第2話 聖女の涙と偽りの罪
「お前との婚約を、今この場で破棄する!」
王太子アルヴィスの声が、大広間に響き渡った。
一瞬、世界から音が消えたような気がした。
楽団の演奏は止まったまま。シャンデリアの水晶が揺れる微かな音さえ、遠くに感じる。
貴族たちは息を呑み、広間の中央に立つアルヴィスと、名指しされたリリアーナを見比べていた。
婚約破棄。
その言葉の重みを、この場にいる誰もが理解していた。
王太子と公爵令嬢の婚約は、ただの男女の約束ではない。
王家とエルフェルト公爵家を結ぶ、王国の根幹に関わる政略だった。
それを、卒業記念舞踏会の場で、王太子自らが破棄すると宣言した。
これがどれほど異常なことか、分からない者はいないはずだった。
それでも、誰も止めなかった。
リリアーナは静かに息を吸った。
心臓は早鐘のように鳴っている。指先は冷えている。けれど、ここで取り乱すことだけはできない。
王太子妃候補として。
エルフェルト公爵家の令嬢として。
何より、身に覚えのない宣告に対して、感情だけで応じるわけにはいかなかった。
「……理由を、お聞かせくださいませ」
声は震えなかった。
リリアーナ自身、それだけはわずかに安堵した。
アルヴィスは、そんな彼女を見て不快そうに眉を寄せる。
「そういうところだ、リリアーナ」
「何が、でございますか」
「この場で婚約破棄を告げられても、涙一つ見せない。怒りもしない。まるで他人事のような顔をしている」
その言葉に、周囲から小さな囁きが広がった。
「本当に冷たい方ね」
「婚約者に捨てられたというのに、あの表情……」
「やはり、殿下のお心が離れるのも無理はないわ」
リリアーナは唇を引き結ぶ。
泣けば見苦しいと言われる。
怒れば高慢だと言われる。
静かにしていれば、冷たいと言われる。
彼らの中にあるリリアーナ像は、もう何をしても変わらないのだろう。
ならば、せめて自分の言葉だけは正しく選ばなければならない。
「殿下。私の態度がお気に召さないという理由で、婚約を破棄なさるのですか」
「違う」
アルヴィスは即座に否定した。
彼は隣に立つミリアの手を握ったまま、広間を見渡す。
まるで、今から正義を告げる者のように。
「お前は、王太子妃にふさわしくない罪を犯した」
罪。
その一言に、リリアーナの胸が冷たく沈む。
「罪、でございますか」
「ああ。もはや隠し立てはできぬぞ」
アルヴィスは胸元から一枚の紙を取り出した。
そこには、あらかじめ用意されていたらしい文字がびっしりと並んでいる。
リリアーナは、その時初めて悟った。
これは衝動的な婚約破棄ではない。
今夜この場で、彼は最初から自分を断罪するつもりだったのだ。
「リリアーナ・エルフェルト。お前は聖女候補ミリア・ロゼットに対し、長期にわたって嫌がらせを行った」
アルヴィスの声が、広間に響く。
「彼女の教本を隠し、茶会で侮辱し、廊下で睨みつけ、使用人を使って悪評を流した。さらには階段から突き落とし、怪我を負わせた疑いもある」
周囲がざわめく。
リリアーナは一歩も動かなかった。
教本を隠した覚えなどない。
茶会で侮辱したこともない。
廊下で睨んだと言われても、ただすれ違っただけだ。
使用人を使って悪評を流すなど、考えたこともない。
階段から突き落としたなど、論外だった。
「殿下。そのような事実はございません」
「まだ言い逃れをするのか」
「言い逃れではございません。事実ではないと申し上げております。証拠をご提示ください」
リリアーナはまっすぐにアルヴィスを見る。
このような場で罪を告げる以上、当然、証拠があるはずだ。
証人がいるのなら呼べばいい。記録があるのなら確認すればいい。怪我の診断書があるのなら医師に尋ねればいい。
