第59話 あなたの隣を選びたい
花火の光が、夜空いっぱいに広がっていた。
川面には、無数の紙灯りが揺れている。リリアーナの灯りとカイゼルの灯りは、少しずつ流されながらも、まだ隣に並んでいた。
カイゼルは、リリアーナの両手を包んだまま彼女を見つめている。
その目には、皇帝としての冷静さがあった。けれど、それだけではない。迷いを押し殺すような、けれど逃げることだけはしない強さがあった。
「君に、伝えたいことがある」
先ほどの言葉が、もう一度胸の中で響く。
リリアーナは息を整えようとした。
けれど、うまくいかなかった。
花火の音。
人々の歓声。
川を流れる灯りの揺れ。
そのすべてが遠くなり、目の前のカイゼルだけが、はっきり見えている。
「聞いても、よいですか」
「ああ」
カイゼルの指先に、僅かに力が入った。
「私は、君を皇后にしたいからそばに置いているわけではない」
「はい」
「星霜の加護がほしいからでもない」
「はい」
「王国へ見せつけるためでも、皇国の権威のためでもない」
「はい」
リリアーナは、まばたきも忘れて彼を見つめた。
カイゼルは一つずつ、余計なものを外していくように言葉を重ねていた。
皇后、加護、政治、王国への意趣返し。そのどれでもないと言うために。
「君が、リリアーナだからだ」
胸の奥が、強く震えた。
「処刑台の上で、それでも真っ直ぐ立っていた君を見た」
「……はい」
「皇国へ来てから、休むことを覚えようとする君を見た」
「はい」
「好きなものを探し、部屋を選び、仕事を選び、自分の言葉で立とうとする君を見た」
「はい」
カイゼルの声は、低く静かだった。
けれど、その一言ごとに、リリアーナの中へ何かが灯っていく。
「私は、君が笑うところをもっと見たい」
「カイゼル」
「君が怒るところも、迷うところも、分からないと言うところも、見ていたい」
「……はい」
「君が何かを選ぶ時、その選択を奪う者ではなく、隣で見届ける者でありたい」
リリアーナの視界が、少し滲んだ。
王国で言われ続けてきた言葉とは違う。
役に立て。
正しくあれ。
未来の王妃にふさわしくあれ。
国のため、王太子のため、公爵家のために生きろ。
カイゼルは、そのどれも言わない。
彼女を自分のものにするためではなく、彼女が彼女であることを見届けたいと言う。
「リリアーナ」
名前を呼ばれる。
公爵令嬢でも、星霜の乙女でも、皇后候補でもなく。
ただ、リリアーナと。
「君が好きだ」
言葉は、まっすぐだった。
飾り気もなく、逃げ道もなく、ただ真っ直ぐに彼女へ届いた。
「皇帝としてではない。一人の男として、君が好きだ」
次の花火が上がった。
銀色の光が、二人の間を明るく照らす。
リリアーナは、すぐには答えられなかった。
嬉しい。
その言葉が、最初に浮かんだ。
けれど、それだけでは足りなかった。胸が苦しくて、泣きそうで、同時に笑いたくなる。どうしていいか分からないほど、心が忙しかった。
「返事は、今でなくていい」
カイゼルが言った。
「私は、君へ答えを迫るために言ったのではない」
「……」
「君が何者になるかを選ぶ前に、私の気持ちを知っていてほしかった」
「カイゼル」
「皇后になるかどうかと、この言葉を一緒にしなくていい」
「はい」
「私の隣に立つかどうかも、今すぐ決めなくていい」
「はい」
「ただ、君を好きだということだけは、隠したくなかった」
リリアーナは、包まれている自分の手を見た。
この手は、彼女を引きずらない。
閉じ込めない。
逃げられないように掴むのでもない。
いつも、選ばせてくれる。
けれど今は、確かに繋ぎ止めたいという熱もある。
それが、嫌ではなかった。
「私も」
声は小さく震えた。
カイゼルが、息を止める。
「私も、カイゼルのことを、知りたいと思っています」
「ああ」
「そばにいると安心します」
「ああ」
「会えないと、少し寂しいと思うようになりました」
「ああ」
