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婚約破棄された悪役令嬢ですが、処刑台の上で敵国皇帝に求婚されました 〜私を捨てた王国は滅びかけていますが、もう知りません〜  作者: 碓氷さゆ


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第56話 父の手紙と、王太子の終わり

 翌朝、リリアーナは机の上に置いた封書を見つめていた。

 差出人は、ギルベルト・エルフェルト。父の名だった。


 昨夜は開かなかった。読むことを拒んだのではない。ただ、植物園での出来事や、カイゼルのもとへ自分から会いに行けた喜びを、父から届いた言葉ですぐに塗り替えたくなかった。

 今日は読むと、自分で決めている。


「クララ」

「はい」

「そばにいてくれる?」

「もちろんでございます」


 クララはリリアーナの向かいではなく、少し離れた椅子へ座った。

 手を伸ばせば届く。けれど、手紙を覗き込むことはない距離だった。


「カイゼルにも来ていただいた方がよいでしょうか」

「お嬢様が望まれるなら、お呼びいたします」

「……いいえ」


 リリアーナは、封書へ指を置いた。


「まずは、私が読みます」

「はい」


 蝋封には、エルフェルト公爵家の紋章が刻まれていた。

 幼い頃から何度も目にした紋章。王国への忠誠と、公爵家の誇りを示すものだと教えられてきた。リリアーナも、その名に恥じぬ令嬢であろうと努力してきた。


 けれど、その家は最後まで彼女を守らなかった。


 リリアーナは静かに封を切った。

 中には数枚の便箋と、王国法務局の印が押された書類の写しが入っている。まず、父の手紙を開いた。


『リリアーナへ』

『この手紙を読むことも、返事をすることも、あなたの義務ではない』

『父と名乗る資格が私に残っているとも思っていない』


 リリアーナは、僅かに息を止めた。

 以前の父なら、決して書かなかった言葉だった。


 ギルベルト・エルフェルトは、いつも家の秩序を重んじていた。

 親は子を導くもの。子は親へ従うもの。公爵家の娘は、家のために生きるもの。

 その考えを疑ったことなど、一度もなかったはずだ。


『私は、王太子殿下と神殿を信じたのではない』

『正確には、そう信じたことにした』

『あなたが罪を犯すはずがないと、私は知っていた』

『幼い頃から、あなたが誰よりも慎重で、誰かを傷つけることを恐れ、与えられた役目を果たそうとしてきたことを知っていた』

『それでも私は、王家と神殿へ異を唱えれば、公爵家が失われると考えた』

『娘一人を差し出せば、家は残ると考えた』

『私は、あなたを信じなかったのではない』

『信じていながら、見捨てた』

『それが私の罪だ』


 目の前の文字が、少し滲んだ。

 リリアーナは唇を噛まなかった。


 泣いてもいい。

 手紙を閉じてもいい。


 そう思いながら、続きを読んだ。


 胸の奥に長く残っていた疑問へ、答えが落ちていく。

 父は、本当に自分を罪人だと思っていたのだろうか。


 舞踏会で断罪された時。

 王宮の一室へ閉じ込められた時。

 処刑命令が下された時。


 一度でも、疑ってくれたのだろうか。


 答えは、残酷だった。

 疑っていた。信じていた。それでも、助けなかった。


「お嬢様」

 クララの声が静かに届く。

「大丈夫です」

 リリアーナは答えた。

「大丈夫ではないかもしれないけれど、読みます」


 今は、自分でそう決められる。

 手紙を持つ手へ力を入れ直した。


『私はあなたに、許してほしいとは書かない』

『王国へ戻ってきてほしいとも、もう一度父と呼んでほしいとも願わない』

『それらを願うこと自体が、あなたへ新たな負担を背負わせる行為だと、ようやく理解した』

