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第7話 皇帝の求婚

 黒い馬車の中は、王宮の喧騒から切り離されたように静かだった。


 車輪が石畳を踏む音だけが、一定の間隔で響いている。

 窓の外では、グランベルク王国の王都がゆっくりと遠ざかっていた。


 リリアーナは、座席に深く腰掛けたまま、しばらく何も言えなかった。


 肩には、カイゼルがかけてくれた黒いマントがある。

 内側に残る体温が、冷え切っていた身体を少しずつ温めていた。


 つい先ほどまで、自分は処刑台に立っていた。

 斧が振り上げられ、民衆は悪女を裁けと叫んでいた。


 それなのに今は、敵国の皇帝の馬車に乗っている。


 あまりにも現実離れしていて、すべてが夢の続きのように思えた。


「お嬢様、手首を見せてください」


 向かいに座るクララが、震える声で言った。


 泣きすぎて目元は赤く腫れている。だが、リリアーナの手首に残る拘束具の跡を見た瞬間、侍女としての顔を取り戻したようだった。


「大丈夫です。少し赤くなっているだけですわ」


「大丈夫じゃありません」


 クララはきっぱりと言い切った。


 その声があまりにも真剣だったので、リリアーナは思わず瞬きをする。


「クララ」


「今だけは、私の言うことを聞いてください。お嬢様はいつも大丈夫って仰いますけど、全然大丈夫じゃないんです」


 その言葉に、リリアーナは返す言葉を失った。


 大丈夫。


 そう言うことは、いつの間にか癖になっていた。


 熱があっても。

 眠れなくても。

 傷ついていても。

 誰にも信じてもらえなくても。


 大丈夫です、と微笑めば、周囲はそれ以上踏み込んでこない。

 それが一番、物事を荒立てずに済む方法だった。


 けれど今、クララはその言葉を許してくれなかった。


 リリアーナが黙っていると、隣に座るカイゼルが低く言った。


「侍女の言う通りだ」


 リリアーナは顔を上げる。


 カイゼルは正面から彼女を見ていた。

 金色の瞳は、先ほど処刑台の上で見た時よりもわずかに柔らかい。


「君は大丈夫ではない」


「……ですが」


「死の直前まで追い詰められた者が、大丈夫であるはずがない」


 その声は淡々としていた。

 だからこそ、言葉の重みがまっすぐに届いた。


 リリアーナは膝の上で手を握る。


「私は……どう振る舞えばよいのか、分からないのです」


 気づけば、そんな言葉がこぼれていた。


 クララが息を呑む。


 カイゼルは、黙って続きを待っている。


 その沈黙は、責めるためのものではなかった。

 リリアーナが話すまで、ただ待つための沈黙だった。


「王太子妃候補として、取り乱してはならないと教えられてきました。公爵令嬢として、常に正しくあれと。感情で動いてはならない。泣くな。怒るな。役目を果たせ、と」


 自分で口にしながら、リリアーナは不思議な気持ちになった。


 こんなことを誰かに話したのは、初めてかもしれない。


「だから、痛くても大丈夫と言いました。苦しくても問題ないと。悲しくても微笑みました。そうすることが、正しいのだと思っていました」


 声がわずかに震える。


「でも……あの場では、何をしても駄目でした。泣かなくても冷たいと言われ、反論すれば高慢だと言われ、証拠を求めれば人の心が分からないと言われました」


 リリアーナは手首の赤い痕を見つめた。


「私は、どうすればよかったのでしょう」


 馬車の中に、静かな沈黙が落ちた。


 クララが涙をこらえるように唇を噛む。


 カイゼルは、しばらくリリアーナを見つめていた。


「どうもしなくてよかった」


 低い声が、静かに響く。


 リリアーナは目を上げた。


「君は間違っていない」


「……けれど」


「間違っていたのは、君ではない」


 カイゼルの声は揺るがなかった。


「証拠を求めることは正しい。無実を主張することも正しい。やっていない罪を認めないことも、最後まで自分の尊厳を手放さなかったことも、すべて正しい」


 リリアーナの胸が、きゅっと痛んだ。


 正しい。


 その一言が、こんなにも苦しいものだとは知らなかった。


 自分がずっと守ろうとしてきたもの。

 けれど、誰にも認められなかったもの。


