第49話 好きなものを探す日
更新遅くなって申し訳ありません。
皇都で迎えた最初の朝、リリアーナは水の流れる音で目を覚ました。
見慣れない天井に、一瞬だけ自分がどこにいるのか分からなくなる。けれど、窓辺に飾られた少し歪んだ銀糸の星を見つけ、昨夜の記憶がゆっくりと戻ってきた。
ヴァレンティス皇国の皇都。
皇城東翼の、星花の中庭に面した部屋。
自分で選んだ、新しい居場所だった。
寝台から起き上がり、身体の具合を確かめる。昨日の長旅による疲れは僅かに残っているが、頭痛もめまいもなかった。
窓の外では、夜に光っていた星花が朝露をまとっている。淡い紫色の花弁は、陽の下ではごく普通の花に見えた。
それでも昨夜の光景を思い出すと、胸の奥が少し温かくなる。
「お目覚めですか、お嬢様」
クララが控えの間から入ってきた。
「ええ。よく眠れたわ」
「本当ですか?」
「本当よ」
「夜中に目を覚まされたりは」
「一度だけ。でも、すぐに眠れました」
正直に答えると、クララは安心したように笑った。
「朝食は、こちらのお部屋へ運んでいただく予定です。オルガ様も、もうすぐいらっしゃいます」
「陛下は?」
「朝議へ出られているそうです」
「そう」
返事をした後、自分の声に僅かな落胆が混じっていたことに気づく。
昨日、カイゼルはまた来ると約束してくれた。朝から会えると思っていたわけではない。皇帝なのだから、朝議や公務があるのは当然だ。
それでも、少しだけ寂しい。
そんな気持ちを抱くこと自体が、以前のリリアーナにはなかったことだった。
「お会いしたかったですか?」
クララが、どこか嬉しそうに尋ねる。
「……約束をしましたから」
「はい」
「今日も来てくださると」
「はい」
「だから、少し気になっただけです」
「そういうことにしておきます」
「クララ」
窘めるように名を呼んだが、クララの笑みは消えなかった。
オルガによる診察を終え、身体に問題がないことを確認してから、リリアーナは衣装を選んだ。
女官たちが用意したのは、色も形も異なる三着のドレスだった。
一着目は、皇国の高位貴族が好む深い紺色。
二着目は、皇城の正式な場にも出られる銀灰色。
三着目は、柔らかな生成り色に、小さな白い花の刺繍を施したもの。
「本日は公式なご予定がございませんので、どれをお選びいただいても問題ございません」
女官長が説明する。
以前なら、迷わず銀灰色を選んだだろう。
皇城に滞在する者として、隙のない装い。
皇国の重臣に見られても、敵国の公爵令嬢として侮られない服。
だが、今日は公式な予定がない。
リリアーナは、生成り色のドレスへ手を伸ばした。
「こちらにします」
「白い花のものですね」
「ええ。庭を歩くのに、合いそうですから」
誰かにどう見られるかではなく、自分が今日したいことに合わせて衣装を選ぶ。
それだけのことが、少し嬉しかった。
支度を終えた頃、扉の外から女官の声がした。
「皇帝陛下がお越しです」
リリアーナは、思わず鏡へ視線を向けた。
髪は乱れていない。
ドレスにも問題はない。
そこまで確認してから、以前の習慣に戻りかけた自分へ気づく。
カイゼルは、完璧な王太子妃候補を見るために来るのではない。
「どうぞ」
扉が開き、カイゼルが入ってきた。
今日は軍装ではなく、黒い上衣に銀の刺繍を施した簡素な正装をまとっている。皇帝としては控えめだが、立っているだけで周囲の空気が引き締まる。
「おはようございます、陛下」
「ああ。眠れたか」
「はい。一度目を覚ましましたが、すぐに眠れました」
「体調は」
「オルガから、問題ないと言っていただきました」
「そうか」
カイゼルは一度オルガへ視線を向け、彼女が頷いたことを確認した。
その手には、小さな箱がある。
「また蜂蜜菓子ですか?」
「違う」
「では、何でしょう」
「朝食の後に開けろ」
カイゼルは箱を卓上へ置き、リリアーナの向かい側へ腰を下ろした。
「陛下も、こちらで朝食を?」
「ああ」
「朝議は終わったのですか」
「必要な議題だけ済ませた」
「私のために、早く切り上げたのでは」
「君と約束した」
