第51話 加護ではなく、私の言葉で
翌朝、リリアーナはいつもより少し早く目を覚ました。
星花の中庭にはまだ薄い朝靄が残っている。夜の間に光っていた花々は静かに花弁を閉じ、噴水の水音だけが部屋へ届いていた。
今日は、皇立植物園の管理責任者であるエレナ・フォルスター博士と会う日だ。
薬草記録について話したい。
女官長からそう聞いた時、リリアーナは確かに嬉しいと思った。けれど、朝になってみると緊張の方が少し大きい。
星霜の加護ではなく、薬草記録について。
そう言われている。
それでも、相手が自分に何を期待しているのかは分からない。
「お嬢様、お目覚めですか」
クララが控えの間から入ってくる。
「ええ。少し早く起きてしまったわ」
「本日のご面会が気になりますか?」
「……ええ」
リリアーナは素直に頷いた。
「楽しみです。でも、少し怖いの」
「怖い?」
「私の考えに興味があると言われるのは、慣れていないから」
王国では、彼女の知識は便利な道具だった。
王太子の代わりに資料を読ませるため。
神殿の矛盾を黙って整えさせるため。
未来の王妃として、正しく役目を果たさせるため。
リリアーナ自身が何を面白いと思ったか、何を知りたいと感じたかを尋ねられることは、ほとんどなかった。
「今日は、間違えないように話す日ではないのよね」
「はい」
「でも、間違えたらどうしようと思ってしまう」
「博士なら、きっと議論として受け取ってくださいます」
「そうだといいわ」
リリアーナは、窓辺の机に置いた銀色の鍵へ視線を向けた。
自分で選んだ部屋の鍵。
誰を入れるか、何を受け取るか、自分で決めてよいという証。
今日の面会も、無理なら断ってよかった。
それでも、会ってみたいと思ったのは自分だ。
「今日のドレスは、動きやすいものにします」
「植物園へ行かれるかもしれませんものね」
「ええ。まだ分からないけれど、庭や温室を見るなら歩きやすい方がいいわ」
クララは嬉しそうに頷き、生成り色に淡い緑の刺繍が入ったドレスを用意した。
花を咲かせるための装いではない。
花を見るための装いだった。
エレナ・フォルスター博士は、皇城東翼の小さな応接室へ、時間ぴったりに現れた。
四十代半ばほどの女性だった。深緑の上衣に白いシャツを合わせ、髪は後ろで簡潔にまとめている。華美な宝石は身につけていないが、胸元には植物園の紋章を象った銀のブローチが光っていた。
「リリアーナ様。お時間をいただき、ありがとうございます」
エレナは深すぎない礼を取った。
「こちらこそ、お越しくださりありがとうございます」
「本来であれば私から植物園へご案内したいところでしたが、まずはご負担の少ない場所でと、陛下と女官長から念を押されております」
「陛下が」
「はい。半刻を超えないこと。加護の使用を求めないこと。体調に変化があれば即座に中断すること。三度ほど確認されました」
リリアーナは、少しだけ頬を緩めた。
「カイゼルらしいです」
言ってから、人前であることを思い出して口を押さえる。
エレナは表情を変えず、ただ穏やかに目を細めた。
「陛下のお名前でお呼びになれるほど、安心してお過ごしなら何よりです」
「申し訳ありません。皇帝陛下とお呼びすべき場でした」
「私の前では、どうぞ呼びやすいように。私は植物の名を間違えられる方が気になります」
思いがけない返答に、リリアーナは小さく笑った。
応接机の上には、昨日の薬草記録の写しと、南側区画の土壌記録が用意されていた。
「早速で恐縮ですが、昨日リリアーナ様がご覧になった記録についてお話ししても?」
「はい」
「南側区画の薬効低下について、排水だけではなく土に原因があるのではとお考えになったと伺いました」
「記録を見る限りでは、そう感じました。長雨の年に薬効が落ちるのは分かります。けれど翌年も戻っていないなら、単に雨量だけでは説明できません。排水路の補修が遅れたことで土に余分な水分が残り、根腐れまではいかなくても、土の性質が変わったのではないかと」
「なるほど」
エレナは、懐から細い鉛筆を取り出し、資料の端へ短く印を入れた。
「ほかには?」
「周囲に植えられている植物の記録も気になります。薬草自体ではなく、隣接する植物が土の養分を変えた可能性もあるかもしれません」
「面白い」