 それを今、敵国の皇帝が認めてくれている。


「だから、君が悔やむ必要はない」


 カイゼルは続けた。


「悔やむべきは、君を信じなかった者たちだ」


 その言葉を聞いた瞬間、リリアーナの視界が再び滲んだ。


 涙は、今度こそ静かに頬を伝った。


「……申し訳ございません」


「謝るな」


 カイゼルがすぐに言う。


「泣くことも、謝ることではない」


 リリアーナは、もう何も言えなかった。


 クララがそっとハンカチを差し出す。

 リリアーナはそれを受け取り、震える指で涙を押さえた。


 馬車は王都の大通りを抜け、外門へ向かっているようだった。


 窓の外には、王都の街並みが流れていく。

 パン屋の煙突。花売りの露店。石畳の路地。王宮へ向かって急ぐ人々。


 昨日まで、リリアーナはこの国の未来を支えるために生きてきた。


 けれど、その国は彼女を捨てた。


 その事実を思うと胸は痛む。

 それでも不思議なほど、戻りたいとは思わなかった。


「陛下」


 リリアーナは涙を拭い、カイゼルへ向き直る。


「はい」


「助けていただき、ありがとうございました」


 深く頭を下げようとした瞬間、カイゼルの手がそれを止めた。


 強くはない。

 ただ、彼女がこれ以上自分を低くしないように、そっと支えるような手だった。


「礼を言う必要はない」


「ですが、陛下が来てくださらなければ、私は」


「間に合ってよかった」


 カイゼルは、短く言った。


 その声に、わずかな悔恨が滲んでいるように聞こえた。


「本当は、もっと早く着くはずだった」


「……なぜ、王国へ?」


 リリアーナは問いかけた。


 それは、ずっと疑問だった。


 カイゼルが七年前の少年であることは分かった。

 だが、なぜ今日この時、彼が王国へ現れたのか。


 偶然にしては、あまりにも出来すぎている。


 カイゼルは一度、窓の外へ視線を向けた。


「王国の卒業記念舞踏会に合わせて、使節として来る予定だった」


「使節、でございますか」


「ああ。表向きは和平交渉の再調整だ」


「表向きは?」


 リリアーナが聞き返すと、カイゼルは彼女を見た。


「本当の目的は、君に会うことだった」


 リリアーナは言葉を失う。


 クララまで驚いたように目を丸くした。


 カイゼルの表情は変わらない。

 だが、その金色の瞳だけは真剣だった。


「七年前、君に助けられた。名を聞き、家名を知った。だが当時の私は、皇国へ戻るだけで精一杯だった」


 カイゼルの声が、少しだけ低くなる。


「帰国後、皇位継承争いが激化した。暗殺、反乱、粛清。君に礼を告げに来る余裕はなかった」


 リリアーナは静かに聞いていた。


 黒狼皇帝。

 氷血皇帝。


 噂で聞く彼は、苛烈で冷酷な支配者だった。

 けれど今目の前にいるカイゼルは、そう呼ばれるだけのものを背負ってきた人なのだと分かった。


「それでも、忘れたことはない」


 カイゼルは言った。


「君の言葉も、君が巻いてくれた白いハンカチも、君がくれた水の冷たさも」


 リリアーナの胸に、七年前の森が蘇る。


 傷ついた少年に差し出した水筒。

 止血に使ったハンカチ。

 追っ手が来ないよう、茂みの奥へ彼を隠したこと。


 当時のリリアーナは、ただ一人の傷ついた少年を助けただけだった。


 その行動が、七年後の自分を救うことになるなんて、考えもしなかった。


「ようやく皇位が安定し、王国へ正式に使節を送れるようになった。だから来た」


「……私に、礼を言うために?」


「それもある」


 カイゼルは、少しだけ間を置いた。


「だが、それだけではない」


 その先を彼が言う前に、馬車が大きく揺れた。


 外から騎士の声が聞こえる。


「陛下。王都外門に到着いたしました」


 カイゼルは窓の外を確認する。


 リリアーナもつられて視線を向けた。


 王都の外門。

 巨大な石造りの門の前に、王国の騎士たちが集まっている。


 その中には、アルヴィスの姿もあった。


 王宮前広場から先回りしたのか、馬を飛ばして追ってきたのだろう。

 白と青のマントが、風に大きく揺れている。


 その隣にはミリアもいた。

 さすがに馬ではなく、別の馬車から降りたところらしい。顔色は青ざめているが、それでもアルヴィスのそばを離れようとはしていない。


