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婚約破棄された悪役令嬢ですが、処刑台の上で敵国皇帝に求婚されました 〜私を捨てた王国は滅びかけていますが、もう知りません〜  作者: 碓氷さゆ


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第55話 私の名前で立つ

 研究協力員として二度目に植物園を訪れた朝、リリアーナは前回よりも落ち着いた気持ちで研究棟の扉をくぐった。


 胸元には、植物園の紋章と『リリアーナ』の名が銀糸で縫われた深緑色の上衣がある。初日は、この服を着ているだけで胸が高鳴った。今日は袖を通した瞬間、不思議なほど身体へ馴染んでいるように感じた。


「おはようございます、リリアーナ」

 資料を抱えて廊下を歩いていたノーラが、こちらへ手を上げる。

「おはようございます、ノーラ」

「体調はいかがですか」

「問題ありません。午前中だけという約束も、忘れていません」

「先に言われてしまいました」


 ノーラは少し残念そうな顔をした後、抱えていた資料の束を見せた。


「床板の防腐薬剤について、業者から記録が届きました」

「もう届いたのですか」

「エレナ博士が、前回の調査後から施設管理部へ何度も確認していましたから」

「何度も、ではありません。必要な資料を、正当な手順で求めただけです」


 背後から現れたエレナが、淡々と言い返す。


「同じ内容の催促状を三通送ることを、一般には何度もと表現します」

「一通目で届いていれば、二通目以降は必要ありませんでした」

「エレナ博士らしいです」


 リリアーナが笑うと、エレナは小さく咳払いをした。


「雑談はそこまでにしましょう。今日は、研究者にとっては面白く、植物にとっては迷惑な事実が分かりました」


 三人は、前回と同じ閲覧机へ向かった。


 机の上には、第二倉庫の修繕記録、防腐薬剤の成分表、腐葉土から採取された菌の培養結果が並べられている。


 リリアーナは席へ着き、薬剤の成分表を開いた。


「樹脂油、黒灰、青鉱粉……」

「最後の青鉱粉が問題かもしれません」

 エレナが言う。

「青鉱粉とは?」

「皇国南西部で採れる鉱石を細かく砕いたものです。虫除けや防腐の効果があり、屋外の木材に使われます」

「屋内の倉庫には使わないのですか」

「使用できないわけではありません。ただし、湿気の多い場所では表面を別の樹脂で覆い、成分が溶け出さないよう処理する必要があります」


 エレナは、修繕記録の一行を指した。


「第二倉庫の床板には、その仕上げ処理が行われていません」

「では、雨の続いた時期に床板から成分が溶け出し、腐葉土へ混ざった可能性がある?」

「ええ」


 ノーラが、小さな硝子容器を机へ置いた。


 中には、前回見た灰白色の菌が広がっている。端にあった薄い青色は、さらに濃くなっていた。


「青鉱粉を加えた培地でだけ、この色が出ました」

「菌が青鉱粉を取り込んでいるのですか」

「正確には、鉱粉に含まれる成分へ反応し、別の物質を作っているようです。ただ、それが植物の根を弱らせているのかは、まだ分かりません」

「ほかの培地では?」

「灰白色のままです」


 リリアーナは、四つの容器を見比べた。


 青鉱粉を加えたもの。

 加えていないもの。

 第二倉庫の腐葉土を使ったもの。

 第一倉庫の腐葉土を使ったもの。


「第二倉庫の腐葉土にだけ、青鉱粉の成分が混ざっていたのですね」

「今のところは、そう考えています」

「でも、菌が根を弱らせたのか、青鉱粉そのものが影響したのかは、まだ分からない」

「その通りです」


 エレナが満足そうに頷いた。


「では次に必要なのは、菌だけを加えた土、青鉱粉だけを加えた土、両方を加えた土の比較でしょうか」

「ええ。正常な土も含め、四つに分けます」

「同じ種類の苗を、同じ条件で育てる」

「その試験計画を立てるのが、今日の仕事です」


 リリアーナは、新しい記録用紙を手に取った。


 苗の種類と大きさ。

 水の量。

 日照時間。

 土の量。

 鉢の材質。


 同じ条件にすべきものを、思いつくまま書き出していく。


「気温も必要ですね」

 ノーラが言う。

「同じ温室に並べれば、揃えられるでしょうか」

「端と中央では、僅かに差が出ます」

「では、一定の間隔で鉢の位置を入れ替えるのは?」

