第3話 誰も私を信じない
大広間を出ると、舞踏会の音は扉の向こうに閉じ込められた。
先ほどまで耳を満たしていた楽団の旋律も、貴族たちの囁きも、グラスの触れ合う音も、今は厚い扉越しにぼんやりと滲んでいるだけだった。
廊下は、驚くほど静かだった。
白大理石の床に、リリアーナの靴音と、騎士たちの鎧が擦れる音だけが響く。
手首には冷たい拘束具。銀の鎖が揺れるたび、細い金属音が夜の王宮に落ちた。
リリアーナは背筋を伸ばしたまま歩いた。
俯かない。
怯えない。
取り乱さない。
それだけが、今の彼女に残された矜持だった。
「リリアーナ様」
隣を歩く近衛騎士隊長アドルフ・レーヴェンが、低い声で呼んだ。
「何でしょうか」
「……お手元が痛むようでしたら、申し出てください」
リリアーナは、自分の手首を見た。
拘束具は罪人用のものだった。貴族令嬢に使うことを想定していないのか、細い手首には少し大きく、けれど硬い縁が肌に食い込んでいる。
痛みはあった。
けれど、耐えられないほどではない。
「お気遣いありがとうございます。問題ありません」
「そうですか」
アドルフはそれ以上、何も言わなかった。
その沈黙に、リリアーナはかすかな苦みを覚えた。
この人は、おそらく何かがおかしいと感じている。
だが、王太子の命令には逆らえない。
王宮にいる者は皆、そうなのだろう。
おかしいと思っても、口を閉ざす。
疑問を抱いても、目を逸らす。
正しさよりも、権力の向く先を選ぶ。
だからリリアーナは今、こうして歩いている。
罪人として。
廊下の先にあるのは、王宮東棟の小広間だった。
普段は少人数の会議や、非公開の謁見に使われる場所だ。
今夜はそこが、リリアーナを裁くための臨時の場に変えられていた。
扉の前で、アドルフが一度足を止める。
「リリアーナ様。中には、国王陛下の代理として王妃殿下、エルフェルト公爵、数名の重臣がいらっしゃいます」
「父も、ですか」
「はい」
父。
ギルベルト・エルフェルト。
リリアーナの父であり、エルフェルト公爵家の当主。
幼い頃から、リリアーナに完璧であることを求めてきた人。
『リリアーナ。泣くな。公爵令嬢が人前で涙を見せるものではない』
『王太子妃となるなら、感情よりも役目を選べ』
『お前はエルフェルト家の娘だ。常に誇り高くあれ』
その言葉を、リリアーナはずっと守ってきた。
今も、守っている。
だから、父ならば分かってくれるのではないか。
少なくとも、正式な調査を求めるくらいはしてくれるのではないか。
そう思いかけて、リリアーナは自分の甘さに気づいた。
先ほど大広間で、父は何をしていた?
王太子がリリアーナを断罪した時。
ミリアが涙を浮かべた時。
アルヴィスが拘束を命じた時。
父は、何も言わなかった。
リリアーナを庇わなかった。
その事実が、手首の拘束具よりもずっと重く、彼女の心に沈んでいた。
「開けろ」
アドルフが命じると、騎士が扉を開いた。
小広間の中は、淡い魔石灯に照らされていた。
中央には長机が置かれ、その向こうに数名の人物が座っている。
王妃ベアトリス・フォン・グランベルク。
エルフェルト公爵ギルベルト。
宰相補佐、法務官、神殿関係者と思しき人物。
そして、少し遅れて入ってきたアルヴィスとミリア。
アルヴィスは当然のように上座の横へ立ち、ミリアを椅子に座らせた。
ミリアは肩を縮め、怯えたようにハンカチを握っている。
リリアーナは部屋の中央へ進まされた。
拘束具をつけられたまま、立たされる。
貴族令嬢として、これほど屈辱的な姿はなかった。
だが彼女は、顔を上げた。
まず目が合ったのは、王妃ベアトリスだった。
金茶色の髪を美しく結い上げ、青い瞳に深い憂いを宿した王妃。
リリアーナに王妃教育を施してきた、もう一人の師とも言える女性。
ベアトリスは、リリアーナを見た。
その瞳には、痛ましさがあった。
けれど、言葉はなかった。
次に、リリアーナは父を見た。
ギルベルト・エルフェルトは、濃紫の公爵服をまとい、いつものように厳格な顔で座っていた。
銀灰色の髪。紫がかった灰色の瞳。整った顔立ちは、リリアーナとよく似ている。
父の視線が、リリアーナの拘束具へ落ちる。
ほんの一瞬、眉が動いた。
それだけだった。
リリアーナは、胸の奥が冷えていくのを感じた。
「リリアーナ・エルフェルト」
