第54話 星ではなく、研究協力員として
皇立植物園から届いた封書には、リリアーナが提示したすべての条件を受け入れると記されていた。
『期間 三か月』
『参加日 週二日』
『時間 午前のみ』
『星霜の加護の使用を研究義務に含めない』
『体調に応じて休止、中断を認める』
『研究上の最終責任は、植物園管理責任者および担当研究員が負う』
その下には、エレナ・フォルスターの署名と植物園の印章がある。最後には、少し小さな文字で一文が付け加えられていた。
『なお、条件を変更したくなった場合は、いつでも相談されたし』
リリアーナは、その一文を何度も読んだ。
一度決めた条件を、途中で変えてもいい。契約したのだから最後まで耐えなければならない、とは書かれていない。
「よろしかったですね、お嬢様」
「ええ」
クララへ返事をしながら、リリアーナは封書を丁寧に机へ置いた。
今日は、研究協力員として植物園へ向かう最初の日だった。
見学でも、客人として招かれるのでもない。自分で選び、自分で条件を決めた仕事の始まりだ。
「緊張なさっていますか」
「とても」
「楽しみでも?」
「それも、とても」
クララは微笑み、用意していたドレスを広げた。
深い緑ではなく、柔らかな灰青色。袖は作業を邪魔しないよう細く仕立てられ、裾も地面へ引きずらない長さになっている。胸元には宝石ではなく、小さな銀の星が一つだけ留められていた。
「植物園の方から、作業用の上衣もご用意いただいているそうです」
「私にも?」
「はい。ほかの研究協力員と同じものだと伺っております」
「同じもの……」
特別な聖女の衣装ではない。皇帝の客人として飾られる服でもない。
植物園で働く者たちと同じ上衣。
それが、何より嬉しかった。
支度を終えたリリアーナは、鏡の前で一度深く息を吸った。
「行ってまいります」
「私もご一緒いたします」
「そうでした」
クララが少しだけ頬を膨らませる。
「お嬢様をお一人で送り出すわけがございません」
「ごめんなさい。緊張していたみたい」
「存じております」
二人が笑い合ったところで、扉が叩かれた。
「カイゼルだ」
いつもの声が聞こえ、リリアーナは銀色の鍵を手に取った。自分で扉を開くと、黒い正装に皇帝の紋章を身につけたカイゼルが立っている。
「おはようございます」
「ああ」
「今日は、ご一緒ではないのですね」
「行きたいのか」
「……少しだけ」
「午後まで朝議がある」
「分かっています」
残念に思う気持ちはある。けれど、それを理由に彼の予定を変えてほしいとは思わなかった。
今日は、自分の仕事へ向かう日なのだから。
「一人で行けるか」
「クララとオルガ、護衛の方々も一緒です」
「そういう意味ではない」
「はい」
リリアーナは少し考えた。
「緊張しています。でも、行けます」
「ああ」
「帰ったら、お話を聞いてくださいますか」
「聞く」
「長くなるかもしれません」
「構わない」
「土の話ばかりになるかもしれません」
「覚悟しておく」
カイゼルの真顔に、リリアーナは笑った。
「では、行ってまいります」
「ああ。行ってこい」
命じられたからではない。
帰る場所を残したまま、自分の行きたい場所へ送り出してくれる言葉だった。
植物園へ到着すると、エレナが正門ではなく研究棟の入口で待っていた。
今日は一般の来園者としてではなく、研究協力員として中へ入るためだ。
「おはようございます、リリアーナ様」
「おはようございます。今日から、よろしくお願いいたします」
「こちらこそ。ただし、一つだけ訂正を」
エレナが、手にしていた包みを差し出した。
「研究棟の中では、皆と同じくリリアーナ協力員とお呼びします」
「リリアーナ協力員」
「お嫌ですか」
「いいえ」