だがアルヴィスは、リリアーナの言葉を聞いて、ますます不快そうに顔を歪めた。
「証拠、証拠か。お前はいつもそうだな。人の心より、書類と理屈ばかりを重んじる」
「殿下。罪を問うのであれば、証拠は必要です」
「ミリアが傷ついている。それが何よりの証拠だ」
その瞬間、ミリアが小さく肩を震わせた。
広間の視線が一斉に彼女へ向かう。
ミリアはアルヴィスの手を弱々しく握り返し、潤んだ瞳でリリアーナを見た。
「わたし……リリアーナ様を責めたいわけじゃないんです」
震える声。
庇護欲を誘う、か細い響き。
「でも、怖かったんです。廊下でお会いするたびに、冷たい目で見られて……茶会では、わたしのような平民出身の聖女候補が王太子殿下のおそばにいるのは分不相応だと、そう言われて……」
「私は、そのようなことを申し上げておりません」
リリアーナは即座に否定した。
だが、ミリアはびくりと身を竦ませる。
まるで叱責された子どものように、アルヴィスの陰に隠れた。
「ご、ごめんなさい……。やっぱり、わたしが悪いんです。リリアーナ様に逆らうようなことを言ってしまって……」
「ミリア」
アルヴィスが彼女を庇うように抱き寄せる。
その姿を見た瞬間、周囲の空気が完全にミリアへ傾いた。
「おかわいそうに」
「リリアーナ様は、やはり聖女様を……」
「平民出身だからと見下していらしたのね」
違う。
そう言いたかった。
けれど、ここで声を荒げれば、ますますミリアの怯えを強めたことにされる。涙を流せば、罪を認めたと思われる。
それでも、黙っているわけにはいかなかった。
「ミリア様。いつ、どちらの茶会で、私がそのような発言をしたのかお答えください」
「え……」
「同席していた方のお名前もお願いいたします。その場にいた令嬢方に確認すれば、事実は明らかになるはずです」
ミリアの瞳が揺れた。
ほんの一瞬、彼女の表情から涙の色が消えたように見えた。
けれどそれはすぐに、弱々しい怯えに塗り替えられる。
「そんな……わたし、そこまで覚えていなくて……怖くて、ただ……」
「覚えていないことを、事実として告発なさったのですか」
「リリアーナ!」
アルヴィスが鋭く声を上げた。
「ミリアを追い詰めるな」
「私は確認しているだけでございます」
「怯えている者に、そのような冷たい問い詰め方をするなど、恥を知れ」
恥を知れ。
その言葉に、胸の奥がひどく軋んだ。
リリアーナは視線を落とさなかった。
落とせば、負けたことになるような気がした。
「殿下。私は自分の無実を証明するため、事実確認を求めております」
「無実?」
アルヴィスは冷たく笑った。
「では、毒入り菓子の件はどう説明する」
広間が再び大きくざわめいた。
毒。
その言葉は、先ほどまでの嫌がらせとは重みが違う。
貴族の間で毒は、最も忌まれる手段の一つだ。
それを用いたとなれば、冗談では済まされない。
リリアーナは息を呑んだ。
「毒入り菓子、ですか」
「しらばっくれるな。先月、ミリアのもとにお前の名で菓子が届けられた。その菓子を口にしたミリアは倒れ、数日間寝込んだ」
先月。
菓子。
リリアーナは記憶を辿る。
確かに、先月、ミリアへ贈り物をした。
聖堂の奉仕活動で顔を合わせる機会があり、形式として菓子を贈ったのだ。
だが、それは王宮御用達の菓子店に正式に注文し、クララを通じて届けさせたものだった。
毒など入れるはずがない。
「その菓子は、王宮御用達の菓子店に注文したものです。注文記録も、支払いの控えも残っております。毒が混入していたというのなら、店と配送経路を調べるべきです」
「お前は本当に、何でも人のせいにするのだな」
「そうではございません。調べるべき手順を申し上げているのです」
「ミリアは倒れた。医師も毒の症状だと言った。それでもお前は関係ないと言うのか」
