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第5話 黒衣の皇帝

 処刑台へ向かう道は、王宮の正門へと続いていた。


 リリアーナは、二人の騎士に挟まれて歩いていた。

 手首には再び拘束具がかけられ、鎖の先は前を歩く役人の手に握られている。


 まるで、逃げ出すことを前提にされているようだった。


 けれど、リリアーナは逃げなかった。


 逃げようとしても、逃げられない。

 逃げたところで、王太子への反逆という罪がさらに重くなるだけだ。

 何より、自分が逃げれば、クララやエルフェルト公爵家にどんな咎が及ぶか分からない。


 そう考えてしまう自分が、少しだけ悲しかった。


 ここまで来てもなお、リリアーナは誰かのために自分を抑えようとしている。


 王宮の廊下には、朝の光が満ちていた。


 磨かれた床。白い柱。季節の花を活けた銀の花器。

 昨日までなら、それらは王宮の気品を表す美しい景色だった。


 今は、そのすべてが遠い。


 すれ違う使用人たちは、リリアーナの姿を見るなり足を止め、深く頭を下げた。

 誰も声をかけない。

 誰も目を合わせない。


 ただ、通り過ぎたあとに小さな囁きが落ちる。


「本当に処刑されるのかしら」


「聖女様に毒を盛ったそうよ」


「でも、公爵令嬢がそんな……」


「王太子殿下が直々に裁かれたのですもの。間違いないわ」


 間違いない。


 その言葉が、やけに胸に残った。


 誰かがそうだと言えば、それは真実になるのだろうか。

 王太子が裁いたなら、そこに間違いはないのだろうか。

 泣いた者の言葉は信じられ、泣かなかった者は罪人になるのだろうか。


 リリアーナは顔を上げたまま歩いた。


 答えを求めても、もう意味はない。


 処刑台へ向かう今となっては、何もかもが遅すぎる。


 正門へ近づくにつれ、外のざわめきが聞こえてきた。


 王宮前広場には、すでに多くの民が集められているらしい。

 その声は波のように重なり合い、王宮の壁を越えて響いていた。


 リリアーナは一度だけ足を止めかけた。


 処刑。


 言葉として聞いた時よりも、外のざわめきを聞いた今の方が、ずっと現実味があった。


 自分は、これから大勢の前で死ぬのだ。


 悪役令嬢として。

 聖女候補を害した罪人として。

 王国の秩序を守るための見せしめとして。


 息が浅くなる。


 けれど、その時、背後から低い声がした。


「リリアーナ様」


 アドルフだった。


 彼は護送の列の少し後ろを歩いている。

 近衛騎士隊長として、処刑の場に立ち会うのだろう。


 リリアーナは振り返らずに答えた。


「何でしょうか」


「……お身体がつらいようであれば、少しだけ歩みを緩めます」


 その言葉は、あまりに小さな気遣いだった。


 死に向かう者へ与えられる、ほんのわずかな慈悲。

 それでも、リリアーナの胸は少しだけ温かくなった。


「ありがとうございます。けれど、大丈夫です」


 本当は大丈夫ではなかった。


 怖い。

 足が震えそうになる。

 今すぐこの場から逃げ出したい。


 それでも、リリアーナはそう言った。


 大丈夫だと。


 そう言い続けなければ、立っていられなかった。


 正門が開かれる。


 朝の光が、まばゆく差し込んだ。


 同時に、外のざわめきが一気に大きくなる。


 王宮前広場には、即席の処刑台が組まれていた。


 黒い木材で作られた高い台。

 その周囲を近衛騎士が囲み、さらに外側には民衆が集められている。


 市場へ向かう途中だった者。

 貴族街から見物に来た者。

 神殿関係者。

 学院の生徒らしき若者たち。

 そして、噂を聞きつけた多くの民。


 人々の視線が、リリアーナに突き刺さった。


「あれが悪役令嬢か」


「聖女様を害したんだって?」


「公爵令嬢なのに恐ろしいな」