 さらに、エルフェルト公爵ギルベルトの姿もある。


 リリアーナの手が、無意識にマントを握った。


 カイゼルがそれに気づく。


「会いたくないなら、出なくていい」


 また、選ばせてくれる。


 リリアーナは目を伏せた。


 会いたくない。

 正直に言えば、そうだった。


 アルヴィスにも、ミリアにも、父にも、もう会いたくない。

 何を言われても、これ以上傷つきたくなかった。


 けれど。


 このまま逃げるように王都を出れば、彼らはきっと言うだろう。


 罪を認めて逃げたのだと。

 皇帝を利用して処刑を免れたのだと。


 リリアーナはもう、彼らに理解されたいとは思わない。

 それでも、自分のために区切りはつけたかった。


「……出ます」


 カイゼルの目がわずかに細くなる。


「無理はするな」


「無理ではありません」


 リリアーナは、今度は少しだけ確かな声で言った。


「私は、逃げるのではありません。自分の意思で、この国を離れるのだと伝えたいのです」


 カイゼルは一瞬、リリアーナを見つめた。

 それから小さく頷く。


「分かった。私が隣にいる」


 その言葉に、リリアーナは胸の奥が温かくなるのを感じた。


 馬車が止まる。


 扉が開かれ、先にカイゼルが降りた。

 彼はリリアーナへ手を差し出す。


 リリアーナはその手を取った。


 黒いマントに包まれた白いドレス。

 少し乱れた銀髪。

 赤い手首。


 王太子妃候補として完璧に整えられていた昨夜の姿とは、まるで違う。


 けれど、不思議と恥ずかしくはなかった。


 今の自分こそ、本当の姿なのだと思えた。


 リリアーナが馬車から降りると、王国側の騎士たちがざわめいた。


 アルヴィスが馬上から降り、鋭い足取りで近づいてくる。


「リリアーナ」


 その声は、怒りを含んでいた。


「どこへ行くつもりだ」


 リリアーナは、カイゼルの隣で立ち止まる。


「王都の外へ」


「そういう意味ではない!」


 アルヴィスの顔が赤くなる。


「お前はグランベルク王国の公爵令嬢だ。敵国皇帝の馬車に乗って王都を出るなど、許されると思っているのか」


 リリアーナは静かに彼を見た。


 昨夜までなら、この声だけで身を正した。

 王太子の不興を買ってはならないと考えた。

 アルヴィスを怒らせないよう、言葉を選んだ。


 けれど今、その必要はもうなかった。


「殿下は、私を処刑しようとなさいました」


 アルヴィスが言葉を詰まらせる。


「それは、お前が」


「私を罪人と呼び、婚約を破棄し、処刑台に立たせました」


「王国の秩序のためだ」


「では、その王国に、私はもう必要ないはずです」


 リリアーナの声は穏やかだった。


 だが、アルヴィスの顔はさらに歪む。


「お前は、私に逆らうのか」


「私はもう、殿下の婚約者ではございません」


「っ……!」


 アルヴィスの青い瞳が揺れた。


 その反応に、リリアーナはかすかな違和感を覚えた。


 彼は自分から婚約破棄を告げた。

 なのに今、その事実をリリアーナの口から聞かされることを嫌がっている。


 まるで、捨てる権利は自分にあっても、離れる権利はリリアーナにないと思っているかのようだった。


「婚約破棄は、まだ正式な手続きが」


 アルヴィスが言いかける。


 リリアーナは小さく目を伏せた。


「昨夜、私はそう申し上げました」


「何?」


「正式な協議が必要だと。王家と公爵家、双方の手続きが必要だと。ですが殿下は、私の言葉を退けました」


 アルヴィスの顔が強張る。


「今さら、手続きの話をなさるのですか」


 その言葉は、静かだった。

 静かだからこそ、周囲によく響いた。


 王国側の騎士たちが気まずそうに視線を逸らす。


 ミリアが不安げにアルヴィスの袖を掴む。


「殿下……」


 その声で、アルヴィスは我に返ったようだった。


「リリアーナ。お前は何も分かっていない。お前がいなくなれば、エルフェルト公爵家はどうなる。王国でのお前の立場はどうなる。少し冷静になれ」


「私は、十分に冷静です」


「ならば戻れ」


 戻れ。


 その言葉に、リリアーナの胸が微かに痛んだ。


 戻る。


 どこへ?


