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第4話 本日正午、処刑する

 夜明け前の地下牢は、王宮のどこよりも冷えていた。


 石壁は湿り気を帯び、指先で触れれば氷のように冷たい。高窓から差し込むはずの光はまだなく、部屋の隅に置かれた魔石灯だけが、青白い光で床を照らしている。


 リリアーナは、固い寝台に腰掛けたまま、ほとんど眠らずに朝を迎えようとしていた。


 目を閉じれば、大広間で向けられた視線が蘇る。

 アルヴィスの怒り。

 ミリアの涙。

 父の沈黙。

 王妃の憂い。


 そして、クララの泣き声。


『お嬢様は、そんなことしません!』


 あの声だけが、何度も耳に残っていた。


 たった一人でも信じてくれる者がいる。

 それだけで救われるはずだった。


 けれど同時に、たった一人しか信じてくれなかったという事実が、リリアーナの胸を重く沈ませていた。


「……情けないわね」


 小さく呟いた声は、石の部屋に吸い込まれていく。


 公爵令嬢として、王太子妃候補として、ずっと正しくあろうとしてきた。

 感情を抑え、役目を果たし、誰にも恥じぬように生きてきた。


 それなのに、いざ罪を着せられた時、彼女の積み重ねは何一つ彼女を守らなかった。


 努力は信頼に変わらなかった。

 忠告は感謝に変わらなかった。

 献身は愛に変わらなかった。


 リリアーナは手首を見下ろした。


 昨夜外された拘束具の跡が、赤く肌に残っている。触れると鈍い痛みが走った。


 痛みを感じることに、少しだけほっとする。


 まだ自分は、ここにいる。

 悪役令嬢でも、罪人でもなく、リリアーナ・エルフェルトとして。


 どれほど周囲が決めつけても、それだけは自分で忘れてはいけない。


 高窓の外が、わずかに白み始めた。


 夜が明ける。


 明朝、改めて裁定を下す。

 アルヴィスはそう言った。


 リリアーナは胸の前で手を組み、静かに息を吐いた。


 裁定。

 その言葉が意味するものは、いくつか考えられる。


 修道院送り。

 爵位剥奪。

 国外追放。

 公爵家からの廃嫡。


 どれであっても、決して軽いものではない。


 それでも、リリアーナはまだ、どこかで信じていたのかもしれない。


 いくら何でも、王国は法を完全に捨てはしない。

 正式な調査もなく、証拠も確認せず、公爵令嬢を重罪人として扱うなど、あってはならない。


 あってはならない。


 そう思った時、廊下の向こうから足音が聞こえた。


 重い靴音。

 鎧の擦れる音。

 鍵束が触れ合う音。


 リリアーナはゆっくりと立ち上がった。


 扉の小窓が開き、騎士の目がこちらを確認する。やがて鍵が差し込まれ、鉄の扉が軋みながら開いた。


 そこに立っていたのは、近衛騎士隊長アドルフだった。


「リリアーナ様。お迎えに参りました」


「裁定の場へ、ですか」


「……はい」


 わずかな間があった。


 アドルフの表情は硬い。

 昨夜よりもさらに、何かを押し殺しているように見えた。


 リリアーナはそれ以上問い詰めなかった。


「分かりました」


 乱れていたドレスの裾を整え、背筋を伸ばす。髪飾りは外されていないが、一晩を地下牢で過ごしたせいで、銀髪にはわずかな乱れがあった。


 けれど、構わなかった。


 今の自分に許された装いなど、もう何もないのかもしれない。


 アドルフはリリアーナの手首を見た。

 赤く残る痕に、一瞬だけ眉を寄せる。


「拘束具は……」


「必要であれば、どうぞ」


 リリアーナは静かに両手を差し出した。


 アドルフの顔が苦しげに歪む。


「……失礼いたします」


 再び金属が手首にかけられる。


 昨夜と同じ冷たさ。

 昨夜よりも少し強い痛み。


 だがリリアーナは声を上げなかった。


 地下牢を出ると、王宮の廊下には朝の光が差し込んでいた。


 夜の王宮とは違い、窓から淡い金色の光が流れ込み、磨かれた床を照らしている。遠くからは使用人たちの足音も聞こえた。