「関係があるかどうかを確認するために、調査が必要なのです」
リリアーナの言葉は、あまりにも正しかった。
正しいからこそ、この場では冷たく響いたのかもしれない。
ミリアが小さく泣き声を漏らした。
「わたし……あの時、本当に苦しくて……怖くて……でも、リリアーナ様を責めたら殿下が悲しむと思って、黙っていたんです」
「ミリア、もういい。お前は十分耐えた」
「殿下……」
「お前は優しすぎる」
アルヴィスはミリアの頬に浮かぶ涙を指で拭った。
その仕草に、令嬢たちの間から感嘆の息が漏れる。
まるで悲劇の聖女と、彼女を守る王子の物語を見せられているようだった。
リリアーナだけが、その物語の中で悪役にされている。
「リリアーナ様」
背後からクララの震える声がした。
リリアーナは振り返らなかった。
今、クララの顔を見たら、自分の表情が崩れてしまいそうだったから。
アルヴィスはさらに紙へ視線を落とす。
「それだけではない。聖堂への不敬もある」
「聖堂への不敬?」
「ミリアが聖女候補として祈りを捧げる場に、お前は汚れた花を供えた。聖具の配置を変え、儀式を妨害したとも聞いている」
「そのようなことはしておりません」
聖堂。
リリアーナは王都の中央聖堂に何度も寄付をしてきた。
古くなった礼拝堂の修復費も、公爵家の名で負担した。聖具の配置についても、神官から相談を受け、古い儀礼書に基づいて助言しただけだ。
それが、不敬。
儀式の妨害。
あまりに歪められた話に、リリアーナは眩暈を覚えた。
「聖堂の修復記録と寄付記録をご確認ください。神官長補佐のユーグ様であれば、私が何を行ったかご存じです」
「また記録か」
「事実を示すためです」
「お前には、人の痛みが分からないのだ」
アルヴィスの声には、失望が滲んでいた。
その失望が、リリアーナには理解できなかった。
なぜ、事実を確認しようとすることが、人の痛みを分からないことになるのだろう。
なぜ、泣いている者の言葉だけが真実になり、泣かない者の言葉は嘘になるのだろう。
リリアーナは、もう一度ミリアを見た。
ミリアは涙を浮かべ、アルヴィスの胸元にすがるように立っている。
儚げで、か弱く、守られるべき少女。
その姿を見ていると、リリアーナは自分がどれほどこの場に似つかわしくない存在なのかを思い知らされる。
泣けない女。
怯えない女。
正論ばかりを口にする女。
彼らが望む物語の中で、リリアーナは悪役でいるしかない。
それでも、罪だけは認められなかった。
「殿下」
リリアーナは静かに口を開いた。
「婚約破棄については、王家と公爵家、双方の正式な協議が必要です。この場での一方的な宣言のみで成立するものではございません」
周囲が小さくざわめく。
「また形式か」
「形式ではございません。王国法です」
「黙れ」
アルヴィスの声が、低く落ちた。
広間の空気がぴんと張り詰める。
リリアーナは言葉を止めなかった。
「さらに、今並べられた罪についても、正式な審問が必要です。証拠、証人、医師の診断書、神殿記録、菓子店の注文記録。それらを確認せず、私を断罪することはできません」
「できない、だと?」
「はい。少なくとも、王国法では」
アルヴィスの顔が赤く染まった。
それは羞恥か、怒りか。
あるいは、自分の権威を否定されたと感じたのか。
「私は王太子だ」
「存じております」
「この国の未来の王だ」
「だからこそ、法をお守りください」
その瞬間、広間が完全に静まり返った。
誰かが息を呑む音が聞こえた。
リリアーナは、自分の言葉がアルヴィスの怒りに触れたことを理解した。
けれど、撤回はしなかった。
王太子だからこそ、法を守らなければならない。
それは幼い頃から、リリアーナが王妃教育で学んできた基本だった。
