第58話 皇帝ではないあなたと
建国祭の朝、皇都はまだ日が昇りきらないうちから、いつもとは違う賑わいに包まれていた。
星花の中庭に面したリリアーナの部屋にも、遠くから鐘の音が届いている。窓の外を見れば、皇城の塔や回廊には銀と藍色の旗が掲げられ、庭師たちが中庭へ小さな灯籠を並べていた。
今夜、その灯籠すべてに火がともる。
「こちらのドレスで、よろしいでしょうか」
クララが、寝台の上に広げた衣装を示した。
深い夜空を思わせる藍色のドレスだった。裾へ向かうほど色が淡くなり、銀糸で小さな星と花が刺繍されている。
豪華ではあるが、王国で着ていた舞踏会用の衣装とは違う。身体を締めつけるような仕立てではなく、宝石も必要以上に飾られていない。長く歩いても疲れにくいよう、裾の重さも抑えられていた。
「素敵です」
「夜のお祭りにも合うよう、女官長が選んでくださいました」
「式典の後も、このままで歩けるの?」
「外套を羽織れば問題ございません。靴も、歩きやすいものをご用意しております」
「それは助かるわ」
式典へ出席するだけなら、皇城の礼装に従えばよい。
だが、今日はその後がある。
カイゼルと祭りを歩く。
皇帝と客人としてではなく、彼がそばにいてほしいと思う者として。
その約束を思い出すたび、胸の奥が落ち着かなくなった。
「緊張なさっていますか」
「……ええ」
「式典が?」
「それもあります」
クララは、それ以上尋ねずに微笑んだ。
「髪飾りは、どちらになさいますか」
机の上には、二つの髪飾りが置かれていた。
一つは、皇城から貸し出された大粒の青い宝石。もう一つは、銀細工で作られた小さな星花だった。
リリアーナは迷わず、星花へ手を伸ばす。
「こちらにします」
「やはり、そうおっしゃると思いました」
「宝石が嫌いなわけではないの。でも、今日はこれがいいわ」
自分の部屋の窓から見える花。
皇国へ来てから、何度も彼女の夜を照らしてくれた花。
今のリリアーナには、こちらの方が似合うように思えた。
支度を終えた頃、扉が叩かれた。
「カイゼルだ」
いつもと同じ名乗りだった。
リリアーナは銀色の鍵を手に取り、自分で扉を開く。
そこに立っていたカイゼルは、普段よりもさらに厳かな礼装をまとっていた。黒を基調とした上衣には銀の刺繍が施され、肩には皇帝の紋章を象った飾緒が掛けられている。
威厳に満ちた姿だった。
けれど、リリアーナの顔を見た瞬間、その目元が僅かに和らいだ。
「おはようございます」
「ああ」
カイゼルの視線が、彼女の髪飾りからドレスの裾までゆっくりと動く。
何かを言うのかと思って待っていたが、彼は黙ったままだった。
「……いかがですか」
「何がだ」
「今日の装いです」
「ああ」
「ああ、では分かりません」
「似合っている」
リリアーナは思わず笑った。
「前回のお約束を覚えていたのですね」
「ああ」
「聞かなくても、言ってくださると」
「ああ」
「ありがとうございます」
カイゼルは、少しだけ視線を逸らした。
「星花を選んだのか」
「はい。今の私が、自分で好きだと決めた花ですから」
「そうか」
「カイゼルにも似合うと思います」
「私に花をつけろと?」
「小さなものなら」
「断る」
「残念です」
「本気だったのか」
「少しだけ」
困ったような顔をするカイゼルを見て、リリアーナの緊張が和らいだ。
「式典では、私はどこにいればよいのでしょう」
「皇国の客人として、貴族院と各国使節の席へ案内される」
「カイゼルの隣ではないのですね」
「ああ」
「少し安心しました」
「残念ではないのか」
「少しだけ」
先ほどと同じ返事をすると、カイゼルが僅かに目を細める。
「ですが、今日の式典で皇帝陛下の隣に立てば、それだけで多くの意味を持ってしまいます」
「ああ」
「私が何者になるかは、まだ決めていません。ですから、今は客人として出席します」
「それでいい」
「式典の後は?」
「迎えに行く」
「楽しみにしています」
カイゼルは短く頷いた。
建国祭の式典は、皇城前の大広場で行われた。
広場を囲む建物には皇国旗が掲げられ、中央には建国の祖を象った石像が立っている。その周囲へ貴族や官僚、各国使節、そして抽選で選ばれた皇都の民が集まっていた。
リリアーナは、皇国の客人として用意された席へ案内された。隣にはオルガが座り、少し後ろにクララが控えている。
向けられる視線は多かった。
王国で処刑されかけた公爵令嬢。
星霜の加護を持つ女性。
皇帝が敵国から連れ帰った客人。
