第52話 裁きは、私のためだけではない
翌朝、リリアーナは朝食を終えた後、棚にしまわれていた封書を机の上へ置いた。
王国から届いた公的な報告書。
表書きには、王国神殿および関係者への第一次処分案、と記されている。
封蝋はすでに皇国側で確認され、危険な術式や呪いが仕込まれていないことも調べられていた。だから、開封そのものに危険はない。
それでも、リリアーナの指先は少し冷たかった。
「本当に今日読みますか」
クララが心配そうに尋ねる。
「ええ。昨日、今日読むと決めましたから」
「途中でお辛くなったら、すぐにやめましょう」
「はい」
返事をしてから、リリアーナは扉へ視線を向けた。
約束の時間には、まだ少し早い。
それなのに、すぐ後で扉が叩かれた。
「リリアーナ」
低い声が聞こえる。
「はい。どうぞ」
クララが扉を開ける前に、リリアーナは自分で立ち上がった。
銀色の鍵を手に取り、扉へ向かう。
昨日と同じように、自分で扉を開ける。
そこには、黒い上衣に銀の飾緒を掛けたカイゼルが立っていた。
「早かったですね」
「時間を空けた」
「お忙しいのでは」
「君と約束した」
「……はい」
何度聞いても、その答えはリリアーナの胸を静かに温めた。
カイゼルは部屋へ入り、机の上の封書へ視線を向ける。
「読むか」
「はい」
「読まなくてもいい」
「昨日は読みませんでした。今日は、読みます」
リリアーナは椅子へ腰を下ろした。
向かい側にカイゼル。
少し離れてクララとオルガが控える。
いつでも中断できる距離に、全員がいる。
それだけで、処刑台の上で一人立たされた時とは違うのだと分かる。
リリアーナは封書を開いた。
最初に入っていたのは、国王エルネストの署名が入った短い添え状だった。
『リリアーナ・エルフェルト殿』
『王国神殿、王太子アルヴィス、ミリア・ロゼット、および関係者に関する第一次処分案を送付する』
『これは、あなたに判断を委ねるための文書ではない』
『あなたへ許しを求めるための文書でもない』
『王国が、王国自身の責任として裁きを進めることを報告するものである』
リリアーナは、そこで一度手を止めた。
あなたに判断を委ねるためではない。
その一文に、胸の奥が少しだけ緩む。
「王は、多少学んだようだな」
カイゼルが言う。
「はい」
以前の王国なら、きっとこう言っただろう。
あなたはどうしたいのか。
あなたが許すなら。
あなたが望むなら。
あなたの悲しみを癒やすために。
そうして、結局はリリアーナへ判断を背負わせた。
けれど、この文書は違う。
王国が自分で裁く。
その報告として届いている。
リリアーナは、次の頁を開いた。
最初に記されていたのは、王国神殿への処分案だった。
神官長および上層神官の拘束継続。
星霜の加護を用いた拘束術式、精神干渉、記録改ざん、過去の星霜持ちへの人権侵害について、特別法廷で審理。
神殿財産の一部凍結。
聖女候補制度の即時停止。
地下祭壇、拘束椅子、術具、過去記録の証拠保全。
神殿が管理していた救貧院、孤児院、治療院の運営を、一時的に王国直轄へ移すこと。
リリアーナは、ゆっくりと息を吐いた。
「神殿は、ようやく裁かれるのですね」
「ああ」
「でも、救貧院や治療院まで止めないのは……よかったです」
神殿は許せない。
けれど、そこに頼っていた民まで罰せられるべきではない。
リリアーナがそう言うと、カイゼルは静かに頷いた。
「悪くない判断だ」
「はい」
次の頁には、過去の星霜持ちに関する処置が書かれていた。
セレナ、マリアナ、ルシアの名を、聖女記録ではなく被害者記録として王国正史へ刻むこと。
彼女たちを新たな信仰対象にしないこと。
地下石室を封鎖せず、王国神殿の罪を示す証拠施設として保全すること。
遺族や故郷が判明した場合には、王国の責任において調査と補償を行うこと。
三人の名を見た瞬間、リリアーナは胸元の星飾りへ触れた。
彼女たちの光は、もう還った。
けれど、名前は残る。
聖女としてではない。
王国を支える星としてでもない。
一人の人として。
「よかった」
小さな声だった。
「よかったです」
クララが後ろで目元を押さえている。
リリアーナは、少しだけ目を閉じた。
自分が救ったわけではない。
背負うわけでもない。
それでも、三人の名が歪められずに残るなら、そのことは素直に嬉しいと思えた。