 王太子の隣へ。

 悪役令嬢と罵られた広場へ。

 誰も信じてくれなかった王宮へ。

 処刑台へ。


 戻る場所など、もうどこにもなかった。


「戻りません」


 リリアーナは、はっきりと言った。


 アルヴィスが目を見開く。


「リリアーナ」


「私は、この国には戻りません」


 空気が震えた。


 アルヴィスの後ろで、ギルベルトが一歩前へ出る。


「リリアーナ」


 父の声だった。


 リリアーナは、少しだけ息を呑む。


 ギルベルトは青ざめた顔をしていた。

 昨夜の厳格な公爵の顔でも、裁定の間で沈黙していた父の顔でもない。


 何かを失いかけて、ようやくそれに気づいた人の顔だった。


「戻りなさい」


 父は言った。


「今ならまだ間に合う。お前はエルフェルト家の娘だ。王国を出るなど許されない」


「父上」


 リリアーナは静かに彼を見る。


「昨夜、私が罪を認めろと言われた時、父上は私を娘として見てくださいましたか」


 ギルベルトの表情が強張る。


「私は、公爵家を守るために」


「今朝、私に処刑が言い渡された時、父上は私を庇ってくださいましたか」


「それは」


「私は、父上に一度だけでも信じてほしかった」


 その言葉を口にした瞬間、胸の奥が痛んだ。


 言うつもりはなかった。

 恨み言など、言わずに去るつもりだった。


 けれど、これだけは伝えなければならないと思った。


「王太子妃候補としてではなく。エルフェルト公爵家の駒としてではなく。ただ、あなたの娘として」


 ギルベルトの顔から血の気が引いた。


 彼の唇が震える。


「リリアーナ、私は」


「もう、結構です」


 リリアーナは、小さく首を振った。


 その一言で、ギルベルトの表情が崩れかける。


「私は王国に戻りません。エルフェルト家にも戻りません」


「何を言っている。お前は私の娘だ」


「はい」


 リリアーナは微笑んだ。


 その微笑は、ひどく静かだった。


「けれど父上は、私を守ってはくださいませんでした」


 ギルベルトは何も言えなかった。


 ミリアが小さく震える声で言う。


「リリアーナ様……そんな言い方、ひどいです。公爵様だって、きっとおつらかったはずです」


 リリアーナはミリアへ視線を向けた。


 淡桃色の唇が震え、瞳には涙が浮かんでいる。

 相変わらず、誰かに守られるための表情だった。


「ミリア様」


「はい……」


「あなたは、いつも誰かの痛みを語りますのね」


 ミリアが瞬きをする。


「でも、私の痛みだけは、最後まで見ようとなさいませんでした」


 ミリアの顔が固まった。


 リリアーナはそれ以上、彼女に言葉を重ねなかった。

 今は、ミリアを責めたいのではない。


 ただ、自分を取り戻したいだけだった。


 カイゼルが静かに口を開く。


「話は済んだか」


 その声に、王国側の空気が再び張り詰める。


 アルヴィスが睨みつける。


「まだだ。彼女を連れていくことは認めない」


「貴様の許可は求めていない」


「カイゼル陛下!」


 アルヴィスが声を荒げる。


 カイゼルは冷ややかに彼を見た。


「彼女はこの国に残らないと、自らの意思で言った。私はその意思を尊重する」


「敵国へ連れ去ることが尊重だと?」


「彼女を処刑台に立たせた男が、何を言う」


 アルヴィスが唇を噛む。


 周囲にいた王国騎士たちの何人かが、明らかに動揺していた。


 王太子の命令。

 敵国皇帝の圧。

 リリアーナ本人の拒絶。


 誰も、どう動くべきか分からないのだろう。