「面白い、でしょうか」
「ええ。とても」
エレナは迷いなく頷いた。
「実は私たちも、南側区画の土壌については再調査が必要だと考えていました。ただ、排水路と雨量の問題で結論を出しかけていた。そこに翌年の影響まで見てくださったのは助かります」
「助かる……」
その言葉に、リリアーナの胸が僅かに強張る。
助かる。
役に立つ。
必要とされる。
その響きは嬉しいはずなのに、同時に古い痛みも連れてくる。
もっとしなければ。
期待に応えなければ。
役に立たなければ、ここにいてはいけない。
そんな声が、心の奥で小さく動いた。
リリアーナは、膝の上で指を握る。
その様子に気づいたのか、エレナは鉛筆を置いた。
「リリアーナ様」
「はい」
「今の『助かる』は、あなたに責任を渡す言葉ではありません」
リリアーナは顔を上げた。
「私は植物園の管理責任者です。調査の責任は私にあります。あなたのご意見は、私たちが見落としていたかもしれない視点としてありがたい、という意味です」
「私が、解決しなければならないわけではない」
「当然です」
エレナは少しだけ眉を上げた。
「むしろ、今日すべて解決されたら私たちの立場がありません」
クララが小さく息を漏らした。
リリアーナも、緊張が少し抜ける。
「では、私は意見を言うだけでよいのですね」
「はい。もちろん、言いたくないことは言わなくて構いません。分からないことは、分からないと言っていただければ」
「分からない、と言ってもよいのですか」
「学問の半分は、それを言うところから始まります」
リリアーナは、静かにその言葉を受け止めた。
分からないと言っていい。
まだ調べたいと言っていい。
結論を急がなくていい。
王国で教えられた正しさとは、少し違う。
「では、分からないことがあります」
「どうぞ」
「この記録では、土壌の色や水はけについては書かれていますが、匂いの記録がありません。湿った土の匂いが変わることはありますか」
エレナの目が、明らかに輝いた。
「あります」
「やはり」
「腐敗が進むと、土は酸っぱい匂いを帯びることがあります。鉱物の多い土地では鉄の匂いが強くなることもある。ですが、記録項目には入れていませんでした」
「匂いは主観的だからでしょうか」
「その通りです。記録者によって差が出る」
「でも、変化を見る手がかりにはなるかもしれません」
「ええ。補助項目としてなら使える」
エレナは、今度は資料ではなく自分の手帳へ書き込んだ。
「リリアーナ様。あなたは、植物がお好きですか」
「好きだと思います」
「思います?」
「まだ、決めたばかりなので」
「では、決めたての好きなのですね」
「はい」
リリアーナは少し照れながら頷いた。
「調べることも、好きなのかもしれません」
「それはよいことです。好きは長持ちします。義務だけでは、研究は続きません」
義務だけでは続かない。
その言葉は、リリアーナの胸へ深く落ちた。
半刻の面会は、あっという間に過ぎた。
エレナは時間をきっちり守り、話し足りない様子を見せながらも書類を閉じた。
「本日はここまでにいたしましょう」
「もうですか」
「陛下との約束ですので」
「……そうでした」
「続きが気になるくらいで止める方が、次が楽しみになります」
エレナは立ち上がる。
「もしリリアーナ様が望まれるなら、後日、皇立植物園へご案内いたします。研究棟と温室、それから薬草試験区画もお見せできます」
「行きたいです」
答えは自然に出た。
「ぜひ、行ってみたいです」
「では、女官長とオルガ殿へ日程を相談しておきます。無理のない範囲で」
「お願いします」
エレナは一礼し、扉へ向かう。
そこで一度だけ足を止めた。
「リリアーナ様」
「はい」
「皇国では、あなたの加護だけを必要とする者ばかりではありません。少なくとも私は、あなたの観察と言葉に興味があります」
リリアーナは、すぐには返事ができなかった。
加護ではなく。
身分でもなく。
役目でもなく。
観察と言葉。
自分の目で見て、自分の頭で考えたこと。
「ありがとうございます」
ようやく返した声は、少し震えていた。
エレナはそれ以上何も言わず、静かに応接室を出ていった。
扉が閉まった後、クララがそっと口を開く。
「素敵な方でしたね」
「ええ」
「お嬢様、とても楽しそうでした」
