第50話 呼び名を選ぶ
翌朝、リリアーナの部屋には、皇城での生活に必要な品々が運び込まれていた。
衣装箱は最小限にしてほしいと伝えてあったため、王国の頃のように部屋を埋め尽くすほどのドレスはない。けれど、季節に合った外套や室内着、庭を歩くための靴、書庫で過ごすための軽い羽織など、今のリリアーナに必要なものは丁寧に揃えられていた。
窓辺の机には、銀色の鍵と歪んだ星の刺繍が置かれている。
昨夜見た星花は、朝の光の中では静かに花弁を閉じていた。
「お嬢様、こちらの箱はどちらへ置きましょう」
「刺繍道具なら、窓辺の棚へお願いします」
「はい」
クララが慣れた手つきで荷をほどいていく。
リリアーナも、ただ座って見ているだけではなく、小さな箱を一つ手に取った。中には、国境砦で使っていた便箋と、短い日記を書き始めたばかりの帳面が入っている。
以前なら、こうした私物の配置まで侍女に任せていただろう。
けれど今は、自分で置く場所を決めたいと思った。
「これは、机の引き出しへ」
「日記ですか?」
「ええ。まだ、毎日は書けていないのだけれど」
「皇都に来た記録から始めるのもよいですね」
「そうね」
リリアーナは帳面を引き出しへ入れ、銀色の鍵で机を閉じた。
自分で鍵をかける。
ただそれだけのことに、まだ少し胸が震える。
その時、扉が控えめに叩かれた。
「リリアーナ様。女官長でございます」
「どうぞ」
入ってきた女官長は、昨日と同じ濃紺のドレスに身を包み、銀の鍵束を揺らしていた。
「おはようございます、リリアーナ様」
「おはようございます」
「本日は、皇城内での生活についていくつか確認させていただきたく存じます。ご負担でしたら、別日にいたします」
「大丈夫です。お願いします」
女官長は書類を開いた。
「まず、お呼び名についてでございます」
「呼び名?」
「はい。現在、皇城内ではリリアーナ様をどのような立場としてお迎えするか、正式な称号を設けておりません。陛下からは、本人の意思を確認するようにと申しつけられております」
リリアーナは、少しだけ姿勢を正した。
称号。
立場。
それは、王国で何度も与えられてきたものだった。
公爵令嬢。
王太子妃候補。
未来の王妃。
悪役令嬢。
星霜の乙女。
呼び名は、いつも彼女より先に歩いた。
「候補としては、皇国客人、皇帝陛下保護下の貴賓、東翼賓客、リリアーナ様個人名のみ、などがございます」
「個人名のみ、でもよいのですか」
「陛下は、その選択も認めると」
「では、個人名のみでお願いします」
女官長は、驚いた様子を見せなかった。
「リリアーナ様、でよろしいでしょうか」
「はい。今は、それがよいです」
「かしこまりました。皇城内の女官、侍従、騎士団へ共有いたします」
書類へ記録される。
リリアーナは、それを見つめた。
大げさな称号を拒むことは、失礼だと思っていた。
けれど今は、自分の名前だけで立ちたい。
誰かの役としてではなく。
まず、リリアーナとして。
「次に、日々のご予定についてです」
「予定」
「これまでは国境砦での療養が中心でございましたが、皇都では書庫、庭園、植物園、美術館、礼拝堂、医療棟など、出入り可能な場所が増えます。ご希望がございましたら、女官側で調整いたします」
「毎日の予定を、私が決めてよいのですか」
「はい。もちろん、体調に差し障りのない範囲で」
女官長は、少しだけ表情を和らげた。
「オルガ殿からも、午前と午後に休息を挟むよう申し送りを受けております」
「そこは、やはり決まっているのですね」
「医療上の必要でございます」
「分かりました」
リリアーナは苦笑した。
完全に自由ではない。
けれど、それは縛りではなく身体を守るための決まりだった。
「今日は、書庫の続きを見たいです」
「薬草記録でございますか」
「はい。それから、可能であれば植物園についての資料も」
「すぐに手配いたします」
「でも、午前中だけにします」
「承知いたしました」