 その時、王都外門の上から鐘が鳴った。


 正午を告げる鐘ではない。

 王都の外門を開閉する合図だ。


 門番たちは困惑しながらも、皇国の騎士団を前に道を開けざるを得ない。

 黒狼の旗が、門の外へ続く道を指し示すように風に揺れていた。


 カイゼルはリリアーナへ手を差し出す。


「行こう」


 リリアーナはその手を見た。


 王国を離れる。

 生まれ育った国を。

 役目だと思ってきた場所を。

 信じてもらえなかった過去を。


 本当に、行っていいのだろうか。


 一瞬、迷いが胸をよぎる。


 その時、馬車の中からクララが顔を出した。


「お嬢様」


 泣き腫らした目で、それでも必死に笑おうとしている。


「私は、お嬢様が行くところについていきます」


 その言葉で、リリアーナは小さく息を吐いた。


 一人ではない。


 それだけで、足を踏み出せる気がした。


 リリアーナは、カイゼルの手を取った。


「はい」


 カイゼルの手が、彼女の指をしっかりと包む。


 それは、所有するための力ではなかった。

 支えるための力だった。


 リリアーナが馬車へ戻ろうとした時、アルヴィスが叫んだ。


「リリアーナ! 後悔するぞ!」


 その声に、彼女は足を止める。


 振り返らずに、答えた。


「後悔は、すでに十分いたしました」


 アルヴィスが息を呑む気配がする。


「あなたを信じようとしたこと。王国に尽くせば、いつか認めてもらえると思っていたこと。父上が最後には私を庇ってくださると、どこかで期待していたこと」


 リリアーナは、静かに続けた。


「でも、それも今日で終わりにいたします」


 黒いマントが風に揺れる。


 リリアーナは、もう振り返らなかった。


 馬車へ乗り込む直前、カイゼルが王国側へ向き直る。


「グランベルク王国へ告げる」


 その声に、外門前の全員が凍りつく。


「リリアーナ・エルフェルトの身柄は、ヴァレンティス皇国が保護する。彼女への追及、拘束、暗殺、名誉毀損に関わる一切の行為を、我が皇国への敵対行為とみなす」


 アルヴィスが顔を歪める。


「脅しか」


「通告だ」


 カイゼルは、わずかに目を細めた。


「また、彼女にかけられた罪については、正式な証拠の提出を求める。提出できぬ場合、王国は我が皇国の命の恩人を冤罪で処刑しようとしたものと判断する」


 王国側に大きな動揺が走った。


 法務官らしき男が青ざめる。

 騎士たちが顔を見合わせる。

 ミリアはアルヴィスの袖を握りしめたまま、怯えたように震えている。


 だが、その震えが何に対するものか、リリアーナにはもう分かる気がした。


 恐怖。


 けれどそれは、被害者としての恐怖ではない。

 嘘が暴かれるかもしれない者の恐怖だった。


 カイゼルは最後に、ギルベルトへ視線を向ける。


「エルフェルト公爵」


 ギルベルトがびくりと肩を震わせる。


「貴公は、娘を守らなかった」


 その一言に、ギルベルトの顔が歪む。


「その結果を、今後思い知ることになる」


 それだけ告げて、カイゼルは馬車へ乗り込んだ。


 扉が閉まる。


 馬車が動き出す。


 王都外門が、ゆっくりと近づいてくる。


 リリアーナは、窓の外を見なかった。


 見れば、きっとまた苦しくなる。

 それでも、過去から目を逸らしたいわけではない。


 ただ今は、前を向く力が欲しかった。


 馬車が門をくぐる。


 石畳の音が変わる。

 王都の中の硬く整った道から、外へ続く広い街道の音へ。


 その瞬間、リリアーナは胸の奥で何かが切れるのを感じた。