未来の皇后候補と噂される者。
それぞれが、リリアーナの姿へ勝手な物語を重ねている。
けれど、以前ほど息苦しくはなかった。
今は着ていなくても、深緑色の上衣の感触を覚えている。
自分には、研究協力員として過ごす時間がある。誰かが作った噂だけが、自分のすべてではない。
やがて、銀の角笛が鳴り響いた。
皇城の大門が開き、近衛騎士たちに続いてカイゼルが現れる。
先ほどリリアーナの部屋にいた時とは違う。広場へ歩み出た彼は、一国を背負う皇帝だった。
数千人の視線を受けても歩調は乱れず、高壇へ上がると広場全体を見渡した。
人々が一斉に頭を下げる。リリアーナも、それに倣った。
カイゼルの演説は長くなかった。
建国に尽力した者たちへの感謝。
国境を守る兵士や、日々の暮らしを支える民への言葉。
豊作と平穏を願い、皇国が力だけではなく、法と責任によって守られる国であり続けるという誓い。
華美な言葉は使わない。聞こえのよい約束を重ねることもしない。
それでも、一つ一つの言葉が広場へまっすぐに届いていた。
リリアーナは、カイゼルという人をまた一つ知った気がした。
彼は優しいだけではない。彼女を守るためだけに剣を振るう人でもない。多くの人の暮らしを背負い、その責任から逃げない皇帝なのだ。
演説が終わると、広場へ大きな歓声が上がった。
カイゼルはそれを静かに受け止めた後、高壇から客席へ一度だけ視線を向ける。
ほんの僅かな時間。それでも、目が合ったと分かった。
リリアーナの胸が高鳴った。
皇帝の視線が自分へ向けられたことに、周囲の何人かも気づいたのだろう。小さなどよめきが聞こえた。
リリアーナは慌てて目を伏せず、ただ静かに微笑んだ。
式典が終わった後、皇城では各国使節を招いた祝宴が開かれた。
リリアーナも短時間だけ出席し、皇国の貴族や使節たちと挨拶を交わした。
「植物園の研究協力員を始められたとか」
年配の侯爵夫人が、扇の向こうから尋ねる。
「はい。まだ学び始めたばかりですが」
「星霜の加護をお使いになる研究ですの?」
「いいえ。記録の比較や、植物の観察をしています」
「まあ。加護を使わずに?」
「はい。それが必要な研究ですから」
夫人は意外そうに瞬いた。
「不思議な方ですこと」
「よく言われます」
以前なら、相手が望む令嬢らしい答えを探しただろう。
今は、無理に理解してもらおうとは思わない。
別の伯爵は、皇后候補の噂を遠回しに尋ねてきた。
「皇都での暮らしにも、すっかり慣れられたご様子ですな。今後は、より正式なお立場へ進まれるのでしょうか」
「今は、三か月間の研究協力員として過ごすことを決めています」
「その先は?」
「その先のことは、その時の私が決めます」
柔らかく答えたが、曖昧にはしなかった。
伯爵は一瞬言葉を失い、それから苦笑するように頷く。
「陛下がお待ちになるわけです」
「カイゼルが?」
「いいえ。余計なことを申しました」
伯爵は礼を取り、去っていった。
リリアーナは、その背を見送りながら僅かに首を傾げた。
祝宴が始まって一刻ほど過ぎた頃、クララが耳元で囁いた。
「お嬢様。お迎えがお見えです」
「カイゼルが?」
「いいえ」
広間の出口を見ると、そこにはラウルが立っていた。
「リリアーナ様。陛下より、身支度を整えて西回廊へ来てほしいとのことでございます」
「カイゼル自身が迎えに来ると聞いていました」
「それが、少々問題がありまして」
「問題?」
「陛下がそのまま現れれば、祭りが皇帝陛下の閲兵へ変わってしまいます」
リリアーナは納得した。
「確かに、皆が緊張してしまいますね」
「ですので、陛下には皇帝らしさを少々減らしていただいております」
「減らせるものなのですか」
「努力はしております」
ラウルの言い方に、リリアーナは期待と不安を抱きながら控え室へ向かった。
宝石の一部を外し、藍色の外套を羽織る。髪飾りの星花は、そのまま残した。
西回廊へ着くと、柱の影に一人の男性が立っていた。
黒い外套。
飾緒も勲章もなく、剣だけを腰に下げている。
髪も普段より僅かに崩されていたが、隠しきれない威圧感は残っていた。
「カイゼル?」
「ああ」
「……皇帝らしさは、あまり減っていないような」
「ラウルにも言われた」
「隠れる気はあるのですか」
「ない」
「では、なぜ着替えたのです?」
「正装では歩きにくい」
「そういう理由でしたか」
リリアーナは笑った。
「お待たせしました」
「ああ」
「どこから行きますか」
「西門から出る」
「はい」
