第4話 本日正午、処刑する
夜明け前の地下牢は、王宮のどこよりも冷えていた。
石壁は湿り気を帯び、指先で触れれば氷のように冷たい。高窓から差し込むはずの光はまだなく、部屋の隅に置かれた魔石灯だけが、青白い光で床を照らしている。
リリアーナは、固い寝台に腰掛けたまま、ほとんど眠らずに朝を迎えようとしていた。
目を閉じれば、大広間で向けられた視線が蘇る。
アルヴィスの怒り。
ミリアの涙。
父の沈黙。
王妃の憂い。
そして、クララの泣き声。
『お嬢様は、そんなことしません!』
あの声だけが、何度も耳に残っていた。
たった一人でも信じてくれる者がいる。
それだけで救われるはずだった。
けれど同時に、たった一人しか信じてくれなかったという事実が、リリアーナの胸を重く沈ませていた。
「……情けないわね」
小さく呟いた声は、石の部屋に吸い込まれていく。
公爵令嬢として、王太子妃候補として、ずっと正しくあろうとしてきた。
感情を抑え、役目を果たし、誰にも恥じぬように生きてきた。
それなのに、いざ罪を着せられた時、彼女の積み重ねは何一つ彼女を守らなかった。
努力は信頼に変わらなかった。
忠告は感謝に変わらなかった。
献身は愛に変わらなかった。
リリアーナは手首を見下ろした。
昨夜外された拘束具の跡が、赤く肌に残っている。触れると鈍い痛みが走った。
痛みを感じることに、少しだけほっとする。
まだ自分は、ここにいる。
悪役令嬢でも、罪人でもなく、リリアーナ・エルフェルトとして。
どれほど周囲が決めつけても、それだけは自分で忘れてはいけない。
高窓の外が、わずかに白み始めた。
夜が明ける。
明朝、改めて裁定を下す。
アルヴィスはそう言った。
リリアーナは胸の前で手を組み、静かに息を吐いた。
裁定。
その言葉が意味するものは、いくつか考えられる。
修道院送り。
爵位剥奪。
国外追放。
公爵家からの廃嫡。
どれであっても、決して軽いものではない。
それでも、リリアーナはまだ、どこかで信じていたのかもしれない。
いくら何でも、王国は法を完全に捨てはしない。
正式な調査もなく、証拠も確認せず、公爵令嬢を重罪人として扱うなど、あってはならない。
あってはならない。
そう思った時、廊下の向こうから足音が聞こえた。
重い靴音。
鎧の擦れる音。
鍵束が触れ合う音。
リリアーナはゆっくりと立ち上がった。
扉の小窓が開き、騎士の目がこちらを確認する。やがて鍵が差し込まれ、鉄の扉が軋みながら開いた。
そこに立っていたのは、近衛騎士隊長アドルフだった。
「リリアーナ様。お迎えに参りました」
「裁定の場へ、ですか」
「……はい」
わずかな間があった。
アドルフの表情は硬い。
昨夜よりもさらに、何かを押し殺しているように見えた。
リリアーナはそれ以上問い詰めなかった。
「分かりました」
乱れていたドレスの裾を整え、背筋を伸ばす。髪飾りは外されていないが、一晩を地下牢で過ごしたせいで、銀髪にはわずかな乱れがあった。
けれど、構わなかった。
今の自分に許された装いなど、もう何もないのかもしれない。
アドルフはリリアーナの手首を見た。
赤く残る痕に、一瞬だけ眉を寄せる。
「拘束具は……」
「必要であれば、どうぞ」
リリアーナは静かに両手を差し出した。
アドルフの顔が苦しげに歪む。
「……失礼いたします」
再び金属が手首にかけられる。
昨夜と同じ冷たさ。
昨夜よりも少し強い痛み。
だがリリアーナは声を上げなかった。
地下牢を出ると、王宮の廊下には朝の光が差し込んでいた。
夜の王宮とは違い、窓から淡い金色の光が流れ込み、磨かれた床を照らしている。遠くからは使用人たちの足音も聞こえた。
いつもなら、リリアーナもこの時間には王宮の一室で王妃教育の書物を開いていた。
朝の茶を一口飲み、今日の予定を確認し、アルヴィスの会議資料に目を通していた。
その全てが、もう遠い昔のことのように思えた。
廊下の角を曲がると、数人の使用人が立ち止まり、こちらを見た。