次に記されていたのは、王太子アルヴィスへの処分案だった。
王太子としての全権限停止の継続。
継承権の一時凍結。
貴族院および特別審理会による、王太子位剥奪を含む審議。
不当な断罪、違法な処刑命令、証拠確認義務の放棄について、本人証言を正式記録として保存。
今後、裁定権、軍指揮権、司法関与権を持たせないこと。
必要に応じ、王族籍を残したまま政治権限を完全に剥奪し、王国北部修道領での長期謹慎と公務奉仕を命じること。
文字を追ううちに、リリアーナの胸は重くなった。
アルヴィス。
かつての婚約者。
幼い頃から、未来を共にすると言われ続けた人。
彼の隣に立つために、どれほど多くのものを飲み込んできただろう。
厳しい教育。
失敗を許されない日々。
彼が投げ出した政務。
彼が見ようとしなかった神殿の矛盾。
彼が笑ってミリアの手を取った舞踏会。
そして、処刑台。
紙面にある処分は重い。
だが、足りないと言いたい気持ちも、どこかにはある。
処刑台の恐怖は、権限停止や謹慎だけで消えるものではない。
けれど同時に、彼に死んでほしいとも思えなかった。
「リリアーナ」
カイゼルが名を呼ぶ。
「はい」
「苦しいなら閉じろ」
「……いえ。読みます」
リリアーナは、書類から目を逸らさなかった。
「私は、アルヴィス殿下を許していません」
「ああ」
「でも、私のためだけに処刑されてほしいとは思っていません」
「ああ」
「ただ、二度と誰かを裁く側へ立たないでほしいです」
それが、今の正直な気持ちだった。
アルヴィスが苦しめば、自分が癒やされるわけではない。
彼が罰を受けなければ、王国はまた同じことを繰り返す。
必要なのは、復讐ではない。
責任だった。
次の頁には、ミリア・ロゼットへの処分案が記されていた。
聖女候補資格の永久剥奪。
神殿保護下から王国法務局管理下への移送。
虚偽に近い申告と訂正義務違反に関する審理。
リリアーナ・エルフェルトへの名誉毀損、不当断罪への関与について、公開記録への明記。
ただし、神殿による聖女候補偽装、星霜の加護残滓の投与、精神的誘導を受けていた被害事実も併記すること。
処分としては、一定期間の監督付き生活、被害記録作成への協力、聖女候補制度の実態証言を命じること。
王都での華美な生活、貴族社交への参加は当面禁止。
リリアーナは、その頁を長く見つめた。
ミリア。
可哀想な少女。
偽りの聖女候補。
神殿に利用された者。
そして、自分を悪役にした者。
どの言葉も、間違いではない。
だからこそ、簡単に裁けない。
「甘いと思うか」
カイゼルが尋ねた。
「分かりません」
リリアーナは正直に答えた。
「以前の私なら、甘いと思ったかもしれません。私が受けたものに比べれば、と」
「ああ」
「でも、ミリア様をすべての罪の器にしてしまえば、神殿も王太子殿下も王国も、また責任を逃れてしまう」
「ああ」
「それは違うと思います」
ミリアが悪くないわけではない。
彼女は、訂正できる機会に訂正しなかった。
リリアーナが無実かもしれないと感じながら、自分が選ばれる物語を守るため、悪役を必要とした。
その責任は、消えない。
けれど、ミリアだけを処刑して終わりにすれば、王国はまた分かりやすい悪を作って安心するだけだ。
リリアーナは、そう思った。
「私は、ミリア様を許していません」
「ああ」
「でも、ミリア様だけを罰して終わりにすることも望みません」
「ああ」
「それを、王国へ伝えるべきでしょうか」
「君が伝えたいなら」
「私が伝えたいかどうか……」
リリアーナは、手元の書類を見つめた。
添え状には、判断を委ねるものではないと書かれていた。
つまり、返事をしなくてもいい。
沈黙してもいい。
けれど、王国がまた誰か一人へ罪を押しつけようとするなら、それは違うと伝えたい。
自分のためだけではない。
次に同じことを起こさないために。
「伝えたいです」
言葉にした瞬間、胸の中で形が定まった。
「許すという返事ではありません。処分を軽くしてくださいという嘆願でもありません」
「ああ」
「ただ、私の名を使って、誰か一人へ罪を押しつけないでほしいと伝えたいです」
「ああ」
カイゼルは、机の上に便箋を置いた。
最初から用意していたのだろう。
「書け」
「はい」
リリアーナは羽根ペンを取った。
指先は、もう冷たくなかった。
『グランベルク王国国王陛下へ』
『第一次処分案を拝読いたしました』