「でも、綺麗な方だ……」


「見た目に騙されるな。毒を使った女だぞ」


 声が、波のように押し寄せる。


 リリアーナは、それらを一つ一つ聞き分けないようにした。

 聞けば、心が壊れてしまう気がした。


 処刑台の前には、すでにアルヴィスがいた。


 白と青の王太子服をまとい、金の飾緒を胸にかけている。

 その隣にはミリアが立っていた。


 聖女候補の白い衣装。

 祈るように組まれた両手。

 涙に濡れた瞳。


 彼女は民衆から見て、あまりにも分かりやすい被害者だった。


 アルヴィスはリリアーナを見ると、わずかに顎を上げた。


 勝利者の顔だった。


 彼にとってこれは、王国の未来を守るための正しい裁きなのだろう。

 民衆の前で悪を裁き、聖女を守る。

 そして自分は、王としての器を示す。


 リリアーナは、その考えにもう何も言う気が起きなかった。


 言葉は届かない。

 何度も思い知らされたことだった。


「リリアーナ・エルフェルト」


 アルヴィスの声が広場に響いた。


 魔法具で拡張された声は、集まった民衆の隅々にまで届いた。


「お前は聖女候補ミリア・ロゼットを長く虐げ、毒をもって害そうとした。さらには王家の裁定に逆らい、己の罪を最後まで認めようとしなかった」


 ざわめきが広がる。


 リリアーナは処刑台の下で立ち止まらされた。


 朝の光が眩しい。

 空はよく晴れていた。

 春の終わりらしい、穏やかな青空だった。


 こんな日に死ぬのかと思うと、不思議な気がした。


「王国は、聖女を害する者を許さない」


 アルヴィスは続ける。


「たとえそれが、公爵家の令嬢であろうとも」


 民衆の中から声が上がる。


「聖女様を守れ!」


「王太子殿下、万歳!」


「悪女を裁け!」


 悪女。


 また、その言葉。


 リリアーナは静かに目を伏せた。


 何度聞いても、慣れることはなかった。


 ミリアが一歩前に出る。


「リリアーナ様……」


 その声もまた、魔法具を通して広場に響いた。


「わたし、本当はこんなこと望んでいません。でも、これ以上誰かが傷つくのは嫌なんです。どうか、どうか最後に、女神様へ悔い改めてください」


 民衆の一部が、感動したように息を呑む。


「なんてお優しい聖女様だ」


「自分を殺そうとした相手にまで慈悲を……」


 リリアーナは、ゆっくりとミリアを見た。


 涙を浮かべる少女。

 儚げで、優しく、誰もが守りたくなる存在。


 だがその瞳の奥には、ほんの小さな満足があった。


 勝ったのだと。

 自分こそが選ばれたのだと。


 リリアーナには、もうそれが見えてしまっていた。


「ミリア様」


 リリアーナは静かに答えた。


 魔法具は彼女の声も拾ったらしい。

 広場のざわめきが少しだけ小さくなる。


「私は、悔い改めるべき罪を犯しておりません」


 空気が張り詰めた。


 ミリアの表情が、わずかに歪む。


「どうして……最後まで、そんな……」


「何度でも申し上げます。私はあなたに毒を盛っておりません。階段から突き落としてもおりません。聖堂を汚してもおりません」


「リリアーナ」


 アルヴィスが低く遮った。


「今さら見苦しいぞ」


「見苦しくとも構いません」


 リリアーナは、初めて彼を正面から見た。


 処刑台の上に立つ王太子。

 その姿を見ても、もう胸は痛まなかった。


 彼の隣に立つ未来を、自分は確かに失った。

 けれど今は、それよりもはっきりと分かる。


 自分は、あの場所にいてはいけなかったのだ。


「私は、やっていない罪を認めません。それだけです」


 その言葉に、広場がざわつく。


「まだ言うのか」


「悪女め」


「でも、あんなにはっきり……」


「本当にやっていないのでは?」


 ほんのわずかに、民衆の声が揺れた。


 それを感じたのか、アルヴィスの表情が険しくなる。


「黙れ!」