 いつもなら、リリアーナもこの時間には王宮の一室で王妃教育の書物を開いていた。

 朝の茶を一口飲み、今日の予定を確認し、アルヴィスの会議資料に目を通していた。


 その全てが、もう遠い昔のことのように思えた。


 廊下の角を曲がると、数人の使用人が立ち止まり、こちらを見た。


 リリアーナの姿に気づいた瞬間、彼らは慌てて頭を下げる。

 だが、その視線には隠しきれない好奇と怯えがあった。


 昨夜の出来事は、すでに王宮中に広まっているのだろう。


 王太子に婚約破棄された悪役令嬢。

 聖女候補を毒殺しようとした公爵令嬢。

 牢に入れられた罪人。


 噂は、真実よりも早い。


 リリアーナは視線を前に向けたまま歩いた。


 やがて辿り着いたのは、昨夜と同じ東棟の小広間ではなかった。


 王宮中央棟にある、裁定の間。


 王族や重臣が重大な処分を告げる時に使われる場所だ。


 その扉を見た瞬間、リリアーナの胸に冷たい予感が広がる。


 単なる再確認ではない。


 これは、すでに決められた裁きを告げる場だ。


 扉が開かれる。


 室内には、昨夜よりも多くの人々が集まっていた。


 王妃ベアトリス。

 王太子アルヴィス。

 ミリア・ロゼット。

 エルフェルト公爵ギルベルト。

 法務官、宰相補佐、近衛騎士、神殿関係者。

 さらに数名の貴族代表までいる。


 国王の姿はなかった。


 病で臥せっているという話は以前から聞いていた。だから王妃と王太子が代理として裁定を下すのだろう。


 だが、それにしても早すぎる。


 リリアーナは部屋の中央へ進まされた。


 昨夜と同じように、彼女は立たされる。

 ただし今回は、誰も椅子を勧めなかった。


 アルヴィスは正面の席に立ち、厳しい顔をしている。

 白と青の礼服は昨夜と同じではなかった。朝の裁定のために着替えたのだろう。金の飾緒が、王太子としての権威を示すように胸元で光っている。


 その隣にミリアが座っていた。


 彼女は青白い顔で、いかにも体調が悪そうに見える。淡桃色のドレスではなく、白を基調とした聖女候補の装いをまとっていた。


 聖女候補としての姿。


 それが、この場の印象を決定づけている。


 王太子に守られる、傷ついた聖女。

 拘束具をつけられた、冷たい悪役令嬢。


 ここでもまた、物語は完成していた。


「リリアーナ・エルフェルト」


 アルヴィスが口を開いた。


「昨夜、お前には弁明の機会を与えた」


「はい」


「だが、お前は最後まで罪を認めず、反省の言葉もなかった」


「やっていない罪を認めることはできません」


 リリアーナが答えると、アルヴィスの眉がぴくりと動いた。


「まだ言うのか」


「何度問われても、同じでございます」


 室内に張り詰めた空気が走る。


 ギルベルトが険しい顔でリリアーナを見た。

 王妃ベアトリスは目を伏せている。

 ミリアはハンカチを握りしめ、震えていた。


 アルヴィスは深く息を吸った。


「では、改めて罪状を確認する」


 法務官が書面を開く。


 読み上げられた内容は、昨夜とほとんど同じだった。


 聖女候補ミリアへの継続的な嫌がらせ。

 階段からの突き落とし。

 毒入り菓子による殺害未遂。

 聖堂への不敬。

 王太子への侮辱と反逆的態度。


 最後の一つに、リリアーナはわずかに眉を寄せた。


「反逆的態度、でございますか」


「王太子である私の裁定に異を唱え、王国法を盾にして権威を侮辱した」


「王国法を守るよう申し上げることが、反逆になるのですか」


「黙れ」


 アルヴィスの声が鋭く落ちる。


 法務官が顔を青くして視線を伏せた。

 その様子だけで、法務官自身も無理があると分かっているのだと察せられた。


「殿下」


 リリアーナは静かに続ける。


「昨夜申し上げた通り、正式な調査を求めます。菓子店の注文記録、配送経路、医師の診断書、聖堂の記録、証人の尋問。それらを確認すれば、私の無実は明らかになるはずです」


