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第6話 彼女は私の命の恩人だ

「私は、君を信じる」


 その一言は、処刑台の上で凍えていたリリアーナの胸に、静かに落ちた。


 信じる。


 たったそれだけの言葉だった。


 けれど、昨夜から今朝まで、リリアーナがどれほど求めても得られなかった言葉だった。


 父は信じなかった。

 王妃は庇わなかった。

 アルヴィスは聞こうとしなかった。

 王国は、リリアーナを罪人として処刑台に立たせた。


 それなのに、敵国の皇帝であるカイゼルだけが、迷いなく彼女を信じると言った。


 リリアーナは、差し伸べられた手を見つめた。


 黒い手袋に包まれた大きな手。

 その手は、処刑台に立つ罪人へ向けられたものではなかった。


 淑女を迎えるように。

 傷ついた者を救い上げるように。

 あるいは、長く探していた誰かをようやく見つけたように。


 ただ静かに、そこにあった。


「陛下」


 アルヴィスの声が、広場の沈黙を破った。


 先ほどまでの威勢は、わずかに揺らいでいる。

 だが彼は王太子としての体面を保つように、強く顎を上げた。


「いかに皇帝といえど、これは我が国の裁きだ。王国の罪人を勝手に連れ出すことは許されない」


 カイゼルは、まだ跪いたままリリアーナを見上げていた。

 アルヴィスの言葉など、取るに足らないもののように。


「罪人と決めた根拠は」


「証言がある」


「誰の」


「被害者であるミリアと、その侍女たちだ」


「証拠は」


「毒の症状が」


「毒の入手経路は調べたのか」


 アルヴィスの言葉が止まった。


 カイゼルの声は低く、冷静だった。

 だが一つ一つの問いは、刃のように鋭い。


「菓子を作った店は調べたのか。配送に関わった者は尋問したのか。毒の種類は特定したのか。医師の診断書はあるのか。聖堂不敬とやらの記録は確認したのか」


 広場の空気が変わり始めた。


 民衆の中から、小さなざわめきが広がる。


「そういえば、証拠って……」


「証言だけなのか?」


「公爵令嬢を処刑するのに?」


 アルヴィスは、そのざわめきに気づいて顔を強張らせた。


「黙れ! これは王家の裁定だ!」


「王家の裁定であれば、無実の者を殺してよいのか」


 カイゼルはようやく立ち上がった。


 その動作だけで、広場の空気がさらに張り詰める。


 長身の皇帝が処刑台を見上げる。

 黒い軍装に金の刺繍。風に揺れる黒いマント。腰に佩いた剣。

 彼はただそこに立っているだけで、王宮前広場の主役を完全に奪っていた。


 アルヴィスが一歩前に出る。


「無実かどうかは我らが決める」


「違う」


 カイゼルは即座に切り捨てた。


「無実かどうかは、事実が決める」


 広場が静まり返る。


 その言葉は、リリアーナが昨夜からずっと求めていたものだった。


 証拠。

 記録。

 手続き。

 事実。


 それを口にするたび、リリアーナは冷たい女だと言われた。

 人の心が分からないと責められた。

 王太子に逆らう悪女だと断じられた。


 けれどカイゼルは、同じことを当然のように言った。


 リリアーナの胸の奥が、痛いほど熱くなる。


 カイゼルは処刑台へ視線を戻す。


「まず、その縄を解け」


 命じられた処刑人がびくりと肩を震わせる。

 だが彼は動けなかった。


 アルヴィスが怒鳴る。


「誰が許した! その女は処刑を待つ罪人だ!」


 カイゼルの護衛騎士が一斉に剣の柄へ手をかける。

 王国の近衛騎士たちも、反射的に身構えた。


 広場に緊張が走る。


 ほんの少しでも誰かが動けば、剣が抜かれる。

 そう感じさせるほどの空気だった。


 その時、王妃ベアトリスが声を上げた。


「お待ちなさい!」


 張り詰めた空気の中、王妃の声が響く。


 ベアトリスは蒼白な顔で立っていた。

 先ほどまで沈黙を守っていた彼女が、ようやく前へ出る。


「アルヴィス、ここで剣を交えれば戦になります」


「母上、しかし」


「相手はヴァレンティス皇帝です。あなたは今、王国の命運を握っているのですよ」


 その言葉に、アルヴィスの表情が揺らいだ。


 彼はリリアーナを裁く王太子として振る舞っていた。