女官長は書類を閉じた。
「最後に、皇城内の方々からご挨拶を希望する声がいくつか届いております」
「挨拶、ですか」
「はい。皇族の方、重臣家のご令嬢方、神殿改革委員会に関わる学者、医療院の方々などです」
リリアーナの手が、膝の上で僅かに止まる。
人に会う。
皇城へ来た以上、避け続けることはできない。
けれど、王国の頃のように、相手の期待に合わせて完璧に振る舞わなければならないと思うと、胸が重くなる。
「すぐに全員へ会う必要はありません」
女官長が言った。
「陛下から、断る選択肢も必ず提示するよう命じられております」
「陛下が」
「はい」
リリアーナは、少しだけ息を吐いた。
「では、今日は誰にも会いません」
「かしこまりました」
「明日以降、少しずつ考えます」
「そのように手配いたします」
断っても、世界は崩れなかった。
女官長は責めず、がっかりした顔もしない。ただ、リリアーナの選択として記録した。
それが、不思議なほど安心できた。
午前の書庫では、昨日の薬草記録の続きが用意されていた。
リリアーナは窓に近い閲覧席へ案内され、クララは少し離れた場所で控える。カイゼルは朝議が長引いているらしく、まだ姿を見せていなかった。
寂しくないと言えば、少し嘘になる。
けれど、今は自分で選んだ予定の中にいる。
リリアーナは、記録帳を開いた。
昨日見つけた排水路と薬効の関係を、もう一度確認する。南側区画の薬草は、長雨の年だけでなく、その翌年にも薬効が落ちていた。
ただの水分過多ではない。
土の質が変わってしまった可能性がある。
「土壌記録はありますか」
リリアーナが尋ねると、書庫長がすぐに頷いた。
「ございます。庭園管理ではなく、農務院の資料に含まれております」
「農務院」
「皇国の作物や薬草栽培を管理する部署です」
「その資料も見られますか」
「閲覧許可を確認いたします。機密ではございませんので、おそらく問題ないかと」
「お願いします」
書庫長が資料を取りに下がった後、リリアーナは手元の記録へ目を落とした。
王国で神殿支出を調べていた時と似ている。
数字を比べ、違和感を拾い、原因を探す。
けれど、胸に宿る重さは違った。
誰かに疑われる前に完璧にしなければならないわけではない。
王太子に代わって責任を負うためでもない。
ただ、知りたい。
この薬草が、なぜ弱ったのか。
どうすれば次は元気に育つのか。
「楽しそうだな」
背後から声がして、リリアーナは顔を上げた。
「カイゼル」
名前を呼んでから、書庫であることを思い出す。
近くにいた書庫長が、一瞬だけ目を見開いた。
皇帝の名を、敬称なしで呼んだ。
しかも自然に。
リリアーナの頬が熱くなる。
「申し訳ありません」
「何が」
「ここは、人前でした」
「構わない」
「構います」
リリアーナが小さく抗議すると、カイゼルはわずかに口元を緩めた。
「では、二人の時だけでいい」
「はい」
書庫長は聞こえなかったふりをして、静かに資料を棚へ戻している。
クララは口元を押さえていた。
「朝議は終わったのですか」
「ああ」
「お忙しいのでは」
「少しなら時間がある」
「少し」
「ああ。君が何を読んでいるか見る時間くらいは」
カイゼルは隣の席へ座る。
皇帝が書庫の閲覧席に腰を下ろしたことで、周囲の空気が少しだけ固くなったが、本人は気にした様子もない。
「薬草記録です。昨日の続きで、南側区画の薬効低下を調べていました」
「原因は分かったか」
「まだです。ただ、排水路だけではなさそうです。翌年にも影響が残っているので、土に原因があるのかもしれません」
「農務院の資料が必要か」
「はい。書庫長にお願いしました」
「なら、農務院にも話を通しておく」
「えっ」
「必要だろう」
「そこまでしていただかなくても」
「君が知りたいと言った」
「知りたいとは言いましたが、皇帝陛下が動くほどでは」
「では、私が興味を持ったことにする」
リリアーナは瞬きをした。
「カイゼルも、薬草にご興味が?」