「よいと思います」

「移動した日と位置も記録しましょう」


 誰か一人が、最初から正しい答えを持っているわけではない。ノーラが案を出し、リリアーナが疑問を挙げ、エレナが条件を整える。足りないところを、別の誰かが補っていく。


 王国での仕事とは違った。


 あの頃のリリアーナは、最初から最後まで一人で整えることを求められていた。完成していない考えを見せれば、未来の王妃としての能力を疑われると思っていた。


 けれど、ここでは途中の考えを机へ出してもよい。間違っていれば、皆で確かめて直せばいい。


「リリアーナ」

 ノーラが声をかける。

「はい」

「手が止まっています。疲れましたか?」

「いいえ。皆で考えることが、少し不思議で」

「お一人で考えたいですか」

「いいえ」


 リリアーナは首を横へ振った。


「一緒に考えられることが、嬉しいです」

「では、次は鉢の数です。一条件につき一鉢では、偶然の可能性を除けません」

「三鉢ずつ?」

「最低でも三鉢。できれば五鉢ですが」

「全部で二十鉢になりますね」

「温室担当に嫌な顔をされそうです」

「研究に必要なら、私が説得します」


 エレナの言葉に、ノーラが苦笑した。


「その前に、お菓子を持っていきましょう」

「研究へ私情を持ち込まないように」

「博士は先月、希少蘭の区画を借りるために蜂蜜酒を渡していました」

「あれは正式な謝礼です」

「蜂蜜酒が?」

「話が逸れています」


 リリアーナは笑いながら、試験計画の続きを書き込んだ。


 その時、研究棟の入口から、植物園の職員とは異なる硬い靴音が聞こえてきた。


 廊下を進んできたのは、皇国貴族院議長代理、オスカー・グラーフ伯爵だった。


 五十代後半の男性で、灰色の髪を隙なく後ろへ撫でつけている。濃紺の正装には貴族院の銀章があり、その後ろには書記官が一人控えていた。


 エレナの表情が、目に見えて険しくなる。


「本日は研究棟への訪問予定を伺っておりません」

「突然の訪問を詫びよう、フォルスター博士。ただ、植物園の研究協力員に関して、確認すべきことができた」

「確認は文書でお願いいたします」

「文書だけでは判断できないこともある」


 オスカー伯爵の視線が、リリアーナへ向けられた。


「リリアーナ・エルフェルト嬢」

「研究棟では、リリアーナ協力員です」

 エレナがすぐに訂正する。

「失礼。リリアーナ協力員」


 伯爵は僅かに眉を動かしたが、言い直した。


「先日は、貴族院からの面談要請に対し、丁寧な返書をいただいた」

「受け取っていただけたのですね」

「もちろんだ。しかし、あなたの立場をいつまでも不明確なままにはできないという考えは、今も変わっていない」


 リリアーナは、膝の上で両手を静かに重ねた。


「そのお話は、植物園でなければなりませんか」

「あなたが皇立施設での活動を始めたからこそ、確認が必要なのだ」

「研究協力員としての活動と、皇城での身分は別のものです」

「完全に切り離すことは難しい」


 オスカー伯爵は、机の上に広げられた資料へ視線を落とした。


「皇帝陛下と極めて親しい外国貴族の女性が、正式な身分も定まらぬまま皇国の研究へ関わっている。それを問題視する者もいる」

「私が外国貴族であることは、研究結果へ影響しますか」

「そういう話ではない」

「皇帝陛下と親しいことは、この防腐薬剤の成分を変えるでしょうか」

「リリアーナ嬢」

「リリアーナ協力員です」


 今度は、リリアーナ自身が訂正した。


 オスカー伯爵が口を閉じる。


 心臓は速く打っていた。


 王国の貴族たちに囲まれた夜の記憶が、胸の奥で僅かに動く。怖くないわけではない。


 けれど、ここは断罪の舞踏会ではない。


 リリアーナの言葉を最初から嘘だと決めつける王太子はいない。彼女自身も、罪人として立たされているわけではなかった。


「伯爵のおっしゃるように、皇国で暮らすための立場について、いつかは考える必要があると思っています」

 リリアーナは、ゆっくりと言葉を選ぶ。

「ですが、私がどのような称号を受けても、この研究記録の価値は変わりません」

「権威を持つ者の意見は、現場へ影響を与える」

「ならば、なおさら称号を持たない今の方がよいのではありませんか」


 オスカー伯爵の眉が、僅かに動いた。


「私は研究の最終判断を行いません。命令する権限もありません。記録を読み、気づいたことを伝えるだけです」