『王国が、神殿、王太子殿下、ミリア・ロゼット様、法務機関、王宮それぞれの責任を分けて記録しようとしていることを確認いたしました』
『私は、私に対して行われた断罪と処刑命令を許しておりません』
『アルヴィス殿下を許しておりません』
『ミリア・ロゼット様を許しておりません』
そこまで書いて、リリアーナは一度手を止めた。
書いていいのだろうか。
許していないと、正式な文書に残していいのだろうか。
そんなためらいが胸をよぎる。
だが、カイゼルは何も言わない。
クララも、オルガも黙って見守っている。
許さないことも、リリアーナの言葉だ。
彼女は、続きを書いた。
『ですが、私の名をもって、誰か一人へすべての罪を負わせることは望みません』
『ミリア・ロゼット様には、虚偽に近い申告を行い、訂正する機会を逃し、私を悪役として扱った責任があります』
『同時に、神殿が彼女を偽りの聖女候補として利用した事実も、記録から消してはならないと考えます』
『アルヴィス殿下には、証拠を調べず、私の言葉を聞かず、不当な裁定を下した責任があります』
『同時に、その裁定を止められなかった王宮と法務機関の責任も、消してはならないと考えます』
『神殿には、星霜の加護を王国の所有物として扱い、過去の星霜持ちを傷つけ、記録を改ざんした責任があります』
『その責任を、聖女候補一人の過ちとして薄めないでください』
リリアーナは息を吸う。
これは、誰かを助けるための優しさではない。
裁きから逃がすための言葉でもない。
事実を、また歪めさせないための言葉だ。
『裁きは、私のためだけに行われるものではありません』
『王国が二度と同じ過ちを繰り返さないために、誰が何をしたのかを、正確に記録してください』
『私は、王国へ戻りません』
『私は、誰かを許すためにこの文書を書いているのではありません』
『ただ、私の名を、次の歪んだ裁きの理由にしないでください』
最後に、名を書く。
『リリアーナ・エルフェルト』
書き終えた瞬間、肩の力が抜けた。
カイゼルが文書を手に取り、目を通す。
「君の言葉だ」
「はい」
「これでいい」
「強すぎませんか」
「弱いよりいい」
「王国は、受け入れるでしょうか」
「受け入れさせる」
即答だった。
リリアーナは、思わず小さく笑った。
「皇帝陛下らしいです」
「カイゼルではないのか」
「今は少し、皇帝陛下でした」
「そうか」
「でも、頼もしいです」
カイゼルは僅かに目を伏せた。
「そう思うならいい」
返書は、皇国側の確認を経て王国へ送られることになった。
リリアーナは書類を閉じ、棚へ戻す。
全部を読み終えた。
苦しかった。
胸が重くなる部分もあった。
それでも、読んだことで過去に引き戻されたわけではない。
自分の足で近づき、自分の言葉を残して、また距離を取ることができた。
昼過ぎ、王国側でも同じ処分案が関係者へ通達されていた。
王宮の一室で、アルヴィスは自身への処分案を読んでいた。
継承権の凍結。
王太子位剥奪を含む審議。
裁定権と司法関与権の永久剥奪。
文字は冷たく、正確だった。
怒りは湧かなかった。
むしろ、ようやく当然の場所へ降ろされたのだと思った。
「殿下」
ルーカスが声をかける。
「もう、殿下と呼ばれる資格もないかもしれないな」
「正式な決定までは、そうお呼びします」
「そうか」
アルヴィスは処分案を机に置いた。
「リリアーナは、この文書を読むのだろうか」
「皇国へ写しが送られたと聞いております」
「そうか」
「返答を求めるものではないそうです」
「それでいい」
彼女に、どう思うかなど聞いてはならない。
自分の処分を、彼女に決めさせてはならない。
それは、また彼女へ責任を押しつけることになる。
「私は、処分案に異議を申し立てない」
「よろしいのですか」
「よいわけではない。怖くないわけでもない」
アルヴィスは、自分の手を見る。
この手で、断罪の場を作った。
この手で、処刑命令に署名した。
「だが、私が怖いからといって、罪が軽くなるわけではない」
「はい」
「証言を続ける。神殿が何をしたか。私が何を見なかったか。全部、記録に残す」
「承知いたしました」
ルーカスは深く頭を下げた。
同じ頃、法務局の管理下に移されていたミリアも、自身への処分案を読んでいた。
聖女候補資格の永久剥奪。
貴族社交への参加禁止。
監督付き生活。