リリアーナの姿に気づいた瞬間、彼らは慌てて頭を下げる。
だが、その視線には隠しきれない好奇と怯えがあった。
昨夜の出来事は、すでに王宮中に広まっているのだろう。
王太子に婚約破棄された悪役令嬢。
聖女候補を毒殺しようとした公爵令嬢。
牢に入れられた罪人。
噂は、真実よりも早い。
リリアーナは視線を前に向けたまま歩いた。
やがて辿り着いたのは、昨夜と同じ東棟の小広間ではなかった。
王宮中央棟にある、裁定の間。
王族や重臣が重大な処分を告げる時に使われる場所だ。
その扉を見た瞬間、リリアーナの胸に冷たい予感が広がる。
単なる再確認ではない。
これは、すでに決められた裁きを告げる場だ。
扉が開かれる。
室内には、昨夜よりも多くの人々が集まっていた。
王妃ベアトリス。
王太子アルヴィス。
ミリア・ロゼット。
エルフェルト公爵ギルベルト。
法務官、宰相補佐、近衛騎士、神殿関係者。
さらに数名の貴族代表までいる。
国王の姿はなかった。
病で臥せっているという話は以前から聞いていた。だから王妃と王太子が代理として裁定を下すのだろう。
だが、それにしても早すぎる。
リリアーナは部屋の中央へ進まされた。
昨夜と同じように、彼女は立たされる。
ただし今回は、誰も椅子を勧めなかった。
アルヴィスは正面の席に立ち、厳しい顔をしている。
白と青の礼服は昨夜と同じではなかった。朝の裁定のために着替えたのだろう。金の飾緒が、王太子としての権威を示すように胸元で光っている。
その隣にミリアが座っていた。
彼女は青白い顔で、いかにも体調が悪そうに見える。淡桃色のドレスではなく、白を基調とした聖女候補の装いをまとっていた。
聖女候補としての姿。
それが、この場の印象を決定づけている。
王太子に守られる、傷ついた聖女。
拘束具をつけられた、冷たい悪役令嬢。
ここでもまた、物語は完成していた。
「リリアーナ・エルフェルト」
アルヴィスが口を開いた。
「昨夜、お前には弁明の機会を与えた」
「はい」
「だが、お前は最後まで罪を認めず、反省の言葉もなかった」
「やっていない罪を認めることはできません」
リリアーナが答えると、アルヴィスの眉がぴくりと動いた。
「まだ言うのか」
「何度問われても、同じでございます」
室内に張り詰めた空気が走る。
ギルベルトが険しい顔でリリアーナを見た。
王妃ベアトリスは目を伏せている。
ミリアはハンカチを握りしめ、震えていた。
アルヴィスは深く息を吸った。
「では、改めて罪状を確認する」
法務官が書面を開く。
読み上げられた内容は、昨夜とほとんど同じだった。
聖女候補ミリアへの継続的な嫌がらせ。
階段からの突き落とし。
毒入り菓子による殺害未遂。
聖堂への不敬。
王太子への侮辱と反逆的態度。
最後の一つに、リリアーナはわずかに眉を寄せた。
「反逆的態度、でございますか」
「王太子である私の裁定に異を唱え、王国法を盾にして権威を侮辱した」
「王国法を守るよう申し上げることが、反逆になるのですか」
「黙れ」
アルヴィスの声が鋭く落ちる。
法務官が顔を青くして視線を伏せた。
その様子だけで、法務官自身も無理があると分かっているのだと察せられた。
「殿下」
リリアーナは静かに続ける。
「昨夜申し上げた通り、正式な調査を求めます。菓子店の注文記録、配送経路、医師の診断書、聖堂の記録、証人の尋問。それらを確認すれば、私の無実は明らかになるはずです」
「まだ証拠の話をするのか」
「罪を裁くために、証拠は不可欠です」
「証拠ならある」
アルヴィスは言い切った。
その声には、揺るぎない確信があった。
彼は本当に、自分の裁きが正しいと信じている。
それが、リリアーナには恐ろしかった。
「ミリアの証言。ミリア付きの侍女たちの証言。そして、毒の症状を診た医師の所見。十分だ」
「その医師はこの場に?」
「必要ない」
「侍女の方々は?」
「お前が圧力をかける恐れがあるため、保護している」
