第10話 皇城の部屋は、花で満ちていた
翌朝、リリアーナが目を覚ました時、天幕の外には柔らかな朝の光が満ちていた。
最初に聞こえたのは、鳥の声だった。
王宮の庭で聞くような澄ました囀りではない。もっと近く、もっと自由で、森の枝から枝へ飛び移る小鳥たちの声。続いて、焚き火の薪が小さく爆ぜる音と、騎士たちが低く言葉を交わす声が聞こえてくる。
リリアーナは、しばらく目を開けたまま動けなかった。
ここは王宮の寝室ではない。
地下牢でもない。
処刑台の上でもない。
皇国へ向かう街道沿いの野営地。
その事実を思い出した途端、胸の奥が小さく疼いた。
けれど、不思議と昨夜ほど苦しくはなかった。眠る前に飲んだ温かいスープと、手首に当てられた布の温度。そばで眠ってくれたクララの気配。天幕の外にいると言ってくれたカイゼルの声。
その一つ一つが、リリアーナの中にかすかな安心を残していた。
「お嬢様、お目覚めですか?」
すぐそばからクララの声がした。
振り向くと、クララはすでに起きていて、湯を含ませた布を用意していた。疲れているはずなのに、侍女としての手際は変わらない。
「クララ。あなた、眠れたの?」
「はい。少しだけ。でも、お嬢様の方が大事です」
「あなたも大事です」
思わず返すと、クララは目を丸くした。
そして、じわりと涙ぐむ。
「お嬢様……」
「泣かないで。朝から泣かせるつもりではなかったの」
「すみません。最近、涙腺が弱くて」
「最近というより、昨日からずっとでは?」
「それは、お嬢様が大変な目に遭われるからです」
そう言われると、リリアーナは何も返せなかった。
クララが濡れ布でリリアーナの顔を軽く拭い、髪を整えてくれる。鏡は小さな手鏡しかなかったが、そこに映った自分の顔は、思っていたよりも青白かった。
目元には疲れがあり、銀髪も完全には整っていない。
白と淡紫のドレスも、王宮の舞踏会で着ていた時の輝きはない。裾には街道の土埃がつき、袖口にも小さな皺が寄っていた。
それでも、処刑台に立っていた時よりはずっとましだ。
リリアーナはそう思い、すぐに自分の感覚がおかしくなっていることに気づいた。
処刑台よりまし。
そんな基準で自分の姿を見ている。
「お嬢様?」
クララが心配そうに覗き込む。
リリアーナは小さく首を振った。
「何でもありません」
「本当に?」
「……少し、変なことを考えてしまっただけです」
「変なこと?」
「処刑台にいた時よりは、今の方がずっとましだと」
クララの顔がくしゃりと歪んだ。
「お嬢様」
「ごめんなさい。暗いことを言いました」
「謝らないでください」
昨日のカイゼルと同じことを言われ、リリアーナは瞬きをする。
クララは布を握りしめたまま、真剣な顔で続けた。
「お嬢様は、つらかったことを口にしていいんです。私にくらい、言ってください。全部受け止められるかは分かりませんけど、聞くことはできます」
リリアーナの胸が温かく、同時に少し痛んだ。
今までクララは、ずっとそばにいた。
それなのにリリアーナは、クララにさえ弱音を吐かないようにしていた。
主人だから。
公爵令嬢だから。
心配をかけてはいけないから。
けれど、それはクララにとっても寂しいことだったのかもしれない。
「ありがとう、クララ」
リリアーナが言うと、クララは今度こそ泣かなかった。
代わりに、力強く頷いた。
「はい」
天幕の外で、控えめな声がする。
「リリアーナ様。陛下がお目覚めか確認するようにと」
皇国騎士の声だった。
クララがすぐに立ち上がる。
「はい。お目覚めです。少々お待ちください」
リリアーナは髪を整え、肩にかけていた黒い外套をそっと畳もうとした。すると、クララがそれを見て首を振る。
「お嬢様、それは羽織っていてください」