「楽しかったわ」
リリアーナは資料の写しを見つめる。
「でも、途中で少し怖くなりました。助かると言われて、役に立たなければと思ってしまって」
「今は、そう思わなくてよいのですよね」
「ええ。エレナ博士が、責任は自分にあると言ってくださいました」
言葉にして、少し安心する。
「私は、意見を言ってよい。でも、背負わなくていい」
「はい」
「そういう関わり方も、あるのね」
リリアーナは、窓の外を見る。
星花の中庭は朝の光に包まれている。昨夜のように光ってはいないが、そこに花があることは変わらなかった。
昼食の後、リリアーナは長椅子で休むよう言われた。
身体は疲れすぎてはいなかったが、頭の中にはエレナとの会話が残っている。
土の匂い。
薬効の変化。
記録項目。
分からないところから始まる学問。
考えれば考えるほど、また資料を開きたくなる。
だが、今日は午前だけと決めていた。
リリアーナは机へ向かいたい気持ちを抑え、長椅子へ身を預けた。
「我慢ではなく、休む選択です」
オルガが香草茶を置きながら言う。
「顔に出ていましたか」
「はい。かなり」
「続きを読みたいです」
「明日も読めます」
「そうですね」
「今日読み切らなくても、資料は逃げません」
リリアーナは苦笑した。
「同じことを、昨日も思いました」
「なら、覚えている証拠です」
オルガの言い方は淡々としているが、責める響きはない。
リリアーナは茶を一口飲み、目を閉じた。
休むことも、自分で選ぶ。
そう思うと、ただ横になる時間にも意味があるように感じられた。
しばらくして眠りに落ち、目を覚ました頃には、窓の外の光が少し傾いていた。
クララが静かに刺繍をしている。
「どのくらい眠っていましたか」
「一刻ほどです」
「そんなに」
「よくお休みでした」
「少し、頭がすっきりしました」
「よかったです」
起き上がると、机の上に新しい封書が一通置かれていることへ気づいた。
「それは?」
「先ほど、王国からの公的な報告書が届きました。陛下へ先に届けられ、リリアーナ様にも閲覧の許可があるそうです」
「王国から」
リリアーナの胸が、静かに重くなる。
「急いで読む必要はございません」
オルガが言う。
「はい」
王国。
無罪認定が出ても、完全に遠い場所になったわけではない。
そこには父がいる。
アルヴィスがいる。
ミリアがいる。
神殿の罪を調べる人々がいる。
自分が戻らないと決めても、過去の続きはまだ動いている。
「何の報告か、分かりますか」
「封書の表書きには、王国神殿および関係者への第一次処分案、とあります」
リリアーナは、指先が僅かに冷えるのを感じた。
責任が問われる。
ようやく。
それは必要なことだ。
だが、読みたいかと聞かれれば、すぐには頷けなかった。
「今日は、読みません」
リリアーナは言った。
「明日、体調がよければ読みます」
「かしこまりました」
オルガはすぐに封書を手に取り、机の端へ置き直した。
「この部屋の中には置きますが、視界に入りにくい場所へ移しますか」
「お願いします」
封書は棚の中へしまわれた。
鍵をかける必要はない。
それでも、今読まないと決めたことで、胸の重さが少しだけ軽くなる。
王国の処分は重要だ。
だが、自分の一日すべてを奪われる必要はない。
リリアーナは、その感覚を忘れないように息を整えた。
夕方、カイゼルはいつもより少し早く部屋を訪れた。
扉を叩く音がし、女官長が取り次ぐ前に、リリアーナは自分で扉の方へ向かった。
手元には、昨日受け取った銀色の鍵がある。
「どなたですか」
自分でも少し意地悪な問いだと思った。
扉の向こうで、短い沈黙がある。
「カイゼルだ」
その返事に、リリアーナは思わず笑った。
鍵を開け、扉を開く。
「お入りください」
「ああ」
カイゼルは中へ入り、扉が閉まるのを待ってからリリアーナを見た。
「楽しそうだな」
「少し。自分で開けたかったのです」
「そうか」
「昨日いただいた鍵を、使ってみたくて」
「ああ」
カイゼルの目元が僅かに和らぐ。
リリアーナは、その表情を見て胸が温かくなるのを感じた。
「エレナ博士に会ったと聞いた」
「はい。とても楽しかったです」
「怖くはなかったか」
「少し怖かったです。でも、途中で大丈夫になりました」
「何か言われたか」