 王国と自分を繋いでいた、見えない糸。


 それが音もなくほどけていく。


「お嬢様……」


 クララが隣で心配そうに呼ぶ。


 リリアーナはゆっくりと息を吸った。


「大丈夫です」


 いつもの癖でそう言いかけて、途中で止まる。


 カイゼルとクララが、同時に彼女を見た。


 リリアーナは少しだけ困ったように笑う。


「……大丈夫では、ありません」


 クララの瞳が潤む。


「けれど、生きています」


 リリアーナは、自分の手首に残る赤い跡をそっと撫でた。


「だから、これから考えます。私は、どう生きたいのかを」


 カイゼルは、静かに頷いた。


「それでいい」


 馬車の外で、黒狼の旗が風を切る音がした。


 王都は遠ざかっていく。

 白い城壁も、王宮の塔も、少しずつ小さくなる。


 リリアーナは、ようやく窓の外を見た。


 遠ざかる王都を見ても、涙は出なかった。

 代わりに、胸の奥にぽつりと小さな痛みが残った。


 きっと、その痛みはすぐには消えない。


 父に信じてもらえなかった痛み。

 アルヴィスに断罪された痛み。

 王国に捨てられた痛み。


 それらを抱えたまま、自分は生きていくのだろう。


 でも、もう処刑台の上ではない。


 リリアーナは窓から視線を戻し、カイゼルを見た。


「陛下」


「何だ」


「先ほど、馬車の中で仰りかけたことがございました」


 カイゼルの瞳が、わずかに揺れる。


「七年前の礼だけではない、と」


 クララがそっと息を潜める。


 馬車の中に、静かな緊張が落ちた。


 カイゼルは、しばらく黙ってリリアーナを見ていた。

 そして、ゆっくりと口を開く。


「私は、君を皇国へ迎えたい」


 リリアーナは瞬きをした。


「保護してくださる、という意味ではなく?」


「保護もする」


 カイゼルは答える。


「だが、それだけではない」


 彼は姿勢を正した。


 黒い軍装の皇帝が、馬車の中でリリアーナに向き合う。

 その所作は、王宮のどんな儀礼よりも厳かだった。


 リリアーナの胸が、なぜか早鐘を打つ。


「リリアーナ・エルフェルト」


 名を呼ばれる。


 罪人としてではなく。

 悪役令嬢としてでもなく。


 ただ、リリアーナとして。


「私は、君を我が妻として迎えたい」


 時が止まったようだった。


 クララが小さく息を呑む。


 リリアーナは、言葉の意味を理解するまでに数秒かかった。


 妻。


 それは保護でも、客人でも、人質でもない。


 皇国の皇帝が、敵国で処刑されかけた公爵令嬢を、妻に迎えたいと言ったのだ。


「……陛下」


 声が掠れる。


「私は、つい先ほど婚約破棄され、処刑されかけた身です。王国では罪人として扱われました。皇国にとって、私を迎えることは大きな負担になるはずです」


「ああ」


 カイゼルは否定しなかった。


「政治的には厄介だ。王国との関係は悪化する。皇国貴族の反発もあるだろう」


 あまりにも正直な答えだった。


 リリアーナは思わず目を見開く。


 カイゼルは続ける。


「だが、それでも構わない」


「なぜ……」


「君だからだ」


 リリアーナの心臓が、強く鳴った。


「君は七年前、敵国の皇子である私を助けた。今朝、処刑台の上でも、最後までやっていない罪を認めなかった。侍女を守ろうとし、自分の尊厳を手放さなかった」


 カイゼルの金色の瞳が、まっすぐに彼女を映す。


「私は、そういう君を望む」


 リリアーナの喉が震えた。


 望む。


 役目ではなく。

 能力でもなく。

 家柄でもなく。