「でも、これは陛下の」
「だからです」
「だから?」
「陛下が、お嬢様に寒い思いをさせたくないとお考えなのだと思います」
クララの言い方には、少しだけ含みがあった。
リリアーナは頬に熱が差すのを感じる。
「……クララ、昨日から時々その顔をするわね」
「どの顔でしょう」
「分かっていて言っているでしょう」
「侍女ですから」
侍女は関係あるのだろうか。
リリアーナはそう思ったが、反論する前に天幕の入口が開いた。
入ってきたのはカイゼルではなく、昨日から護衛についている黒衣の騎士だった。年齢は二十代後半ほど。赤茶色の髪に琥珀色の瞳を持ち、実戦慣れした雰囲気がある。
彼はリリアーナの前で丁寧に礼をした。
「おはようございます、リリアーナ様。私はラウル・ベルンハルト。ヴァレンティス皇国第一騎士団長を務めております」
リリアーナは驚きながらも、椅子から立ち上がろうとした。
だがラウルは慌てて手を上げる。
「ああ、いえ、そのままで。陛下に叱られます」
「叱られる?」
「リリアーナ様を休ませろ、と。昨夜から騎士全員、耳にたこができるほど言われております」
ラウルはからりと笑った。
その明るさに、リリアーナは少しだけ戸惑う。
皇国の騎士団長と聞いて、もっと厳めしい人物を想像していた。けれど目の前のラウルは、豪快で親しみやすい空気をまとっている。
「陛下は、私のことをそこまで……?」
「ええ。正確には、リリアーナ様の顔色、手首、食事量、睡眠時間、馬車の揺れ、気温、それからクララ嬢の安全まで気にしておいでです」
クララが目を丸くする。
「私までですか?」
「もちろん。リリアーナ様が信頼している侍女だから、丁重に扱えと」
クララは胸を押さえた。
「陛下……」
リリアーナは、何と言えばいいか分からなかった。
ありがたい。
けれど、そこまで気遣われることに慣れていない。
むしろ申し訳なさが先に立ってしまう。
その気持ちが表情に出たのだろう。ラウルは少しだけ苦笑した。
「リリアーナ様。陛下はああ見えて、気遣い方がかなり不器用です」
「不器用、ですか」
「はい。優しくしたいのに命令みたいになる。心配しているのに顔が怖い。甘やかしたいのに加減が分からない。まあ、騎士団では昔から有名です」
その説明に、クララが思わず笑いをこらえる。
リリアーナも、昨夜のやり取りを思い出した。
『休め』
『謝るな』
『食べられるか』
『私を呼んでもいい』
確かに、優しいのに言葉は短い。
そして少し命令に聞こえる。
けれど、冷たくはない。
「陛下は、お優しい方なのですね」
リリアーナが言うと、ラウルは一瞬目を丸くした。
そして、にやりと笑う。
「それを聞いたら、陛下はたぶん固まりますね」
「固まる?」
「ええ。リリアーナ様に優しいと言われた、と」
クララが今度こそ小さく吹き出した。
リリアーナも、つられて少しだけ笑った。
笑ってから、気づく。
自分はまた笑えた。
たったそれだけのことが、少し不思議だった。
ラウルは穏やかな表情でその様子を見ていたが、すぐに騎士団長の顔に戻る。
「朝食の準備が整っています。リリアーナ様のお身体に障らないよう、軽いものにしてあります。食後、国境砦へ向けて出発します」
「分かりました。お気遣いありがとうございます」
「礼には及びません。陛下のご命令ですし、何より」
ラウルは一拍置いて、少し真面目な声で言った。
「リリアーナ様は、我々皇国の恩人でもありますから」
「私が?」
「陛下の命の恩人です。つまり皇国の恩人です」
リリアーナは言葉に詰まった。
そんな大層なものではない、と言いかける。
けれど、昨日から何度も言われた。
自分のしたことを、小さく扱いすぎるなと。
だからリリアーナは、少しだけ迷ってから頭を下げた。
「……ありがとうございます」