だがアルヴィスにとっては、違ったのだろう。
「やはり、お前は私を見下しているのだな」
「違います」
「いいや、違わない。いつもそうだ。私の言葉に誤りを見つけ、私の決定に口を挟み、私に恥をかかせる」
「殿下が恥をかかぬよう、申し上げてきたのです」
「それが見下していると言うのだ!」
アルヴィスの声が荒くなる。
ミリアが震え、さらに彼に身を寄せた。
「殿下、もうやめてください……。わたしのために、こんな……」
「ミリア。これはお前だけのためではない」
アルヴィスはミリアの肩を抱き、広間に向かって宣言した。
「これは、王国の未来のためだ」
その顔には迷いがなかった。
アルヴィスは心から、自分が正義を行っていると信じている。
聖女を守り、悪女を裁き、王国の未来を正す英雄なのだと。
その確信こそが、リリアーナには恐ろしかった。
王国の未来。
その言葉に、リリアーナは胸の奥を強く握られたような痛みを覚えた。
王国の未来のために努力してきた。
そのつもりだった。
夜遅くまで文書を読み、苦手な派閥の令嬢にも笑顔で接し、アルヴィスが失言をすれば裏で頭を下げ、王妃教育に耐え、感情を押し殺してきた。
けれど今、そのすべてが否定されようとしている。
「このような冷酷な女を王妃にすれば、王国は歪む」
アルヴィスはリリアーナを指差した。
「民の痛みを理解せず、聖女を虐げ、自らの権威を守るためなら毒すら使う女など、王家に迎えるわけにはいかない」
毒すら使う女。
その言葉が、広間に落ちた。
リリアーナを見つめる視線が、さらに冷たくなる。
好奇心は嫌悪へ、同情は嘲りへと変わっていく。
リリアーナは、真っ直ぐに立っていた。
膝が震えそうになるのを、必死に押さえていた。
ここで崩れれば、本当に負けてしまう。
罪を犯していない。
その一点だけは、絶対に譲ってはならない。
「私は、毒など使っておりません。ミリア様を傷つけたこともございません。聖堂を汚したことも、王国に害をなしたこともございません」
リリアーナは一語ずつ、はっきりと告げた。
「殿下。どうか正式な調査を」
「必要ない」
アルヴィスは冷たく遮った。
「証人はいる。被害者もいる。これ以上、お前の詭弁を聞くつもりはない」
「証人とは、どなたですか」
「ミリアの侍女たちだ。彼女たちは、お前の嫌がらせを見たと証言している」
「その方々をこの場へ」
「往生際が悪いぞ、リリアーナ」
アルヴィスの声に、怒りよりも勝ち誇りが混じり始めていた。
リリアーナは気づいた。
彼は、最初から確認するつもりなどない。
リリアーナの言葉を聞くつもりもない。
この場で彼に必要なのは、真実ではない。
聖女候補を救い、冷たい悪役令嬢を裁く、正義の王太子という物語なのだ。
ミリアが涙をこぼす。
アルヴィスがそれを守る。
周囲が二人を称える。
その物語の中で、リリアーナの無実など、邪魔でしかない。
胸の奥が、ゆっくりと冷えていく。
恐怖よりも、悲しみよりも、先に訪れたのは深い諦めだった。
「リリアーナ様……」
クララが一歩前に出ようとした。
リリアーナは、わずかに手を動かしてそれを制した。
クララを巻き込んではいけない。
身分の低い侍女がこの場で王太子に逆らえば、どのような処分を受けるか分からない。
リリアーナ一人で済むなら、その方がいい。
そう考えた自分に、リリアーナは小さく笑いたくなった。
こんな時でさえ、自分のことより他人の処遇を考えている。
それが王太子妃候補としての習性なのか、それともただの愚かさなのか、もう分からなかった。
「殿下」
リリアーナは、最後にもう一度だけ口を開いた。
「私は、その罪を認めません」
「認める必要はない」
アルヴィスは言った。
「罪人は、皆そう言うものだ」
ざわめきが広間を包む。
罪人。
