第60話 私が選ぶ未来
本日で本編最終話となります。
処刑台で終わるはずだったリリアーナの物語が、どこへ辿り着くのか。
最後まで見届けていただけたら嬉しいです。
建国祭の翌朝、リリアーナはいつもより少し遅く目を覚ました。
窓の外では、星花の中庭に朝の光が降り注いでいる。昨夜の祭りで皇都中に灯った明かりはもう消えていたが、胸の奥にはまだ、小さな灯が残っているようだった。
カイゼルに好きだと言われた。
そして、自分も好きだと答えた。
頬に触れた口づけの感触を思い出し、リリアーナは寝台の上でそっと頬に手を当てた。
「お嬢様、お目覚めですか」
クララの声が、控えの間から聞こえる。
「ええ」
「お加減はいかがです?」
「少し眠いけれど、大丈夫です」
答えながら起き上がると、クララが茶器を持って入ってきた。
目が合った瞬間、クララの頬がふわりと緩む。
「何か、よいことがございましたね」
「どうして分かるの」
「お顔が、春の花のようです」
「そんなに?」
「はい」
リリアーナは両手で頬を押さえた。
「……カイゼルと、お話をしました」
「はい」
「大切な話です」
「はい」
「その、互いに……好きだと」
「まあ」
クララの目に、たちまち涙が浮かんだ。
「泣くことかしら」
「泣くことです」
「そうなの?」
「そうです。お嬢様が、ご自分のお気持ちで誰かを好きだとおっしゃったのですから」
「……そうね」
王国で決められた婚約とは違う。
幼い頃から当然のように与えられた未来でもない。
リリアーナが、自分の心で選んだ感情だった。
「今日は、カイゼルと改めて話します」
「はい」
「皇国での身分のことも、植物園のことも、カイゼルの隣にいることも」
「お嬢様なら、きっと大丈夫です」
「まだ少し怖いわ」
「怖くても、ご自分でお決めになれます」
「ええ」
リリアーナは、茶を一口飲んだ。
温かさが喉を通り、身体の奥へ落ちていく。
「今日は、星花の中庭で話したいです」
「では、女官長へお伝えいたします」
身支度を終えた後、リリアーナは深緑色の研究協力員の上衣には袖を通さなかった。
今日は植物園の日ではない。
代わりに選んだのは、淡い白藍色のドレスだった。胸元には、建国祭で使った銀細工の星花を飾る。
皇后候補としての礼装ではない。
星霜の乙女としての衣装でもない。
今のリリアーナが、落ち着いて話せる装いだった。
午前の光が柔らかくなる頃、カイゼルが星花の中庭へ現れた。
今日は皇帝の正装ではなく、黒い上衣に控えめな銀刺繍の入った服だった。けれど、その立ち姿だけで、彼が皇国の頂点に立つ人だと分かる。
リリアーナは噴水のそばで立ち上がった。
「おはようございます」
「ああ」
「昨日は、ありがとうございました」
「ああ」
カイゼルはリリアーナの顔を見て、僅かに眉を動かした。
「眠れたか」
「少し遅くなりました」
「そうか」
「カイゼルは?」
「あまり」
「私のせいですか」
「ああ」
「正直ですね」
「嘘をつく理由がない」
その答えに、リリアーナは思わず笑ってしまった。
緊張が、少しほどける。
「座りましょう」
「ああ」
二人は、星花に囲まれた白い長椅子へ腰を下ろした。
昨夜は祭りの灯りの中で手を繋いでいた。
今は朝の庭で、少し距離を置いて向かい合っている。
同じ二人なのに、空気が違う。
けれど、怖くはなかった。
「昨日のことを、なかったことにはしません」
リリアーナは先に言った。
「ああ」
「カイゼルが好きだと言ってくださったことも、私が好きだと答えたことも、本当です」
「ああ」
「でも、それは皇后になる返事ではありません」
「分かっている」
「皇国での身分を、すぐに決める返事でもありません」
「ああ」
「それでも、カイゼルの隣にいたいと思っています」
言葉にすると、胸が震えた。
カイゼルは黙って聞いている。
急かさない。遮らない。ただ、リリアーナの言葉を待っている。
「私は、皇国で暮らしたいです」
「ああ」
「植物園の研究協力員も、三か月で終わりにするかはまだ分かりません。続けたいと思うかもしれません」