「では、私が反対尋問する機会は」
「罪人にそのような権利はない」
罪人。
まだ裁かれてもいないのに、彼はもうリリアーナをそう呼んだ。
リリアーナは、胸の奥で小さく息を吐く。
「殿下。私はまだ、罪人ではございません」
「私がそう判断した」
「王太子殿下の判断のみで、人は罪人になるのですか」
「リリアーナ!」
ギルベルトが鋭く名を呼んだ。
「これ以上、殿下に無礼を働くな」
リリアーナは父を見る。
そこにあるのは、怒りだった。
娘を案じる怒りではない。
公爵家の立場を危うくする娘への怒り。
「父上。私は、正当な手続きを求めているだけです」
「今のお前に必要なのは、手続きではなく悔悟だ」
「悔悟すべき罪を、私は犯しておりません」
「まだ言うか!」
ギルベルトの声が室内に響いた。
その瞬間、リリアーナの心は不思議なほど静かになった。
ああ、もう本当に駄目なのだ。
父は、最後まで父ではいてくれない。
この国も、最後まで正しさを守ってはくれない。
「エルフェルト公爵」
王妃ベアトリスが静かに口を挟んだ。
ギルベルトは我に返ったように口を閉ざす。
ベアトリスはリリアーナを見た。
その瞳には、昨夜よりも深い疲労がある。
「リリアーナ嬢。あなたの主張は理解しました」
希望は抱かなかった。
けれど、リリアーナは黙って王妃の言葉を待った。
「しかし、この件はすでに王宮内外に広がり始めています。聖女候補を害した疑いを持たれた者を、王太子妃候補として置いておくことはできません」
「では、婚約破棄についての正式協議を」
「それだけでは済みません」
ベアトリスの声がわずかに沈んだ。
リリアーナの指先が冷える。
「聖女候補への毒殺未遂は、王国に対する重大な罪です。聖女は、国を守る祈りの象徴。その候補を害することは、王国そのものへの害意とみなされます」
「私は、その毒を入れておりません」
「あなたはそう主張しています。ですが、王国は今、民の不安を抑えなければなりません」
民の不安。
その言葉に、リリアーナはようやく全てを理解した。
真実ではない。
手続きでもない。
王国が今必要としているのは、分かりやすい結末なのだ。
傷ついた聖女候補。
彼女を守る王太子。
裁かれる悪役令嬢。
その物語を示せば、民は納得する。
王太子は正義となり、ミリアは聖女として輝き、王家の権威は保たれる。
リリアーナ一人を差し出すことで、すべてが丸く収まる。
そういうことなのだ。
「……私は、王国のために罪人になるのですか」
思わず、言葉がこぼれた。
王妃は答えなかった。
アルヴィスが代わりに言う。
「お前が罪を犯したから裁かれるのだ」
彼にとっては、きっとそうなのだろう。
自分が正しいと信じて疑わない。
だからこそ、どれほど理不尽でも迷わない。
リリアーナは、静かに目を閉じた。
もう、言葉は届かない。
それでも、最後まで言うべきことは言わなければならない。
「私は、聖女候補ミリア様を害しておりません。毒を入れておりません。聖堂を汚しておりません。王国に害意を抱いたこともございません」
一語ずつ、明確に。
「この場の誰一人信じてくださらなくても、私はその罪を認めません」
室内は静まり返った。
その沈黙を破ったのは、ミリアの嗚咽だった。
「どうして……」
ミリアは震えながら顔を上げる。
「どうして、そこまで……。リリアーナ様が少しでも謝ってくだされば、わたし、許そうと思っていたのに……」
許す。
その言葉が、胸に刺さる。
していないことを謝れば許す。
罪を認めれば救う。
それは、慈悲ではない。
「ミリア様」
リリアーナは静かに言った。
「私は、許しを乞うべき罪を犯しておりません」
ミリアの瞳が大きく揺れる。
その奥に、ほんの一瞬だけ、鋭い感情が走った。
苛立ち。
憎しみ。
あるいは、思い通りにならない相手への焦り。
だが次の瞬間には、彼女は顔を覆って泣き崩れた。
「怖い……っ、殿下、怖いです……!」