ラウルは満足げに頷いた。
「はい。では、外へご案内します」
天幕を出ると、朝の空気が頬に触れた。
王都よりも少し冷たい。
けれど澄んでいて、胸の奥まで入ってくるようだった。
野営地では、皇国騎士たちが手際よく動いていた。馬に水を与える者、荷をまとめる者、焚き火を片づける者。皆、黒を基調とした装備を身につけているが、その動きには無駄がない。
リリアーナの姿に気づくと、騎士たちは一斉に姿勢を正した。
「リリアーナ様」
低い声が揃う。
リリアーナは驚き、思わず足を止めた。
王国で受けていた礼とは違う。
そこに好奇や嘲りはなかった。
もちろん、すべての者が心から歓迎しているかは分からない。けれど少なくとも、彼らはカイゼルの庇護下にある者として、リリアーナを敬意をもって扱っている。
それが、リリアーナには眩しかった。
「皆様、おはようございます」
自然と、礼を返す。
騎士たちは一瞬だけ驚いたようだった。
ラウルが小声で言う。
「騎士全員に丁寧に挨拶する貴族令嬢は、皇国でも珍しいですよ」
「そうなのですか?」
「普通は、護衛を背景の一部くらいにしか思わない方もいますからね」
「そのようなことは」
リリアーナは首を振る。
「命をかけて守ってくださる方々に、礼を失するわけにはまいりません」
ラウルは一瞬、言葉を失った。
周囲の騎士たちも、わずかに表情を変える。
その空気の変化に、リリアーナは自分が何かおかしなことを言ったのかと不安になった。
「失礼でしたか?」
「いえ」
ラウルは、今度は先ほどよりずっと柔らかく笑った。
「陛下が命懸けで取り戻そうとした理由が、少し分かった気がします」
リリアーナは返答に困り、視線を落とした。
その時、野営地の奥からカイゼルが歩いてきた。
黒い軍装の上に外套を羽織り、朝の光の中でも変わらず静かな威圧感をまとっている。けれどリリアーナを見ると、わずかに歩調が早まったように見えた。
「起きたか」
「はい。おはようございます、陛下」
「ああ」
カイゼルはリリアーナの顔をじっと見る。
あまりに真剣な視線だったので、リリアーナは少し戸惑った。
「……何か?」
「昨日よりは顔色がいい」
彼はそう言った。
ラウルが後ろで肩を震わせている。
クララも微妙に笑いをこらえていた。
リリアーナは、何となく分かってきた。
カイゼルのこれは、きっと挨拶の一種ではない。
本当に顔色を確認しているのだ。
「よく眠れました。ありがとうございます」
「悪夢は」
「見ませんでした」
「そうか」
カイゼルの表情はほとんど変わらない。
けれど、リリアーナには少しだけ彼が安堵したように見えた。
朝食は、焚き火のそばに用意されていた。
柔らかいパン、温めたミルク、野菜の入った卵料理、薄い果実の煮物。野営地とは思えないほど丁寧に整えられている。
「……これは、私のために?」
リリアーナが尋ねると、カイゼルは当然のように頷いた。
「胃に負担の少ないものを用意させた」
「そこまでしていただかなくても」
「昨日からほとんど食べていないだろう」
「ですが、騎士の皆様はもっと簡素なものを」
「彼らは慣れている」
近くにいた騎士たちが全員、力強く頷いた。
ラウルまで真顔で言う。
「我々は干し肉でも戦えます」
「それはそれで心配です」
リリアーナが思わず言うと、ラウルは笑った。
「では今後は、リリアーナ様に心配されない食事を心がけます」
周囲に小さな笑いが起こる。
その和やかな空気に、リリアーナは少し驚いた。
皇国の騎士たちは、もっと冷たく厳しいものだと思っていた。
けれど実際は、規律の中にも温かさがある。
カイゼルがいるからだろうか。
そう思って彼を見ると、彼はリリアーナの皿を見ていた。
「食べられそうか」
「はい。いただきます」