「まだ証拠の話をするのか」


「罪を裁くために、証拠は不可欠です」


「証拠ならある」


 アルヴィスは言い切った。


 その声には、揺るぎない確信があった。


 彼は本当に、自分の裁きが正しいと信じている。

 それが、リリアーナには恐ろしかった。


「ミリアの証言。ミリア付きの侍女たちの証言。そして、毒の症状を診た医師の所見。十分だ」


「その医師はこの場に?」


「必要ない」


「侍女の方々は?」


「お前が圧力をかける恐れがあるため、保護している」


「では、私が反対尋問する機会は」


「罪人にそのような権利はない」


 罪人。


 まだ裁かれてもいないのに、彼はもうリリアーナをそう呼んだ。


 リリアーナは、胸の奥で小さく息を吐く。


「殿下。私はまだ、罪人ではございません」


「私がそう判断した」


「王太子殿下の判断のみで、人は罪人になるのですか」


「リリアーナ!」


 ギルベルトが鋭く名を呼んだ。


「これ以上、殿下に無礼を働くな」


 リリアーナは父を見る。


 そこにあるのは、怒りだった。

 娘を案じる怒りではない。

 公爵家の立場を危うくする娘への怒り。


「父上。私は、正当な手続きを求めているだけです」


「今のお前に必要なのは、手続きではなく悔悟だ」


「悔悟すべき罪を、私は犯しておりません」


「まだ言うか!」


 ギルベルトの声が室内に響いた。


 その瞬間、リリアーナの心は不思議なほど静かになった。


 ああ、もう本当に駄目なのだ。


 父は、最後まで父ではいてくれない。

 この国も、最後まで正しさを守ってはくれない。


「エルフェルト公爵」


 王妃ベアトリスが静かに口を挟んだ。


 ギルベルトは我に返ったように口を閉ざす。


 ベアトリスはリリアーナを見た。

 その瞳には、昨夜よりも深い疲労がある。


「リリアーナ嬢。あなたの主張は理解しました」


 希望は抱かなかった。


 けれど、リリアーナは黙って王妃の言葉を待った。


「しかし、この件はすでに王宮内外に広がり始めています。聖女候補を害した疑いを持たれた者を、王太子妃候補として置いておくことはできません」


「では、婚約破棄についての正式協議を」


「それだけでは済みません」


 ベアトリスの声がわずかに沈んだ。


 リリアーナの指先が冷える。


「聖女候補への毒殺未遂は、王国に対する重大な罪です。聖女は、国を守る祈りの象徴。その候補を害することは、王国そのものへの害意とみなされます」


「私は、その毒を入れておりません」


「あなたはそう主張しています。ですが、王国は今、民の不安を抑えなければなりません」


 民の不安。


 その言葉に、リリアーナはようやく全てを理解した。


 真実ではない。

 手続きでもない。

 王国が今必要としているのは、分かりやすい結末なのだ。


 傷ついた聖女候補。

 彼女を守る王太子。

 裁かれる悪役令嬢。


 その物語を示せば、民は納得する。

 王太子は正義となり、ミリアは聖女として輝き、王家の権威は保たれる。


 リリアーナ一人を差し出すことで、すべてが丸く収まる。


 そういうことなのだ。


「……私は、王国のために罪人になるのですか」


 思わず、言葉がこぼれた。


 王妃は答えなかった。


 アルヴィスが代わりに言う。


「お前が罪を犯したから裁かれるのだ」


 彼にとっては、きっとそうなのだろう。


 自分が正しいと信じて疑わない。

 だからこそ、どれほど理不尽でも迷わない。


 リリアーナは、静かに目を閉じた。


 もう、言葉は届かない。


 それでも、最後まで言うべきことは言わなければならない。


「私は、聖女候補ミリア様を害しておりません。毒を入れておりません。聖堂を汚しておりません。王国に害意を抱いたこともございません」


 一語ずつ、明確に。


「この場の誰一人信じてくださらなくても、私はその罪を認めません」


 室内は静まり返った。


 その沈黙を破ったのは、ミリアの嗚咽だった。


「どうして……」


 ミリアは震えながら顔を上げる。


「どうして、そこまで……。リリアーナ様が少しでも謝ってくだされば、わたし、許そうと思っていたのに……」


 許す。


 その言葉が、胸に刺さる。


 していないことを謝れば許す。

 罪を認めれば救う。


 それは、慈悲ではない。


「ミリア様」


 リリアーナは静かに言った。