 けれど、敵国皇帝を相手に戦を招く覚悟までは、まだ持っていなかったのだろう。


 カイゼルは冷ややかに二人を見た。


「賢明な判断を望む」


 ベアトリスは唇を引き結び、処刑台の上のリリアーナへ視線を向けた。

 その瞳には、後悔とも恐れともつかない色があった。


 だがリリアーナは、もう王妃に期待しなかった。


 救おうとしてくれるのは、王妃ではない。

 父でもない。

 王国でもない。


 敵国の皇帝だった。


「縄を解きなさい」


 ベアトリスが命じた。


「母上!」


「これ以上、事を大きくしてはなりません」


 処刑人は戸惑いながらリリアーナの手の縄を解く。


 固く縛られていた指先に血が戻り、じんと痺れた痛みが走った。

 リリアーナはわずかに顔を歪める。


 その小さな変化を、カイゼルは見逃さなかった。


 彼の目が細くなる。


「手首も傷つけたのか」


 低い声。


 それだけで、処刑台の周囲にいた騎士たちが震えた。


 リリアーナは慌てて首を振る。


「大したことではございません」


「大したことかどうかは、君が決めることではない」


 思いがけない言葉に、リリアーナは目を瞬かせた。


 これまで、自分の痛みはいつも後回しだった。


 大丈夫です。

 問題ありません。

 お気になさらないでください。


 そう言えば、周囲は納得した。

 誰もそれ以上、踏み込んでこなかった。


 けれどカイゼルは、リリアーナが大したことではないと言った痛みを、大したことではないものにしなかった。


 胸の奥が、また少し震える。


 カイゼルは処刑台へ上がった。


 王国の兵が止めようとしたが、アドルフが一瞬だけ手を上げて制した。


 それは命令ではなく、ほとんど反射のような動きだった。


 アドルフ自身も、自分が何をしたのか分かっていないように見えた。


 カイゼルはリリアーナの前に立つ。


 近くで見ると、その金色の瞳は記憶の中の少年よりもずっと鋭かった。

 けれど、瞳の奥にある光は同じだった。


 傷ついた獣のように警戒しながら、それでも一度信じたものを決して忘れない光。


「歩けるか」


 カイゼルが問う。


 リリアーナは頷こうとして、ふと足元が揺れた。


 一晩眠っていない。

 ほとんど食べてもいない。

 地下牢の冷えと恐怖、処刑台に立たされた緊張。

 限界は、とっくに過ぎていた。


 身体が傾く。


 倒れる、と思った時には、カイゼルの腕がリリアーナを支えていた。


 黒い軍服の胸元に、白と淡紫のドレスが触れる。

 広場から大きなどよめきが起きた。


 リリアーナは慌てて身を離そうとする。


「申し訳ございません。すぐに」


「動くな」


 短い命令。


 だがそこに怒りはなかった。


 カイゼルは、リリアーナを支えたまま低く言う。


「君は今、立っているだけで無理をしている」


「ですが、この場で」


「この場で取り繕う必要はない」


 リリアーナは言葉を失った。


 取り繕う必要はない。


 そんなことを言われたのは、初めてだった。


 公爵令嬢として。

 王太子妃候補として。

 エルフェルト家の娘として。


 リリアーナは、いつも取り繕ってきた。

 痛くても大丈夫だと微笑み、悔しくても礼を崩さず、悲しくても涙をこらえた。


 それしか、許されなかった。


 けれど今、カイゼルはそれをしなくていいと言う。


 リリアーナはうつむきそうになり、どうにか耐えた。


 今泣けば、きっと止まらなくなる。


「陛下」


 アルヴィスが苛立ちを隠さず声を上げる。


「その女に触れるのはお控えいただきたい。彼女は我が国の罪人であり、私の元婚約者だ」


 カイゼルの瞳が、ゆっくりとアルヴィスへ向いた。


「元婚約者」


 その声は低かった。


「そうだ。彼女は私の婚約者だった女だ。だからこそ、私が裁く権利がある」


「捨てたのだろう」


 カイゼルの一言に、アルヴィスが息を詰める。


「貴様は彼女を公衆の面前で辱め、証拠もなく断罪し、処刑台に立たせた。今さら婚約者であったことを理由に権利を主張するのか」


「それは」


「愚かだな」


 広場が静まり返った。


 王太子に向けて、敵国皇帝がはっきりと告げた侮蔑。


 アルヴィスの顔が怒りに染まる。


「貴様……!」


「その怒りを、なぜ事実確認に向けなかった」


