第57話 偽聖女の名を降ろす日
父の手紙とアルヴィスの処分を知った翌日、リリアーナは予定どおり一日を休息にあてた。
午前中は星花の中庭を眺めながら本を読み、午後にはクララと新しい刺繍糸を選んだ。王国から新たな報告が届くこともなく、誰かの罪について考える必要もない、静かな一日だった。
そして次の朝、リリアーナは再び深緑色の上衣へ袖を通した。
胸元には、銀糸で縫われた自分の名前がある。
『リリアーナ』
鏡の中の名を確認し、彼女は小さく息を吐いた。
「今日は、前回の続きをなさるのですね」
クララが髪を整えながら言う。
「ええ。比較試験の準備をします」
「四種類の土でしたか」
「正常な土と、菌を加えた土、青鉱粉を加えた土、それから両方を加えた土です」
「よく覚えられましたね」
「私が考えた条件も入っていますから」
答える声には、自分でも分かるほど弾みがあった。
植物園へ通うことが、もう特別な外出ではなくなりつつある。
決められた曜日に起き、作業用の服を着て、仕事の続きを考えながら馬車へ乗る。そんな日々が、少しずつリリアーナの生活へ根を張っていた。
「今日は、カイゼルはいらっしゃらないのですね」
「陛下は朝から軍務会議だそうです」
「そうですか」
僅かに残念だと思う。
以前なら、その感情を隠しただろう。皇帝が公務を優先するのは当然であり、寂しいなどと思う方が間違っていると自分へ言い聞かせたはずだ。
けれど今は、寂しいと思ってもいい。
だからといって、会議を止めてほしいわけではない。ただ、帰ったら今日の話を聞いてほしいと思うだけだった。
「夕方にお会いできますよ」
クララが鏡越しに笑う。
「顔に出ていましたか」
「少しだけ」
「……気をつけます」
「隠さなくてもよろしいのでは?」
「それも、そうね」
リリアーナは小さく笑い、鏡の前を離れた。
植物園の研究棟へ着くと、ノーラが温室用の小さな鉢を並べていた。
「おはようございます、リリアーナ」
「おはようございます。もう始めていたのですね」
「鉢の確認だけです。土を入れるのは、皆が揃ってからにしようと」
「私を待ってくださったのですか」
「一緒に立てた計画ですから」
当然のように返され、リリアーナの胸が温かくなる。
机の上には、四種類の札が並んでいた。
『正常土』
『菌』
『青鉱粉』
『菌・青鉱粉』
一条件につき五鉢。
合計二十鉢。
「温室担当の方は、許可してくださいましたか」
「蜂蜜菓子で」
「ノーラ」
奥からエレナの声が飛んでくる。
「正式な申請書と共に、友好的な品を添えただけです」
「それを一般には蜂蜜菓子で許可を得たと言うのでは」
「研究者同士の円滑な協力です」
エレナは真顔だったが、机の隅には空になった菓子箱が置かれている。
リリアーナは笑いを堪えながら、手袋をつけた。
「始めましょう」
「はい」
二十の鉢へ、同じ量の土を入れる。
菌を加える鉢には、培養液を一定量だけ注いだ。
青鉱粉を加える鉢には、床板から溶け出した量を想定して調整した粉末を混ぜる。
すべての鉢へ、同じ時期に育てられた薬草の苗を植えた。
「水は一鉢につき、こちらの容器一杯です」
ノーラが目盛りのついた硝子器を渡す。
「一度に注ぎますか」
「根元を崩さないよう、二回に分けましょう」
「分かりました」
リリアーナは一鉢ずつ、慎重に水を注いだ。
苗の葉が、小さく揺れる。
星霜の加護を使えば、今すぐ根の状態を確かめることもできるかもしれない。
けれど、使わない。
自然な変化を観察し、記録することが今回の研究だからだ。
「加護を使いたくなりますか」
エレナが尋ねた。
「少しだけ」
「なぜ使わないのです」
「使わずに分かることを知りたいからです。それに、加護で触れれば、植物へ別の影響を与えるかもしれません」
「よい判断です」
褒められたことより、自分で理由を説明できたことが嬉しかった。
すべての苗を植え終えると、鉢を温室へ運んだ。