「私は、許しを乞うべき罪を犯しておりません」


 ミリアの瞳が大きく揺れる。


 その奥に、ほんの一瞬だけ、鋭い感情が走った。


 苛立ち。

 憎しみ。

 あるいは、思い通りにならない相手への焦り。


 だが次の瞬間には、彼女は顔を覆って泣き崩れた。


「怖い……っ、殿下、怖いです……!」


「ミリア!」


 アルヴィスが彼女を支える。


 その顔に浮かんだ怒りを見て、リリアーナは悟った。


 裁定は、もう下る。


 それも、彼女が想像していたより重い形で。


「リリアーナ・エルフェルト」


 アルヴィスが低く告げる。


「お前は最後まで己の罪を認めず、被害者であるミリアをさらに傷つけた」


 リリアーナは何も言わなかった。


「未来の王妃候補でありながら、聖女候補を害し、王国の信仰と秩序を乱し、王太子である私の裁定に逆らった。その罪は重い」


 王妃ベアトリスが、わずかに顔を上げた。


「アルヴィス」


 彼女の声には、制止の響きがあった。


 だがアルヴィスは止まらない。


「母上。これは王国のためです」


「ですが」


「聖女を害した罪を軽く扱えば、王国は民の信頼を失います。私は未来の王として、示さねばなりません」


 正義に酔った目。


 リリアーナは、そんな言葉を胸の中で思い浮かべた。


 アルヴィスは自分の言葉に酔っている。

 自分が今、王国のために苦渋の決断を下す賢明な王太子であると、疑っていない。


 ギルベルトは口を開きかけたが、王太子の強い視線に黙った。


 父さえ黙らせたことに、アルヴィスはわずかに満足したようだった。


「王太子アルヴィス・フォン・グランベルクの名において、リリアーナ・エルフェルトに裁定を下す」


 室内の空気が止まる。


 リリアーナは、背筋を伸ばした。


 最後まで、俯かない。

 最後まで、自分の罪ではないと分かっている。


 それだけは、奪わせない。


 アルヴィスの声が響いた。


「リリアーナ・エルフェルトを、王家への反逆、および聖女候補ミリア・ロゼットへの毒殺未遂の罪により――」


 そこで、ほんの一瞬だけ間が空いた。


 王妃が息を呑む。

 ギルベルトの顔色が変わる。

 アドルフがわずかに拳を握る。


 リリアーナは、アルヴィスを見つめていた。


 彼は言った。


「本日正午、処刑する」


 言葉の意味が、すぐには理解できなかった。


 処刑。


 それは、修道院送りでも、国外追放でも、爵位剥奪でもない。


 死。


 リリアーナ・エルフェルトという存在を、この国から完全に消すという宣告。


 小広間がざわめいた。


「殿下、それはあまりに」


 法務官が声を上げかけた。


「黙れ。これは王太子としての裁定だ」


「しかし、正式な国王陛下の御裁可が」


「父上は病床にある。王国の秩序を守るため、私が決断する」


 アルヴィスは言い切った。


 その姿を、ミリアは涙の隙間から見上げている。

 怯えているようで、どこか満たされた表情にも見えた。


 リリアーナは、自分の呼吸が浅くなっていることに気づいた。


 怖い。


 初めて、はっきりとそう思った。


 死ぬのが怖い。


 罪人として処刑されることが怖い。

 何もしていないのに、誰にも信じてもらえないまま終わることが怖い。


 それでも、膝を折ることだけはしなかった。


「……殿下」


 リリアーナは口を開いた。


 声は少しだけ掠れていた。


「私は、無実です」


「まだ言うか」


「はい」


 リリアーナは、まっすぐにアルヴィスを見る。


「死を命じられても、私はやっていない罪を認めません」


 アルヴィスの顔が歪んだ。


「最後まで強情な女だ」


「それが、私に残された最後の真実です」


 室内が静まる。


 王妃ベアトリスは、震える手で扇を握りしめていた。

 ギルベルトは青ざめ、唇を開いたまま何も言えずにいる。

 アドルフは苦しげに目を伏せた。


 誰も止めない。


 誰も、リリアーナを救わない。


 その時、扉の外で騒ぎが起きた。


「離してください! お嬢様に会わせてください!」


 クララの声だった。


 廊下の向こうから、必死に叫ぶ声が近づいてくる。


「お嬢様は何もしていません! 私が知っています! お嬢様は、ミリア様に毒なんて――」


「黙らせろ」


 アルヴィスが苛立たしげに命じた。


 扉の向こうで、騎士たちの慌ただしい足音がする。