 カイゼルは冷たく続ける。


「なぜ彼女の言葉を一度でも聞こうとしなかった。なぜ証拠を集めなかった。なぜ処刑を急いだ」


 アルヴィスは答えられない。


 代わりに、ミリアが震える声で言った。


「カイゼル陛下……リリアーナ様は、本当に恐ろしい方なのです。わたし、何度も傷つけられて……」


 カイゼルの視線がミリアへ向いた。


 ミリアはびくりと肩を震わせる。

 けれど、すぐに涙を浮かべた。


「信じていただけないかもしれません。でも、わたしはただ、殿下のお力になりたかっただけで……。それなのにリリアーナ様は、わたしを邪魔者のように……」


「黙れ」


 たった一言だった。


 ミリアの言葉が止まる。


 カイゼルの声は荒くなかった。

 怒鳴ってもいない。


 それなのに、ミリアは本能的に口を閉じた。


「泣けば誰もが信じると思っているのなら、相手を選ぶことだ」


 ミリアの顔が強張る。


「わ、わたしは、そんなつもりでは」


「では、証拠を出せ」


「え……」


「彼女が君を害したという証拠を、今ここで出せ」


 ミリアは言葉に詰まった。


 アルヴィスがすぐに庇うように前へ出る。


「ミリアを責めるな!」


「責めているのではない。確認している」


「ミリアは被害者だ!」


「ならばなおさら、事実を語れるはずだ」


 アルヴィスの顔が歪む。


 広場の民衆が、またざわめき始める。


 今まで誰も口にしなかった疑問が、カイゼルによって次々と形にされていく。


 証拠はどこにあるのか。

 なぜ調べなかったのか。

 なぜ処刑を急いだのか。


 リリアーナの胸の奥で、凍りついていたものが少しずつ溶けていく。


 自分の言葉は、間違っていなかった。


 正しいことを求めたから冷たいのではない。

 事実を確認しようとしたから悪女なのではない。


 そう思っても、よいのだろうか。


 カイゼルはリリアーナを支えたまま、広場全体へ向き直った。


「この場にいる全員に告げる」


 黒狼皇帝の声が、王宮前広場に響く。


「リリアーナ・エルフェルトは、私の命の恩人だ」


 広場にどよめきが走る。


 カイゼルは続けた。


「七年前、私はグランベルク王国との和平交渉のため、皇太子としてこの国を訪れていた。その折、王国内の過激派に襲撃され、森へ逃れた」


 リリアーナの脳裏に、幼い日の森が蘇る。


 雨上がりの湿った土。

 木陰に倒れていた少年。

 血のにじんだ腕。

 警戒する金色の瞳。


「その時、私を見つけ、匿い、傷の手当てをしたのが彼女だった」


 カイゼルの声が、ほんのわずかに柔らかくなる。


「彼女は、私が敵国の皇子だと知っても見捨てなかった」


 リリアーナは、息を呑む。


 忘れていたわけではない。

 けれど、それが彼の記憶にここまで深く残っているとは思わなかった。


 カイゼルは、リリアーナを見た。


「君は言った」


 その瞳には、七年前の森が映っているようだった。


「傷ついた人を見捨てる理由にはなりません、と」


 リリアーナの胸が、大きく揺れた。


 覚えている。


 幼かった自分が、確かにそう言った。


 あの時は、ただ当然のことだと思っていた。

 目の前で傷ついている人を、敵か味方かで見捨てることができなかった。


 その言葉を、彼はずっと覚えていたのだ。


「その彼女が、理由もなく人を害するとは思えない」


 カイゼルは断言した。


「まして毒を使い、聖堂を汚し、涙で怯える者を虐げるなど、あり得ない」


 リリアーナは視界が滲みかけた。


 初めてだった。


 自分が何者であるかを、誰かがこんなにもはっきりと言葉にしてくれたのは。


 王太子妃候補としてではなく。

 公爵令嬢としてでもなく。

 役に立つ者としてでもなく。


 ただ、リリアーナがリリアーナであることを根拠に、信じると言ってくれている。


 アルヴィスは唇を噛んだ。


「七年前の恩があるからといって、今の罪が消えるわけではない」


「罪があるなら証明しろ」


「それは王国が」


「ならば証明できるまで、彼女の処刑は認めない」


「貴様に認めてもらう必要などない!」


「ある」


 カイゼルの声が低くなる。


「彼女は私の命の恩人だ。彼女の命に関わるなら、私には口を出す理由がある」


「敵国の皇帝が、我が国の令嬢一人のために戦を起こすつもりか」


