第1話 婚約破棄された悪役令嬢
はじめまして。
悪役令嬢、婚約破棄、溺愛、ざまぁが好きで書き始めました。
楽しんでいただけたら嬉しいです。
グランベルク王国の王都に、春の終わりを告げる鐘が鳴る。
王立学院の卒業記念舞踏会は、毎年、王宮の大広間で開かれる。若き貴族たちにとっては、学院生活の終わりを祝う晴れの日であり、同時に、これから社交界へ正式に足を踏み入れるための最初の舞台でもあった。
磨き上げられた白大理石の床には、頭上の魔石灯の光が星のように反射している。高い天井から吊るされたシャンデリアには幾重もの水晶が飾られ、楽団の奏でる円舞曲に合わせて、淡く揺らめいていた。
壁際には季節の薔薇が飾られ、甘い香りが広間全体に漂っている。令嬢たちは色とりどりのドレスをまとい、令息たちは整えられた礼服で胸を張る。
笑い声。囁き声。グラスが触れ合う澄んだ音。
そのすべてが、祝福に満ちた夜を演出していた。
けれど、その華やかな光景の中で、リリアーナ・エルフェルトは、たった一人だけ別の場所に立っているような心地がしていた。
白と淡紫のドレスの裾を整え、リリアーナは背筋を伸ばして立っていた。銀糸で星と白百合の刺繍を施したドレスは、公爵令嬢にふさわしく上品で、過度な華美を避けながらも、見る者の目を引く美しさがあった。
腰の少し上まで流れる銀髪は、今夜のために緩く編み込まれ、紫水晶と真珠の髪飾りで留められている。淡い紫の瞳は静かで、冷たいほどに澄んでいた。
微笑みは崩さない。
声は荒げない。
誰に対しても礼を失わない。
それは、未来の王太子妃として、幼い頃から叩き込まれてきた振る舞いだった。
「ご卒業、おめでとうございます。リリアーナ様」
近づいてきた伯爵令嬢が、にこやかに頭を下げる。
「ありがとうございます。あなたも、ご卒業おめでとうございます。今後のご活躍をお祈りしておりますわ」
リリアーナは穏やかに返した。
伯爵令嬢は一瞬、ほっとしたように笑ったが、すぐにどこかぎこちなく視線を逸らす。そして、そそくさと友人たちの輪へ戻っていった。
リリアーナはその背を見送り、静かに息を吐いた。
珍しいことではない。ここ最近、ずっとそうだった。
挨拶はされる。けれど、長く言葉を交わす者はいない。誰もがリリアーナの顔色を窺いながら、必要最低限の礼だけを済ませて離れていく。
まるで、近づきすぎれば災いが降りかかるとでも言うように。
「……悪役令嬢、ですものね」
小さく落とした言葉は、楽団の音に紛れて消えた。
いつからだっただろう。
リリアーナ・エルフェルトという名前に、冷たい女、可愛げのない婚約者、王太子殿下を縛る悪女、という陰口がついて回るようになったのは。
幼い頃から、リリアーナは王太子アルヴィス・フォン・グランベルクの婚約者だった。
王国有数の名門、エルフェルト公爵家の一人娘。王家の血を支えるにふさわしい家柄。高い魔力。優秀な成績。礼法、語学、歴史、外交、財政、王妃教育。
必要とされたすべてを、リリアーナはこなしてきた。
いいえ、こなすしかなかった。
未来の王妃になる者が、甘えを見せてはいけない。王太子殿下の隣に立つ者が、感情で動いてはいけない。王国のために、常に正しくあらねばならない。
そう教えられ、そう信じてきた。
アルヴィスが政務の課題を後回しにすれば、リリアーナが補った。外交文書に不備があれば、夜を徹して修正した。王太子としての発言に危うさがあれば、角が立たぬよう忠告した。貴族派閥の均衡が崩れそうになれば、茶会を開き、手紙を送り、表に出ないところで調整した。
それらはすべて、王国のため。
そして、アルヴィスのためだった。
けれど彼はいつからか、リリアーナの言葉を忠告ではなく、束縛だと受け取るようになった。
『また説教か、リリアーナ』
『殿下、これは説教ではございません。明日の会議で財務官から問われる内容です』
『私を信用していないのか』
『殿下が困らぬように申し上げているのです』
『そういうところだ。お前はいつも冷たい』
冷たい。
その言葉は、何度もリリアーナの胸に積もっていった。
冷たくあろうとしたつもりはない。ただ、感情を優先することを許されなかっただけだ。
笑いたい時に笑うより、場にふさわしい微笑を。泣きたい時に泣くより、王太子妃候補としての沈黙を。怒りたい時に怒るより、波風を立てぬ言葉を。
そうして形作られたリリアーナを、周囲はいつしか「完璧すぎて可愛げがない」と評した。
その言葉に傷つかないわけではなかった。けれど、傷ついた顔を見せれば、それこそ王太子妃にはふさわしくないと言われる。
だからリリアーナは今日も、静かな微笑を身にまとっていた。
「リリアーナ様」
背後から聞き慣れた声がした。