『私は今後、王国特別法廷へ証言者として出廷する』

『王太子殿下の断罪を止めなかったこと』

『公爵家に届いていた神殿記録の矛盾を見過ごしたこと』

『あなたの拘束中、面会を求めなかったこと』

『処刑命令へ異議を申し立てなかったこと』

『すべてを証言する』


 同封されていた書類へ、リリアーナは視線を向けた。

 そこには、ギルベルトが特別法廷へ提出した証言書と、公爵家当主権限の停止および当主代行者選任の申請書の写しがあった。どちらにも王国法務局の受理印が押されている。


『私は、公爵位を守るためにあなたを捨てた』

『ならば、その地位を何事もなかったように持ち続けることはできない』

『法廷の判断が出るまで、当主としての権限を自ら停止し、一族の者を当主代行へ立てた』

『裁きの結果によっては、公爵位を返上する』


 リリアーナは、便箋を机へ置いた。


 公爵位。

 父が守ろうとしたもの。娘より大切にしたもの。

 そのためにリリアーナを切り捨て、今度は自ら手放そうとしている。


 それを知っても、胸が晴れることはなかった。


 遅い。

 あまりにも遅い。


 あの時、ほんの一度でも声を上げてくれていたら。

 処刑台へ上がる前に、たった一人でも家族が来てくれていたら。


 そう思う気持ちは、消えなかった。


「お嬢様は、喜ばなくてよいのですよ」

 クララが言った。


 リリアーナは顔を上げる。


「公爵様が変わられたとしても、お嬢様がそれを喜び、受け入れ、許さなければならないわけではございません」

「……ええ」

「遅かったと、怒ってもよいのです」

「ええ」


 声が震える。


「遅すぎます」

「はい」

「あの時、言ってほしかった」

「はい」

「私が罪を犯すはずがないと、皆の前で言ってほしかった」

「はい」

「公爵家がなくなっても、私を選んでほしかった」


 クララは、ただ頷いた。


 リリアーナの目から、涙が一筋落ちた。


 許した涙ではない。

 父が罪を認めたことへの安堵だけでもない。


 もう取り戻せない時間へ流す涙だった。


 クララが差し出した布で、リリアーナは自分の涙を拭った。

 しばらくして、もう一度手紙を取る。


『もう一つ、あなたへ返すべきものがある』

『公爵家が管理していたあなた個人の財産、母方から受け継いだ資産、婚姻準備金について、すべてあなた自身の所有として確定させる手続きを始めた』

『王国を離れたことを理由に、公爵家が保持することはしない』

『それは償いではない』

『初めから、あなたのものだった』


 リリアーナは、同封された別の書類を開いた。

 財産返還手続書には、公爵家の署名と法務局の受理印がある。


 これまで、リリアーナは自分が何を所有しているのか、正確には知らなかった。

 未来の王太子妃となるための財産。公爵家から王家へ渡される婚姻準備金。すべては家と国のために管理され、本人が自由に扱えるものではなかった。


 それが今、リリアーナ個人へ返されようとしている。


「私のもの」

「はい」

「初めから、私のものだったのですね」

「はい」


 クララの声にも、涙が混じった。


 リリアーナは、手紙の最後を読んだ。


『この手紙の後、私から個人的な便りを送ることはしない』

『王国で進む裁判や、あなたに関係する事実が判明した場合のみ、公的な報告として届ける』

『あなたが望まない限り、私は会いに行かない』

『どうか幸せに、とは書かない』

『その言葉すら、今の私には口にする資格がない』

『ただ、あなたが選ぶ人生を、二度と邪魔しない』

『ギルベルト・エルフェルト』


 手紙は、そこで終わっていた。

 父より、とは書かれていない。


 リリアーナは、すぐには動かなかった。


 怒りもある。

 悲しみもある。

 少しだけ、肩から重いものが降りたような感覚もあった。