中央の区画に五列で並べ、札と鉢の番号を確認する。三日ごとに位置を入れ替え、葉の色、茎の高さ、土の匂いを記録する予定だった。
「最初の記録をお願いします」
ノーラが帳面を差し出す。
リリアーナは、一鉢ずつ苗の高さを測った。
「一番から五番まで、葉は四枚。茎の高さは……」
「ゆっくりで構いません」
「はい」
結果を読み上げ、ノーラが記録する。
十鉢目まで終えたところで、リリアーナは額へ僅かな汗を感じた。温室の中は外より暖かく、集中していると身体の疲れを見落としやすい。
「一度休みます」
自分から言うと、ノーラがすぐに頷いた。
「そうしましょう」
「まだ半分ですが」
「半分終わりました」
同じ事実でも、言い方で受け取り方が変わる。
まだ半分。
もう半分。
リリアーナは温室の外へ出て、用意されていた水を飲んだ。
「自分から休むと言えましたね」
後から来たエレナが言う。
「少し迷いました」
「迷っても、言えたのなら十分です」
「残りは、休んでから続けても?」
「もちろんです」
誰も、仕事を最後まで続けられないのかとは言わない。
休んだことを能力不足の証明にもされない。
リリアーナは呼吸を整え、椅子へ座った。
その時、研究棟の受付にいた職員が、小さな封書を持って近づいてきた。
「リリアーナ協力員。皇城より文書が届いております」
「私へ?」
「はい。至急ではありません。研究時間終了後に確認して構わないとの付記がございます」
前回とは違う。
仕事中に開くよう求められていない。
皇城からの文書であっても、研究時間を尊重してくれている。
「差出人は?」
「皇帝府法務局です」
「分かりました。机へ置いておいてください」
「承知いたしました」
職員が去った後、ノーラが心配そうにリリアーナを見る。
「お読みにならなくて大丈夫ですか」
「研究時間が終わってからでよいそうです」
「でも、気になりませんか」
「気になります」
リリアーナは正直に答えた。
「けれど、今は苗の記録を終えたいです」
「分かりました」
気になっても、すぐに王国へ意識を奪われなくていい。
今、自分がどこにいるのかを選べる。
休息を終えた後、リリアーナは残りの十鉢を測定した。
全二十鉢の初期記録を終え、帳面の最後へ署名する。
『研究協力員 リリアーナ』
その文字を確認してから、ようやく封書を手に取った。
研究時間は終わっている。
彼女はエレナの許可を得て、研究棟の小さな応接室へ移った。クララとオルガも同席する。
封を切ると、皇帝府法務局からの簡潔な報告書が入っていた。
『グランベルク王国より、ミリア・ロゼットおよび王国神殿上層部に対する第一審判決が通知された』
リリアーナは、一度息を整えてから続きを読んだ。
まず記されていたのは、ミリアへの判決だった。
聖女候補資格の永久剥奪。
今後、聖女、神託者、神殿関係者を名乗ることの禁止。
王国法務局による三年間の監督付き生活。
貴族社交界、王宮行事、宗教行事への参加禁止。
神殿による偽装と投薬について、全記録の作成および公開証言への協力。
虚偽に近い申告、訂正義務の放棄、リリアーナへの名誉毀損については、被害記録へ明記。
私有財産の一部を被害者支援基金へ拠出すること。
ただし、星霜の加護の残滓を本人の同意なく与えられ、長期にわたり精神的誘導を受けていた事実を、減刑理由として正式に認定する。
リリアーナは、文章を二度読んだ。
「どう思われますか」
クララが静かに尋ねる。
「軽いとは思いません。でも、重すぎるとも……今は思いません」
死刑でも、終身拘束でもない。
けれど、聖女候補として得ていたすべては失う。
美しい衣装。
王太子の隣。
貴族たちの称賛。
神殿から与えられた特別な立場。
ミリアはこれから、ただ一人のミリアとして、自分がしたことと向き合わなければならない。
「この判決でよいのか、私には決められません」
「はい」
「でも、ミリア様だけを怪物にしなかったことは、よかったと思います」
被害者だったから無罪ではない。
加害に加わったから、すべてが本人の罪でもない。