王妃ではなく、アルヴィスが口を開いた。
「お前に弁明の機会を与える」
リリアーナは静かにアルヴィスを見る。
「弁明の前に、確認させていただきたいことがございます」
「何だ」
「これは正式な審問でございますか」
部屋の空気が、わずかに揺れた。
法務官らしき男が視線を落とす。
宰相補佐が小さく咳払いをした。
アルヴィスは不快そうに眉を寄せる。
「この期に及んで、また形式を持ち出すのか」
「重要なことです。正式な審問であれば、私は証拠の開示と証人の召喚を求めます。そうでないなら、この場で私を裁く権限はございません」
「お前は本当に、己の罪を悔いる気がないのだな」
「罪を犯していないものを、悔いることはできません」
リリアーナの声は、静かだった。
アルヴィスの顔に怒りが滲む。
「ミリアが傷ついている。それを見ても、まだそんなことを言うのか」
視線がミリアへ集まる。
ミリアはびくりと肩を震わせ、ハンカチで目元を押さえた。
「わたしは……もう、大丈夫です。リリアーナ様を責めたいわけじゃありません。ただ、どうしてあんなことをなさったのか、それだけ知りたくて……」
「私は、ミリア様に何もしておりません」
「そんな……」
ミリアの瞳に涙が溜まる。
その涙を見るたび、周囲の空気が少しずつリリアーナに不利になっていくのが分かった。
涙は、証拠よりも強いのだろうか。
震える声は、記録よりも信じられるのだろうか。
リリアーナには分からなかった。
「リリアーナ」
低い声がした。
父だった。
リリアーナは、ゆっくりと父へ視線を向ける。
ギルベルトは厳しい表情で彼女を見ていた。
「お前は、王太子殿下と聖女候補殿の前で、なおも潔白を主張するのか」
「はい。私は無実です」
「……そうか」
父は短く息を吐いた。
その顔には、怒りではなく、諦めに近いものがあった。
「父上」
リリアーナは、思わず呼びかけた。
幼い頃から、父を人前でそう呼ぶことは控えるように言われていた。
公の場では、公爵閣下と呼ぶべきだと教えられていた。
けれど今だけは、父として答えてほしかった。
「父上は、私がそのようなことをするとお思いですか」
ギルベルトの表情が、ほんのわずかに揺れた。
だが彼はすぐに目を伏せる。
「私は、公爵家当主としてこの場にいる」
その言葉で、リリアーナは理解した。
父は、父ではなく公爵としてここにいる。
娘ではなく、王家に疑われた公爵家の令嬢を見ている。
「……そう、ですか」
リリアーナは微笑もうとした。
けれど、うまくできなかった。
「エルフェルト公爵」
アルヴィスが言う。
「貴公の娘は、王家の信頼を大きく損ねた。公爵家として、この事態をどう受け止める」
ギルベルトは立ち上がり、深く頭を下げた。
「王太子殿下。娘の不始末により、このような騒ぎを招きましたこと、エルフェルト家当主として深くお詫び申し上げます」
不始末。
その言葉が、リリアーナの心を真っ直ぐ貫いた。
「父上……」
「リリアーナ」
ギルベルトは、リリアーナを見ないまま言った。
「これ以上、エルフェルト家の名を汚すな。殿下の温情にすがり、罪を認めるのだ」
呼吸が、止まった。
温情。
罪を認める。
父は、リリアーナの無実を問うことすらしなかった。
証拠を求めることもしない。
調査を願うこともしない。
ただ、公爵家の損害を少しでも抑えるために、娘に罪を認めろと言った。
リリアーナは、手首の拘束具を見下ろした。
冷たい金属が肌に食い込んでいる。
けれど、今はその痛みすら遠かった。
「私は……」
声が掠れた。
それでも、言わなければならない。
「私は、やっていない罪を認めることはできません」
ギルベルトの顔が険しくなる。
「リリアーナ」
「父上が、私を信じてくださらないとしても」
小広間が静まり返る。
リリアーナは、父をまっすぐ見た。
「それでも、私は無実です」
ギルベルトは何かを言いかけた。
だが、その言葉は結局、声にならなかった。
沈黙。
それが、父の答えだった。
リリアーナの胸の奥で、何かが音もなく折れた。
その時、王妃ベアトリスが静かに口を開いた。
「リリアーナ嬢」
リリアーナは視線を向ける。
「はい、王妃殿下」
ベアトリスは、青い瞳に複雑な色を宿していた。
「あなたには、長く王妃教育を施してきました。あなたが優秀であることは、私も知っています」