ついに、そう呼ばれた。
リリアーナ・エルフェルトは、公爵令嬢でも、王太子の婚約者でも、未来の王妃候補でもなくなろうとしている。
彼らの中で、彼女はすでに罪人だった。
アルヴィスはミリアの手を離し、一歩前に出る。
そして、王太子としての威厳を示すように声を張った。
「ここに宣言する。リリアーナ・エルフェルトとの婚約を破棄し、私は聖女候補ミリア・ロゼットを新たな伴侶候補として迎える」
広間に衝撃が走った。
だがそれは、反発ではなかった。
多くの者が驚きながらも、やがて納得するようにミリアを見た。
可憐で、優しく、王太子に守られる聖女候補。
冷たく、理屈ばかりで、罪を認めない公爵令嬢。
どちらが物語のヒロインにふさわしいかなど、彼らの中ではもう決まっていたのだろう。
ミリアは頬を染め、涙ぐみながらアルヴィスを見上げた。
「殿下……わたしなんかが、本当に……」
「お前だからだ、ミリア。お前の優しさこそ、王国には必要だ」
その言葉を聞いた瞬間、リリアーナの中で何かが静かに崩れた。
王国に必要。
その言葉を、リリアーナは一度でも向けられたことがあっただろうか。
必要な働きは求められた。
必要な成果は求められた。
必要な振る舞いは求められた。
けれど、リリアーナ自身を必要だと言われたことは、なかった気がした。
アルヴィスは、もうリリアーナを見ていなかった。
彼が見ているのは、涙を浮かべるミリアと、その背後にある自分に都合の良い未来だけだった。
リリアーナは静かに頭を上げる。
胸は痛い。
息をするたびに、鋭いものが刺さる。
それでも、涙は出なかった。
今泣けば、きっと誰かが言うだろう。
やっと罪を認めたのか、と。
「……承知いたしました」
リリアーナの声に、アルヴィスがわずかに目を細めた。
「ようやく自分の立場を理解したか」
「いいえ」
リリアーナは穏やかに否定する。
「私は罪を認めたわけではございません。殿下が、私の言葉を聞くおつもりがないことを理解しただけです」
アルヴィスの顔が再び強張る。
「最後まで可愛げのない女だ」
「そう思われるのでしたら、それで結構です」
自分でも驚くほど、声は静かだった。
だがその静けさが、アルヴィスの怒りをさらに煽ったのだろう。
「その態度が、罪を重くしていると分からないのか」
「身に覚えのない罪に対して、どう振る舞えば軽くなるのでしょうか」
「リリアーナ!」
アルヴィスが怒鳴った。
広間の端で、誰かが小さく悲鳴を上げる。
ミリアは震えながらアルヴィスの袖を掴んだ。
「殿下、怖いです……。リリアーナ様、どうしてそんなに平然としていられるんですか……?」
リリアーナはミリアを見た。
その涙が本物なのか、偽物なのか。
もうどうでもよかった。
ただ一つ、はっきりしていることがある。
この場に、リリアーナの味方はいない。
少なくとも、彼女の言葉に耳を傾けようとする者は、いない。
アルヴィスは深く息を吐き、近衛騎士たちへ視線を向けた。
その視線に応えるように、広間の壁際に控えていた近衛騎士隊長アドルフ・レーヴェンが前へ出る。
白銀の鎧が、魔石灯の光を冷たく弾いた。
リリアーナは、アドルフの顔を見た。
彼は王国に長く仕える騎士だ。
幾度か王宮で顔を合わせたこともある。
厳格だが、誠実な武人だと聞いていた。
その彼が、今は命令を待つ騎士としてリリアーナの前に立っている。
アルヴィスが告げた。
「リリアーナ・エルフェルトを拘束しろ」
クララが息を呑んだ。
「そんな……!」
リリアーナは動かなかった。
アドルフは一瞬だけ躊躇したように見えた。
だが、すぐに表情を消し、頭を下げる。
「……承知いたしました」
騎士たちが近づいてくる。
広間のざわめきが、どこか遠くに聞こえた。