胸の奥が、嬉しさで小さく震える。
「そのように呼んでください」
「では、改めて。ようこそ、リリアーナ協力員」
包みの中に入っていたのは、深緑色の作業用上衣だった。左胸には植物園の紋章があり、その下には銀糸で名前が縫われている。
『リリアーナ』
家名も、星霜の乙女という呼び名もない。
ただ、名前だけ。
「研究員の方々も、名前だけなのですか」
「はい。植物は、爵位を見て育ちませんので」
エレナらしい言葉だった。
リリアーナはクララに手伝ってもらい、ドレスの上から作業用上衣を羽織った。袖口を整え、胸元の名前へ指で触れる。
「似合いますか」
「とても」
クララが目元を潤ませながら答えた。
「泣くほど?」
「少しだけです」
「まだ何もしていないわ」
「始められたことが嬉しいのです」
リリアーナも、少しだけ目が熱くなった。
研究棟の扉が開かれる。
中には、十人ほどの研究員が集まっていた。年齢も身分もさまざまだ。白髪の老人、若い女性、眼鏡をかけた青年、土のついた作業着の男性もいる。
全員が、リリアーナへ視線を向けた。
緊張、好奇心、敬意。それから、僅かな警戒。
「紹介します」
エレナが全員の前へ立つ。
「本日から三か月間、週二日の午前中に研究へ参加される、リリアーナ協力員です。主に記録整理と比較調査へ参加していただきます。加護の使用は研究内容に含まれません。最終的な判断と責任は、私と各担当研究員が負います」
王国の公爵令嬢。
星霜の加護持ち。
皇帝の保護を受ける女性。
そのどれも、エレナは口にしなかった。
「リリアーナです」
自分から名乗る。
「植物学については、まだ学び始めたばかりです。分からないことも多くあります。どうぞ、よろしくお願いいたします」
完璧な挨拶ではない。
自分の未熟さを、最初から口にした。けれど、誰も失望した顔をしなかった。
最前列にいた若い女性が、先に頭を下げる。
「薬草区画を担当しております、ノーラ・ベルです。よろしくお願いいたします」
「よろしくお願いいたします、ノーラ様」
「研究棟では、ノーラで構いません」
「では、私もリリアーナと」
「はい」
その後、ほかの研究員たちも一人ずつ名乗った。
爵位を持つ者も、平民出身の者もいる。けれど、この場所では全員が名前で呼ばれていた。
リリアーナは、一度で覚えようとして、はっとする。
全員の名をすぐに記憶しなければ。
間違えてはならない。
いつもの癖が出ている。
「申し訳ありません。一度では、覚えきれないかもしれません」
「私も初日に全員の名前を間違えました」
ノーラが答えた。
「ノーラは三日目まで、私を庭師長と呼んでいました」
眼鏡をかけた青年が言う。
「だって、いつも土まみれだったでしょう」
「今もだ」
「では、違いませんね」
研究棟に笑いが起こった。
リリアーナも肩の力を抜き、笑うことができた。
初日の仕事は、前回見つかった腐葉土の使用記録を整理することだった。
机の上には、輸送記録、保管記録、使用区画の一覧、植物の生育報告が並べられている。
「昨日までに、同じ腐葉土を使用した区画をすべて洗い出しました」
エレナが資料を指し示す。
「薬草区画と果樹区画だけではなかったのですか」
「温室の苗床にも少量使われています。ただし、すべてに異常が出ているわけではありません」
「使用量の違いでしょうか」
「それも考えられます」
リリアーナは椅子へ座り、記録を開いた。
腐葉土は、皇国南部の商会から購入されたものだった。複数回に分けて輸送され、植物園へ届いた後は三つの倉庫へ分散して保管されている。
異常が出た区画。
異常が出なかった区画。
使用時期。
保管倉庫。
一つずつ、別の紙へ書き写していく。
すぐに答えを出そうとせず、まず違いを並べる。