「ああ」
「王国へ戻るつもりはありません」
「ああ」
「父を許せるかも、まだ分かりません」
「ああ」
「アルヴィス殿下やミリア様のことも、完全に過去にできたわけではありません」
「ああ」
リリアーナは、自分の膝の上で指を重ねた。
「それでも、今の私が望む未来は、ここにあります」
「ああ」
「皇国で、私の名前で生きたい」
「ああ」
「そして、その未来の中に、カイゼルにいてほしいです」
カイゼルの目が、静かに揺れた。
リリアーナは、深く息を吸う。
「だから、私はカイゼルの隣を選びたいです」
「ああ」
その返事は短かった。
けれど、カイゼルの手が僅かに握られたのを、リリアーナは見逃さなかった。
「私からも言う」
カイゼルが言った。
「はい」
「君を皇后という役目で縛るつもりはない」
「はい」
「だが、いつか君が望むなら、私は君を皇后として迎えたい」
「……はい」
「それより先に、リリアーナとして私の隣にいてほしい」
「はい」
「皇国での立場が必要なら、まずは私の婚約者として公にすることもできる」
「婚約者」
その言葉に、リリアーナの胸が大きく鳴る。
王国での婚約とは違う。
家が決めたものではない。王家の都合で結ばれたものでもない。子どもの頃から、当然の未来として押しつけられたものでもない。
カイゼルが求め、リリアーナが選ぶものだ。
「それも、今すぐ決めなくてよいのですか」
「ああ」
「でも、私は……」
リリアーナは星花を見た。
小さな花々が、朝の風に揺れている。
皇国へ来た夜、初めてこの部屋を選んだ時、星花の中庭が見える場所がいいと思った。
あれは、リリアーナが自分で選んだ最初の場所だった。
そこから、好きなものを探した。
仕事を選んだ。
休む日を選んだ。
王国から届く手紙を読む日を選んだ。
そして、カイゼルを好きだと伝えた。
なら、次も選べる。
「カイゼルの婚約者になります」
リリアーナは言った。
カイゼルが、息を止めた。
「今すぐ皇后になると決めるのではなく、まずは婚約者として、あなたの隣に立ちたいです」
「ああ」
「ただし、条件があります」
「言え」
いつものような返事に、リリアーナは少し笑った。
「植物園の仕事は続けます」
「ああ」
「週二日、午前中だけという条件も、しばらくは変えません」
「ああ」
「私の名前を、星霜の加護や王国への政治的な意味だけで扱わないでください」
「ああ」
「皇后としての教育が必要になっても、私が壊れるほど詰め込まないでください」
「当然だ」
「それから」
「ああ」
「時々、蜂蜜菓子を一緒に食べてください」
「……それは条件なのか」
「大切です」
「ああ」
カイゼルの目元が、はっきりと和らいだ。
「すべて受ける」
「よいのですか」
「君が隣に来るなら、安い」
「安い、でしょうか」
「ああ」
リリアーナは、胸の奥が温かくなるのを感じた。
「では、私も一つだけ約束します」
「ああ」
「怖くなったら、黙って逃げるのではなく、怖いと言います」
「ああ」
「無理だと思ったら、無理だと言います」
「ああ」
「でも、カイゼルの隣にいたいという気持ちからは、逃げません」
「ああ」
カイゼルが手を差し出した。
昨夜の祭りで差し出された手と同じだ。
リリアーナは、その手へ自分の手を重ねる。
今度は、はぐれないためではない。
自分の意思で、彼の手を取った。
「リリアーナ」
「はい」
「ありがとう」
「こちらこそ」
カイゼルは、彼女の手の甲へ静かに口づけた。
昨夜の頬への口づけよりも、形式ばっている。
けれど、その仕草はひどく丁寧で、リリアーナの心を震わせた。
「これからよろしくお願いします、カイゼル」
「ああ」
その時、中庭へ女官長が姿を現した。
少し離れた場所で一礼する。
「陛下。リリアーナ様。王国より、最終報告が届いております」
「今でなくてもいい」
カイゼルが言う。
「いいえ」
リリアーナは首を横へ振った。
「読みます。今日、私の未来を選んだからこそ、過去の終わりも見届けたいです」