「しかし、あなたは陛下の庇護を受けている」

「それを理由に、私の意見を無条件で採用した者がいましたか」


 リリアーナは、エレナとノーラへ視線を向けた。


「いいえ」

 エレナが即答する。

「リリアーナ協力員の意見は、ほかの研究員と同じく検証しています」

「間違っていれば、違うと言います」

 ノーラも続けた。

「今日も、すぐに結論を出さず、比較試験を行うことになりました」


 オスカー伯爵の視線が、机の上の記録へ落ちる。


「何を調べている」

「第二倉庫の床板に使用された防腐薬剤と、植物の生育不良の関係です」

 リリアーナが答える。

「異常のあった区画と正常な区画を比較し、原因の可能性を絞っています。ただし、まだ結論は出ていません」

「あなたが原因を見つけたと聞いたが」

「可能性に気づいただけです。原因を確定するのは、これからです」


 功績を大きく見せる必要はない。


 反対に、自分の働きをなかったことにする必要もない。


 リリアーナは、自分が行ったことだけを答えた。


「伯爵」


 エレナが、机の上にある試験計画を差し出す。


「研究内容に政治的な問題があるとお考えなら、こちらをご覧ください。リリアーナ協力員の権限と責任の範囲も、すべて記録しております」

「拝見しよう」


 オスカー伯爵は書類を受け取った。


 研究棟には、紙をめくる音だけが響く。


 リリアーナは、膝の上で手を握り込まなかった。ゆっくりと息をし、自分がここにいることを確かめる。


 やがて伯爵は、書類を机へ戻した。


「研究上の責任は、植物園側が負うと」

「はい」

 エレナが答える。

「加護の使用は義務に含めない」

「一度も求めておりません」

「活動は週二日、午前のみ」

「本人が提示した条件です」


 伯爵は、最後にリリアーナを見る。


「あなたは、皇后候補より研究協力員の立場が重要だと?」

「比べることはできません」

「なぜだ」

「一方は、今の私が自分で選んだ仕事です。もう一方は、まだ選んでいない未来です」


 リリアーナは、自分の胸元に縫われた名を見下ろした。


「今の私にとって大切なのは、選んでいない未来の称号ではありません。今日、自分で選んでここにいることです」


 沈黙が落ちる。


 オスカー伯爵は、しばらくリリアーナを見つめていた。


「なるほど」


 やがて、静かに息を吐く。


「陛下が、急かすなとおっしゃった理由が少し分かった」

「カイゼルが?」

「あなたの決断を奪えば、王国と同じことをすることになる、と」


 リリアーナの胸が揺れた。


 カイゼルは、彼女のいない場所でも選択を守っていた。


 称号を受ければ皇帝である彼にとって都合がよいはずなのに、それでも急がせなかった。


「本日の訪問は、私の独断だ」

 オスカー伯爵は続けた。

「貴族院議長代理として、皇国の秩序を守る必要があると考えた。だが、研究棟へ直接踏み込んだのは軽率だった」

「伯爵」

「研究の妨げをしたことを謝罪する」


 オスカー伯爵は、エレナへ頭を下げた。


「実際、妨げになりました」

「博士」

「次回からは三日前までに訪問申請を。緊急でない限り、午前中の研究時間への立ち入りは認めません」

「……承知した」


 エレナの容赦のなさに、ノーラが顔を伏せて笑いをこらえている。


 伯爵は、再びリリアーナへ向き直った。


「正式な身分については、あなたから面談を求めるまで保留とするよう、貴族院へ伝えよう」

「ありがとうございます」

「ただし、国際的な手続き上、最低限の滞在資格は必要だ」

「それについては、お話を伺います」

「皇后や婚約者とは関係のない、長期滞在者としての資格だ」

「それなら、私も考えたいです」

「後日、選択肢だけを文書で送る。返事は急かさない」

「はい」


 オスカー伯爵は一礼し、書記官と共に研究棟を出ていった。


 扉が閉まると、張り詰めていた空気がようやく緩んだ。


「疲れましたか」

 ノーラが尋ねる。

「少し」

「今日は、ここまでにしましょう」

 エレナが壁の時計を見る。

「予定より早いですが、十分です」

「でも、試験計画が」

「ほとんど完成しています。残りは私たちが確認します」

「私が最後まで」

「リリアーナ協力員」


 エレナの声は厳しいが、表情は穏やかだった。


「政治的な話へ対応するのも、心と身体を使います。今日は、その時間も仕事として数えてください」