「リリアーナ」
ノーラが、隣から声をかけた。
「こちらの一覧を見ていただけますか」
「はい」
差し出されたのは、果樹区画の生育記録だった。
「薬草区画とは、葉の変色時期が違うのです」
「果樹区画の方が早いですね」
「はい。腐葉土を使った時期は、薬草区画の方が先なのですが」
「根が深いからでしょうか」
「それも考えたのですが、確信がなくて」
「私も、今は分かりません」
口にしてから、自分が自然に分からないと言えたことへ気づく。
ノーラは失望せず、むしろ頷いた。
「では、一緒に考えていただけますか」
「はい」
二人で記録を見比べる。
果樹区画で使われた腐葉土は、第二倉庫。薬草区画も、第二倉庫。異常の出ていない温室苗床では、第一倉庫のものが使われている。
「倉庫が違います」
「第二倉庫のものだけ?」
「今の記録では、そう見えます。でも、第三倉庫の腐葉土を使った区画が少なすぎます」
「判断するには足りませんね」
「はい」
ノーラは、すぐに結論を出さなかった。
リリアーナは、そのことに安心する。
「第二倉庫で何かが起きたのでしょうか」
「保管中の湿気か、床から混ざったものか」
「倉庫そのものの記録はありますか」
「修繕記録なら、施設管理部に」
「見せていただけますか」
「取り寄せます」
ノーラが席を立つ。
リリアーナは資料へ視線を戻し、腐葉土の搬入日を確認した。
第二倉庫へ保管された日は、雨が続いている。だが、屋根の修繕記録を見なければ、雨漏りがあったかは分からない。
その時、別の研究員が透明な硝子容器を持って近づいてきた。
「土壌から採取した菌の培養結果が出ました」
白髪の男性研究員が言う。
「菌?」
「腐葉土に混ざっていた可能性のあるものです。通常の腐敗菌もありますが、一種類だけ見慣れないものが増えています」
硝子容器の中には、灰色がかった白い斑点が広がっていた。
リリアーナは、顔を近づけすぎないよう距離を保ちながら観察する。
「これは、植物を枯らす菌なのですか」
「分かりません」
男性研究員はあっさり答えた。
「これから調べます」
「私には、何を見ればよいでしょう」
「まずは何も。見たままを覚えておいてください」
何かを答えることを求められているわけではない。
リリアーナは、硝子越しの斑点をじっと見た。
中心は灰色で、外側は白い。端の一部だけが、薄い青色を帯びている。
「青い部分は、光の加減ですか」
「どこです?」
「こちらです」
研究員が容器の向きを変える。
「本当だ」
「見落としていましたか」
「ええ。ごく僅かです」
男性研究員はすぐに帳面へ記録した。
「別の培地でも同じ色が出るか、試してみます」
「これが原因でしょうか」
「まだ分かりません」
「そうですよね」
リリアーナは、少し笑った。
分からないことが増えた。
以前なら不安になっただろう。今は、次に何を調べるのかが生まれたことを、面白いと思える。
そこへ、施設管理部から倉庫の修繕記録が届いた。
「第二倉庫は、腐葉土の搬入前月に床板を張り替えています」
ノーラが記録を読み上げる。
「床板は、南部産の黒樫。防腐処理済み、とあります」
「防腐処理には、何を使っていますか」
リリアーナが尋ねる。
「ここには薬剤名がありません」
「業者の記録が必要ですね」
「取り寄せましょう」
エレナが全体を見渡し、手を叩いた。
「今日は、ここまでにします」
「まだ時間は」
リリアーナが壁の時計を見る。
「終業まで半刻あります」
「予定時間の半刻前に片づけを始めるのも仕事です」
「片づけに半刻も?」
「資料を戻し、記録を整理し、次回やることを共有します。机に広げたまま帰れば、明日の研究員が困るでしょう」
「確かに」
終わりの時間まで調べ続けることだけが仕事ではない。