 アルヴィスは半ば嘲るように言った。


 だが、カイゼルは揺らがなかった。


「ああ」


 たった一言。


 広場が凍りつく。


 アルヴィスの顔から血の気が引いた。


 カイゼルは静かに続ける。


「彼女を殺すなら、私はこの国を敵とみなす。脅しではない。宣言だ」


 黒衣の皇国騎士たちが、一斉に剣の柄へ手を置く。


 黒狼の旗が風に鳴る。


 王国の近衛騎士たちは動けなかった。

 民衆も、貴族たちも、誰一人声を発しない。


 その沈黙の中で、王妃ベアトリスが震える声で言った。


「アルヴィス。処刑は中止なさい」


「母上!」


「中止なさい」


 今度の声には、王妃としての強い命令があった。


「これ以上は、王国が戦を招きます」


 アルヴィスは歯を食いしばる。


 彼はリリアーナを見た。

 その目には怒りと屈辱が燃えている。


 まるで、リリアーナがこの状況を招いたとでも言いたげだった。


 リリアーナは何も言わなかった。


 カイゼルが、代わりに言う。


「彼女の身柄は私が預かる」


「何だと?」


「この国に置いておけば、また同じことをするだろう」


「それは許されない。彼女は王国の貴族だ」


「貴様は先ほど、彼女を罪人として殺そうとした。今さら王国の貴族として扱うつもりか」


 アルヴィスは言葉に詰まる。


 カイゼルはさらに続けた。


「婚約は破棄したのだろう。公爵家も彼女を庇わなかった。王妃も沈黙した。王国は彼女を処刑しようとした」


 リリアーナの肩がわずかに震えた。


 それらはすべて事実だった。


 事実だからこそ、痛かった。


「ならば、彼女をこの国に残す理由はない」


「勝手なことを言うな!」


 アルヴィスが叫ぶ。


「リリアーナは、私の――」


「何だ」


 カイゼルの声が、氷のように落ちた。


「貴様の何だ」


 アルヴィスの口が止まる。


 婚約者ではない。

 愛する女でもない。

 守るべき相手でもない。


 彼は自らリリアーナを捨て、断罪し、処刑しようとした。


 それでも、失うとなると惜しくなるのか。


 リリアーナは、そんな自分の考えに少しだけ疲れた。


 もう、どうでもよかった。


 アルヴィスにどう思われるか。

 王国にどう扱われるか。

 公爵家がどう見るか。


 それらを気にして生きてきた結果が、処刑台だったのだから。


 カイゼルはリリアーナを見る。


「リリアーナ」


「……はい」


「この国に残りたいか」


 問いは、静かだった。


 命令ではなかった。

 宣言でもなかった。


 リリアーナに選ばせる問いだった。


 だからこそ、リリアーナはすぐに答えられなかった。


 この国は、生まれた国だ。

 育った国だ。

 王妃になるために努力してきた国だ。

 父がいる。クララがいる。思い出もある。


 けれど。


 この国は、彼女を信じなかった。


 罪人として処刑台に立たせた。

 無実を叫んでも聞かなかった。

 最後まで誰も助けなかった。


 リリアーナは、広場を見渡す。


 怯えた民衆。

 動揺する貴族。

 黙り込む王妃。

 青ざめた父。

 怒りに震えるアルヴィス。

 涙を浮かべるミリア。


 その中に、自分の居場所はなかった。


「……いいえ」


 声は小さかった。


 けれど、カイゼルには届いた。


 リリアーナは、もう一度はっきりと言う。


「私は、この国には残りたくありません」


 ギルベルトが顔を上げた。


「リリアーナ!」


 父の声が響く。


 だがリリアーナは、もうそちらを見なかった。


 見ると、また期待してしまいそうだった。

 父が今度こそ、娘を呼び止めてくれるのではないかと。


 そんな期待を抱く自分を、もう終わりにしたかった。


 カイゼルは頷く。


「分かった」


 彼は黒いマントを外し、リリアーナの肩にかけた。


 その布は重く、温かかった。

 処刑台の朝風に冷えた身体を、そっと覆う。


 民衆から再びどよめきが起きる。


 カイゼルはリリアーナを支えたまま、処刑台の階段を下り始めた。


 アルヴィスが一歩踏み出す。


「待て! リリアーナ!」


 その声に、リリアーナの足が止まった。


 名前を呼ばれた。


 昨日までなら、それだけで振り返ったかもしれない。