「ミリア!」
アルヴィスが彼女を支える。
その顔に浮かんだ怒りを見て、リリアーナは悟った。
裁定は、もう下る。
それも、彼女が想像していたより重い形で。
「リリアーナ・エルフェルト」
アルヴィスが低く告げる。
「お前は最後まで己の罪を認めず、被害者であるミリアをさらに傷つけた」
リリアーナは何も言わなかった。
「未来の王妃候補でありながら、聖女候補を害し、王国の信仰と秩序を乱し、王太子である私の裁定に逆らった。その罪は重い」
王妃ベアトリスが、わずかに顔を上げた。
「アルヴィス」
彼女の声には、制止の響きがあった。
だがアルヴィスは止まらない。
「母上。これは王国のためです」
「ですが」
「聖女を害した罪を軽く扱えば、王国は民の信頼を失います。私は未来の王として、示さねばなりません」
正義に酔った目。
リリアーナは、そんな言葉を胸の中で思い浮かべた。
アルヴィスは自分の言葉に酔っている。
自分が今、王国のために苦渋の決断を下す賢明な王太子であると、疑っていない。
ギルベルトは口を開きかけたが、王太子の強い視線に黙った。
父さえ黙らせたことに、アルヴィスはわずかに満足したようだった。
「王太子アルヴィス・フォン・グランベルクの名において、リリアーナ・エルフェルトに裁定を下す」
室内の空気が止まる。
リリアーナは、背筋を伸ばした。
最後まで、俯かない。
最後まで、自分の罪ではないと分かっている。
それだけは、奪わせない。
アルヴィスの声が響いた。
「リリアーナ・エルフェルトを、王家への反逆、および聖女候補ミリア・ロゼットへの毒殺未遂の罪により――」
そこで、ほんの一瞬だけ間が空いた。
王妃が息を呑む。
ギルベルトの顔色が変わる。
アドルフがわずかに拳を握る。
リリアーナは、アルヴィスを見つめていた。
彼は言った。
「本日正午、処刑する」
言葉の意味が、すぐには理解できなかった。
処刑。
それは、修道院送りでも、国外追放でも、爵位剥奪でもない。
死。
リリアーナ・エルフェルトという存在を、この国から完全に消すという宣告。
小広間がざわめいた。
「殿下、それはあまりに」
法務官が声を上げかけた。
「黙れ。これは王太子としての裁定だ」
「しかし、正式な国王陛下の御裁可が」
「父上は病床にある。王国の秩序を守るため、私が決断する」
アルヴィスは言い切った。
その姿を、ミリアは涙の隙間から見上げている。
怯えているようで、どこか満たされた表情にも見えた。
リリアーナは、自分の呼吸が浅くなっていることに気づいた。
怖い。
初めて、はっきりとそう思った。
死ぬのが怖い。
罪人として処刑されることが怖い。
何もしていないのに、誰にも信じてもらえないまま終わることが怖い。
それでも、膝を折ることだけはしなかった。
「……殿下」
リリアーナは口を開いた。
声は少しだけ掠れていた。
「私は、無実です」
「まだ言うか」
「はい」
リリアーナは、まっすぐにアルヴィスを見る。
「死を命じられても、私はやっていない罪を認めません」
アルヴィスの顔が歪んだ。
「最後まで強情な女だ」
「それが、私に残された最後の真実です」
室内が静まる。
王妃ベアトリスは、震える手で扇を握りしめていた。
ギルベルトは青ざめ、唇を開いたまま何も言えずにいる。
アドルフは苦しげに目を伏せた。
誰も止めない。
誰も、リリアーナを救わない。
その時、扉の外で騒ぎが起きた。
「離してください! お嬢様に会わせてください!」
クララの声だった。
廊下の向こうから、必死に叫ぶ声が近づいてくる。
「お嬢様は何もしていません! 私が知っています! お嬢様は、ミリア様に毒なんて――」
「黙らせろ」
アルヴィスが苛立たしげに命じた。
扉の向こうで、騎士たちの慌ただしい足音がする。
リリアーナは反射的に一歩前へ出ようとした。
だが、両脇の騎士に止められる。
「クララに手を出さないでください」
リリアーナの声に、アルヴィスが冷たく笑う。