「今日、式典で遠くにいるカイゼルを見て、誇らしいと思いました」
「ああ」
「でも、お祭りで蜂蜜菓子を食べるカイゼルを見ている方が、もっと好きだと思いました」
言ってから、リリアーナは顔が熱くなるのを感じた。
もっと丁寧な言葉があったはずだ。令嬢らしく、品よく、感情を整えた答え方が。
けれど、今は取り繕いたくなかった。
「私も、カイゼルが好きです」
その瞬間、カイゼルの表情が止まった。
リリアーナは不安になり、彼の手を見下ろす。
「……聞こえましたか」
「ああ」
「返事を、間違えましたか」
「違う」
「では、なぜ黙って」
「今動くと、抱きしめる」
リリアーナの心臓が跳ねた。
「それは、困ることですか」
「君が困るかもしれない」
「……少し、驚くと思います」
「ああ」
「でも、嫌ではありません」
カイゼルの目が、僅かに揺れた。
「リリアーナ」
「はい」
「抱きしめてもいいか」
「はい」
答えた直後、カイゼルの腕がリリアーナを包んだ。
強く、けれど痛くはない。
大切なものを壊さないように、それでも離したくないように。
リリアーナは一瞬だけ息を詰め、それからゆっくりと彼の背に手を回した。
カイゼルの体温が近い。
胸の音が聞こえる。
いつも冷静で、揺らがないように見える人の鼓動が、自分と同じくらい速い。
そのことが、どうしようもなく嬉しかった。
「カイゼル」
「ああ」
「心臓が、速いです」
「言うな」
「私もです」
「……そうか」
「はい」
リリアーナは、少しだけ笑った。
花火がまた上がる。
周囲には人もいる。遠くからこちらを見ている者もいるだろう。
けれど今だけは、それが気にならなかった。
皇帝と皇后候補ではない。
敵国から救われた令嬢と、その保護者でもない。
ただ、互いに好きだと伝え合った二人だった。
しばらくして、カイゼルはゆっくりと腕を解いた。
完全に離れるのではなく、リリアーナの肩へそっと手を添えたまま、彼女の顔を見る。
「泣いている」
「少しだけです」
「嫌だったか」
「嬉しかったのです」
「ああ」
カイゼルは手袋を外し、指の背でリリアーナの涙を拭った。
その仕草があまりに優しくて、リリアーナはまた泣きそうになる。
「それ以上泣くな」
「命令ですか」
「願いだ」
「では、努力します」
カイゼルが、ほんの僅かに笑った。
「リリアーナ」
「はい」
「もう一つ、聞いていいか」
「はい」
「口づけてもいいか」
リリアーナの呼吸が止まった。
花火の音が、遠くなる。
口づけ。
王国では、いつかアルヴィスと交わすものだと教えられていた。
婚約者として、未来の王妃として、正しい時期に、正しい場で、正しい形で受け入れるもの。
けれど、今は違う。
誰かに決められた未来ではない。義務でも、儀式でもない。
カイゼルが尋ね、リリアーナが答える。
それだけだった。
「……頬に」
リリアーナは小さく言った。
「頬なら、大丈夫です」
「ああ」
カイゼルは、少しだけ身を屈める。
リリアーナは目を閉じた。
頬に、温かな感触が触れる。
ほんの短い口づけだった。
それでも、胸の奥に灯りがともったように、全身が熱くなる。
カイゼルが離れると、リリアーナはゆっくり目を開けた。
「大丈夫か」
「大丈夫では、ないかもしれません」
「悪かった」
「違います」
リリアーナは慌てて首を横へ振った。
「嫌だったわけではありません。ただ、嬉しくて、どうしたらいいか分からないだけです」
「ああ」
「カイゼルは、慣れているのですか」
「何にだ」
「こういうことに」
「慣れていない」
「本当ですか」
「ああ」
「皇帝陛下なのに?」
「関係ない」
その答えが、どこか不機嫌そうで、リリアーナは小さく笑った。
「安心しました」
「なぜだ」
「私だけが慣れていないのではないなら、少し心強いです」
「ああ」
カイゼルは、もう一度リリアーナの手を取った。
「戻るか」
「もう少しだけ、歩きたいです」
「ああ」