歩き出そうとしたカイゼルが、ふと足を止めた。
「手を」
「え?」
彼が差し出した手を、リリアーナは見つめる。
「人が多い」
「はぐれないためですか」
「ああ」
「それだけ?」
「……それだけではない」
カイゼルの答えに、胸が大きく鳴った。
リリアーナは、そっと自分の手を重ねる。
温かい指が、逃がさないように彼女の手を包んだ。
皇城の西門を抜けると、皇都は昼間とはまるで違う景色になっていた。
通りの両側には大小の灯籠が並び、店先から張られた紐には星形の飾りが揺れている。広場では楽師たちが陽気な曲を奏で、子どもたちが小さな灯りを手に走り回っていた。
焼いた肉の香り。
甘い果実酒。
香辛料をまぶした木の実。
そして、蜂蜜菓子。
リリアーナは、自然とそちらへ顔を向けた。
「見つけたな」
「何をでしょう」
「蜂蜜菓子だ」
「カイゼルがお好きなものですね」
「君が食べたいと言った」
「カイゼルも食べるのでしょう?」
「ああ」
二人で屋台へ近づくと、店主がカイゼルの顔を見て固まった。
「へ、陛下……?」
「今日は客だ」
「は、はいっ」
店主は慌てて、蜂蜜菓子の入った紙袋を差し出した。
カイゼルが代金を渡そうとすると、店主は激しく首を横へ振る。
「建国祭で陛下からお代など!」
「商売だろう」
「ですが」
「受け取れ」
店主は、震える手で硬貨を受け取った。
リリアーナは、その横顔を見つめる。
「どうした」
「いえ。カイゼルらしいと思って」
「何がだ」
「皇帝陛下から代金をいただいた方が、お店にとっては自慢になるのではありませんか」
「そういうものか」
「きっと」
店主も何度も頷いている。
リリアーナが笑うと、カイゼルは紙袋から蜂蜜菓子を一つ取り出し、彼女へ差し出した。
「食べろ」
「ありがとうございます」
焼きたての菓子は温かく、表面に塗られた蜂蜜が灯りを受けて輝いている。
一口食べると、香ばしい生地と柔らかな甘さが広がった。
「おいしいです」
「ああ」
「カイゼルも早く」
「分かっている」
二人で同じものを食べながら、祭りの通りを歩く。
人々は、すぐに皇帝だと気づいた。
道を空けようとする者。慌てて頭を下げる者。隣にいるリリアーナを見て囁く者。
けれど、カイゼルは式典の時のように、人々を遠ざけなかった。
「祭りを続けろ」
そう声をかけると、止まりかけていた音楽が再び始まる。
少しずつ、人々の緊張が解けていった。
「陛下、建国祭おめでとうございます!」
「リリアーナ様も、ようこそ皇国へ!」
突然上がった声に、リリアーナは足を止めた。
若い夫婦が、小さな子どもと一緒にこちらへ手を振っている。
「ありがとうございます」
リリアーナも、手を振り返した。
別の場所からも声が聞こえる。
「植物園で働いているんだって?」
「研究協力員だろう?」
「薬草を助けたって聞いたぞ!」
話が少し大きくなっている。
「まだ、薬草を助けてはいません」
思わず答えると、周囲から笑いが起きた。
「これから原因を調べます」
「頑張ってください、リリアーナ協力員!」
胸元に深緑色の上衣はない。
それでも、研究協力員と呼ばれた。
星霜の乙女でも、皇后候補でもない。
自分が選んだ役割を、皇都の人々が知ってくれている。
「嬉しそうだな」
カイゼルが言う。
「はい」
「花を咲かせろと言われなかった」
「そうですね」
植物園で出会った少女の言葉を思い出す。
花を咲かせる人。
あの日、リリアーナは勉強をしに来たと答えた。
今は少しだけ、その答えが皇都へ広がっている。
「カイゼル」
「何だ」
「ありがとうございます」
「何にだ」
「私が仕事を始めることを、止めなかったことに」
「止める理由がない」
「皇后候補のまま、何もせず皇城にいた方が、周囲は安心したかもしれません」
「君が望んでいない」
「はい」
「なら、関係ない」
簡単に言う。
けれど、その選択を守るために、彼が貴族院を止めていたことをリリアーナは知っている。
「私も、カイゼルの望むことを知りたいです」
「ああ」
「皇帝としてではなく、あなた自身が何を望んでいるのか」
「ああ」
カイゼルは、それ以上答えなかった。
二人は人通りの多い大通りを抜け、少し静かな河岸へ向かった。
川沿いにも灯籠が並び、水面へ無数の光が映っている。人々は、願いを書いた小さな紙灯りを川へ流していた。
「これは?」
「建国祭の最後に行う習慣だ」
「願いを書くのですか」
「ああ」
「カイゼルも?」
「書いたことはない」
「では、今日は書きましょう」
「私もか」