被害記録作成への協力。
そこには、神殿によって利用された事実も併記されていた。
ミリアは、その文字を見つめる。
可哀想な被害者。
そう書かれているわけではない。
加害責任と、被害事実。
両方が並んでいる。
「……どちらも、私なのですね」
女性法務官が静かに頷いた。
「そうです」
「私は、リリアーナ様を悪役にしました」
「はい」
「でも、神殿に利用されたことも、本当」
「はい」
「どちらか一つに、逃げられないのですね」
「逃げられません」
ミリアは、膝の上で布袋を握った。
歪んだ花の刺繍が、指先に触れる。
「証言します」
「聖女候補制度についてですか」
「はい。私が何を言われ、何を飲まされ、何を信じたのか。それから、私がどこで気づいていたのに、気づかないふりをしたのかも」
声は震えていた。
けれど、言葉は逃げなかった。
「それが、私の処分の一部なのですね」
「はい」
「……分かりました」
ミリアは目を閉じる。
許されるためではない。
自分を可哀想な子に戻すためでもない。
もう、誰かを悪役にしないために。
自分の嘘を、言葉にしなければならない。
夕方、リリアーナは星花の中庭へ降りた。
今日はクララとオルガが付き添っている。
カイゼルは王国へ送る返書の手配で少し遅れると言っていた。
中庭の花々は、夕暮れの気配に合わせて少しずつ光り始めている。
リリアーナは噴水のそばに立ち、空を見上げた。
「お疲れですか」
クララが尋ねる。
「少し」
「お部屋へ戻りますか」
「もう少しだけ、ここにいたいです」
報告書を読んだ重さは、まだ胸に残っている。
アルヴィスの処分。
ミリアの処分。
神殿の裁き。
三人の星霜持ちの名。
どれも、簡単に流せるものではない。
けれど、押し潰されてはいなかった。
「私は、裁きを望んでいるのでしょうか」
リリアーナは呟いた。
「お嬢様」
「罰を受けてほしいとは思います。でも、誰かが苦しめば私が楽になる、というわけではありません」
「はい」
「それでも、裁かれなければならないことはあるのですね」
クララは、ゆっくり頷いた。
「あると思います」
「私も、そう思います」
裁きは、復讐だけではない。
次に同じ過ちを繰り返さないために、必要な線を引くこと。
誰が何をしたのかを曖昧にしないこと。
そして、被害を受けた者へ、その責任を背負わせないこと。
リリアーナは、今日そのことを知った。
「リリアーナ」
背後から声がした。
振り返ると、カイゼルが中庭へ下りてきていた。
「返書は?」
「送った」
「ありがとうございます」
「ああ」
カイゼルはリリアーナの隣へ立つ。
花の光が、二人の足元を淡く照らしていた。
「苦しかったか」
「はい」
「そうか」
「でも、読んでよかったです」
「ああ」
「自分の言葉を書けたから」
「ああ」
リリアーナは、カイゼルを見る。
「私、許していないと書きました」
「読んだ」
「それでも、誰か一人にすべてを背負わせないでほしいとも書きました」
「ああ」
「矛盾しているでしょうか」
「していない」
「本当に?」
「許さないことと、事実を歪めないことは別だ」
その言葉に、リリアーナはゆっくりと息を吐いた。
「そうですね」
許していない。
でも、歪めたくない。
その両方を持っていていい。
カイゼルが、静かに手を差し出した。
リリアーナは少しだけ迷い、それから自分の手を重ねた。
握りしめるでもなく、縋るでもなく。
ただ、隣にいることを確かめるように。
「明日は、植物園の日程を決めます」
「ああ」
「王国の報告書を読んだからといって、私の毎日を全部王国へ戻す必要はありませんものね」
「ああ」
「私は、皇国の植物園へ行きたいです」
「行けばいい」
「カイゼルも一緒に」
「ああ」
星花が、静かに光を増していく。
王国では、裁きが始まる。
皇国では、リリアーナの新しい日々が続いていく。
その二つは、同時に存在していい。
過去を見ないふりはしない。
けれど、過去だけを見つめて生きるのでもない。
リリアーナは、カイゼルの手の温もりを感じながら、中庭に咲く星花を見つめた。
裁きは、私のためだけではない。
そして、私の未来を止めるためのものでもない。
そのことを、ようやく少しだけ信じられる気がした。
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