どちらも記録される。
それこそ、リリアーナが王国へ求めたことだった。
次の頁には、ミリア本人による法廷証言の一部が添えられていた。
『私は、神殿から自分が聖女だと教えられました』
『最初は信じました。光が見え、人々が跪き、王太子殿下が私を選んでくださったからです』
『けれど、途中でおかしいと思いました』
『リリアーナ様が私を傷つけたという証拠を、私は一度も見ていません』
『それでも、私が愛されるためには、あの方が悪い人でなければならないと思いました』
『だから、疑わなかったのではありません』
『疑っていたのに、黙っていました』
リリアーナの指が、紙の端で止まる。
かつてミリアが口にしていた、曖昧な言葉を思い出す。
怖かった。
睨まれた気がした。
嫌われていると思った。
明確な嘘ではないように聞こえる言葉で、周囲の思い込みを育てた。
ミリアは今、それを認めている。
『私は、可哀想な少女でいることで、責任から逃げようとしました』
『神殿に利用されたことは本当です』
『ですが、リリアーナ様を悪役にしたのは、私自身でもあります』
『私は許しを求めません』
『ただ、二度と聖女とは呼ばないでください』
最後の一文を読み、リリアーナは目を閉じた。
偽聖女。
そう呼ばれてきた少女が、自分から聖女の名を降ろした。
それは罰であると同時に、ミリア自身が初めて選んだ言葉なのかもしれない。
「リリアーナ様」
オルガが声をかける。
「少し休まれますか」
「いいえ。もう少しだけ読みます」
今なら続けられる。
そう判断したのは、自分だった。
神殿上層部への判決は、ミリアより遥かに重かった。
大神官長を含む上層神官七名について、聖職位の永久剥奪。
星霜持ちの少女たちへの違法拘束、精神干渉、加護の強制抽出、記録改ざん、死亡隠蔽の罪で終身拘禁。
関与の深かった三名については、王国法上の最高刑を求刑し、再審理へ移行。
神殿財産の大部分を没収。
王国神殿の独立裁判権を廃止。
聖女候補制度を正式に解体。
地下石室を罪の記録として保存し、今後の調査へ公開すること。
リリアーナは、終身拘禁という文字を静かに見つめた。
彼らは、セレナ、マリアナ、ルシアを閉じ込めた。
名前を奪い、光だけを利用し、死んだ後も残滓を道具として扱った。
そして、リリアーナにも同じことをしようとした。
「最高刑を求められている者もいるのですね」
クララの声は固かった。
「ええ」
「怖いですか」
「少し」
誰かが死ぬ可能性のある判決を、喜ぶことはできない。
だが、彼らが再び誰かを傷つける場所へ戻ることも望まなかった。
「私が決めることではありません」
リリアーナは言った。
「はい」
「王国が証拠を調べ、自分たちの法で裁くことです」
「はい」
「私は、見届けます。でも、背負いません」
そう口にすると、胸の中に一本の線が引かれた。
裁きの責任は、王国にある。
リリアーナは被害を受けた者として、事実を知ることができる。
けれど、誰をどれほど苦しめるかまで、彼女が背負う必要はない。
報告書の最後には、リリアーナへ判断や返答を求めないことが明記されていた。
彼女は書類を閉じた。
「今日は、返事を書かなくてよいのですね」
クララが言う。
「ええ。報告だけです」
「それなら、ここで終わりにいたしましょう」
「はい」
リリアーナは報告書を鞄へしまい、植物園を後にした。
馬車へ乗る前に、一度だけ研究棟を振り返る。
今日、ミリアは聖女の名を失った。
神殿も、かつての権力を失い始めている。
けれど、リリアーナは新しい名前を得た。
聖女でも、悪役令嬢でもない。
研究協力員という、自分で選んだ名だった。
皇城へ戻ると、カイゼルは軍務会議を終えたばかりだった。
リリアーナの部屋を訪れた彼は、扉を開けた彼女の顔を見て、すぐに尋ねる。
「届いたか」
「はい」
「読んだな」
「はい。どうぞ、お入りください」
カイゼルを部屋へ招き、二人は窓辺の椅子へ座った。