 リリアーナは反射的に一歩前へ出ようとした。

 だが、両脇の騎士に止められる。


「クララに手を出さないでください」


 リリアーナの声に、アルヴィスが冷たく笑う。


「罪人の侍女が騒いでいるだけだ」


「彼女は関係ありません」


「お前の侍女だ。関係がないわけがない」


「殿下!」


 初めて、リリアーナの声が強くなった。


 室内の視線が彼女へ向かう。


 リリアーナは息を整え、もう一度言った。


「どうか、クララには罰を与えないでください。彼女はただ、主人を信じただけです」


「その主人が罪人なら、侍女の証言も信用ならない」


「彼女は何もしておりません」


「お前がそれを言うか」


 アルヴィスは吐き捨てる。


 その時、扉がわずかに開き、押さえつけられたクララの姿が見えた。


 栗色の髪は乱れ、侍女服の袖も引かれて歪んでいる。

 それでも彼女は、涙で濡れた顔を上げて叫んだ。


「お嬢様!」


「クララ!」


 リリアーナは思わず名を呼んだ。


 クララは騎士たちの腕の中でもがきながら、必死に言葉を紡ぐ。


「違うんです! お嬢様はずっと王国のために働いていました! 夜も眠らず、殿下の資料を直して、聖堂にも寄付をして、ミリア様のお菓子だって、ちゃんと私が――」


「連れていけ!」


 アルヴィスの命令で、扉が閉じられる。


 クララの声が遠ざかる。


「お嬢様! お嬢様ぁ!」


 最後の叫びが、廊下に消えた。


 リリアーナはその場に立ち尽くす。


 喉の奥が痛い。

 胸が苦しい。

 けれど、涙は出なかった。


 代わりに、心の底から静かな怒りが湧き上がってくる。


 自分が傷つけられることには耐えられた。

 悪女と呼ばれることにも、罪人と呼ばれることにも、どうにか耐えられた。


 けれど、クララまで巻き込まれることは耐えられなかった。


「アルヴィス殿下」


 リリアーナの声は、冷えていた。


 それは怒鳴り声ではない。

 けれど、先ほどまでよりずっと鋭かった。


「私は、あなたの婚約者として、何年もおそばにおりました」


「それがどうした」


「一度でも、私の言葉を信じようとは思われませんでしたか」


 アルヴィスは答えない。


「一度でも、調べようとは思われませんでしたか」


「必要ないと言った」


「そうですか」


 リリアーナは微笑んだ。


 それは、これまで身にまとってきた公爵令嬢としての微笑とは違っていた。

 諦めと、決別の色を帯びた微笑だった。


「では、私は今この時をもって、あなたを未来の王として信じることをやめます」


 室内が凍りついた。


 アルヴィスの顔が、怒りに染まる。


「何だと」


「あなたが私を罪人と断じるなら、私もあなたを、私の主君とは認めません」


「リリアーナ!」


 ギルベルトが叫ぶ。


「控えよ! お前は自分の立場が分かっているのか!」


「分かっております」


 リリアーナは父を見た。


「本日正午、私は処刑されるのでしょう。ならば、もう取り繕う必要もございません」


 ギルベルトが息を呑む。


 リリアーナは続けた。


「父上。私は最後まで、あなたの娘として恥じぬようにあろうとしました。けれど、あなたは最後まで、私の父ではいてくださらなかった」


「リリアーナ……」


「もう、結構です」


 その言葉は、静かだった。


 けれどギルベルトの顔から血の気が引いた。


 リリアーナは王妃へ視線を向ける。


「王妃殿下。長らくご指導いただき、ありがとうございました」


 ベアトリスが震えるようにリリアーナを見る。


「リリアーナ嬢……」


「私は、王妃教育で教わったことを守ろうとしました。国を思い、法を重んじ、民を守ること。それが王家に仕える者の務めだと」


 リリアーナは小さく頭を下げた。


「ですが、この国でそれを守ることは、もうできないようです」


 ベアトリスは何も言えなかった。


 最後に、リリアーナはアルヴィスを見る。


「殿下。私は最後まで、罪を認めません」


「……連れていけ」


 アルヴィスが低く命じた。


「正午まで地下に戻しておけ。処刑の準備を進めろ」


「承知いたしました」


 アドルフの声は、かすかに掠れていた。


 騎士たちがリリアーナを連れて歩き出す。


 扉へ向かう途中、ミリアが小さく声をかけた。


「リリアーナ様……」


 リリアーナは足を止めなかった。


 ミリアの声が続く。