リリアーナは椅子に座り、朝食に手をつけた。
温かいミルクを飲むと、身体の内側から温まる。柔らかなパンは食べやすく、卵料理にも優しい味付けがされていた。
一口ずつ食べるたび、クララが安心したように頷く。
カイゼルは何も言わないが、リリアーナが半分ほど食べ終えた時、ほんのわずかに表情を緩めた。
その様子を見て、ラウルがにやにやしている。
「ラウル」
カイゼルが低く名を呼ぶ。
「はい、陛下。何も言っておりません」
「顔がうるさい」
「顔は黙っております」
「黙らせるか」
「失礼いたしました」
ラウルは即座に背筋を伸ばした。
クララがまた笑いをこらえている。
リリアーナは、思わず口元を押さえた。
カイゼルがこちらを見る。
「どうした」
「いえ……皇国の方々は、思っていたよりも賑やかなのですね」
カイゼルは少しだけ沈黙した。
「……いつもではない」
「陛下、いつもです」
ラウルが小声で言い、カイゼルに睨まれる。
リリアーナは、今度こそ小さく笑ってしまった。
笑った瞬間、周囲の空気が少しだけ止まった。
カイゼルがリリアーナを見ている。
クララも、ラウルも、近くの騎士たちも。
リリアーナは急に恥ずかしくなった。
「す、すみません」
「謝ることではない」
カイゼルはすぐに言った。
そして、ほんの少しだけ目を細める。
「笑えるなら、それでいい」
その言葉が、あまりに優しくて。
リリアーナは、胸が詰まりそうになった。
朝食の後、野営地はすぐに出発の準備へ入った。
騎士たちは天幕を片づけ、馬車の点検を終え、街道の警戒を確認する。リリアーナは何か手伝おうとしたが、クララとカイゼルに同時に止められた。
「お嬢様は座っていてください」
「君は休め」
二人の声が重なり、リリアーナは思わず瞬きをした。
クララは満足そうに頷く。
「陛下とは意見が合いそうです」
「そこを合わせなくてもいいのでは」
「いいえ、大事なことです」
カイゼルも否定しない。
リリアーナは少しだけ困ったが、結局、馬車のそばに用意された椅子に座ることになった。
座っているだけというのは、落ち着かない。
何か役に立たなければ。
そう思うたびに、カイゼルの言葉が蘇る。
『君は今、生きることだけ考えればいい』
生きることだけ。
それは簡単なようで、今のリリアーナには難しかった。
けれど、少しずつ慣れていかなければならないのだろう。
やがて出発の準備が整い、リリアーナとクララは再び馬車へ乗った。
カイゼルも同じ馬車に乗り込む。
「国境砦までは、あと半日ほどだ」
「今日中に皇国へ入るのですね」
「ああ」
リリアーナは窓の外を見る。
街道の先には、深い森と山並みが広がっている。
あの向こうに、ヴァレンティス皇国がある。
胸に不安がないと言えば嘘になる。
けれど、昨日のように息ができないほどではなかった。
馬車が動き出す。
王国の道を、さらに北へ。
昼近くになると、景色は明らかに変わり始めた。
草原は減り、代わりに針葉樹の森が増える。空気は冷たく澄み、遠くには白く雪をかぶった山が見えた。
クララが窓の外を見て、驚いたように声を上げる。
「お嬢様、山が白いです」
「本当ね。王都では見られない景色だわ」
「寒そうですね……」
クララが肩を震わせると、カイゼルがすぐに外套を差し出そうとした。
リリアーナは慌てて止める。
「陛下、私は今は寒くありません」
「クララが寒そうだ」
クララが目を丸くした。
「私ですか?」
「そうだ」
カイゼルは当然のように外套を渡そうとする。
クララは恐縮して両手を振った。
「い、いけません! 私は侍女ですので!」
「寒いのだろう」
「寒いですが、皇帝陛下の外套を侍女がいただくわけには」
カイゼルは少し考えた。
そして、外へ声をかける。