 リリアーナ自身を。


「すぐに答えろとは言わない」


 カイゼルは静かに言った。


「君は傷ついている。王国から離れたばかりだ。今は休むべきだ」


「ですが、先ほど妻としてと」


「求婚はした」


 あまりに真っ直ぐな言い方に、リリアーナは何も返せなくなる。


「だが、君の意思を無視して決めるつもりはない」


 カイゼルは、ほんのわずかに目を伏せた。


「私は君を連れ去るのではない。君が選ぶ場所を守りたい」


 リリアーナは、胸元を押さえた。


 選ぶ。


 これまで、そんなことを考えたことがあっただろうか。


 王太子の婚約者になることは、生まれた時から決まっていた。

 王妃教育を受けることも、公爵家の娘として振る舞うことも、王国のために尽くすことも、すべて役目だった。


 自分がどうしたいかなど、問われたことはない。

 考えることさえ、わがままだと思っていた。


 それなのにカイゼルは、選べと言う。


 リリアーナは、膝の上で手を握った。


「私は……今は、何も分かりません」


「それでいい」


「陛下を信じたいと思います。けれど、私は誰かに必要とされることも、望まれることも、まだ少し怖いのです」


 正直な言葉だった。


 利用されるのではないか。

 また期待に応えられなくなれば捨てられるのではないか。

 役に立たなければ居場所を失うのではないか。


 そんな不安が、胸の奥にまだ残っている。


 カイゼルは、静かに頷いた。


「怖いままでいい」


 リリアーナは彼を見る。


「君が怖いなら、怖くなくなるまで待つ。信じられないなら、信じられるまで何度でも示す」


「陛下……」


「ただ、一つだけ約束する」


 カイゼルの声が低くなる。


「君を道具にはしない。恩人として飾ることも、皇国の利益のために利用することもない」


 彼は、真っ直ぐに言った。


「私は、君自身を守る」


 リリアーナは、もう返事ができなかった。


 胸がいっぱいだった。


 処刑台で死ぬはずだった朝。

 誰にも信じてもらえなかった朝。

 その同じ日に、誰かが自分自身を守ると言ってくれる。


 こんなことが、あっていいのだろうか。


 リリアーナは俯き、涙をこらえた。


 クララが隣でぐすぐすと泣いている。

 その様子に、少しだけ空気が柔らかくなった。


「クララ」


 リリアーナが声をかけると、クララは慌てて背筋を伸ばした。


「は、はい。申し訳ありません。侍女なのに、こんなに泣いて」


「いいえ」


 リリアーナは小さく微笑む。


「泣いてくれて、ありがとう」


 クララはまた泣いた。


 カイゼルは、そのやり取りを静かに見ていた。

 彼の瞳に浮かぶものは、処刑台で見せた怒りとは違う。


 どこか不器用な、けれど確かな安堵だった。


 馬車は街道を進んでいく。


 王都の白い城壁は、もう遠くに霞んでいた。


 一方その頃、王都外門の前では、アルヴィスが拳を握りしめたまま立ち尽くしていた。


 黒い馬車が遠ざかっていく。

 リリアーナを乗せて。

 クララを乗せて。

 カイゼル・ヴァレンティスの護衛に囲まれて。


 アルヴィスは、奥歯を噛みしめる。


「リリアーナ……」


 その名を呼んでも、彼女はもう振り返らなかった。


 昨夜までは、呼べば必ずこちらを向いた。

 どれほど冷たい顔をしていても、リリアーナは王太子の婚約者として、必ずアルヴィスの言葉を待った。


 それなのに。


 今朝、彼女は自分の手を取らなかった。


 敵国皇帝の手を取った。


 その事実が、アルヴィスの胸を苛立たせる。