「政治的な対応も、仕事に含めてよいのですか」

「貴族院が研究棟へ持ち込んだのです。こちらから研究時間を奪った補償を請求したいくらいです」

「伯爵が困ると思います」

「困らせるためです」


 リリアーナは、堪えきれず笑った。


「では、今日は帰ります」

「はい。それがよろしい」

「次回、続きをさせてください」

「もちろんです」


 リリアーナは、今日の記録へ決まった試験条件を書き残した。


『比較対象 正常土、菌添加土、青鉱粉添加土、菌および青鉱粉添加土』

『各条件 最低三鉢』

『水量、日照、気温、苗の大きさを可能な限り統一』

『鉢の位置を定期的に入れ替え、記録する』


 最後に、自分の名前を記す。


『研究協力員 リリアーナ』


 貴族院の者に何を言われても、この名前は変わらない。


 リリアーナは、作業用上衣を脱いで丁寧に畳んだ。


 植物園から皇城へ戻る馬車の中で、クララは何度もリリアーナの顔色を確認していた。


「本当に大丈夫ですか」

「少し疲れました」

「怖くはありませんでしたか」

「怖かったわ」


 リリアーナは、正直に答えた。


「また、私の立場を誰かに決められるのかと思いました。研究のことまで、皇帝陛下との関係で見られるのも嫌でした」

「はい」

「でも、以前とは違いました」


 王国では、怖くても黙るしかなかった。正しい言葉を選び、相手を怒らせず、それでも国益を守る答えを出さなければならなかった。


 今日は違う。


「私は、嫌だと思ったことを言えました」

「はい」

「研究と称号は別だと。今は選べないと」

「とても立派でございました」

「立派かどうかは分からないわ」


 リリアーナは、膝の上の作業用上衣へ手を置いた。


「ただ、自分の名前で答えられたと思います」

「それが何よりです」


 クララが微笑んだ。


 皇城へ戻ると、カイゼルは執務室にいると聞かされた。


 いつもなら、夕方に彼が訪れるのを待つ。けれど今日は、自分から話したいと思った。


「クララ」

「はい」

「カイゼルの執務室へ行ってもよいか、尋ねてもらえますか」

「かしこまりました」


 ほどなくして、今すぐ来て構わないという返事が届いた。


 リリアーナは外套だけを自室へ置き、作業用上衣を持ったまま中央棟へ向かった。


 カイゼルの執務室を訪れるのは、皇都へ来てから初めてだった。


 大きな扉の前には、二人の近衛騎士が立っている。取り次ぎを受けた侍従が扉を開くと、広い室内の奥にカイゼルの姿が見えた。


 机の上には、何十通もの書類が積まれている。その向かい側には、ラウルが座っていた。


「リリアーナ様」

 ラウルが立ち上がる。

「珍しいですね。陛下の方が訪ねられるのを待つ日が来るとは」

「ラウル」

「ちょうど報告は終わりましたので、私は失礼いたします」


 ラウルは楽しそうに一礼し、部屋を出ていった。


 扉が閉まると、カイゼルは羽根ペンを置いた。


「何かあったか」

「はい」

「座れ」


 その表情が、すぐに険しくなる。


 リリアーナが応接用の椅子へ腰を下ろすと、カイゼルも机の向こうではなく、隣の椅子へ移った。


「貴族院の議長代理が、植物園へ来ました」

「オスカーが?」


 カイゼルの声が低くなる。


「何を言われた」

「正式な身分が決まらないまま、皇立施設の研究へ関わることを問題視する者がいると」

「呼び出す」

「待ってください」


 立ち上がりかけたカイゼルの袖へ、リリアーナは手を伸ばした。


 指先が黒い布へ触れる。


 カイゼルが動きを止めた。


「もう、お話は終わりました」

「研究棟へ押しかけた」

「そのことは、エレナ博士が十分に叱っていました」

「足りない」

「研究時間を奪った補償を請求したいとおっしゃっていました」

「送らせろ」


 あまりにも真剣な答えに、リリアーナは小さく笑った。


「カイゼル」

「何だ」

「私は、自分で答えられました」

「ああ」

「私の称号と研究の価値は別だと。皇后候補と研究協力員のどちらが大切なのではなく、今の仕事と、まだ選べない未来は比べられないと」

「ああ」


 カイゼルは、彼女の言葉を遮らずに聞いている。


「伯爵は、貴族院で身分の話を保留にすると約束してくださいました。最低限の滞在資格については、後日文書を送ってくださるそうです」

「ああ」

「怒っていますか」

「怒っている」