「ラウル。毛布を」
すぐに馬車の外からラウルの声が返る。
「はいはい、陛下。侍女殿用ですね」
なぜ分かるのだろう、という顔をクララがした。
ほどなくして、小さな毛布が馬車内へ差し入れられる。
クララは恐縮しながら受け取った。
「ありがとうございます……」
「君もリリアーナのそばにいる者だ。冷えれば彼女が気にする」
カイゼルは淡々と言った。
クララは目を丸くし、それから深く頭を下げる。
「ありがとうございます、陛下」
リリアーナはそのやり取りを見て、胸が温かくなった。
カイゼルは不器用だ。
けれど、ちゃんと見ている。
リリアーナだけでなく、リリアーナが大切にしているクララのことまで。
王国では、クララはただの侍女だった。
身分の低い者として、声を上げても踏みにじられた。
けれどカイゼルは、クララをリリアーナのそばにいる大切な者として扱ってくれる。
それが、嬉しかった。
「陛下」
「何だ」
「ありがとうございます」
「何の礼だ」
「クララのことまで気遣ってくださって」
カイゼルは少しだけ黙った。
「君が気にするだろう」
短い答え。
それだけで十分だった。
午後になると、馬車の速度が少し落ちた。
外では騎士たちの緊張が高まっている。
リリアーナにも、それが何となく伝わった。
「何かあったのでしょうか」
「国境が近い」
カイゼルが答える。
「この辺りは、王国と皇国の境に近い。魔物も出る」
「魔物……」
王都周辺では、魔物を見ることはほとんどない。
王国の北部や辺境には出ると聞いていたが、リリアーナ自身が遭遇したことはなかった。
「心配するな。護衛はいる」
「はい」
そう答えた時、馬車の外から鋭い笛の音が響いた。
騎士たちの空気が一変する。
馬車が止まった。
クララが息を呑む。
「お嬢様」
リリアーナはクララの手を握った。
カイゼルはすぐに立ち上がる。
「中にいろ」
「陛下」
「すぐ終わる」
彼はそれだけ言って馬車を降りた。
外からラウルの声が聞こえる。
「北側の森から三体! 小型ですが、速度があります!」
「隊列を崩すな。馬車へ近づけるな」
カイゼルの声は冷静だった。
次の瞬間、獣のような咆哮が響く。
クララが震える。
リリアーナの手にも力がこもった。
怖い。
けれど、処刑台で感じた恐怖とは違う。
今は、守ってくれる者たちがいる。
馬車の小窓から外を見ると、森の影から黒い獣のような魔物が飛び出してくるのが見えた。狼に似ているが、身体は歪み、口元には黒い霧のようなものが漂っている。
皇国騎士たちが即座に動いた。
ラウルが剣を抜き、一体を正面から受け止める。別の騎士たちが槍で牽制し、馬車から距離を取らせる。
その中心に、カイゼルが立っていた。
彼は剣を抜く。
黒い刀身に、金色の光が走った。
次の瞬間、カイゼルの周囲に黒炎が揺らめく。
リリアーナは息を呑んだ。
黒い炎。
それは禍々しいのに、美しかった。
夜の闇を燃やしたような炎が、カイゼルの剣にまとわりつく。
彼が一歩踏み出す。
魔物が跳びかかる。
そして、黒炎の一閃が走った。
魔物は声を上げる間もなく崩れ落ちる。
続いて二体目。
ラウルが押さえた魔物を、カイゼルが一撃で斬り伏せる。三体目は騎士たちの槍に追い込まれ、黒炎によって跡形もなく焼かれた。
戦闘は、本当に一瞬で終わった。
リリアーナは窓越しに、カイゼルの背を見ていた。
恐ろしい力だった。
けれど不思議と、彼自身を怖いとは思わなかった。
彼はその力を、馬車を守るために使った。
リリアーナとクララを守るために。
「すごい……」
クララが小さく呟く。
リリアーナも同じ気持ちだった。
やがてカイゼルが馬車へ戻ってくる。
剣はすでに鞘に収められていた。
表情も乱れていない。
「怪我はないか」