振り返ると、専属侍女のクララ・ベルが、少し心配そうな顔で立っていた。栗色の髪をきちんとまとめ、侍女服の襟を正している。いつも明るい茶色の瞳は、今夜ばかりは不安に揺れていた。
「クララ。何かありましたか?」
「いえ、その……お顔の色が、少し」
「大丈夫ですわ。少し人が多いだけです」
「でも、朝からほとんど召し上がっていません。せめて何か甘いものでも……」
「ありがとう。でも今は控えておきます。殿下がいらっしゃるまで、席を外すわけにはまいりませんから」
そう答えると、クララは唇を噛んだ。
「お嬢様は、いつもそうです」
「クララ?」
「いつも、殿下のため、王国のためって……ご自分のことは後回しです。今日くらい、卒業の日くらい、少しは楽しまれてもいいのに」
その言葉は、あまりにまっすぐだった。
リリアーナは一瞬だけ返事に迷い、それから薄く微笑んだ。
「私は楽しんでいますわ。こうして、無事に卒業の日を迎えられたのですもの」
「本当に、ですか?」
クララの問いは、痛いところを突いていた。
リリアーナは答えなかった。
答えられなかった。
その時、広間の入口付近がにわかに騒がしくなった。
人々の視線が一斉にそちらへ向かう。自然と道が開かれ、その中心を歩いてきたのは、王太子アルヴィスだった。
明るい金髪。晴れた空のような青い瞳。白と青を基調にした王太子の礼服は、金糸の刺繍に彩られ、彼の華やかな容姿をいっそう引き立てている。
誰が見ても、絵物語に出てくる王子そのものだった。
リリアーナは静かに膝を折る。
「アルヴィス殿下。ご卒業、おめでとうございます」
婚約者として、まず祝辞を述べる。
それは当然の礼だった。
けれどアルヴィスは、すぐには答えなかった。
彼の視線はリリアーナを通り過ぎ、その後ろに控えるクララを一瞥し、それからようやくリリアーナへ戻る。
青い瞳に宿っていたのは、親しみでも労りでもない。
苛立ち。
そして、冷ややかな勝ち誇りだった。
「リリアーナ。相変わらずだな」
「……相変わらず、とは?」
「そういう、完璧な人形のような顔をしているところだ」
広間の空気が、わずかに揺れた。
近くにいた令嬢たちが扇で口元を隠す。令息たちは聞こえないふりをしながら、興味深そうに視線を向けていた。
リリアーナは微笑みを崩さなかった。
「殿下のお隣に立つ者として、恥ずかしくないよう努めているだけでございます」
「そうだな。お前はいつもそう言う」
アルヴィスの声には棘があった。
「私のため。王国のため。未来の王妃として。そんな言葉ばかりだ」
「必要なことでございますから」
「必要、か」
アルヴィスは短く笑った。
その笑みは、どこか乾いていた。
「お前と話していると、私はいつも試験官の前に立たされている気分になる」
胸の奥が、わずかに痛んだ。
それでもリリアーナは、声を乱さない。
「そのようなつもりはございませんでした。不快に思われたのでしたら、申し訳ございません」
「そうやってすぐ謝る。だが、何も変わらない」
リリアーナは言葉を失った。
謝っても、変わらないと言われる。忠告すれば、縛ると言われる。黙れば、冷たいと言われる。
では、どうすればよかったのだろう。
その答えを探すより先に、広間の入口から、柔らかな声が響いた。
「殿下……」
その声に、アルヴィスの表情が変わった。
険しさがほどけ、驚くほど優しい顔になる。
リリアーナは、ゆっくりと視線を向けた。
そこに立っていたのは、聖女候補ミリア・ロゼットだった。
蜂蜜色の柔らかな髪。大きな瞳には涙の名残のような潤みがあり、小柄な身体を淡桃色のドレスが包んでいる。白いレースと小花の飾りに彩られた姿は、まるで春の花園から迷い出た妖精のようだった。
ミリアは胸の前で手を握りしめ、怯えたようにこちらを見ている。
彼女が現れた途端、周囲の空気が明らかに変わった。
「ああ、ミリア。来てくれたのか」
アルヴィスはリリアーナの前を離れ、ミリアのもとへ向かった。自然な仕草で彼女の手を取り、気遣うように顔を覗き込む。
「気分はどうだ? 無理をする必要はないと言っただろう」
「でも……殿下の卒業の日ですもの。わたしも、お祝いしたくて」
「お前は優しいな」
優しい。
その言葉を聞いた瞬間、リリアーナの指先がわずかに冷えた。
アルヴィスが、そんな声音で自分に話しかけたのはいつだっただろう。思い出そうとしても、すぐには浮かばなかった。
ミリアはちらりとリリアーナを見る。
その瞳に、ほんの一瞬だけ怯えが浮かんだ。
すると周囲の令嬢たちが、ひそひそと囁き始める。
「またリリアーナ様が睨んでいらっしゃるわ」
「ミリア様、おかわいそうに」
「聖女候補にまで嫉妬なさるなんて」