あまりにも当然のように答えられ、リリアーナは言葉を失う。
約束したから来た。
皇帝としての都合より、昨日交わした小さな約束を覚えていた。
「ありがとうございます」
「礼を言われることではない」
「それでも、嬉しいです」
リリアーナが微笑むと、カイゼルは僅かに視線を逸らした。
朝食には、柔らかなパンと卵料理、温かい野菜のスープが用意された。
カイゼルは食事を急かさず、書類を読むこともなく、同じ卓を囲んでいる。会話が途切れても、気まずい沈黙にはならなかった。
半分ほど食べたところで、リリアーナは匙を置く。
「もう少し食べられそうですが、無理をしない方がよいでしょうか」
「自分の身体に聞け」
「まだ少し食べたいです」
「なら食べればいい」
リリアーナは、パンを小さくちぎった。
誰かに決めてもらうのではなく、自分の感覚を確かめて選ぶ。小さな選択の一つ一つが、まだ新鮮だった。
食事を終えると、カイゼルが持ってきた箱を開いた。
中に入っていたのは、薄い銀色の鍵だった。持ち手の部分には、小さな星花の意匠が刻まれている。
「鍵?」
「この部屋の鍵だ」
「私の?」
「ああ。正面の扉と、中庭へ続く硝子扉を開けられる」
「女官の方々が管理されるのではないのですか」
「予備は女官長が持つ。これは君のものだ」
リリアーナは、手のひらへ鍵を載せた。
王国にいた頃、自室の扉を自分で施錠することは許されていなかった。
王太子妃候補に秘密は不要。
侍女や教育係は、必要であればいつでも入室できる。
父や王太子が望めば、拒むことはできない。
自分の部屋でありながら、本当の意味で自分の場所ではなかった。
「私が、開け閉めしてよいのですか」
「ああ」
「陛下がお越しになった時も?」
「扉を叩く」
「私が入ってよいと言わなければ?」
「入らない」
リリアーナは鍵を握った。
胸の奥に、温かさと同時に僅かな痛みが広がる。
当たり前のことなのかもしれない。
けれど、自分の部屋へ誰を入れるかを、自分で決めてよいと言われたのは初めてだった。
「大切にします」
「失くしても作り直せる」
「そういう意味ではありません」
リリアーナは、鍵の星花を指でなぞった。
「私が選んだ部屋の、私の鍵ですから」
「ああ」
カイゼルの声が、少しだけ柔らかくなる。
「今日は何をしたい」
「庭園を見たいです」
「皇城の庭か、皇立植物園か」
「植物園は、城下へ出る必要がありますよね」
「ああ」
「では今日は、皇城のお庭を見たいです。体調に問題がなければ、書庫にも」
「分かった」
「陛下も、ご一緒に?」
「ああ」
朝食を終えた二人は、クララとオルガ、最低限の護衛だけを伴って星花の中庭へ下りた。
朝露が残る階段を、リリアーナは手すりに触れながらゆっくり進む。オルガから一人で下りないよう言われているため、今日はクララがすぐ横についていた。
庭へ降り立つと、花の香りが一層濃くなった。
夜には光っていた星花も、朝の陽射しの中では白や紫の小さな花に戻っている。噴水の周囲には、低い木々と香草が植えられていた。
「この花は、夜だけ光るのですか」
「ああ。月の光を蓄える」
「魔力があるのですね」
「ごく弱いものだ。人に害はない」
リリアーナは花の前へしゃがみ込んだ。
触れる前に、一度手を止める。
「触ってもよいでしょうか」
「庭師へ聞け」
近くに控えていた庭師が、すぐに頭を下げた。
「花弁は傷みやすいため、葉へ軽く触れる程度でしたら」
「分かりました」
リリアーナは、指先で葉へそっと触れた。
星霜の加護が僅かに反応する。
だが、光を流す必要はない。
花は、自分の力で根を張り、朝露を吸い上げている。
「元気ですね」
「分かるのか」
「少しだけ。でも、加護を使ったわけではありません」
「ああ」
以前なら、加護が反応した瞬間に何かしなければと思っただろう。
もっと咲かせる。
弱い部分を整える。
自分にできるなら、するべきだと。
今は、元気な花をただ眺めることができる。
それも、好きなものを探すということなのかもしれない。
庭の奥には、小さな硝子張りの温室があった。