その言葉に、リリアーナの心がわずかに揺れる。
王妃は知っている。
リリアーナがどれほど努力してきたか。
王国のために、王太子のために、どれだけ自分を抑えてきたか。
ならば。
ならば、信じてくれるのではないか。
ほんのわずかな希望が、胸に灯った。
だが、ベアトリスの次の言葉は、その希望を静かに消した。
「ですが、殿下のお心があなたから離れていることもまた、事実です」
「……王妃殿下」
「王太子の伴侶となる者は、民に慕われ、王を支え、周囲の信頼を得なければなりません。今のあなたは、あまりにも多くの疑いを集めてしまった」
「疑いは、事実ではございません」
「ええ」
ベアトリスは小さく頷いた。
「疑いは、事実ではないかもしれません」
リリアーナは、息を呑む。
「ですが、王家にとって、疑いを抱かれること自体が大きな問題なのです」
その言葉は、優しかった。
優しい声で、冷たい結論を告げていた。
リリアーナは、ようやく理解した。
王妃は、リリアーナが無実かどうかを分からないと思っているのではない。
分かっている可能性すらある。
それでも、庇わない。
王家にとって不都合だから。
王太子がミリアを選んだから。
この場の空気が、リリアーナを悪役として求めているから。
誰も、真実を必要としていない。
「……王妃殿下も、私に罪を認めよとおっしゃるのですか」
ベアトリスは、すぐには答えなかった。
その沈黙が、答えだった。
リリアーナは、静かに目を伏せる。
「承知いたしました」
何を承知したのか、自分でも分からなかった。
ただ、もう期待してはいけないのだと分かった。
父にも。
王妃にも。
この国にも。
アルヴィスは満足げに顎を上げる。
「ようやく分かったか」
「いいえ、殿下」
リリアーナは顔を上げた。
「私は、誰も私の言葉を聞いてくださらないのだと、分かっただけです」
アルヴィスの表情が歪む。
「まだその態度か」
「私は無実です。その言葉は、変えません」
「強情にもほどがある」
アルヴィスは吐き捨てた。
その横で、ミリアが震えながら口を開く。
「リリアーナ様……わたし、謝ってほしいわけじゃないんです。ただ、もう誰も傷つけないでほしいだけで……」
リリアーナはミリアを見た。
白いハンカチを握る細い指。
潤んだ瞳。
今にも崩れ落ちそうな儚げな姿。
完璧な被害者だった。
リリアーナは静かに答える。
「私は、誰も傷つけておりません」
「どうして……どうしてそんなことを言えるんですか……?」
ミリアの涙がこぼれた。
「わたし、階段から落ちた時、本当に怖くて……。お菓子を食べて苦しくなった時も、もう死んでしまうかと思って……。それなのに、リリアーナ様は……」
「階段の件についても、毒入り菓子の件についても、正式に調査してください」
「また調査ですか!」
ミリアの声が、わずかに鋭くなった。
一瞬だった。
すぐに彼女は、はっとしたように口元を押さえる。
「ご、ごめんなさい……わたし、つい……」
アルヴィスはミリアを庇うように立つ。
「当然だ。これほど苦しめられたのだ。感情が高ぶっても無理はない」
リリアーナは、そのやり取りを静かに見つめた。
今の一瞬、確かにミリアの声には怯えではないものが混じっていた。
苛立ち。
あるいは、焦り。
けれど、この場でそれに気づいた者はいない。
気づいていても、口には出さない。
リリアーナは、もう追及しなかった。
何を言っても同じだから。
「リリアーナ」
アルヴィスが言う。
「最後に聞く。お前は、罪を認めるか」
リリアーナは、静かに答えた。
「認めません」
「ミリアに謝罪する気は」
「私がしていないことについて、謝罪はできません」
「私との婚約破棄を受け入れるか」
その問いに、リリアーナは一瞬だけ沈黙した。
婚約。
幼い頃から当たり前にそこにあったもの。
自分の未来だと思い込まされていたもの。
王国のために、家のために、役目として受け入れてきたもの。
そこに恋があったのかと問われれば、きっと答えられない。
けれど、リリアーナなりに大切にしていた。
アルヴィスを支えようとしてきた。
未来の王妃として、彼の隣に立つ覚悟をしていた。
そのすべてを、彼は今夜、リリアーナの罪として切り捨てた。
ならば。
「王家と公爵家の正式な協議を経ていない以上、法的には成立しておりません」