「私が、勝手に話を進めたから?」

「違う」


 カイゼルは、迷いなく否定した。


「君の仕事場へ、政治を持ち込んだことにだ」

「エレナ博士と同じことをおっしゃいますね」

「あの女が正しい」


 リリアーナは、黒い袖へ触れていた指を離そうとした。


 だが、カイゼルの手が動き、彼女の指先を包む。


「怖かったか」

「はい」

「私を呼んでもよかった」

「呼んでほしいと思いました」


 リリアーナは、正直に答えた。


「でも、自分で答えたいとも思いました」

「ああ」

「カイゼルが来れば、伯爵はすぐに黙ったでしょう。でも、それでは私の言葉が届いたか分かりません」

「ああ」

「今日は、私の言葉で答えられました」


 カイゼルの手へ、僅かに力が入る。


「よくやった」


 大げさな称賛ではない。


 けれど、その一言が胸へ深く染みた。


「……はい」

「ただし、次に同じことがあれば知らせろ」

「はい」

「自分で答えることと、一人で抱えることは違う」

「分かりました」

「本当に?」

「まだ少し、自信はありません」

「なら、覚えておけ」

「はい」


 リリアーナは、繋がれた手を見つめた。


 自分で立つことは、一人になることではない。


 助けを求めても、自分の言葉が失われるわけではないのだ。


「今日は、私から会いに来ました」

「ああ」

「来てもよかったでしょうか」

「いつでも来い」

「公務中でも?」

「緊急なら」

「緊急ではない時は?」

「先に知らせろ」

「現実的ですね」

「皇帝だからな」


 リリアーナは小さく笑った。


「でも、会いたいと思った時に、私から来てもよいのですね」

「ああ」

「それなら、また来ます」

「ああ」


 カイゼルは、彼女の手を離さなかった。


「今日、研究は進んだか」

「はい。青鉱粉という防腐剤の成分が、菌と反応している可能性が分かりました」

「ああ」

「次回から四つの条件に分けて苗を育てます。正常な土、菌だけを加えた土、青鉱粉だけを加えた土、それから両方を加えた土です」

「ああ」

「位置による温度差が出ないよう、鉢を入れ替えることにもなりました」

「楽しそうだな」

「楽しかったです。伯爵が来るまでは」

「次は来させない」

「正式な申請をして、研究時間外ならよいと思います」

「甘いな」

「境界線を守ってくださるなら、お話はできます」

「ああ」


 リリアーナは、持ってきた作業用上衣を広げた。


「今日も、私の名前で記録を書きました」

「ああ」

「伯爵の前でも、リリアーナ協力員だと名乗りました」

「ああ」


 カイゼルは、銀糸で縫われた名前へ視線を落とした。


「似合っている」

「本当ですか」

「ああ」

「前回は、何も言ってくださいませんでした」

「聞かれなかった」

「では、これからは聞かなくても言ってください」

「努力する」

「約束ですか」

「ああ」


 リリアーナは、嬉しそうに笑った。


 誰かの婚約者としてではなく。

 誰かに選ばれた聖女としてでもなく。


 今日、彼女は自分の名前で仕事をし、自分の名前で貴族へ答えた。


 そして、自分の意思でカイゼルのもとへ来た。


 リリアーナは、繋がれた手へそっと指を重ねた。


 自分で立つことも、誰かの手を取ることも、どちらも自分で選んでよいのだと、少しずつ信じられるようになっていた。


 その夜、リリアーナの部屋へ王国から新たな封書が届いた。


 差出人は、父ギルベルト・エルフェルト。


 表には、公的な報告ではなく、個人的な願いであると記されている。


 リリアーナは、その場では封を開かなかった。けれど、以前のように棚の奥へしまうこともしなかった。


 机の上へ置き、しばらく見つめる。


 明日、読む。


 そう決めて、リリアーナは日記帳へ今日の出来事を書き始めた。


『今日は、私の名前で立つことができた』


 その下へ、もう一文を加える。


『そして、会いたいと思った人のもとへ、私から会いに行った』


 インクが乾く頃、窓の外では星花が静かに光り始めていた。

お読みいただきありがとうございます。

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毎日19時半ごろ更新予定です。

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