リリアーナは背筋を伸ばしたまま、両手を前に差し出す。
罪人ではない。
けれど、抵抗すればクララが巻き込まれる。
公爵家も、さらに不利になる。
何より、この場で暴れれば、それこそ彼らの望む悪役令嬢そのものになってしまう。
冷たい金具が、リリアーナの手首に触れた。
その瞬間、クララが叫んだ。
「お嬢様は、そんなことしません!」
涙混じりの声が、広間に響いた。
リリアーナの胸が大きく揺れる。
「クララ、やめなさい」
「でも……! お嬢様は、ずっと王国のために……殿下のために……!」
「やめなさい」
リリアーナは、少しだけ強い声で言った。
クララがびくりと肩を震わせる。
リリアーナは彼女を見た。
泣きそうな顔。
悔しさと恐怖で歪んだ、まだ若い侍女の顔。
その顔を見て、リリアーナは初めて、今夜泣きたくなった。
けれど、泣かなかった。
「あなたまで罰を受ける必要はありません」
「お嬢様……」
「大丈夫ですわ」
リリアーナは微笑んだ。
自分でも、ひどく頼りない微笑だと思った。
「私は、何もしておりませんもの」
それはクララに向けた言葉であり、自分自身に向けた言葉でもあった。
アルヴィスは、そのやり取りを冷ややかに見ていた。
「最後まで芝居がかった女だ」
リリアーナは、もう返事をしなかった。
騎士が彼女の手首に拘束具をかける。
金属の音が、やけに大きく響いた。
その音を合図にしたように、周囲の囁きがまた広がっていく。
「本当に拘束されるのね」
「まさか公爵令嬢が……」
「でも、聖女様を傷つけたのなら当然よ」
「王太子殿下はご立派だわ」
ご立派。
リリアーナは、その言葉に心の中で小さく笑った。
証拠もなく、正式な審問もなく、婚約者を断罪することが立派なのなら、この国の正しさとは何なのだろう。
分からない。
もう、分かりたくもなかった。
アドルフが低い声で告げる。
「リリアーナ様。……お歩きください」
その声音には、ほんのわずかな苦さがあった。
リリアーナは頷く。
「承知いたしました」
公爵令嬢としての礼を失わぬよう、彼女は一歩を踏み出した。
その時、ミリアの声が背後から届く。
「リリアーナ様……どうか、ご自分の罪を認めてください。そうすれば、きっと殿下も……」
リリアーナは足を止めた。
振り返る。
ミリアはアルヴィスの隣で、悲しそうに眉を下げていた。
周囲には、彼女を気遣う視線が集まっている。
リリアーナは、ゆっくりと口を開いた。
「ミリア様」
「は、はい……」
「私は、やっていない罪を認めるつもりはございません」
ミリアの瞳が揺れる。
リリアーナは、静かに続けた。
「たとえ誰も信じてくださらなくても、それだけは変わりません」
その言葉に、広間の空気がわずかに張り詰めた。
アルヴィスが吐き捨てるように言う。
「強情な女だ」
「殿下がそうお思いなら、それで結構です」
リリアーナは、今度こそ前を向いた。
騎士たちに囲まれながら、大広間の出口へ向かう。
背後では、ミリアが小さく泣いている声が聞こえた。アルヴィスがそれを慰める声も。
まるで舞踏会は、悲劇の聖女を中心に再び動き出そうとしているかのようだった。
リリアーナの卒業記念舞踏会は、こうして終わった。
祝福ではなく、断罪によって。
拍手ではなく、嘲笑によって。
婚約者の手ではなく、拘束具の冷たさによって。
広間の扉が開かれる。
夜風が流れ込み、リリアーナの銀髪を揺らした。
その一瞬、彼女は王宮の高い窓の向こうに、星のない暗い空を見た。
春の終わりの夜。
王国で最も華やかなはずの舞踏会の夜。
リリアーナ・エルフェルトは、悪役令嬢として断罪された。
そして、誰も彼女の無実を信じなかった。
この時のリリアーナは、まだ知らなかった。
この夜の断罪が、婚約破棄だけで終わるものではないことを。