次へ繋げるために、止めることも仕事なのだ。
リリアーナは、今日確認した内容を一枚の紙へまとめた。
『異常の出た区画は、第二倉庫で保管された腐葉土を使用している可能性が高い』
『第二倉庫は、搬入前月に床板を交換している』
『土壌培養から、灰白色、一部青色の菌を確認』
『次回、床板の防腐薬剤と菌の関係を調べる』
最後に、日付と名前を記す。
『研究協力員 リリアーナ』
その文字を見た瞬間、胸の奥が静かに満たされた。
「いかがですか、初日は」
エレナが尋ねた。
「楽しかったです」
「疲れは」
「少しあります」
「では、ちょうどよいところで終われましたね」
「はい」
まだ続けたい。
けれど、嫌になるほど疲れてはいない。
次に来ることが楽しみなまま終えられたことが、リリアーナには嬉しかった。
研究棟を出ようとしたところで、正面の廊下から女官らしい女性が近づいてきた。
植物園の職員ではない。皇城の紋章をつけた、正式な使者だった。
「リリアーナ様」
女性は深く礼を取る。
「皇城貴族院より、書状をお預かりしております」
「私へ?」
「はい」
差し出された封書には、皇国貴族院の印章が押されていた。
エレナが僅かに眉をひそめる。
「この場所へ届ける必要がありましたか」
「本日中にお渡しするよう申しつけられております」
「誰の指示です」
「貴族院議長代理でございます」
リリアーナは封書を受け取った。
表面には、丁寧な文字でこう記されている。
『リリアーナ・エルフェルト嬢の皇国における正式な御身分について』
胸の奥に、先ほどまでとは違う緊張が生まれた。
正式な身分。
呼び名。
皇帝のそばにいる女性を、いつまでもただの客人として扱うわけにはいかない。貴族たちが、そう考え始めたのだろう。
「今、開ける必要はありません」
エレナが言う。
「研究時間は終わりました。これは植物園の仕事ではありません」
「はい」
リリアーナは、封書を鞄へ入れた。
仕事場へ、皇城の役目を持ち込まない。
それも、境界線の一つなのかもしれない。
帰りの馬車へ乗ると、リリアーナは作業用上衣を膝の上へ畳んだ。
胸元には『リリアーナ』と縫われている。その上に、貴族院から届いた封書を置いた。
二つは、あまりにも異なるものに見えた。
一方は、自分で選んだ仕事。
もう一方は、皇国が与えようとしている立場。
「お読みになりますか」
クララが尋ねる。
「皇城へ戻ってからにします」
「陛下と?」
「はい」
すぐに開かなければならないとは思わなかった。
午前中は、研究協力員として過ごした。その時間を、貴族院の思惑で塗りつぶしたくはない。
「今日のお仕事は、いかがでしたか」
「楽しかったわ。分からないことばかりでした」
「それは、よろしかったのですか?」
「ええ。次に調べたいことが、たくさんできたから」
リリアーナは、作業用上衣の名前を撫でた。
「研究棟では、誰も私を星霜の乙女と呼びませんでした」
「はい」
「公爵令嬢とも、陛下の客人とも」
「はい」
「リリアーナ協力員、と呼ばれました」
口にするだけで、嬉しさが戻ってくる。
「私、あの場所が好きです」
「きっと、皆様もお嬢様をお待ちになります」
「次も、行きたいです」
「はい」
皇城へ戻ると、カイゼルがリリアーナの部屋の前で待っていた。
朝議を終えたばかりなのか、まだ正装のままだ。彼はリリアーナの姿を見つけると、静かにこちらへ歩いてくる。
「お帰り」
その言葉に、リリアーナは足を止めた。
「ただいま、戻りました」
自然に返事が出る。
皇城へ戻った。
自分の部屋へ帰った。
扉の前では、カイゼルが待っていた。
そのことが、胸の奥を温かくした。
リリアーナは自分で鍵を開ける。
「どうぞ、お入りください」
「ああ」