 王太子に呼ばれれば、婚約者として応じなければならないと思っていたから。


 けれど今は、違う。


 リリアーナは振り返った。


 アルヴィスは怒りと焦りを浮かべている。

 その隣で、ミリアが不安そうに彼を見上げていた。


「お前は王国の令嬢だ。勝手に敵国へ行くなど許されない」


 リリアーナは、少しだけ首を傾けた。


 不思議だった。


 昨夜、彼はリリアーナを捨てた。

 今朝、彼はリリアーナを殺そうとした。


 それなのに、どうして今になって、王国の令嬢だと言うのだろう。


「殿下」


 リリアーナは静かに言った。


「私はもう、あなたの婚約者ではございません」


 アルヴィスの顔が強張る。


「それは」


「そして王国は、私を罪人として処刑しようとしました」


 リリアーナは自分の肩にかけられた黒いマントをそっと押さえた。


「その私を、今さら何の名で引き止めるのですか」


 アルヴィスは答えられなかった。


 リリアーナはそれ以上待たなかった。


 カイゼルが彼女を支え、黒衣の騎士たちが周囲を固める。

 広場の人々が自然と道を開けた。


 その途中で、リリアーナはクララの姿を見つけた。


 兵に押さえられていたクララは、涙でぐしゃぐしゃになった顔を上げる。


「お嬢様……」


「クララ」


 リリアーナは足を止める。


 クララは今にも駆け寄りそうだったが、兵に押さえられて動けない。


 カイゼルが一瞥すると、兵たちは慌てて手を離した。


 クララが走ってくる。


「お嬢様!」


 リリアーナの前で膝をつき、彼女の手を取ろうとして、拘束の痕に気づいて泣きそうに顔を歪める。


「こんな……こんなひどいこと……」


「クララ、私は大丈夫です」


「大丈夫じゃありません! でも、生きて……生きていらっしゃる……」


 クララの声が震える。


 その言葉で、リリアーナはようやく実感した。


 自分は、まだ生きている。


 処刑台に立った。

 斧が振り上げられた。

 死を覚悟した。


 けれど、まだ生きている。


 その事実が、じわじわと胸に広がっていく。


「クララ」


「はい」


「あなたは、巻き込まれてはいけません。今はエルフェルト家へ」


「嫌です」


 クララは即答した。


 涙を拭いながら、まっすぐにリリアーナを見る。


「私は、お嬢様の侍女です。どこへ行かれるとしても、おそばにいます」


「ですが」


「お願いです。置いていかないでください」


 リリアーナは言葉に詰まった。


 今、自分は皇国へ連れていかれるかもしれない。

 その道が安全かどうかも分からない。

 クララを連れていけば、彼女の人生を大きく変えてしまう。


 それでも、クララの手は震えながらリリアーナのドレスを掴んでいた。


 リリアーナが迷っていると、カイゼルが言った。


「連れていけばいい」


「陛下」


「君を信じた侍女だろう。王国に残せば、報復される可能性がある」


 リリアーナは息を呑む。


 それは、考えたくなかったことだった。

 けれど確かに、クララは王太子の裁定に逆らって叫んだ。ミリアの証言に反することも口にした。


 このまま残せば、無事では済まないかもしれない。


 カイゼルは続ける。


「皇国で保護する」


 クララがぽかんとカイゼルを見上げた。


「え、あの、私まで……?」


「リリアーナが望むなら」


 その言葉に、リリアーナはカイゼルを見た。


 まただ。


 彼は決めつけない。

 リリアーナの意思を聞いてくれる。


 それが、今の彼女には何よりも眩しかった。


「クララ」


「はい」


「危険な道になるかもしれません」


「はい」


「それでも、来てくれますか」


 クララは、泣きながら笑った。


「もちろんです。お嬢様」


 リリアーナの胸が詰まる。


「ありがとう」


 その言葉だけで、クララはまた涙をこぼした。


 カイゼルは護衛騎士へ視線を向ける。


「彼女も保護する」


「はっ」


 黒衣の騎士がクララのそばにつく。


 その光景を見て、アルヴィスが怒声を上げた。


「勝手に侍女まで連れていくつもりか!」


 カイゼルは振り返らない。


 代わりに、背後の騎士の一人が冷ややかに言う。


「王国は、彼女の主人を処刑しようとした。侍女が身の安全を求めるのは当然では?」