「ミリア様への判決が決まりました」
「ああ」
「聖女候補ではなくなります。二度と聖女と名乗ることも許されません」
「ああ」
「本人も、もう聖女と呼ばないでほしいと証言したそうです」
「そうか」
カイゼルは、それ以上ミリアについて何も言わなかった。
許せとも、哀れめとも言わない。
「私は、少しだけ安心しました」
「ああ」
「ミリア様がすべての罪を負わされなかったことに」
「ああ」
「でも、許したわけではありません」
「分かっている」
「神殿には、重い判決が出ました」
「ああ」
「最高刑を求められている者もいます」
「ああ」
「それを聞いても、嬉しくはありませんでした」
「喜ぶ必要はない」
「はい」
リリアーナは、膝の上の手を見つめた。
「ただ、終わりに近づいているのだと思いました」
「ああ」
「王国の裁きが終われば、私はもう王国から届く報告を待たなくてもよくなるのでしょうか」
「待ちたくないなら」
「待ちたくない、というより……」
少し考えてから、言葉を続ける。
「私の毎日の中心にしなくてよくなるのだと思います」
「ああ」
植物園の苗がどう育つか。
次に読む本は何か。
明日は何を食べたいか。
カイゼルと、どんな話をしたいか。
そうしたことが、これからの毎日を作る。
「今日、二十鉢すべての記録を終えました」
「ああ」
「途中で、自分から休みたいと言えました」
「そうか」
「褒めてくださらないのですか」
「よくやった」
「少し遅いです」
「今後は先に言う」
「努力する、ではなく?」
「約束する」
思いがけない言葉に、リリアーナは笑った。
「ありがとうございます」
カイゼルは、しばらく彼女を見つめていた。
いつもより、何かを言おうとしているように見える。
「どうされましたか」
「明後日、皇国の建国祭がある」
「聞いています。皇都の広場で灯りをともすお祭りだと」
「ああ」
「カイゼルは、式典へ出席されるのですよね」
「ああ」
皇帝として、多くの民の前へ立つ日だ。
リリアーナは、自分には関係のない公務だと思っていた。
「君にも招待状が届く」
「貴族院からですか」
「皇帝府からだ」
「正式な身分が決まっていないのに?」
「客人として出ることはできる」
「それなら……」
カイゼルが僅かに身を乗り出す。
「だが、それとは別に頼みがある」
「何でしょう」
低い声が、静かな部屋へ落ちる。
「式典が終わった後、私と祭りを歩いてほしい」
「カイゼルと?」
「ああ」
「皇帝陛下としてではなく?」
「ああ」
カイゼルの目は、まっすぐにリリアーナを見ていた。
「護衛はつく。人目もある。それでも、式典の同行者ではなく、私が隣にいてほしいと思う者として来てほしい」
リリアーナの胸が、大きく鳴った。
皇后候補としてではない。
政治的な意味を持つ女性としてでもない。
カイゼルが、そばにいてほしいと思う人として。
「それは……お誘いですか」
「ああ」
「命令ではなく?」
「違う」
「断っても?」
「構わない」
いつもと同じ。
選ぶのは、リリアーナだ。
けれど、カイゼルの声には、これまでより僅かに緊張が混じっていた。
リリアーナは、そのことに気づいた。
皇帝である彼も、答えを待っている。
「行きたいです」
迷いはなかった。
「カイゼルと、一緒に祭りを歩きたいです」
「ああ」
短い返事。
けれど、その目元が明らかに和らいだ。
「楽しみにしています」
「ああ」
「蜂蜜菓子の屋台はありますか」
「ある」
「お好きなのですね」
「祭りの話だ」
「否定なさらないのですね」
「リリアーナ」
「はい」
困ったように名前を呼ばれ、リリアーナは笑った。
偽りの聖女が、その名を降ろした日。
神殿が、ようやく裁かれ始めた日。
そしてリリアーナは、皇帝ではないカイゼルから、初めて祭りへ誘われた。
過去が終わりへ近づくほど、未来は少しずつ輪郭を持ち始めていた。
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