カイゼルを招き入れた後、リリアーナは作業用上衣と貴族院から届いた封書を机の上へ置いた。
「初日はどうだった」
「お話ししたいことが、たくさんあります」
「聞く」
「その前に、こちらを」
リリアーナは、貴族院から届いた封書を差し出した。
カイゼルは表書きを確認し、僅かに眉を寄せる。
「議長代理か」
「私の正式な身分について、と書かれています」
「ああ」
「ご存じでしたか」
「議題に上げたいという話は聞いていた。まだ早いと止めた」
「止めたのに、私へ直接?」
「ああ」
カイゼルの声が低くなる。
怒っている。
けれど、リリアーナの代わりに封書を破ろうとはしなかった。
「どうする」
「読みます」
リリアーナは椅子へ座り、自分で封を切った。
書状は丁寧だった。
皇国へ長期滞在する以上、国際的、政治的な立場を明らかにする必要があること。
皇帝と親しい女性として、宮廷内外でさまざまな憶測が広がっていること。
皇后候補、皇帝婚約者、皇国公爵位の授与、特別顧問など、複数の案が議論されていること。
リリアーナ本人の希望を確認するため、貴族院との面談を求めること。
最後まで読み終え、リリアーナは書状を机へ置いた。
「皇后候補」
その言葉を口にすると、胸が大きく揺れた。
嫌ではない。
それが、何より戸惑う。
けれど、今日すぐに選べる言葉でもなかった。
「どう思う」
カイゼルが尋ねる。
「分かりません」
「ああ」
「皇国で暮らすなら、何らかの身分が必要だということは理解できます」
「ああ」
「でも、今日の私は研究協力員でした」
リリアーナは、机の上の作業用上衣を見た。
「初めて、自分で選んだ仕事へ行きました。分からないことを皆様と調べて、自分の名前で記録を書きました」
「ああ」
「その日に、未来の皇后かもしれないと言われると……自分がまた、役目に覆われてしまうようで怖いです」
皇后という言葉が嫌なのではない。
カイゼルのそばにいる未来を、拒みたいわけでもない。
ただ、それが先に決められれば、またリリアーナ本人より役名の方が大きくなる。
「なら、今は選ぶな」
「よいのですか」
「ああ」
「貴族院は、急ぐべきだと」
「待たせる」
「でも、皇帝陛下のお立場が」
「私の立場は私が守る」
カイゼルは、まっすぐにリリアーナを見る。
「君は、自分を守れ」
その言葉に、リリアーナはしばらく何も答えられなかった。
王太子妃候補だった頃、アルヴィスの立場を守ることは自分の役目だった。王家の体面を守ることも、公爵家の利益を守ることも。
自分を守れと言われたことはなかった。
「面談を断っても?」
「ああ」
「延期でも?」
「ああ」
「私が話したいと思った時まで?」
「ああ」
リリアーナは、貴族院の書状を見つめた。
「では、今は返事を保留します」
「そうしろ」
「正式な身分について考える前に、三か月の仕事を続けたいです」
「ああ」
「その間に、皇国のことも、カイゼルのことも、もっと知りたいです」
口にした瞬間、自分の言葉に頬が熱くなる。
カイゼルの目が、僅かに見開かれた。
「私を?」
「はい」
リリアーナは、逃げずに頷いた。
「皇后という役目を先に考えるのではなく、カイゼルのそばにいたいのかを、自分で確かめたいです」
「ああ」
「今でも、そばにいたいとは思っています」
「ああ」
「でも、もっと知りたいです」
「ああ」
カイゼルは、いつものように短く答えた。
けれど、膝の上に置かれた手へ、僅かに力が入っている。
「待てますか」
「待つ」
「三か月以上かかるかもしれません」
「待つ」
「私が、皇后にはなれないと答えるかもしれません」
「それでも待つ」
迷いのない答えだった。
リリアーナの胸が熱くなる。
「ありがとうございます」
「ああ」