リリアーナは、いつものように正しく答えた。
そして、少しだけ目を伏せる。
「ですが、殿下のお心が私にないことは、理解いたしました」
アルヴィスは鼻で笑う。
「ようやく分かったか」
「はい」
リリアーナは頷いた。
「それだけは、よく分かりました」
もう、この人の隣に自分の居場所はない。
分かってしまえば、不思議と胸の痛みは遠ざかった。
代わりに、冷たい空洞のようなものだけが残る。
アルヴィスはそれを勝利と受け取ったのだろう。
「ならば、罪を認めて謝罪しろ。そうすれば、エルフェルト家の処分については多少考慮してやってもいい」
リリアーナは顔を上げた。
「私は、罪を認めません」
「リリアーナ!」
ギルベルトが叱責するように名を呼ぶ。
その声に、かつてのリリアーナなら震えただろう。
父の失望を恐れ、家名を汚すなという言葉に従おうとしただろう。
けれど今は、もう違った。
これ以上、自分の魂まで差し出すことはできない。
「父上。私は、エルフェルト家のために嘘の罪を認めることはできません」
「お前は、自分が何を言っているのか分かっているのか」
「はい」
リリアーナは静かに答える。
「ようやく、分かりました」
父が息を呑む。
アルヴィスが苛立ったように机を叩いた。
「もういい。これ以上の問答は無意味だ」
その音に、ミリアがびくりと震える。
王妃ベアトリスが目を伏せる。
ギルベルトは険しい顔で黙り込む。
リリアーナだけが、静かにアルヴィスを見ていた。
アルヴィスは法務官へ視線を向ける。
「王太子権限により、リリアーナ・エルフェルトを一時拘禁する」
法務官が小さく顔を上げた。
「殿下、正式な手続きには」
「分かっている。明朝、改めて裁定を下す」
明朝。
その言葉が、不穏に響いた。
リリアーナは、わずかに眉を動かす。
「明朝、でございますか」
「ああ」
アルヴィスは冷たく言った。
「それまでに、牢で少しは己の罪を悔いるがいい」
牢。
公爵令嬢であるリリアーナを、牢へ入れる。
その言葉に、父が一瞬だけ顔を上げた。
「殿下、さすがに公爵令嬢を牢へというのは」
「公爵令嬢だからこそ、罪が重いのだ」
アルヴィスは即座に遮った。
「身分ある者が聖女候補を害した。王家に連なる婚約者が毒を用いた。これを軽く扱えば、王国の秩序は崩れる」
「ですが」
「エルフェルト公爵。貴公は娘を庇うのか」
ギルベルトの口が閉じた。
リリアーナは、その様子を見ていた。
ここでも、父は沈黙を選ぶ。
分かっていた。
分かっていたはずなのに、胸の奥がまた痛んだ。
「アドルフ」
アルヴィスが命じる。
「リリアーナを地下拘禁室へ連れていけ」
地下拘禁室。
王宮の地下にある、重罪人を一時的に留める場所。
貴族令嬢が足を踏み入れる場所ではない。
アドルフは表情を硬くした。
「……承知いたしました」
リリアーナの両脇に騎士が立つ。
彼女は抵抗しなかった。
抵抗する理由も、力もなかった。
ただ、扉へ向かう前に、一度だけ振り返る。
父は目を逸らした。
王妃は唇を引き結んだまま沈黙していた。
アルヴィスは正義を確信した顔で立っていた。
ミリアはハンカチで目元を押さえながら、アルヴィスの陰に隠れていた。
誰も、リリアーナの無実を信じなかった。
その事実だけが、はっきりと胸に刻まれる。
「お嬢様!」
扉の外から、クララの声が聞こえた。
どうやら小広間の前で止められていたらしい。
リリアーナが廊下へ出ると、クララが騎士に押さえられながら必死に身を乗り出していた。
「お嬢様、私も行きます! お一人になんてできません!」
「クララ」
リリアーナは足を止める。
クララの目は真っ赤だった。
泣きながら、それでも必死にリリアーナを追おうとしている。
その姿を見た瞬間、リリアーナの胸に残っていた氷が少しだけ溶けた。
完全に一人ではなかった。
少なくとも、クララだけは信じてくれている。
けれど、だからこそ巻き込めない。
「来てはいけません」
「嫌です!」
「クララ」
リリアーナは、できるだけ優しく声をかけた。
「あなたは、エルフェルト家へ戻りなさい。そして、何も見なかったことにするのです」
「そんなこと、できません!」
「しなさい」
クララの顔が歪む。
「お嬢様……どうして、そんな……」
「あなたを守るためです」