中には、皇国北部では育ちにくい南方の植物や薬草が並んでいる。赤い実をつけた低木、銀色の葉を持つ草、青い花を咲かせる蔓植物。
リリアーナは、一つずつ名前を尋ねた。
庭師は最初こそ緊張していたが、質問が続くうちに表情を和らげ、育て方や用途まで詳しく説明してくれた。
「こちらの青い花は、熱を下げる薬になるのですか」
「はい。ただし根には弱い毒がございます。正しく処理しなければ使えません」
「王国では見たことがありません」
「皇国南部の湿地に自生しております」
「栽培記録はありますか」
「皇城書庫へ、過去十年分の記録を提出しております」
書庫という言葉に、リリアーナの目が僅かに輝いた。
「見てみたいです」
「栽培記録を?」
「はい。地域によって育ち方が違うのでしょう?」
「気候と土壌で、薬効にも差が出ます」
「興味深いです」
答えた後で、リリアーナは自分が自然に笑っていることへ気づいた。
王国で資料を読むのは、ほとんどが役目のためだった。
予算を整えるため。
外交に備えるため。
王太子を補佐するため。
今は、ただ知りたいと思っている。
「リリアーナ」
「はい」
「好きか」
「この花が?」
「調べることが」
リリアーナは、少し考えた。
資料を読むこと。
違いを比べること。
原因を見つけること。
それらは苦しい仕事の記憶とも結びついている。
けれど、誰かに命じられず、自分が知りたいものを調べるのは楽しい。
「好きなのかもしれません」
「そうか」
「まだ、はっきりとは分かりません。でも、もっと知りたいです」
「なら、書庫へ行こう」
温室を出た後、一行は皇城の西側にある書庫へ向かった。
皇城書庫は、天井まで届く書棚が何列も並ぶ大きな建物だった。中央には閲覧用の机が置かれ、上階へ続く螺旋階段がある。
本の匂いに包まれた瞬間、リリアーナは足を止めた。
「すごい……」
王国の王立書庫にも入ったことはある。
だが、閲覧できるのは王太子妃教育や政務に必要な区画だけだった。興味があるからという理由で、自由に書架を歩くことは許されていなかった。
「こちらの本は、すべて読んでも?」
「機密区画以外なら」
「機密区画は」
「皇帝の許可が必要だ」
「陛下にお願いすれば?」
「内容による」
何でも許すとは言わない。
だが、最初から拒むこともしない。
「では、必要になった時に理由をお話しします」
「ああ」
書庫長が案内に現れ、リリアーナへ利用方法を説明した。
「ご希望の分野がございましたら、目録をお持ちいたします」
「庭園で栽培されている薬草の記録を見たいのですが」
「皇城庭園の記録でございますね。過去十年分でよろしいですか」
「まずは三年分をお願いします」
「承知いたしました」
十年分すべてを求めかけて、リリアーナは止めた。
一度に読み切る必要はない。
今日できる分だけでいい。
運ばれてきた記録を開くと、栽培地、気温、降水量、収穫量、薬効の変化が細かく記されていた。
リリアーナは夢中で頁をめくった。
「ここだけ、収穫量が落ちています」
「前年に長雨が続いた年です」
書庫長が答える。
「けれど、別の区画では落ちていません」
「土壌の違いかもしれません」
「排水路の記録はありますか」
「庭園管理の資料にございます」
次の記録を出してもらう。
排水路の補修時期と収穫量を照らし合わせると、長雨だけが原因ではないことが分かった。
「この年は、南側の排水路の補修が遅れています」
「確かに」
「根が水を含みすぎて、薬効が弱くなったのかもしれません」
「庭師へ確認いたします」
書庫長が感心したように言う。
その瞬間、リリアーナの胸に古い感覚が戻った。
役に立てた。
もっと調べなければ。
今すぐ問題を解決しなければ。
手が、次の資料へ伸びかける。
けれど、その前にカイゼルが問いかけた。
「続けたいか」
「……はい」
反射的に答えた後、リリアーナは自分の身体を確かめた。
少し疲れている。
肩に力も入っている。
興味はあるが、今すぐ続けなければならないわけではない。
「いいえ」
リリアーナは言い直した。
「続きは気になります。でも、今日はここまでにします」