カイゼルは、貴族院の書状へ視線を向けた。
「返事は私から伝える」
「いいえ」
リリアーナは首を横へ振った。
「私へ届いた書状です。私が返事を書きます」
「書けるか」
「はい」
便箋を取り出し、羽根ペンを握る。
『皇国貴族院議長代理殿』
『正式な御身分についてのご提案を拝読いたしました』
『皇国で生活するにあたり、身分を明らかにする必要性があることは理解しております』
『しかし、現時点で皇后候補、皇帝婚約者、その他の称号を受ける意思はございません』
『本日より、私は皇立植物園の研究協力員として、三か月の活動を開始いたしました』
『まずは一人のリリアーナとして、この国を知り、自分が何を望むのかを考えたいと思います』
『面談については、私自身が必要と判断した時に、改めてお願い申し上げます』
『リリアーナ・エルフェルト』
書き終えた後、リリアーナはカイゼルへ見せた。
「いかがでしょう」
「君の言葉だ」
「はい」
「送れ」
「そうします」
返書を封じ、女官へ預ける。
役目を拒絶したのではない。
未来を閉ざしたのでもない。
今は選ばないと、自分で決めただけだった。
「それでは、今日のお仕事のお話をしても?」
「ああ」
リリアーナは、作業用上衣を広げる。
「見てください。名前が入っています」
「ああ」
「研究棟では、リリアーナ協力員と呼ばれました」
「そうか」
「それから、土から見慣れない菌が見つかりました。中心が灰色で、外側が白くて、端が少し青いのです」
「ああ」
「第二倉庫へ保管された腐葉土だけに問題があるかもしれません。床板の防腐薬剤も調べることになって」
「楽しそうだな」
「とても」
リリアーナは、次々に話した。
倉庫の記録。
ノーラとの会話。
分からないと言えたこと。
初日の記録へ、自分の名前を書いたこと。
カイゼルは途中で口を挟まず、すべて聞いていた。
話し終えた頃には、窓の外で星花が光り始めていた。
「長くなってしまいました」
「構わない」
「本当に、土の話ばかりでした」
「ああ」
「退屈では?」
「君が楽しそうだった」
それだけでよいと言うような声だった。
リリアーナは、作業用上衣の名前へ触れる。
「今日は、皇后候補ではなく、研究協力員になった日として覚えていたいです」
「ああ」
「でも、いつか皇后という言葉について考える時が来たら、その時は逃げずに考えます」
「ああ」
「カイゼルのことも、もっと知ってから」
「ああ」
リリアーナは、小さく笑った。
「では、まず一つ教えてください」
「何だ」
「初めて馬から落ちたのは、何歳の時ですか」
「……ラウルから聞いたのか」
「まだ年齢は聞いていません」
「知らなくていい」
「もっと知りたいと言ったばかりです」
「ほかのことにしろ」
「では、蜂蜜菓子がお好きかどうか」
「それもラウルか」
「違うのですか」
「悪くはない」
「好きなのですね」
「リリアーナ」
「はい」
困ったように名を呼ばれ、リリアーナは声を立てて笑った。
皇后になるための質問ではない。
皇帝の弱点を探るためでもない。
ただ、カイゼルという人を知りたいから尋ねている。
カイゼルは、諦めたように息を吐いた。
「七歳だ」
「え?」
「馬から落ちた時だ」
「七歳」
「誰にも言うな」
「ラウル様はご存じなのでは」
「あいつは忘れさせる」
「それは難しいと思います」
リリアーナは、また笑った。
仕事を始めた日。
新しい役目を急いで受けないと決めた日。
そして、カイゼルの幼い頃を一つ知った日。
自分で選んだ一日は、誰かに与えられた称号よりも、ずっと鮮やかにリリアーナの胸へ残った。
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