「一緒に歩いてくださるのでしょう?」
「ああ」
近くの露店で、二つの紙灯りを受け取った。
リリアーナは、渡された紙へ何を書こうか考える。
王国の裁きが正しく終わりますように。
植物園の苗が無事に育ちますように。
これからも、自分で選べますように。
願いたいことはいくつもあった。
けれど、最後に書いたのは短い一文だった。
『私が選んだ未来を、大切な人と歩けますように』
書き終え、隣を見る。
カイゼルは紙を前にしたまま、動いていなかった。
「決まりませんか」
「願うだけで叶うとは思っていない」
「叶えるために、願いを確かめるのかもしれません」
「願いを確かめる?」
「自分が何を望んでいるのか、言葉にするためです」
カイゼルは、リリアーナの言葉を聞いてから筆を取った。
何を書いたのかは見えない。
「見せてくださいますか」
「見せない」
「私は見せてもよいですよ」
「なら見せろ」
「それは少し恥ずかしいので」
「リリアーナ」
「願い事は、秘密でもよいのです」
先に拒んだのはカイゼルなのに、納得していない顔をしている。
二人は河岸へ下り、紙灯りの底へ小さな火をともした。
リリアーナの灯りが、ゆっくりと水面へ流れていく。
少し遅れて、カイゼルの灯りがその隣へ並んだ。
二つの光は川の流れに揺れながら、離れずに進んでいく。
「きれいですね」
「ああ」
リリアーナは、繋いだままの手へ視線を落とした。
祭りへ出てから、カイゼルは一度も手を離していない。
「カイゼル」
「何だ」
「今日は、皇帝陛下ではないあなたと歩く約束でした」
「ああ」
「でも、皆さんはすぐに気づきましたね」
「ああ」
「少しも隠せていませんでした」
「隠すとは言っていない」
「そうでした」
リリアーナは笑い、川へ視線を戻す。
「それでも、いつもより近く感じました」
「ああ」
「皇帝として演説するカイゼルも、蜂蜜菓子を二つ食べるカイゼルも、同じ人なのですね」
「三つだ」
「え?」
「今日は三つ食べた」
「……お好きではないのですか」
「悪くはない」
「もう無理があると思います」
「うるさい」
カイゼルの声は低いが、怒ってはいない。
リリアーナは声を立てて笑った。
その時、川の上空へ最初の花火が上がった。
大きな音と共に、銀色の光が夜空へ広がる。周囲から歓声が上がり、続いて青、白、淡い紫の光が咲いて、川面を明るく照らした。
リリアーナは息を呑んだ。
「きれい……」
王国でも花火は見たことがある。
けれど、未来の王太子妃として招待客へ微笑み、立ち位置や視線を気にしながら眺めていた。
こんなふうに、ただ美しいと思って空を見上げたことはなかった。
「カイゼル」
隣を向くと、彼は花火ではなく、リリアーナを見ていた。
目が合う。
「花火を見ないのですか」
「見ている」
「私を見ています」
「ああ」
否定しない。
リリアーナの胸が、花火の音とは別の速さで鳴り始める。
「なぜですか」
尋ねる声が小さくなった。
カイゼルは、すぐには答えなかった。
夜空へ次の花火が上がり、明るい光が彼の横顔を照らす。
「君が笑っているからだ」
「私が?」
「ああ」
「それだけですか」
「それで十分だ」
繋がれていた手へ、少しだけ力が込められる。
リリアーナは視線を逸らさなかった。
「カイゼルは、今日何を願ったのですか」
「秘密だ」
「今も教えてくださらない?」
「ああ」
「では、いつか教えてください」
「願いではなくなった時にな」
「どういう意味ですか」
「自分で叶えると決めた」
カイゼルは、川を流れていく二つの灯りを見つめた。
「リリアーナ」
「はい」
名前を呼ぶ声が、いつもとは違った。
皇帝が命じる声ではない。
彼女を守るため、迷いを断ち切る声でもない。
一人の男性が、大切な言葉を口にしようとしている声だった。
「王国の裁きが終わるまで、待つつもりだった」
「何を?」
「君が皇国での暮らしを選び、自分の仕事を始めるまで待とうとも思った」
「カイゼル」
彼は、リリアーナの手を離した。
一瞬だけ、胸が冷える。
けれど、その手はすぐに彼女の両手を包み直した。
「だが、待つことと、何も伝えないことは違う」
花火が上がる。
大きな光が夜空に咲き、二人の姿を照らした。
「君に、伝えたいことがある」
リリアーナは、息をすることも忘れてカイゼルを見つめた。
お読みいただきありがとうございます。
続きが気になる方は、ブックマーク・評価で応援していただけると嬉しいです。
毎日19時半ごろ更新予定です。