「手は、このままでよいですか」
「ああ」
「先ほどより、近く歩いても?」
「ああ」
リリアーナが少しだけ距離を詰めると、カイゼルの指がしっかり絡んだ。
二人は河岸をゆっくり歩いた。
花火が終わり、祭りの音楽は穏やかな曲へ変わっている。紙灯りは川の下流へ流れ、少しずつ小さな光になっていった。
「カイゼル」
「何だ」
「先ほどの願いは、教えてくださらないのですね」
「まだだ」
「願いではなくなった時に、でしたか」
「ああ」
「では、私もその時を待ちます」
「ああ」
「でも、私の願いは少し叶いました」
「何を書いた」
「秘密です」
「リリアーナ」
「願い事は、秘密でもよいのです」
カイゼルは不満そうにしたが、それ以上追及しなかった。
代わりに、繋いだ手へ視線を落とす。
「選んだ未来を、大切な人と歩けますように」
「え?」
「そういう願いだろう」
リリアーナは、目を見開いた。
「見たのですか」
「見ていない」
「では、なぜ」
「君が考えそうなことだ」
「ずるいです」
「当たっているのか」
「……少しだけ」
ほとんど当たっている。
そう言うのは悔しくて、リリアーナは唇を引き結んだ。
カイゼルの口元が、ごく僅かに上がる。
「笑いましたね」
「気のせいだ」
「今、笑いました」
「見間違いだ」
「いいえ。見ました」
リリアーナがそう言うと、カイゼルは諦めたように息を吐いた。
「君は、よく見るようになった」
「研究協力員ですから」
「それは関係あるのか」
「観察は大切です」
「ああ」
他愛のない会話だった。
けれど、リリアーナにはそれが嬉しかった。
好きだと伝え合った後でも、急に何もかもが変わるわけではない。
皇后になるかどうかも、正式な立場も、王国の裁きも、まだすべて終わったわけではない。
それでも、二人の間には確かに新しい言葉が置かれた。
好き。
その一言があるだけで、同じ夜道が少し違って見える。
皇城へ戻る頃には、祭りの賑わいは少しずつ落ち着き始めていた。
西門を通る前、リリアーナは足を止めた。
「どうした」
「一つ、確認したいことがあります」
「ああ」
「今日のことは、皇后になる返事ではありません」
「ああ」
「皇国での正式な身分を決める返事でもありません」
「ああ」
「でも、カイゼルを好きだという気持ちは、本当です」
「ああ」
カイゼルは、静かに彼女を見る。
「それでいい」
「はい」
「順番は、君が決めればいい」
「カイゼルも一緒に考えてくださいますか」
「ああ」
「私だけで決めるのではなく、二人で」
「ああ」
リリアーナは、ほっと息を吐いた。
自分で選ぶことは、誰の意見も聞かないことではない。
大切な人と話し合いながら、最後に自分の心を置き去りにしないことだ。
「明日、改めて話してもよいですか」
「何を」
「私のこれからのことを」
「ああ」
「皇国での身分のことも、植物園のことも、カイゼルの隣にいることも」
「ああ」
カイゼルの手が、リリアーナの手を少し強く握った。
「逃げない」
「私も、逃げません」
そう答えた時、遠くで最後の花火が上がった。
夜空に広がった光は、星花のように淡く紫を帯びている。
リリアーナは、その光を見上げながら思った。
処刑台で奪われかけた人生は、ここで終わるのではない。
王国の裁きが終わるのを待つだけでもない。
彼女自身が選ぶ未来が、今、目の前に広がり始めている。
その隣には、手を繋いだままのカイゼルがいる。
リリアーナは、彼の手を握り返した。
「明日、話しましょう」
「ああ」
その約束は、告白の余韻よりも静かで、けれど確かなものだった。
皇后という役目ではなく。
星霜の加護でもなく。
救われた者としてでもなく。
リリアーナは、自分の名前で、カイゼルの隣に立つ未来を考え始めていた。
お読みいただきありがとうございます。
続きが気になる方は、ブックマーク・評価で応援していただけると嬉しいです。
毎日19時半ごろ更新予定です。