「最後に謝ってくだされば、わたし……祈ります。リリアーナ様の魂が、女神様に許されるように」


 リリアーナは、そこで初めて振り返った。


 ミリアは涙を浮かべていた。

 けれどその瞳の奥には、隠しきれない勝利の色があった。


 リリアーナは、静かに告げる。


「祈りは、どうかご自分のためになさってください」


 ミリアの表情が固まる。


「私の魂は、私のものです」


 それだけ言って、リリアーナは前を向いた。


 扉が開く。


 外の廊下には、朝の光が満ちていた。

 あまりにも眩しくて、まるで王宮だけが何も知らないふりをしているようだった。


 リリアーナは再び地下へ連れていかれる。


 階段を下りる前、アドルフが小さく言った。


「リリアーナ様」


「はい」


「私は……」


 彼は続きの言葉を探した。

 だが、見つからなかったのだろう。


 リリアーナは、静かに首を振る。


「何もおっしゃらないでください。あなたが謝れば、きっと苦しくなります」


 アドルフの顔が歪む。


「……申し訳、ありません」


 それでも彼は謝った。


 リリアーナは少しだけ微笑んだ。


「あなたは、優しい方なのですね」


 アドルフは何も答えなかった。


 地下牢に戻されると、再び鉄の扉が閉ざされた。

 鍵の音が響く。


 正午まで、あと数時間。


 リリアーナは寝台に腰掛けることなく、石壁にもたれた。


 死。


 その言葉が、ゆっくりと現実味を帯びていく。


 処刑台に立つ自分を想像しかけて、リリアーナは目を閉じた。

 怖い。

 怖くないはずがない。


 けれど、それ以上に悔しかった。


 何もしていない。

 誰も傷つけていない。

 それなのに、悪役令嬢として裁かれる。


 これが、自分の人生の終わりなのだろうか。


 王国のために尽くし、王太子を支え、父の言葉に従い、王妃教育に耐え、感情を押し殺してきた結果が。


 罪人としての処刑。


 リリアーナは手首の赤い跡に触れた。


「……嫌」


 初めて、本音がこぼれた。


「死にたくない」


 小さな声だった。


 誰にも届かない、地下牢の中だけの声。


「私は、何もしていないのに……」


 喉の奥が震える。


 それでも涙は、やはり落ちなかった。


 その時、高窓の外から遠く鐘の音が聞こえた。


 朝の鐘。

 王都の一日が始まる合図。


 誰かが市場へ向かい、誰かがパンを焼き、誰かが洗濯物を干し、誰かが笑う。

 王国はいつも通り動き出す。


 リリアーナ一人が処刑されることなど、知らないまま。


 あるいは知っていても、悪女が裁かれるのだと噂するだけなのだろう。


 リリアーナは高窓を見上げた。


 細い空の向こうに、かすかに白い雲が流れている。


 その時、なぜか一つの記憶が蘇った。


 幼い頃、森の奥で出会った少年。


 傷だらけで、警戒心の強い金色の瞳をしていた。

 敵国の皇子だと知らされた時も、リリアーナは彼を見捨てられなかった。


『なぜ助ける。私はお前の国の敵だぞ』


『傷ついた人を見捨てる理由にはなりません』


 そう答えた日のことを、今になって思い出す。


 あの少年は、無事に帰れただろうか。

 自分の国で、ちゃんと生きているだろうか。


 なぜ、こんな時にそんなことを思い出すのか分からなかった。


 けれどその記憶だけが、冷たい地下牢の中で、ほんの少し温かかった。


「……生きて、いらっしゃるといいわね」


 リリアーナは小さく呟いた。


 その声が消えるのとほとんど同時に、地下牢の外で足音が止まった。


 先ほどよりも慌ただしい足音。


 鍵が回る。


 扉が開く。


 そこに立っていたのは、アドルフだった。

 その背後には、処刑の準備を告げる黒衣の役人たちがいる。


 アドルフは、ひどく苦しげな顔で頭を下げた。


「リリアーナ様」


 リリアーナは立ち上がる。


 ドレスの裾を整え、背筋を伸ばす。


 怖い。

 それでも、膝は折らない。


「時間、ですか」


 アドルフは答えるまでに、少しだけ間を置いた。


「……処刑台へ、お連れいたします」


 リリアーナは静かに頷いた。


「分かりました」


 最後まで、泣かない。

 最後まで、罪は認めない。


 それだけを胸に、リリアーナは地下牢を出た。

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