 王太子の一喝に、広場が静まり返る。


「罪人の言葉に惑わされるな。彼女は最後まで己の罪を認めぬ、誇り高い悪女だ」


 アルヴィスは片手を上げた。


「刑を執行しろ」


 処刑人が前へ出る。


 黒い布で顔を覆い、重い斧を手にした男。

 その姿を見た瞬間、リリアーナの身体が強張った。


 死が、そこに形を持って現れた。


 怖い。


 今度こそ、心の中だけでは抑えきれないほどの恐怖が込み上げる。


 喉が乾く。

 指先が震える。

 足が動かない。


 けれど、リリアーナは泣かなかった。


 ここで泣けば、アルヴィスは満足するのだろうか。

 ミリアは優しく微笑むのだろうか。

 民衆は、悪女がようやく悔い改めたと囁くのだろうか。


 嫌だった。


 最後の瞬間まで、自分の真実だけは奪われたくなかった。


 リリアーナは処刑台へ上がる。


 一段。

 また一段。


 木の階段が、靴音を重く響かせる。


 台の上から見下ろす王宮前広場は、ひどく広く見えた。

 民衆の顔が遠い。

 アルヴィスも、ミリアも、どこか遠い物語の登場人物のように見える。


 リリアーナは、処刑台の中央に立たされた。


 拘束具の鎖が外される。

 代わりに、両手を前で縛られた。


 処刑人が横に立つ。


 アドルフは台の下にいた。

 彼は苦しげに顔を伏せている。


 それを見て、リリアーナは小さく思った。


 彼だけでも、せめてこの処刑を正しいとは思っていないのかもしれない。


 それだけで十分だった。


 そう思おうとした。


 その時だった。


「お嬢様!」


 悲鳴のような声が、広場の端から響いた。


 クララだった。


 数人の兵に押さえられながら、それでも必死にこちらへ手を伸ばしている。


「お嬢様は無実です! 私は知っています! お願いです、誰か、誰かお嬢様を――!」


「黙らせろ!」


 アルヴィスが命じる。


 兵がクララの腕を強く掴む。


 クララが苦しそうに顔を歪めた。


 リリアーナの中で、何かが弾けた。


「クララに触らないで!」


 初めて、声を荒げた。


 広場が静まり返る。


 リリアーナは処刑台の上で、アルヴィスを睨むように見た。


 涙は出ていない。

 だが、胸の奥にはこれまで感じたことのない怒りがあった。


「彼女は関係ありません! 処刑されるのは私でしょう。ならば、彼女には手を出さないでください!」


 アルヴィスは冷たく笑った。


「最後の願いが侍女の心配か。実に芝居がかっているな」


「殿下」


「安心しろ。お前が大人しく死ねば、その侍女の処分は考えてやる」


 その言葉を聞いた瞬間、リリアーナは悟った。


 この人は、最後まで何も分かっていない。


 自分が何を壊しているのか。

 何を踏みにじっているのか。

 それすら分からないまま、正義を名乗っている。


「……私は」


 リリアーナは静かに言った。


「あなたの婚約者であったことを、今日ほど恥じたことはありません」


 広場が凍りついた。


 アルヴィスの顔が赤くなる。


「リリアーナ!」


「あなたが私を罪人と呼ぶなら、私はあなたを、私の主君とは認めません」


「処刑人!」


 アルヴィスが怒鳴った。


「今すぐやれ!」


 処刑人が斧を構える。


 民衆から悲鳴が上がる。

 クララが泣き叫ぶ。

 アドルフが何かを言いかける。

 王宮の白い壁が、朝日に照らされている。


 リリアーナは目を閉じなかった。


 最後に見るものが、この国の空でも構わないと思った。


 青い空。

 眩しい光。

 白い雲。


 その向こうに、ふと、幼い日の森が見えた気がした。


 傷ついた少年。

 金色の瞳。

 自分が差し出した白いハンカチ。


『なぜ助ける。私はお前の国の敵だぞ』


『傷ついた人を見捨てる理由にはなりません』


 あの少年は、生きているだろうか。