馬車へ戻った彼が最初に言ったのは、それだった。
リリアーナは首を振る。
「私たちは大丈夫です。陛下こそ、お怪我は」
「ない」
「本当に?」
思わず聞き返すと、カイゼルは少しだけ目を瞬かせた。
「本当だ」
リリアーナはほっと息を吐く。
「よかった」
そう言った瞬間、カイゼルがわずかに固まった。
リリアーナは首を傾げる。
「陛下?」
「……いや」
彼は視線を逸らした。
外からラウルの楽しそうな声がする。
「陛下、リリアーナ様に心配されて照れておられますか?」
「ラウル」
「はい、黙ります」
そのやり取りに、クララがまた笑いをこらえる。
リリアーナは少し遅れて意味を理解し、頬が熱くなった。
「私は、その……当然の心配を」
「分かっている」
カイゼルは短く答える。
だが、耳のあたりがほんの少し赤いように見えた。
気のせいかもしれない。
そう思うことにした。
魔物の襲撃後、馬車は再び動き出した。
リリアーナはしばらく黙っていたが、やがて自分の手元に淡い光が宿っていることに気づいた。
ほんの小さな、星のような光。
瞬きをする間に消えてしまいそうなほど儚い。
「……今のは」
リリアーナが呟くと、カイゼルが視線を向けた。
「どうした」
「いえ、今、指先が光ったような」
カイゼルの瞳がわずかに鋭くなる。
「痛みは」
「ありません」
「熱は」
「ありません」
「気分は悪いか」
「大丈夫です」
言ってから、リリアーナは慌てて付け加える。
「本当に、大丈夫です」
カイゼルは少しだけ彼女を見つめていたが、やがて頷いた。
「国境砦に着いたら、宮廷魔術師に診せる」
「魔術師に?」
「ああ。君の魔力かもしれない」
リリアーナは自分の指先を見つめた。
王国で魔力測定を受けた時、彼女の魔力は高いとされた。だが、特別な加護があると正式に言われたことはない。
聖女候補ミリアのように、人々の前で癒やしの奇跡を見せることもなかった。
なのに、なぜ今。
胸の奥に、少しだけ不安が生まれる。
カイゼルはそれを察したように言った。
「怖がらなくていい」
「……はい」
「分からないものは、調べればいい」
その言葉に、リリアーナは少しだけ笑った。
「陛下も、証拠や調査を重んじられるのですね」
「当然だ」
「王国では、それを冷たいと言われました」
口にした後で、リリアーナは少しだけ後悔した。
暗いことを言ってしまったかもしれない。
けれどカイゼルは、表情を変えずに答える。
「冷たいのではない。必要なことだ」
その言葉は、リリアーナの心を静かに支えた。
「はい」
彼女は頷いた。
夕刻。
馬車はようやく、国境砦へ到着した。
ヴァレンティス皇国の国境砦は、王国の華やかな建築とはまるで違っていた。黒灰色の石で築かれた堅牢な城壁。高い見張り塔。黒狼の旗。無駄な装飾はないが、すべてが頑丈で、実用的で、厳しい土地に根を張るような強さを持っている。
門の上には、皇国の兵たちが整列していた。
カイゼルの馬車が近づくと、砦の門が開かれる。
低い角笛の音が響いた。
馬車の中で、リリアーナは背筋を伸ばす。
「ここから皇国、なのですね」
「ああ」
カイゼルが答える。
「ようこそ、ヴァレンティス皇国へ」
その言葉を聞いた瞬間、リリアーナの胸に不思議な感情が広がった。
不安。
緊張。
恐れ。
そして、ほんのわずかな希望。
グランベルク王国で処刑されるはずだった悪役令嬢は、こうして敵国の地へ足を踏み入れた。
まだ何も分からない。
この国で受け入れられるのか。
カイゼルの求婚にどう答えるのか。
自分の中に灯った星のような光が何なのか。
分からないことばかりだった。
けれど少なくとも、処刑台の上で終わるはずだった物語は、まだ続いている。
馬車が砦の門をくぐる。
黒狼の旗が、夕暮れの風に大きく翻った。