 どれか一つを選ぶ必要はない。


「返事を、書かれますか」

 クララが尋ねる。

「分かりません」


 以前なら、すぐに正しい返事を考えただろう。

 父が謝罪したのだから、娘として礼を返すべきか。公爵家の体面を守るため、穏当な言葉を選ぶべきか。王国との関係を悪化させないため、許しを匂わせるべきか。


 けれど、今はそのどれも必要ない。


「今日は、返事を書きません」

「はい」

「明日も、書かないかもしれません」

「はい」

「ずっと、書かないかもしれない」

「それでもよいのです」

「ええ」


 リリアーナは手紙を畳んだ。

 棚の奥へ隠すのではなく、自分の机の引き出しへ入れる。鍵をかけるか迷い、最後にはかけなかった。


 自分がもう一度読みたいと思った時、すぐに取り出せるようにするためだった。


 昼前、カイゼルが部屋を訪れた。


 扉を開けたリリアーナの顔を見ると、彼はすぐに何かを察したようだった。


「読んだか」

「はい」

「入っていいか」

「はい。どうぞ」


 リリアーナは、自分でカイゼルを部屋へ招いた。

 彼が椅子へ座ると、クララは静かに控えの間へ下がった。


「何が書いてあった」

「父は、私が無実だと知っていたそうです」

「ああ」

「信じていながら、公爵家を守るために見捨てたと」

「ああ」


 カイゼルの表情は変わらない。けれど、声は僅かに低くなっていた。


「公爵位を守るために、私を処刑台へ送った」

「ああ」

「そして今、その公爵位を返すかもしれないと書いてありました」

「ああ」

「遅いと思います」

「遅い」

「許せないと思いました」

「許さなくていい」


 迷いのない答えだった。


 リリアーナは、膝の上で手を重ねる。


「でも、少しだけ安心もしました」

「ああ」

「私がおかしかったわけではなかった。父も、私が罪を犯すはずがないと分かっていた」

「ああ」

「それなのに助けなかったことの方が、苦しいのですが」

「ああ」


 カイゼルは、安易に慰めなかった。

 父も苦しんでいる。今は反省している。いつか許せる。そんな言葉を一つも口にしない。


 ただ、リリアーナの言葉をそのまま受け止めていた。


「私の財産を返す手続きも始めたそうです」

「確認させろ」

「奪うつもりではありませんよね」

「王国が一部でも隠していないか調べる」

「……そういう意味でしたか」

「ああ」

「お願いします」


 リリアーナは、少しだけ笑った。


「返事は書かないのか」

「今日は書きません」

「ああ」

「ずっと書かないかもしれません」

「ああ」

「それでも?」

「君が決めればいい」


 その言葉を聞き、胸の奥がゆっくりと落ち着いていく。

 父への返事すら、自分で決めてよい。娘として正しい行動ではなく、リリアーナが望むことを選べる。


 その時、扉の外から控えめなノックが響いた。


「陛下、ラウルでございます。王国から至急の公文書が届きました」


 カイゼルがリリアーナを見る。


「ここで聞くか」

「私に関係することですか」

「おそらく」

「では、お願いします」


 カイゼルの許可を受け、ラウルが入室した。

 手には、赤い封蝋が押された筒状の文書を持っている。


「グランベルク王国国王エルネスト陛下より、正式な裁定の第一報です」

「内容は」

「王太子アルヴィス殿下に対する処分が確定いたしました」


 リリアーナの背筋が、自然に伸びた。

 ラウルは文書を開く。


「アルヴィス・グランベルクは、本日をもって王太子位を剥奪。王位継承権を永久に失うものとする」


 部屋の空気が、静かに変わった。


「王族籍については、特別法廷の判決が確定するまで保留。軍指揮権、裁定権、司法関与権、王宮内のすべての役職を即時剥奪。今後、王国のいかなる公的判断にも関与することを禁ずる」