リリアーナは、ただ見ていただけだった。
睨んでなどいない。
何かを言ったわけでもない。
けれど、そう受け取られることは、もう分かっていた。
ミリアが小さく震えれば、リリアーナが怯えさせたことになる。ミリアが涙ぐめば、リリアーナが傷つけたことになる。ミリアがアルヴィスに寄り添えば、リリアーナは嫉妬深い悪役令嬢になる。
いつの間にか、そういう筋書きが周囲に出来上がっていた。
「リリアーナ様」
ミリアが、おずおずと声をかけてきた。
「ご卒業、おめでとうございます」
「ありがとうございます。ミリア様も、おめでとうございます」
リリアーナは礼を返す。
だがミリアは、まるでその声音に怯えたように肩を震わせた。
「あ、あの……わたし、何かお気に障ることをしてしまいましたか?」
「いいえ。なぜ、そのようにお思いになるのです?」
「だって……リリアーナ様、いつもわたしを見る目が怖くて……」
空気が凍った。
リリアーナの背後で、クララが息を呑む気配がした。
アルヴィスの表情が険しくなる。
「リリアーナ」
「殿下、私は何も」
「ミリアが怯えている」
「私は、ただご挨拶を返しただけでございます」
「その冷たい言い方が、人を傷つけるのだと、なぜ分からない?」
言葉が胸に突き刺さる。
冷たい。
また、その言葉。
リリアーナは、ゆっくりと息を吸った。
ここで反論すれば、また高慢だと言われる。黙れば、認めたことになる。
どちらを選んでも、きっと結果は変わらない。
「……ミリア様を怖がらせる意図はございませんでした。ご不快にさせたのでしたら、お詫びいたします」
リリアーナは頭を下げた。
それは、未来の王妃として場を収めるための判断だった。自分の正しさより、舞踏会の空気を荒らさないことを選んだ。
けれど、その瞬間、ミリアの瞳の奥で何かが微かに光った。
勝ち誇りにも似た、小さな光。
リリアーナが顔を上げた時には、ミリアはもう儚げな表情に戻っていた。
「そんな……謝っていただくほどのことでは……わたしが悪いんです。わたしが弱いから……」
「ミリア、お前は悪くない」
アルヴィスは、ミリアを守るように肩を抱いた。
その姿を見て、広間のざわめきが大きくなる。
婚約者であるリリアーナを前に、王太子が聖女候補を抱き寄せている。それは本来ならば、王家の体面に関わる振る舞いだった。
だが誰も咎めない。むしろ、まるで美しい恋物語の一場面を見守るかのように、周囲の目は二人へ注がれていた。
そしてリリアーナには、冷たい視線だけが向けられる。
悪役令嬢。
また誰かが、そう囁いた気がした。
リリアーナは唇を結ぶ。
悪役令嬢。
それが今の自分なのだろうか。
王国のために努力し、王太子を支え、未来の王妃として恥じぬよう振る舞ってきた結果が、それなのだろうか。
その時、アルヴィスがリリアーナから視線を外し、広間の中央へ歩き出した。
ミリアの手を取ったまま。
「殿下?」
リリアーナが呼びかける。
だがアルヴィスは答えない。
楽団の音が止まった。誰かが指示したわけでもないのに、広間全体が静まり返っていく。
アルヴィスは中央に立ち、ミリアを自分の隣に置いた。
その姿は、まるで婚約者を紹介する王太子のようだった。
リリアーナの胸の奥に、言いようのない不安が広がる。
クララが小さく囁いた。
「お嬢様……」
「大丈夫です」
リリアーナはそう答えた。
本当に大丈夫かどうかなど、自分でも分からなかった。
アルヴィスは広間を見渡す。貴族たちは息を潜め、王族の言葉を待っていた。
そして彼は、ゆっくりとリリアーナを見た。
青い瞳には、もはや迷いがなかった。
「皆に聞いてもらいたい」
その声は、大広間によく響いた。
「今宵、私は王太子として、そして一人の男として、重大な決断を告げる」
リリアーナは一歩も動かなかった。
動けなかったのではない。
動くべきではないと、身体が覚えていた。
どれほど胸が騒いでも。
どれほど嫌な予感がしても。
公爵令嬢として、未来の王妃候補として、取り乱してはいけない。
アルヴィスの手が、ミリアの手を強く握る。
ミリアは涙を浮かべながら、けれどどこか恍惚とした表情で彼を見上げていた。
次の瞬間、アルヴィスの声が、広間に高らかに響き渡った。
「リリアーナ・エルフェルト」
全員の視線が、リリアーナに集まる。
嘲り。
好奇心。
同情。
期待。
さまざまな感情が、鋭い針のように突き刺さった。
それでもリリアーナは、静かにアルヴィスを見つめ返す。
アルヴィスは、宣告するように言った。
「お前との婚約を、今この場で破棄する!」
お読みいただきありがとうございます。
続きが気になると思っていただけたら、ブックマークや評価で応援していただけると嬉しいです。