「君が何を見つけるかには興味がある」
「それは、薬草ではなく私では」
「ああ」
あまりにも迷いなく認められ、リリアーナは言葉に詰まった。
カイゼルは、何事もなかったように記録を覗き込む。
「ここか」
「……はい。この年です」
心臓が少し落ち着くのを待ちながら、リリアーナは資料を指さした。
「雨量が多かったことは確かですが、北側区画では薬効が落ちていません。南側だけ土に変化があったなら、肥料か排水か、もしくは近くの植物との相性かもしれません」
「庭師に聞くか」
「はい。ただ、もう少し資料を見てからにします。先に聞いてしまうと、相手の意見に引っ張られるかもしれませんから」
「君らしい」
「そうでしょうか」
「ああ」
その声には、責める響きがなかった。
以前なら、細かすぎると言われることもあった。
そこまで確認しなくてよい、と急かされたこともある。
だが、カイゼルはただ、君らしいと言った。
その言葉が、胸の奥へ静かに染み込んだ。
農務院の資料が届くまでの間、リリアーナは書庫長から皇国の薬草分類について説明を受けた。
皇国では、薬草を用途だけでなく、育つ土地の性質で分類するらしい。
湿地、乾燥地、火山灰地、雪解け水の流れる土地。
王国の分類とは異なるため、最初は戸惑ったが、慣れてくると分かりやすい。
「分類の仕方で、見えるものが変わるのですね」
「ああ」
「王国では、効能で分けることが多かったです。解熱、鎮痛、浄化、回復、というように」
「皇国は土地で見る」
「土地を重視する国なのですね」
「厳しい土地が多いからな」
カイゼルの言葉に、リリアーナは窓の外を見る。
皇国は、王国より寒く、山も多く、土地も痩せていると聞いていた。
だからこそ、人々は土地をよく見て、どう育てるかを考えてきたのだろう。
「私、皇国の土地を知りたいです」
「薬草のために?」
「それもあります。でも、それだけではありません」
リリアーナは、資料の頁へ指を置いた。
「ここで生きる人たちが、どうやって暮らしているのか知りたいです。王国と違うから不安なのではなく、違うから知りたいと思います」
「ああ」
「それは、よいことでしょうか」
「君が望むなら」
「望みます」
はっきり答えた時、胸の奥で何かが形になる。
王国のためではない。
皇国へ恩返しをするためだけでもない。
この国を知りたい。
ここで暮らしてみたいと思い始めたから。
「では、農務院と植物園の資料を見られるようにする」
「ありがとうございます」
「ただし、休む時間は守れ」
「はい」
「今日も午前だけだ」
「分かっています」
リリアーナは、少しだけ笑った。
「続きは明日にします」
「ああ」
昼食後、リリアーナは部屋で休むよう言われた。
長椅子へ腰を下ろし、窓の外を眺める。
星花の中庭は昼の光に沈み、昨夜とはまた違う表情を見せていた。
机には、書庫で写した薬草分類のメモが置かれている。
まだ読みたい。
まだ調べたい。
そう思う気持ちはあるが、今日はここまでにすると決めた。
自分で決めて、手を止める。
それが少し誇らしい。
「お嬢様、香草茶です」
「ありがとう」
クララがカップを置く。
「今日はとても楽しそうでした」
「そう見えた?」
「はい。書庫にいる時、目が輝いていました」
「恥ずかしいわ」
「よいことです」
クララは笑う。
「王国にいた頃は、資料を読んでいても、いつも少し苦しそうでしたから」
「そうだったのね」
「はい。必要だから読んでいる、間違えてはいけないから調べている、という感じでした」
「今は?」
「知りたいから読んでいるように見えます」
リリアーナは、メモへ視線を落とした。
「その違いを、私も感じています」
同じ読むことでも、こんなに違う。
義務として手に取った資料は重かった。
自分の興味として開いた資料は、次の頁をめくるのが待ち遠しい。
「好きなものが増えた気がします」
「はい」
「花、書庫、調べること、皇国の土地」
「蜂蜜菓子も」