「罪人の侍女が騒いでいるだけだ」
「彼女は関係ありません」
「お前の侍女だ。関係がないわけがない」
「殿下!」
初めて、リリアーナの声が強くなった。
室内の視線が彼女へ向かう。
リリアーナは息を整え、もう一度言った。
「どうか、クララには罰を与えないでください。彼女はただ、主人を信じただけです」
「その主人が罪人なら、侍女の証言も信用ならない」
「彼女は何もしておりません」
「お前がそれを言うか」
アルヴィスは吐き捨てる。
その時、扉がわずかに開き、押さえつけられたクララの姿が見えた。
栗色の髪は乱れ、侍女服の袖も引かれて歪んでいる。
それでも彼女は、涙で濡れた顔を上げて叫んだ。
「お嬢様!」
「クララ!」
リリアーナは思わず名を呼んだ。
クララは騎士たちの腕の中でもがきながら、必死に言葉を紡ぐ。
「違うんです! お嬢様はずっと王国のために働いていました! 夜も眠らず、殿下の資料を直して、聖堂にも寄付をして、ミリア様のお菓子だって、ちゃんと私が――」
「連れていけ!」
アルヴィスの命令で、扉が閉じられる。
クララの声が遠ざかる。
「お嬢様! お嬢様ぁ!」
最後の叫びが、廊下に消えた。
リリアーナはその場に立ち尽くす。
喉の奥が痛い。
胸が苦しい。
けれど、涙は出なかった。
代わりに、心の底から静かな怒りが湧き上がってくる。
自分が傷つけられることには耐えられた。
悪女と呼ばれることにも、罪人と呼ばれることにも、どうにか耐えられた。
けれど、クララまで巻き込まれることは耐えられなかった。
「アルヴィス殿下」
リリアーナの声は、冷えていた。
それは怒鳴り声ではない。
けれど、先ほどまでよりずっと鋭かった。
「私は、あなたの婚約者として、何年もおそばにおりました」
「それがどうした」
「一度でも、私の言葉を信じようとは思われませんでしたか」
アルヴィスは答えない。
「一度でも、調べようとは思われませんでしたか」
「必要ないと言った」
「そうですか」
リリアーナは微笑んだ。
それは、これまで身にまとってきた公爵令嬢としての微笑とは違っていた。
諦めと、決別の色を帯びた微笑だった。
「では、私は今この時をもって、あなたを未来の王として信じることをやめます」
室内が凍りついた。
アルヴィスの顔が、怒りに染まる。
「何だと」
「あなたが私を罪人と断じるなら、私もあなたを、私の主君とは認めません」
「リリアーナ!」
ギルベルトが叫ぶ。
「控えよ! お前は自分の立場が分かっているのか!」
「分かっております」
リリアーナは父を見た。
「本日正午、私は処刑されるのでしょう。ならば、もう取り繕う必要もございません」
ギルベルトが息を呑む。
リリアーナは続けた。
「父上。私は最後まで、あなたの娘として恥じぬようにあろうとしました。けれど、あなたは最後まで、私の父ではいてくださらなかった」
「リリアーナ……」
「もう、結構です」
その言葉は、静かだった。
けれどギルベルトの顔から血の気が引いた。
リリアーナは王妃へ視線を向ける。
「王妃殿下。長らくご指導いただき、ありがとうございました」
ベアトリスが震えるようにリリアーナを見る。
「リリアーナ嬢……」
「私は、王妃教育で教わったことを守ろうとしました。国を思い、法を重んじ、民を守ること。それが王家に仕える者の務めだと」
リリアーナは小さく頭を下げた。
「ですが、この国でそれを守ることは、もうできないようです」
ベアトリスは何も言えなかった。
最後に、リリアーナはアルヴィスを見る。
「殿下。私は最後まで、罪を認めません」
「……連れていけ」
アルヴィスが低く命じた。
「正午まで地下に戻しておけ。処刑の準備を進めろ」
「承知いたしました」
アドルフの声は、かすかに掠れていた。
騎士たちがリリアーナを連れて歩き出す。
扉へ向かう途中、ミリアが小さく声をかけた。
「リリアーナ様……」
リリアーナは足を止めなかった。
ミリアの声が続く。