 もし生きているのなら。

 どこか遠い国で、自分とは違う空を見上げているのなら。


 どうか、幸せでいてほしい。


 リリアーナは小さく息を吸った。


 処刑人の影が、彼女の上に落ちる。


 その瞬間。


 広場の外側から、地鳴りのような音が響いた。


 馬蹄の音。


 一頭ではない。

 何十もの騎馬が、石畳を蹴って近づいてくる音だった。


 民衆がざわめく。


「何だ?」


「騎士団か?」


「王宮の兵ではないぞ」


 王宮前広場の外門が、轟音と共に開かれた。


 いや、開かれたのではない。


 押し開けられたのだ。


 黒い軍旗が、朝の光の中に翻る。


 その旗に描かれていたのは、金の瞳を持つ黒狼。


 リリアーナは、それを見たことがなかった。

 だが広場の貴族たちは一斉に顔色を変えた。


「ヴァレンティス……」


 誰かが、震える声で呟いた。


 ヴァレンティス皇国。


 グランベルク王国と長く緊張関係にある、北の強大な皇国。

 軍事力において王国を凌ぎ、黒狼皇帝の名で恐れられる国。


 なぜ、その旗がここに。


 リリアーナが息を呑む間にも、黒衣の騎士たちは広場へ進入してくる。


 先頭の騎馬だけが、他の者たちより一歩前に出ていた。


 漆黒の馬。

 黒と金の軍装。

 深い黒髪。

 鋭い金色の瞳。


 その男が現れた瞬間、広場の空気が変わった。


 ざわめきが消える。

 民衆が道を開ける。

 近衛騎士たちでさえ、無意識に剣の柄へ手をかけたまま動けずにいる。


 男は馬上から、処刑台を見上げた。


 その金色の瞳が、リリアーナを捉える。


 リリアーナは、息を忘れた。


 知らない男のはずだった。

 けれど、その瞳にだけ、ひどく覚えがあった。


 昔、森の奥で見た金色。


 傷だらけの少年が、自分を警戒しながら見上げていた、あの瞳。


 男は馬から降りた。


 黒いマントが風に揺れる。

 彼が一歩進むたびに、広場の空気が冷えていくようだった。


 アルヴィスがようやく声を上げる。


「何者だ! ここをグランベルク王国の王宮前と知っての狼藉か!」


 男は答えなかった。


 ただ、処刑台にいるリリアーナから視線を外さない。


 その沈黙に耐えきれず、アルヴィスが叫ぶ。


「名を名乗れ!」


 男の背後にいた黒衣の騎士が一歩前へ出た。


「控えよ。こちらにおわすは、ヴァレンティス皇国皇帝、カイゼル・ヴァレンティス陛下である」


 広場が凍りついた。


 カイゼル・ヴァレンティス。


 黒狼皇帝。

 氷血皇帝。

 敵国の若き支配者。


 その名を知らぬ者は、この王都にはいない。


 アルヴィスの顔から血の気が引く。


「皇帝、だと……?」


 カイゼルは、ゆっくりと処刑台へ向かった。


 近衛騎士が道を塞ごうとする。

 だが、カイゼルが一瞥しただけで、その騎士は動きを止めた。


 金色の瞳。


 それは怒りを含んでいるのに、ひどく静かだった。

 燃え盛る炎ではなく、すべてを凍らせる刃のような怒り。


 カイゼルは処刑台の前で足を止める。


 そして、ようやく口を開いた。


「その女から離れろ」


 低い声だった。


 だが、広場の隅々にまで届いた。


 処刑人が動けずにいる。


 アルヴィスが怒鳴った。


「何をしている! 刑を執行しろ!」


 処刑人がはっとして斧を持ち直す。


 次の瞬間、黒い影が走った。


 カイゼルの護衛騎士の一人が処刑台へ飛び上がり、処刑人の手から斧を弾き飛ばした。

 斧が床に落ち、重い音を立てる。


 民衆から悲鳴が上がった。


「貴様、何をする!」


 アルヴィスが激昂する。


 カイゼルはようやく、彼を見た。


 その視線を受けた瞬間、アルヴィスの言葉が詰まる。


「王太子アルヴィス・フォン・グランベルク」


 カイゼルの声は静かだった。


「今、貴様は何をしようとしていた」