 ラウルは続ける。

「また、私有財産の一部を凍結し、被害者への補償および神殿事件の調査費用へ充てるとのことです」


 王太子ではなくなる。

 未来の国王でもない。

 人を裁く権限も、軍を動かす力も、もう持たない。


 あの舞踏会でリリアーナを見下ろし、一方的に罪を宣告した男は、正式にその立場を失った。


「さらに、本人が不当な処刑命令への署名を認めたため、特別法廷の審理が終了するまで王宮北棟にて拘束。外部との接触は、法務官立ち会いのもとでのみ認めるとのことです」

「異議申し立ては」

 カイゼルが尋ねる。

「本人が放棄しております」

「そうか」


 ラウルは、文書の後半へ目を落とした。


「アルヴィス元王太子から被害者へ伝言を送ることは禁止されています。本人も、リリアーナ様へ謝罪文を送る意思はないと証言したそうです」

「ない?」

 リリアーナが尋ねる。

「正確には、許しを求める文書を送ること自体が新たな負担となるため、送る資格がない、と」


 父と同じ言葉だった。


 許しを求める資格がない。


 ようやく、彼らは理解し始めたのかもしれない。

 謝れば許されるわけではない。後悔すれば、傷つけた相手が慰めてくれるわけでもない。罪を認めることは、許しを受け取るための取引ではないのだ。


「リリアーナ」

 カイゼルが名を呼ぶ。

「どう思う」


 リリアーナは、すぐには答えなかった。


 嬉しいかと問われれば、違う。

 可哀想かと問われても、違う。


 長い間あるべき場所へ置かれなかったものが、ようやく正しい場所へ戻されたような感覚があった。


「当然の裁きが、ようやく始まったのだと思います」

「ああ」

「私は、アルヴィス殿下が王太子でなくなったことを喜びたいわけではありません」

「ああ」

「でも、もう誰かを処刑台へ送る権利を持たないことには、安心しています」

「ああ」


 リリアーナは、窓の外へ視線を向けた。

 昼の星花は、夜のようには光っていない。それでも風に揺れながら、確かにそこへ咲いている。


「王国では、もうアルヴィス殿下は王太子ではないのですね」

「ああ」

「それでも、私の一日は続きます」

「ああ」


 明日は、植物園へ行く日ではない。

 午前中は休み、午後には皇都の図書館から取り寄せた植物学の本を読む予定だった。


 父の手紙を読んだ。

 アルヴィスの王太子位剥奪が決まった。


 大きな出来事が二つも起きた。

 それでも、リリアーナの時間は王国だけのものには戻らない。


「今日は、蜂蜜菓子を食べたいです」

 リリアーナは言った。

「突然だな」

「父の手紙を読んで、王太子への処分を聞きました。ですから、今日はもう王国のことを考えるのを終わりにします」

「ああ」

「カイゼルも、一緒に食べてくださいますか」

「ああ」

「お好きなのでしょう?」

「悪くはない」

「好きなのですね」

「リリアーナ」

「はい」


 カイゼルの困ったような声に、リリアーナは少し笑った。


 泣いた後でも、笑っていい。

 誰かが地位を失った日でも、自分の好きなものを食べていい。


 リリアーナは、女官へ蜂蜜菓子と茶を頼んだ。


 王国では、父が自ら守ってきた地位を手放そうとしている。

 アルヴィスはすべての権限を失い、王太子ではなくなった。


 けれど、それは彼ら自身が背負うべき裁きだ。

 リリアーナは、もうその中心に立ち続ける必要はない。


 運ばれてきた蜂蜜菓子を一つ取り、口へ運ぶ。

 優しい甘さが、涙の残る胸へゆっくりと広がった。


「おいしいです」

「ああ」

「カイゼルも」

「食べている」

「もう一ついかがですか」

「一つでいい」

「本当に?」

「……もう一つだけだ」

「やはり、お好きなのですね」


 カイゼルは答えなかった。

 けれど、皿から二つ目の菓子を取った。


 その小さな様子が、今のリリアーナには何より穏やかに感じられた。


 父を許してはいない。

 アルヴィスの罪も消えていない。


 それでも彼女は、自分の部屋で、自分が選んだ人と、自分が食べたいと思った菓子を食べている。


 処刑台の上では想像できなかった未来が、確かにここにあった。

お読みいただきありがとうございます。

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毎日19時半ごろ更新予定です。

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