「最後に謝ってくだされば、わたし……祈ります。リリアーナ様の魂が、女神様に許されるように」
リリアーナは、そこで初めて振り返った。
ミリアは涙を浮かべていた。
けれどその瞳の奥には、隠しきれない勝利の色があった。
リリアーナは、静かに告げる。
「祈りは、どうかご自分のためになさってください」
ミリアの表情が固まる。
「私の魂は、私のものです」
それだけ言って、リリアーナは前を向いた。
扉が開く。
外の廊下には、朝の光が満ちていた。
あまりにも眩しくて、まるで王宮だけが何も知らないふりをしているようだった。
リリアーナは再び地下へ連れていかれる。
階段を下りる前、アドルフが小さく言った。
「リリアーナ様」
「はい」
「私は……」
彼は続きの言葉を探した。
だが、見つからなかったのだろう。
リリアーナは、静かに首を振る。
「何もおっしゃらないでください。あなたが謝れば、きっと苦しくなります」
アドルフの顔が歪む。
「……申し訳、ありません」
それでも彼は謝った。
リリアーナは少しだけ微笑んだ。
「あなたは、優しい方なのですね」
アドルフは何も答えなかった。
地下牢に戻されると、再び鉄の扉が閉ざされた。
鍵の音が響く。
正午まで、あと数時間。
リリアーナは寝台に腰掛けることなく、石壁にもたれた。
死。
その言葉が、ゆっくりと現実味を帯びていく。
処刑台に立つ自分を想像しかけて、リリアーナは目を閉じた。
怖い。
怖くないはずがない。
けれど、それ以上に悔しかった。
何もしていない。
誰も傷つけていない。
それなのに、悪役令嬢として裁かれる。
これが、自分の人生の終わりなのだろうか。
王国のために尽くし、王太子を支え、父の言葉に従い、王妃教育に耐え、感情を押し殺してきた結果が。
罪人としての処刑。
リリアーナは手首の赤い跡に触れた。
「……嫌」
初めて、本音がこぼれた。
「死にたくない」
小さな声だった。
誰にも届かない、地下牢の中だけの声。
「私は、何もしていないのに……」
喉の奥が震える。
それでも涙は、やはり落ちなかった。
その時、高窓の外から遠く鐘の音が聞こえた。
朝の鐘。
王都の一日が始まる合図。
誰かが市場へ向かい、誰かがパンを焼き、誰かが洗濯物を干し、誰かが笑う。
王国はいつも通り動き出す。
リリアーナ一人が処刑されることなど、知らないまま。
あるいは知っていても、悪女が裁かれるのだと噂するだけなのだろう。
リリアーナは高窓を見上げた。
細い空の向こうに、かすかに白い雲が流れている。
その時、なぜか一つの記憶が蘇った。
幼い頃、森の奥で出会った少年。
傷だらけで、警戒心の強い金色の瞳をしていた。
敵国の皇子だと知らされた時も、リリアーナは彼を見捨てられなかった。
『なぜ助ける。私はお前の国の敵だぞ』
『傷ついた人を見捨てる理由にはなりません』
そう答えた日のことを、今になって思い出す。
あの少年は、無事に帰れただろうか。
自分の国で、ちゃんと生きているだろうか。
なぜ、こんな時にそんなことを思い出すのか分からなかった。
けれどその記憶だけが、冷たい地下牢の中で、ほんの少し温かかった。
「……生きて、いらっしゃるといいわね」
リリアーナは小さく呟いた。
その声が消えるのとほとんど同時に、地下牢の外で足音が止まった。
先ほどよりも慌ただしい足音。
鍵が回る。
扉が開く。
そこに立っていたのは、アドルフだった。
その背後には、処刑の準備を告げる黒衣の役人たちがいる。
アドルフは、ひどく苦しげな顔で頭を下げた。
「リリアーナ様」
リリアーナは立ち上がる。
ドレスの裾を整え、背筋を伸ばす。
怖い。
それでも、膝は折らない。
「時間、ですか」
アドルフは答えるまでに、少しだけ間を置いた。
「……処刑台へ、お連れいたします」
リリアーナは静かに頷いた。
「分かりました」
最後まで、泣かない。
最後まで、罪は認めない。
それだけを胸に、リリアーナは地下牢を出た。