「私の加護ではなく、観察と言葉に興味があると」
カイゼルは静かに頷いた。
「エレナらしい」
「ご存じなのですか」
「皇立植物園の責任者だ。何度か話したことがある」
「とても率直な方でした」
「ああ。植物以外には遠慮がない」
「植物には遠慮があるのですか」
「ありすぎるくらいだ」
リリアーナは笑った。
カイゼルは棚の方へ視線を向ける。
「王国からの報告書が届いた」
「はい」
「読んだか」
「いいえ」
「そうか」
「今日は読みません。明日、体調がよければ読みます」
「ああ」
「それで、よいでしょうか」
「君が決めたなら、それでいい」
即答だった。
リリアーナは、胸の奥にあった不安がほどけるのを感じる。
「王国のことですから、すぐに確認すべきかと思いました」
「すぐ読む必要はない」
「でも、処分案です」
「君が裁くわけではない」
「……はい」
「読まないことは、逃げではない」
その言葉に、リリアーナの目が僅かに揺れた。
「逃げでは、ない」
「ああ。読む日を選ぶことだ」
リリアーナは、静かに息を吸った。
王国から届いたものを、すぐに受け取らなくてもいい。
過去が手を伸ばしてきても、その日の自分に触れさせるかどうかを選んでいい。
「明日、読めそうなら読みます」
「ああ」
「その時、そばにいてくださいますか」
「ああ」
「お忙しくても?」
「時間を作る」
昨日と同じ言葉。
けれど今日は、その重みを前よりも信じられる。
「ありがとうございます」
「ああ」
カイゼルは窓辺へ歩き、星花の中庭を見下ろした。
夕暮れの庭では、花弁の端が少しずつ光を帯び始めている。
「植物園へ行くそうだな」
「はい。日程はまだですが、エレナ博士が案内してくださるそうです」
「行きたいか」
「行きたいです」
「なら行けばいい」
「はい」
リリアーナは、少し迷ってから続けた。
「カイゼルも、ご一緒に来てくださいますか」
「望むなら」
「望みます」
「ああ」
カイゼルは、当然のように頷いた。
その答えに、リリアーナの胸はまた少し高鳴る。
「私、今日も好きなものが増えました」
「何だ」
「土の記録です」
「地味だな」
「地味ですが、面白いです」
「ほかには」
「分からない、と言ってよいこと」
「ああ」
「責任を背負わずに意見を言ってよいこと」
「ああ」
「自分で、今日は読まないと決められたこと」
カイゼルは、リリアーナを見る。
「それは大事だ」
「はい」
リリアーナは窓の外へ視線を向けた。
「少しずつですが、私の一日が私のものになっている気がします」
「ああ」
「王国にいた頃は、一日がいつも誰かの予定で埋まっていました」
「これからは君が決めればいい」
「全部を自分で決めるのは、まだ難しいです」
「なら、少しずつでいい」
「はい」
星花が、ゆっくりと光り始める。
薄紫の花弁が、夜の気配を吸い込むように淡く輝いた。
リリアーナは、その光を見ながら小さく呟く。
「明日は、王国の報告書を読みます」
「ああ」
「きっと、苦しいと思います」
「ああ」
「でも、読まないままにはしません」
「ああ」
「それから、植物園へ行く日も決めます」
「ああ」
「その時は、そばにいてください」
「いる」
短い返事。
けれど、それだけで十分だった。
その夜、リリアーナは机の引き出しから日記帳を取り出した。
今日の出来事を、ゆっくりと書き留める。
エレナ博士と会ったこと。
土の匂いの話をしたこと。
分からないと言ってもよいと教えられたこと。
王国の報告書を、今日は読まないと自分で決めたこと。
最後に、少し迷ってから一文を足した。
『加護ではなく、私の言葉を聞いてくれる人がいた』
インクが乾くのを待ち、リリアーナは日記帳を閉じる。
銀色の鍵で机の引き出しを閉めた時、胸の奥に静かな確かさが残っていた。
自分の部屋。
自分の鍵。
自分の言葉。
そして、自分で選ぶ明日。
リリアーナは窓辺の星花を見つめながら、明日読むことになる王国の報告書を思った。
苦しいものになるだろう。
けれど、もう処刑台の上のように、一人で立たされるわけではない。
読まない日を選べたからこそ、読む日も自分で選べる。
そう思えたことが、今日一番の変化だった。
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