「これは我が国の裁きだ。敵国の皇帝が口を出すことではない!」


「裁き?」


 カイゼルはわずかに目を細める。


「証拠もなく、正式な手続きもなく、女一人を処刑台に立たせることを、この国では裁きと呼ぶのか」


 その言葉に、広場がざわめいた。


 アルヴィスが顔を強張らせる。


「証拠はある! 彼女は聖女候補を害した罪人だ!」


「罪人」


 カイゼルは低く繰り返した。


 その声に含まれた怒りに、周囲の空気がさらに冷える。


 彼は一歩、処刑台へ近づいた。


 リリアーナは、彼を見下ろしていた。


 いや、違う。

 見下ろしているはずなのに、彼の存在感の方が圧倒的だった。


 カイゼルの金色の瞳が、リリアーナの手首の赤い痕へ向かう。

 縛られた手。

 乱れた銀髪。

 処刑台の上に立つ白と淡紫のドレス。


 彼の表情は動かなかった。


 だがその瞳の奥で、何かが静かに砕けたように見えた。


「リリアーナ・エルフェルト」


 名を呼ばれた。


 低く、けれど確かな声で。


 リリアーナは唇を開く。


「……なぜ、私の名を」


 カイゼルはしばらく彼女を見つめていた。


 そして、ゆっくりと膝をついた。


 処刑台の下で。


 王国の民衆が見守る中で。

 敵国の皇帝が、公爵令嬢に跪いた。


 広場中が、息を呑んだ。


 リリアーナ自身も、理解が追いつかなかった。


 カイゼルは、手を差し伸べる。


 その所作は、まるで処刑台から彼女を降ろすためではなく、舞踏会で一曲を申し込むかのように丁寧だった。


「迎えに来た」


 たったそれだけの言葉だった。


 けれど、リリアーナの胸の奥に、熱いものが広がった。


 誰も信じてくれなかった。

 誰も助けてくれなかった。

 誰も彼女の名を、罪人ではなくリリアーナとして呼んでくれなかった。


 けれど今、目の前の男は彼女を見ている。


 悪役令嬢としてではなく。

 罪人としてでもなく。


 リリアーナ・エルフェルトとして。


「陛下」


 アルヴィスが怒りを抑えきれない声で言う。


「その女は罪人だ。王国の裁きを妨げるなら、いかに皇帝といえど――」


 カイゼルは、アルヴィスを見た。


 それだけで、彼の言葉は止まった。


「罪人?」


 カイゼルは静かに言った。


「私の命の恩人を、貴様らは罪人と呼ぶのか」


 広場が、完全に沈黙した。


 リリアーナは目を見開く。


 命の恩人。


 その言葉と、金色の瞳。

 幼い日の森。

 傷だらけの少年。


 全てが一つに繋がる。


 あの時の少年が。


 今、目の前にいる黒衣の皇帝なのだ。


 カイゼルは、処刑台の上のリリアーナだけを見つめる。


「リリアーナ」


 その声は、先ほどよりわずかに柔らかかった。


「遅くなった」


 リリアーナは何も言えなかった。


 喉の奥が震える。

 胸が苦しい。

 けれど、涙はまだ出ない。


 泣き方を忘れたままの彼女に、カイゼルは手を伸ばし続けている。


 その手は、逃げ道ではなかった。


 救いだった。


 カイゼルは、広場全体に聞こえる声で告げた。


「その女を殺すというのなら、我が皇国はグランベルク王国を敵とみなす」


 朝の空気が、凍りついた。


 王太子も、王妃も、貴族も、民衆も、誰も声を発しない。


 黒狼の旗が風に翻る。


 カイゼル・ヴァレンティスは跪いたまま、リリアーナを見上げていた。


 その金色の瞳に、嘘はなかった。


 リリアーナは、震える唇でようやく声を出す。


「……あなたは、本当に、私を信じてくださるのですか」


 カイゼルは答えた。


「ああ」


 迷いのない声だった。


「私は、君を信じる」


 その一言で、リリアーナの中に張り詰めていたものが、静かにほどけた気がした。

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