女官長から受け取った封書には、グランベルク王国の王印が押されていた。
リリアーナは、自分で封を切る。
そこに記されていたのは、特別法廷の最終判断だった。
アルヴィス・グランベルクは、王族籍を剥奪。
今後は王都から離れた北部修道領にて、終身監督下に置かれる。
公的権限を持つことは永久に禁じられ、王国史には不当断罪および違法な処刑命令に関与した元王太子として記録される。
ミリア・ロゼットは、すでに確定した監督付き生活を開始。
聖女候補制度の被害者であり、同時に不当断罪へ加担した者として、証言記録を公開。
二度と聖女、神託者、聖なる乙女を名乗ることはできない。
神殿上層部は、聖職位を完全に剥奪。
王国神殿の独立権限は解体。
地下石室は、星霜持ちの少女たちへの罪を記録する場所として保存される。
セレナ、マリアナ、ルシアの名は、聖女ではなく、王国の罪によって命と自由を奪われた者として正史へ刻まれる。
そして、最後にこう記されていた。
『リリアーナ・エルフェルトへの不当な断罪、冤罪、処刑命令について、グランベルク王国は改めて全面的に罪を認める』
『リリアーナ・エルフェルトを、悪役令嬢、罪人、偽りの聖女を害した者として扱ったすべての記録を撤回する』
『彼女は王国の罪によって奪われかけた被害者であり、その名誉は完全に回復される』
リリアーナは、ゆっくりと文書を閉じた。
胸が痛まないわけではない。
怒りが消えたわけでもない。悲しみがすべて癒えたわけでもない。
けれど、長い間首に掛けられていた重い鎖が、ようやく外れたような気がした。
「終わったのですね」
「ああ」
「王国で、私を罪人にしたものは」
「ああ」
「でも、私の人生は終わっていません」
「ああ」
カイゼルが、そっと彼女の手を握る。
「これからだ」
「はい」
リリアーナは、書類を女官長へ返した。
「王国へ返事はなさいますか」
女官長が尋ねる。
「短く、書きます」
庭の卓へ便箋が用意された。
リリアーナは羽根ペンを取り、少しだけ考える。
許しますとは書かない。
戻りますとも書かない。
幸せになりますと、王国へ誓う必要もない。
ただ、自分の意思だけを残す。
『報告を確認いたしました』
『私の名誉回復と、関係者への裁きを記録として受け取ります』
『私は王国へ戻りません』
『今後は皇国にて、私自身の人生を歩みます』
『リリアーナ・エルフェルト』
書き終えると、カイゼルが文面を確認した。
「君の言葉だ」
「はい」
「送れ」
「お願いします」
女官長が文書を受け取り、静かに下がっていった。
王国への返事は、それだけでよかった。
もう、長く説明する必要はない。
午後、皇帝府より正式な発表が行われた。
リリアーナ・エルフェルトは、グランベルク王国における冤罪と不当処分から完全に名誉を回復された者として、皇国に長期滞在する。
また、皇帝カイゼル・ヴァレンティスは、リリアーナ・エルフェルトを正式な婚約者として迎え、本人もこれを承諾した。
ただし、婚約期間中もリリアーナ本人の希望により、皇立植物園での研究協力員としての活動は継続される。
発表を聞いた貴族院は大きくどよめき、皇都の民はさらに大きく騒いだ。
だが、リリアーナがその知らせを聞いた場所は、華やかな広間ではなかった。
皇立植物園の研究棟だった。
「リリアーナ、正式に婚約者になったと聞きました」
ノーラが、帳面を抱えたまま目を輝かせている。
「はい」
「おめでとうございます」
「ありがとうございます」
「では、これからは皇后候補とお呼びした方が?」
「研究棟では、リリアーナ協力員でお願いします」
リリアーナがそう答えると、エレナが満足そうに頷いた。
「当然です。植物は婚約を祝って勝手に育ってはくれません」
「博士、もう少しお祝いらしいことを」
「祝いは後でします。今は苗の観察時間です」
「エレナ博士らしいです」
リリアーナは笑いながら、温室へ向かった。
二十鉢の苗は、少しずつ違いを見せ始めていた。
菌と青鉱粉を両方加えた鉢だけ、葉の端が僅かに丸まっている。土の匂いも、正常土とは違っていた。