「殿下……」


 ミリアが不安げに近づいてくる。


「大丈夫ですか?」


 アルヴィスは振り返り、彼女の肩に手を置いた。


「ああ。心配するな、ミリア」


 そう言いながらも、彼の視線は街道の先を追っていた。


 ミリアはそれに気づき、唇を噛む。


「リリアーナ様、行ってしまわれましたね」


「あの女は、皇帝に騙されているだけだ」


 アルヴィスは吐き捨てるように言った。


「いずれ、自分がどれほど愚かな選択をしたか気づく」


「……そう、ですよね」


 ミリアは小さく頷く。


 けれど、その瞳の奥には焦りがあった。


 リリアーナは死ななかった。

 処刑台から救われた。

 しかも、敵国皇帝に守られて王国を出ていった。


 このままでは、終わらない。


 ミリアの指先が、ドレスの布を強く握る。


 その横で、ギルベルト・エルフェルトは呆然と立ち尽くしていた。


 娘が去った。


 最後にこちらを振り返ることなく。


 昨夜、庇う機会はあった。

 今朝、止める機会もあった。

 処刑台で、声を上げる機会さえあった。


 だが、自分は何もしなかった。


 公爵家を守るため。

 王家に逆らわぬため。

 秩序を保つため。


 そう言い聞かせて沈黙し続けた結果、娘は敵国皇帝の手を取って王国を去った。


「リリアーナ……」


 その名を呟いても、もう届かない。


 王都の風が、ギルベルトの濃紫のマントを揺らす。


 その時、外門の上にいた騎士が慌てた声を上げた。


「殿下! 南街道より、財務官マルセル様が至急の報告に参られています!」


 アルヴィスは苛立ったように振り返る。


「今はそれどころではない!」


「それが……王宮財務局より、緊急とのことで!」


 間もなく、息を切らした中年の男が駆け寄ってきた。


 王国財務官マルセル・グリム。

 灰色混じりの髪を乱し、腕には分厚い帳簿を抱えている。


 彼は外門の前で膝をつき、青ざめた顔で叫ぶように言った。


「王太子殿下! 至急、リリアーナ様にお戻りいただかねばなりません!」


 アルヴィスの眉が跳ねる。


「何だと?」


 マルセルは帳簿を開き、震える手でページをめくった。


「来月の国庫支出案、外交賠償の調整書、聖堂修復費の再配分、北部農地への補助計画……すべて、リリアーナ様の修正を前提に組まれております!」


「だから何だ。財務局で処理すればいい」


「できません!」


 マルセルの声が裏返った。


 周囲の騎士たちがざわめく。


 マルセルは顔を青くしたまま続けた。


「リリアーナ様が昨夜提出予定だった最終調整案がなければ、来月の予算は組めません。さらに、隣国との穀物輸入交渉の文書も、リリアーナ様の署名入り修正版が必要です。あれがなければ、交渉が破談になる恐れが」


「そんなもの、誰か他の者にやらせろ!」


「できる者がおりません!」


 その一言が、外門前に落ちた。


 沈黙。


 アルヴィスの顔がわずかに歪む。


 マルセルは、ほとんど泣きそうな顔で言った。


「殿下。王国の政務は……少なくともこの半年、リリアーナ様の補佐があって成り立っていたのです」


 ミリアが息を呑む。


 ギルベルトの顔がさらに青ざめる。


 アルヴィスは、しばらく何も言えなかった。


 街道の先では、黒い馬車がもう見えなくなっていた。


 リリアーナを乗せた馬車は、戻らない。


 そしてグランベルク王国は、その日初めて、自分たちが何を失ったのかを知り始めた。

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