 アルヴィスは言葉に詰まる。


 カイゼルはリリアーナを馬車へ導いた。


 いつの間にか、皇国の紋章が入った黒い馬車が広場の端に用意されていた。

 まるで最初から彼女を連れ帰るつもりだったかのように。


 リリアーナはその前で足を止める。


 振り返ると、王宮が見えた。


 白い壁。

 高い塔。

 昨日まで、自分の未来があると思っていた場所。


 そこに立つ父の姿も見えた。


 ギルベルトは青ざめた顔でこちらを見ている。

 何かを言いたそうにしていた。


 だが、リリアーナはもう待たなかった。


 父が娘を庇う言葉をくれる瞬間は、昨夜も今朝もあった。

 何度もあった。


 それでも、彼は沈黙した。


 だから、もういい。


 リリアーナはゆっくりと視線を外した。


 カイゼルが馬車の扉を開ける。


「乗れるか」


「はい」


 リリアーナは一歩を踏み出そうとして、ふらついた。


 カイゼルがすぐに支える。


「無理をするな」


「申し訳ございません」


「謝る必要はない」


 その言葉に、また胸が揺れる。


 謝らなくていい。

 無理をしなくていい。

 取り繕わなくていい。


 彼の言葉は、リリアーナがこれまで許されなかったことばかりだった。


 カイゼルは、ごく自然な所作でリリアーナを抱き上げた。


 広場から大きなどよめきが起こる。


「陛下!」


 リリアーナは驚いて声を上げる。


「歩けないだろう」


「ですが、人前で」


「君は今、処刑台から降りたばかりだ。体面を気にする必要はない」


 リリアーナは言葉を失った。


 彼の腕は安定していた。

 決して乱暴ではない。けれど、落とすはずがないと分かる強さがあった。


 カイゼルはリリアーナを馬車へ乗せ、クララも続いて乗り込む。

 扉が閉められる前、リリアーナは最後にもう一度だけ広場を見た。


 アルヴィスがこちらを睨んでいる。

 ミリアが不安げに唇を噛んでいる。

 王妃は黙って見送っている。

 父は、その場から動けないまま立ち尽くしている。


 そのすべてが、扉の向こうに閉じられた。


 馬車が動き出す。


 車輪が石畳を踏む音が響く。


 王宮前広場のざわめきが、少しずつ遠ざかっていく。


 リリアーナは、窓の外を見なかった。


 見ると、まだ未練が残ってしまいそうだったから。


 向かいに座るクララが、まだ泣いている。

 リリアーナは手を伸ばして、その手をそっと握った。


「クララ。泣かないで」


「無理です……無理です、お嬢様……」


 クララは嗚咽をこらえながら首を振る。


「生きていてくださって、よかった……」


 その言葉で、リリアーナの胸の奥がついに耐えきれなくなった。


 生きていてよかった。


 誰かが、そう言ってくれる。


 その事実が、あまりに温かかった。


 リリアーナは唇を噛んだ。


 泣いてはいけない。

 そう思った。


 けれど、もう処刑台の上ではない。

 罪人として見られているわけでもない。

 悪女だと囁く群衆もいない。


 目の前には、自分を信じてくれたクララがいる。


 隣には、自分を救ってくれた皇帝がいる。


 リリアーナの視界が、初めて滲んだ。


「……私」


 声が震える。


「本当に、死ぬのだと思いました」


 クララが泣き崩れる。


 カイゼルは、黙ってリリアーナを見ていた。


 その金色の瞳には、怒りと、痛みと、そして深い安堵があった。


「死なせない」


 カイゼルは低く言った。


「二度と、君をあのような場所には立たせない」


 リリアーナは、涙をこぼしながら彼を見た。


 そして、ようやく理解した。


 王国での自分は、終わったのだ。


 王太子の婚約者としてのリリアーナも。

 エルフェルト公爵家のために生きるリリアーナも。

 悪役令嬢として処刑されるはずだったリリアーナも。


 すべて、あの処刑台に置いてきた。


 馬車は王宮を離れていく。


 黒狼の旗が、朝の風に翻る。


 リリアーナ・エルフェルトは、敵国皇帝に救われた。


 けれど、彼女はまだ知らない。


 この救出が、グランベルク王国にとって、取り返しのつかない始まりになることを。

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