「原因に近づいているかもしれません」
ノーラが言う。
「ええ。でも、まだ結論は出せません」
「そうですね」
「観察を続けましょう」
リリアーナは帳面を開く。
今日の日付。
気温。
水量。
葉の色。
土の匂い。
一つずつ、丁寧に記録していく。
その最後に、自分の名前を書いた。
『研究協力員 リリアーナ』
皇帝の婚約者となっても、その名前は変わらない。
むしろ、今は以前よりはっきりと分かる。
彼女は誰かの隣に立つために、自分の名前を捨てる必要はない。
夕方、リリアーナは植物園から皇城へ戻った。
星花の中庭には、カイゼルが待っていた。
朝と同じ場所。けれど、二人の立場は少し変わっている。
「ただいま戻りました」
「ああ。お帰り」
「苗に変化が出ました」
「そうか」
「婚約者になった日なのに、土の匂いを記録していました」
「君らしい」
「嫌ではありませんか」
「好きだと言った」
「土の話をする私も?」
「ああ」
リリアーナは頬を染めた。
「それは、ずるいです」
「何がだ」
「何でも好きだと言われると、どう返したらよいか分かりません」
「慣れろ」
「努力します」
カイゼルが手を差し出す。
リリアーナは、迷わずその手を取った。
「今日は、星花がよく見えますね」
「ああ」
「この部屋を選んでよかったです」
「ああ」
「皇国へ来てよかった」
「ああ」
少し前の自分なら、そう言えなかった。
王国を捨てたのではないか。
公爵家を裏切ったのではないか。
助けられたから、皇国にいなければならないのではないか。
そんな迷いに、何度も足を取られていた。
けれど今は違う。
リリアーナは、自分で選んでここにいる。
「カイゼル」
「何だ」
「私は、処刑台で終わるはずだった人生を、あなたに救われました」
「ああ」
「でも、これからの人生は、救われたからあなたの隣にいるのではありません」
「ああ」
「私が選んだから、ここにいます」
「ああ」
カイゼルの手が、彼女の手を包む。
「私は、君に選ばれたのか」
「はい」
「そうか」
その声は、いつもより少しだけ低く、柔らかかった。
リリアーナは、星花の光を見つめる。
悪役令嬢と呼ばれた。
婚約を破棄された。
偽りの罪で処刑台に立たされた。
誰も信じてくれなかった王国で、彼女の人生は終わるはずだった。
けれど、終わらなかった。
敵国皇帝が迎えに来たから。
そして今、彼女はその手を自分の意思で握っている。
「明日は、何をしたい」
カイゼルが尋ねる。
「午前中は、植物園へ行きます」
「ああ」
「午後は、少し休んで」
「ああ」
「夕方に、カイゼルと蜂蜜菓子を食べたいです」
「またか」
「お嫌ですか」
「悪くはない」
「好きなのですね」
「リリアーナ」
「はい」
困ったように名を呼ばれ、リリアーナは笑った。
その笑い声に合わせるように、星花が淡く光を強める。
王国の裁きは終わった。
過去の傷がすべて消えたわけではない。
それでも、未来はここにある。
リリアーナはカイゼルの手を握り返し、静かに微笑んだ。
処刑台で捨てられた悪役令嬢は、もうどこにもいない。
ここにいるのは、自分の名前で生き、自分の仕事を持ち、自分の心で愛する人の隣を選んだ一人の女性。
リリアーナ・エルフェルト。
彼女の物語は、ここから始まる。
ここまでお読みいただき、本当にありがとうございました。
『処刑台で捨てられた悪役令嬢ですが、敵国皇帝が迎えに来ました』は、これにて本編完結です。
処刑台で捨てられ、悪役令嬢と呼ばれたリリアーナが、最後には自分の名前で、自分の未来を選ぶところまで書くことができました。
リリアーナとカイゼルの物語を最後まで見届けてくださった皆さまに、心から感謝しています。
完結まで読んで「面白かった」「最後まで読んでよかった」と思っていただけましたら、ページ下部の評価やブックマーク、感想などで応援していただけると、とても励みになります。
皆さまの応援が、次の物語を書く力になります。
本当にありがとうございました。