「ああ」
「記録をお借りできますか」
「閲覧室の外へは持ち出せませんが、次回まで取り置きできます」
書庫長が答える。
「では、お願いします」
「承知いたしました」
資料を閉じる。
途中でやめても、知りたい気持ちは消えない。
今日すべてを解決しなくても、記録は待っていてくれる。
リリアーナは、僅かな名残惜しさと一緒に立ち上がった。
「楽しかったです」
「そうか」
「はい。役に立てたからではなく、知ることが」
口にすると、自分の気持ちが少しだけ明確になる。
「私は、調べることが好きなのかもしれません」
「ああ」
「皇国の土地や植物のことも、もっと知りたいです」
「学ぶ機会を用意する」
「陛下」
「命令ではない。望むならだ」
「望みます」
今度は迷わなかった。
「私が知りたいから、学びたいです」
「ああ」
部屋へ戻る頃には、昼を少し過ぎていた。
オルガから休息を命じられ、リリアーナは長椅子へ腰を下ろす。
クララが香草茶を用意し、朝に残しておいた蜂蜜菓子を一つ添えた。
「今日は、好きなものが見つかりましたね」
「ええ。花と、書庫と、調べること」
「蜂蜜菓子も?」
「それも好きです」
リリアーナは星形の菓子を半分に割った。
一つを自分の皿へ置き、もう一つをカイゼルへ差し出す。
「陛下も」
「私はいい」
「甘いものはお嫌いですか」
「嫌いではない」
「では、一緒に食べたいです」
カイゼルは、差し出された菓子を見つめた後、受け取った。
「甘い」
「蜂蜜菓子ですから」
「ラウルの好みだ」
「陛下のお好みでは?」
「悪くはない」
それは、カイゼルなりの気に入ったという意味なのだろう。
リリアーナは小さく笑い、自分の分を口へ運んだ。
香ばしい生地に、蜂蜜の甘さが広がる。
「陛下」
「何だ」
「今日は、ありがとうございました」
「ああ」
「お庭も、書庫も楽しかったです」
「ああ」
「明日も来てくださいますか」
「ああ」
昨日と同じ約束。
けれど、今日はもう一つ、尋ねたいことがあった。
「その……二人きりの時も、陛下とお呼びした方がよいでしょうか」
カイゼルの動きが止まる。
「なぜ聞く」
「陛下は、私を役名ではなく、リリアーナと呼んでくださいます」
「ああ」
「私だけが、いつもお立場でお呼びするのは、少し遠い気がして」
言葉にするほど、頬が熱くなる。
クララとオルガは、いつの間にか少し離れた場所へ下がっていた。
「呼びたい名で呼べ」
「では……カイゼル様、と」
「様はいらない」
「ですが」
「二人の時だけでいい」
リリアーナは、膝の上で指を重ねた。
皇帝の名を呼び捨てにする。
王国で受けた教育を考えれば、とても許されないことだった。
けれど、彼が望んでいる。
「カイゼル」
小さな声で呼ぶ。
口にしただけで、胸が大きく鳴った。
カイゼルは、しばらく何も言わなかった。
「……もう一度」
「え?」
「呼べ」
リリアーナは、彼の金色の瞳を見る。
「カイゼル」
「ああ」
いつもの短い答えだった。
けれど、その声には隠しきれない喜びが混じっている。
「私も、リリアーナと呼ばれていますから」
「ああ」
「これで、少し近くなったでしょうか」
「ああ」
カイゼルが、僅かに身を寄せる。
触れるほどではない。
ただ、これまでより少しだけ二人の距離が縮まった。
「リリアーナ」
「はい」
「明日も来る」
「待っています」
その日の夜。
リリアーナは、窓辺の机へ銀色の鍵を置いた。
隣には、歪んだ星の刺繍。
読みかけの薬草記録を書き写した小さなメモ。
半分だけ残した蜂蜜菓子。
自分で選んだ部屋に、自分が好きだと思ったものが少しずつ増えている。
花。
本。
調べること。
甘い菓子。
そして、明日も会いたいと思う人。
リリアーナは星花の中庭を眺めながら、今日初めて呼んだ名前を、心の中でもう一度だけ繰り返した。
カイゼル。
それは皇帝を示す名ではなく。
彼女が自分の意思で、近くにいたいと望んだ人の名前だった。
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