「それも」
リリアーナは笑った。
「それから……」
言いかけて、止まる。
クララが目を細めた。
「それから?」
「まだ、言葉にはしません」
「では、心の中にしまっておきます」
「ええ」
カイゼルの名前を呼んだ時の、胸の高鳴り。
彼が自分に興味があると迷わず言った時の、熱。
明日も会いたいと思う気持ち。
それを何と呼ぶのか、リリアーナはまだ決められなかった。
でも、急いで名前をつけなくてもいい。
自分の感情も、花の蕾と同じように、開く時を待てばいいのだと思った。
夕方、女官長が再び部屋を訪れた。
「リリアーナ様。明日以降のご面会について、一件だけ確認させていただいてもよろしいでしょうか」
「はい」
「皇立植物園の管理責任者であるエレナ・フォルスター博士が、リリアーナ様へご挨拶を希望しております」
「博士」
「植物学と薬草栽培の専門家で、皇国農務院の顧問も務めております。昨日、リリアーナ様が薬草記録に興味を持たれたと聞き、ぜひお話をしたいと」
「私と?」
「はい」
リリアーナは、少し緊張した。
専門家と話す。
興味はある。
けれど、自分が何かを期待されているのではないかという不安もある。
「その方は、私に何を求めているのでしょう」
「確認いたしましたが、星霜の加護についてではなく、純粋に薬草記録について意見を聞きたいとのことです」
「加護ではなく」
「はい。陛下からも、加護を目的とする接触は認めないと通達が出ております」
リリアーナは安心した。
自分の力ではなく、自分の考えに興味を持ってくれる人。
それなら、少し会ってみたい。
「明日の午前、短い時間なら」
「承知いたしました。ご負担にならぬよう、半刻ほどで調整いたします」
「お願いします」
女官長が下がった後、リリアーナは窓辺の星を見つめた。
皇都での二日目。
好きなものを探そうと決めたばかりの日に、もう新しい扉が一つ現れた。
怖さはある。
でも、それ以上に知りたい。
自分が、何を考えられるのか。
誰かの役に立つためではなく、誰かに利用されるためでもなく、ただ一人のリリアーナとして、誰かと知識を交わすことができるのか。
試してみたいと思った。
夜になると、カイゼルは約束通り部屋を訪れた。
今日は長くはいられないと言いながらも、星花が光り始める時間に合わせて来たらしい。
「明日、エレナ博士と会うそうだな」
「はい。もうご存じなのですね」
「報告が来た」
「加護についてではなく、薬草記録についてお話ししたいそうです」
「ああ」
「少し、楽しみです」
「そうか」
「少し、怖くもあります」
「ああ」
「でも、会ってみたいです」
「なら会えばいい」
「はい」
リリアーナは、窓の外の星花を見た。
「今日、好きなものが増えました」
「何だ」
「皇国の土地です」
「広いぞ」
「少しずつ知ります」
「ほかには」
「薬草分類」
「ああ」
「書庫」
「昨日も言っていた」
「蜂蜜菓子」
「それも昨日だ」
カイゼルの声が僅かに柔らかくなる。
「それから?」
「……今日は、まだ内緒です」
リリアーナがそう言うと、カイゼルは少しだけ目を細めた。
「そうか」
「怒らないのですか」
「君のものだ」
「私の?」
「言いたくなるまで、君の中に置いておけばいい」
その言葉に、リリアーナの胸が静かに震えた。
感情さえも、自分のものとして持っていていい。
すぐに差し出さなくていい。
名前をつけるのを急がなくていい。
「では、もう少し私の中に置いておきます」
「ああ」
カイゼルは、それ以上尋ねなかった。
星花の淡い光が、窓辺の二人を照らす。
リリアーナは、心の中でそっと名前を呼んだ。
カイゼル。
まだ、恋と呼ぶには早いのかもしれない。
けれど、自分が好きなものを探す一日の終わりに、彼の名前がいちばん静かに胸に残っていることだけは、もう否定できなかった。
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