戸惑った。


「ここまでしていただかなくても」


「必要だ」


「ですが」


「反論は休んでから聞く」


 その言い方があまりに当然のようで、リリアーナは思わず黙ってしまった。


 クララが小さく笑う。


 久しぶりに聞いた、柔らかな笑い声だった。


 その音に安心したのか、リリアーナの身体から少しずつ力が抜けていく。


 馬車の揺れは穏やかだった。

 窓の外を流れる光が、瞼の裏で淡く揺れる。


 眠れるはずがないと思っていた。


 処刑台の恐怖も、父との別れも、王国を離れる痛みも、まだ胸の中にある。

 それなのに、身体は限界だった。


「クララ」


 眠りに落ちる前、リリアーナは小さく呼んだ。


「はい、お嬢様」


「そばに、いて」


 クララが息を詰める。


 そして、リリアーナの手をそっと握った。


「もちろんです。ずっと、おそばにいます」


 リリアーナは安心したように目を閉じた。


 眠りに沈む直前、カイゼルの声が聞こえた気がした。


「眠れ。起きた時も、君は一人ではない」


 その言葉を抱くようにして、リリアーナはようやく意識を手放した。


 同じ頃、グランベルク王国の王都では、混乱が広がり始めていた。


 王宮財務局では、財務官マルセルが机に積まれた書類の山を前に、真っ青な顔で立ち尽くしていた。


「これを……誰が処理するのですか」


 誰も答えられなかった。


 リリアーナが昨夜確認するはずだった予算案。

 外交費の修正表。

 北部農地への補助金配分。

 聖堂修復費の再調整。

 王太子の来月の公務予定に関わる支出管理。


 それらはすべて、リリアーナの手による最終確認を前提に回っていた。


 誰も、それを問題だと思っていなかった。


 なぜなら、リリアーナはいつも終わらせていたから。


 期限前には必ず整った書類が戻り、必要な修正はすでに済まされ、王太子が会議で恥をかかぬよう、要点までまとめられていた。


 それが当たり前だった。


 だが、その当たり前を担っていた令嬢は、もう王宮にはいない。


「マルセル様、こちらの隣国宛ての書状ですが」


 若い文官が震える声で尋ねる。


「リリアーナ様の修正案が見当たりません」


「昨日、舞踏会の前に持参される予定だったのだ……」


「では」


「ない」


 マルセルは、両手で顔を覆った。


「ないのだ。何もかも、途中で止まっている」


 その場にいた文官たちの顔が青ざめる。


 王宮では、王太子アルヴィスが苛立たしげに歩き回っていた。


「たかが書類だろう」


 彼はそう言った。


「財務官と文官たちで何とかしろ」


 だが、マルセルは震えながら首を振る。


「殿下。リリアーナ様は、ただ書類を書き写していたわけではございません。各派閥の利害、隣国の要求、税収の見込み、聖堂と貴族院の調整、それらをすべて踏まえた上で修正されていたのです」


「それくらい、誰でもできる」


「できる者がいるなら、今ここに呼んでおります!」


 マルセルの悲鳴に近い声が、執務室に響いた。


 アルヴィスの顔が歪む。


「私を責めるのか」


「そうではございません。ただ、今すぐリリアーナ様の資料室を確認しなければ」


「リリアーナの名を出すな!」


 アルヴィスが机を叩く。


 室内が静まり返った。


 ミリアはその横で、怯えたように肩を震わせている。

 だがその瞳の奥には、不安があった。


 リリアーナがいなくなれば、自分が選ばれる。

 王太子の隣に立てる。

 聖女として愛される。


 そう思っていた。


 けれど、リリアーナが消えた途端、王宮は想像していた祝福ではなく、混乱に包まれ始めている。


「殿下……」


 ミリアはそっと声をかける。


「わたし、何かお手伝いできることは」


 アルヴィスは一瞬、彼女を見る。


 ミリアは可憐だった。

 涙を浮かべ、守りたくなるほど頼りなげで、アルヴィスの自尊心を満たしてくれる。


 だが、机の上の数字を見た彼女は、すぐに視線を逸らした。


 アルヴィスの胸に、初めて小さな苛立ちが生まれる。


 リリアーナなら、ここで何と言っただろう。


 ふと、そんな考えが浮かんだ。


 すぐに打ち消す。


 あんな冷たい女のことなど、考える必要はない。


 だが、机の上の書類は減らなかった。


 さらにその頃、王国北部の農村では、奇妙な異変が起きていた。


 毎年、この時期には青々と伸び始める麦の穂が、なぜか弱々しく項垂れている。

 土は乾き、井戸の水もいつもより冷たく濁っていた。


 村の老人が、畑の前で眉をひそめる。


「おかしいな……今年は、祝福の祈りがまだ届いていないのか」


 隣にいた若い農夫が首を傾げる。


「祝福の祈り?」


「ああ。ここ数年、春の終わりになると王都の方から、土地が静まるような光が流れてきた。あれがある年は、麦がよく育つ」


「聖女様の祈りですか?」


 老人はしばらく考え、ゆっくり首を振った。


「いや……あれは、もっと静かな光だった」


 彼は遠い王都の方角を見た。


「星のような、白い光だった」


 その日の夕暮れ、グランベルク王国の空から、誰にも気づかれぬほど小さな星の光が一つ消えた。


 同じ時、北へ向かう街道の上で、眠るリリアーナの指先に、淡い光が一瞬だけ灯る。


 それはすぐに消えた。


 カイゼルだけが、その微かな光に気づいた。


 彼は眠るリリアーナを見つめ、静かに目を細める。


「……星の加護か」


 小さく呟いたその言葉は、馬車の揺れに紛れて消えた。


 リリアーナはまだ知らない。


 自分が王国を離れたことで、王国が失ったものは、彼女一人ではなかったことを。


 そして皇国へ向かう道の先で、彼女自身もまた、本当の力と、本当の居場所を知ることになる。

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