リリアーナは微笑んだ。
今度は少しだけ、自然に笑えた気がした。
「私は大丈夫ですわ。何もしていないのですから」
「でも、誰も信じてくれないじゃないですか!」
クララの叫びが、廊下に響いた。
その言葉は、あまりに正しかった。
リリアーナは一瞬、息を詰める。
そして、静かに頷いた。
「……そうね」
誰も信じてくれない。
父も。
王妃も。
婚約者だった人も。
王国も。
それでも、クララの前でだけは泣きたくなかった。
「それでも、私は私を信じています」
クララの涙が、ぽろぽろとこぼれる。
「お嬢様……」
「だから、あなたも無事でいて」
それが、今のリリアーナにできる精一杯だった。
騎士に促され、リリアーナは再び歩き出す。
背後でクララが泣きながら何度も呼んでいる。
けれどリリアーナは振り返らなかった。
振り返れば、足が止まってしまうから。
地下へ続く階段は、王宮の奥にあった。
華やかな大広間とは違い、そこには花の香りも、音楽も、柔らかな光もない。
石壁は冷たく、階段を下りるたびに空気が湿って重くなる。
リリアーナのドレスの裾が、石段に擦れた。
先ほどまで舞踏会に立っていたはずの白と淡紫のドレスが、地下牢へ向かうにはあまりに場違いだった。
アドルフは、前を歩きながら一度だけ振り返る。
「リリアーナ様」
「はい」
「……申し訳ありません」
その言葉に、リリアーナは少し驚いた。
騎士として命令に従う彼が、謝る必要はない。
少なくとも、この場で彼が謝れば、それだけで立場が危うくなる。
「謝らないでください。あなたは命令に従っているだけです」
「しかし」
「それでも、ありがとうございます」
アドルフが眉をひそめる。
「何に対して、でございますか」
「先ほど、私を名前で呼んでくださったことに」
罪人ではなく。
悪女ではなく。
リリアーナ様、と。
アドルフは何も答えなかった。
ただ、わずかに唇を引き結んだ。
地下拘禁室の扉が開く。
重い鉄の扉が軋む音は、まるで別世界への入口のようだった。
中は冷たかった。
石造りの部屋。
小さな高窓。
固い寝台。
粗末な毛布。
そこが、今夜のリリアーナに与えられた場所だった。
騎士が拘束具を外す。
手首には赤い跡が残っていた。
「明朝まで、こちらでお過ごしください」
「分かりました」
リリアーナは小さく頷く。
アドルフは何かを言いたそうにしたが、結局、礼をして下がった。
鉄の扉が閉まる。
鍵のかかる音がした。
その音を聞いた瞬間、リリアーナは初めて肩の力を抜いた。
誰も見ていない。
誰も、今の自分に完璧な公爵令嬢であることを求めていない。
そう思った途端、膝から力が抜けそうになった。
けれど、倒れなかった。
石壁に手をつき、ゆっくりと息を整える。
「……大丈夫」
小さく呟いた。
「私は、何もしていない」
その言葉を、何度も胸の中で繰り返す。
私は毒など使っていない。
ミリアを傷つけていない。
聖堂を汚していない。
王国を裏切っていない。
何もしていない。
けれど、誰も信じなかった。
父も。
王妃も。
アルヴィスも。
リリアーナは、固い寝台に腰を下ろした。
手首の赤い跡を見つめる。
じんじんとした痛みが、ようやくはっきりと戻ってきた。
痛い。
そう思った瞬間、目の奥が熱くなった。
泣いてはいけない。
そう思った。
けれど、ここには誰もいない。
泣いたところで、悪女だと囁く者もいない。
罪を認めたのかと嘲る者もいない。
可愛げがないと笑う者もいない。
それなのに、涙は落ちなかった。
泣き方すら、忘れてしまったようだった。
リリアーナは高窓の外を見上げる。
細く切り取られた夜空には、星が見えなかった。
王国の夜空は、こんなにも暗かっただろうか。
「明朝……」
アルヴィスの言葉を思い出す。
明朝、改めて裁定を下す。
その意味を、リリアーナは考えないようにした。
考えれば、恐怖に呑まれてしまいそうだった。
それでも、胸の奥に冷たい予感が沈んでいく。
この夜の断罪は、婚約破棄だけでは終わらない。
リリアーナは、ゆっくりと目を閉じた。
誰も信じてくれなかった。
それでも、自分だけは自分の無実を信じていなければならない。
そうでなければ、本当に何も残らなくなってしまうから。
地下牢の冷たい空気の中で、リリアーナは一人、夜明けを待った。




